雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  足利二つ引の旗

2012-12-15 08:00:52 | 運命紀行
          運命紀行

             足利二つ引の旗


『 さる程に、明くれば五月七日寅の剋に、足利治部大輔高氏、舎弟兵部大輔直義、篠村宿を打ち立ち給ひて、夜いまだ深ければ、馬を打ち居えて東西を見給ふに、篠村宿の南に当って、陰森たる古柳疎槐(コリュウソカイ)の下に枌楡叢祠(フンユソウシ)の社ありと覚しくて、焼(タ)き遊(スサ)めたる庭火の影ほのかなるに、神女(キネ)が袖を振る鈴の音颯々(サツサツ)と聞こえて神冷(カンサ)びたり。
何の社とは知らねども、戦場に赴く門出なれば、馬より下りて冑(カブト)を脱ぎ、社壇の前に跪き、
「今日の合戦、事故なく朝敵を退治する擁護の手を加へさせ給はば、たちまちに古き瑞籬(タマガキ)を改め、敬信の歩みを運ばむ」
と、首(コウベ)を傾けて祈誓し給ひて賽(カヘリマウシ)する巫女(カンナギ)に、
「これはいかなる神にて御座(マシマ)すぞ」
と問ひ給へば、
「当社は八幡を迎へ進(マイ)らせて候ふ間、篠村の新八幡宮とぞ申し候ふなり」
とぞ答へける。
「さては当家尊崇の霊神なり。機感相応せり。一紙の願書を奉らばや」
と宣給(ノタマ)ひければ・・・  』

太平記、足利高氏旗揚げのくだりである。
北条討伐へと旗幟を鮮明にしようと決意した足利高氏(後に尊氏)は、丹波国の篠村八幡宮に詣で、打倒北条を祈願した。八幡宮の古い柳の側に、源氏の白旗と足利二つ引の家紋が染め抜かれた旗が立てられ、決起に加わろうとする各地の豪族たちへの目印とした。
元弘三年(1333)のことである。

高氏が、一族郎党を率いて関東から上洛してきたのは、隠岐を脱出し伯耆で挙兵した後醍醐を味方する勢力を討伐するためで、鎌倉幕府の命を受けてのことであった。
しかし高氏は、京都から伯耆に向かう途中で幕府に反旗を翻すのであるが、突然の決意ではなかった。
これより前の元弘元年、後醍醐が逃亡先の笠置で二度目の討幕の兵を挙げた時、高氏は鎮圧のための幕命を受けた。ちょうどその時は、父貞氏の喪中であることを理由に辞退を申し入れたが受け入れられず、出陣している。これが高氏の鎌倉幕府、すなわち北条氏への不満を大きくしていた。

そして、この度の出陣に対しても、妻の登子と嫡男千寿王(後の義詮)を同行しようとしたが、幕府に拒絶された。幕府は高氏の家族を人質として残させたわけで、高氏が幕府に対して不満を抱いていただけではなく、幕府も高氏の離反を懸念したいたわけである。
おそらく高氏は、今回の出陣の際には、北条氏との手切れを決意していたと考えられる。当然、篠村八幡宮での決起の段階では、後醍醐から北条討伐の綸旨を得ていたであろうし、人質となっている妻子の鎌倉脱出の手筈を打っていたと考えられる。

やがて足利軍は、各地の豪族や後醍醐を支えている播磨の赤松円心や近江の佐々木導誉らと共に京都に攻め上り、幕府の拠点である六波羅探題を滅亡させた。
一方関東でも、上野国の御家人である新田義貞らの反幕勢力が鎌倉に攻め込み、北条一族の多くが自刃、鎌倉幕府は滅亡する。
この戦いには、鎌倉からの脱出に成功した高氏の嫡男千寿王は討幕軍に加わっているが、庶長子である竹若丸は脱出に失敗し、殺害されている。

平静を取り戻した都に戻った後醍醐は、かねてから念願の天皇親政を実現しようと行動する。いわゆる、建武の新政である。
しかし、その発想は時代の流れと必ずしも一致したものではなかったようだ。北条氏滅亡という大乱後の恩賞は、一族の命運をかけて戦った豪族たちに対してあまりにも冷たいものであった。足利高氏、新田義貞、楠木正成、名和長年などには相応の恩賞が与えられたが、例えば早々に後醍醐のために働いた赤松円心は、播磨守護職を取り上げられ、僅かに播磨国内の佐用荘一か所を与えられただけなど、不満が続出するものであった。

その一方で、それほどの働きもなく、むしろ全く貢献などしていない公家や僧侶や女官などには、湯水の如くというほどの褒賞を与えているのである。
北条氏の遺領でいえば、北条高時遺領は内裏御料所、すなわち後醍醐自らの分とし、北条泰家遺領は護良親王に与えられ、大仏陸奥守遺領は寵妃阿野廉子に与えられているのである。
さらに言えば、後醍醐には后妃と呼ぶのさえ憚れるほどの妻妾を持っている。その数は、資料らしいものを少し調べると三十人程度にはなる。皇子皇女の数も三十六人ともいわれているが、妻妾や子供の数は表面化されている数よりさらに多いと考えられる。
一夫多妻が普通の時代ではあったが、あまりにも無節操なようにも思われる。

北条氏を滅亡させ、建武の新政という体制を手にした後醍醐は、有頂天となり、何でも思いのままになるとでも思っていたとしか考えられないのである。
時代は、すでに武士の時代となっていたのである。恩賞に不満な多くの豪族たちは後醍醐を見捨てていき、頼りと思っていた足利高氏でさえ、当然与えられると思っていた征夷大将軍の地位が護良親王に与えられたことは承知出来なかった。
女官や公家や僧侶をいくら味方につけても、武士や豪族たちの大半から見捨てられて政権が持つはずもない。
建武新政は、あっという間に瓦解していくのである。

後醍醐の政治的理想を瓦解に追い込んだのは、寵妃阿野廉子のわがままであり、足利高氏が裏切ったためだという見方もある。
とんでもないことである。
足利高氏が戦ってきた目的は、堕落している北条氏に代わって武士の棟梁になることなのである。後醍醐は、その目的を達成させるために役立つかどうかということが重要なので、後醍醐の政治理想などには興味などなかったはずである。

高氏の主たる敵は北条氏であり、武士により公平な政権を打ち立てることが目的なのである。そして、それこそが、時代が要請している正義だと確信していたのである。従って、後醍醐やその取り巻きの勢力など彼が描く正義を達成させるための障害物でしかなかったはずである。

足利尊氏という人物には、歪められて伝えられている部分が多過ぎるように思われるのである。


     * * *

足利氏は、清和源氏の流れをくむ河内源氏の末裔である。
そして、関東に強い勢力を持っていた八幡太郎義家の系統を引く源氏の名門である。
義家の長男義親の子孫が頼朝であり、次男義国は二つの大きな系統を残している。つまり、義国の長男の系統が新田氏となり、次男の系統が足利氏となるのである。

鎌倉幕府を牛耳っていた北条氏の後継をめぐって戦うことになる新田氏と足利氏であるが、本来長男の系統である新田氏の方が上位ともいえるが、尊氏(高氏)の時代には、足利氏が頼朝の血統が途絶えた跡の源氏の嫡流とみなされるようになっていた。
その理由は、足利氏が時の政権とうまく結び付き、畠山氏・細川氏・斯波氏などの有力氏族を輩出しているのに対し、新田氏は政権から遠く、山名氏・里見氏などの支族はあるとしても一地方豪族のようになっていた。

北条政権を滅亡に追い込んだ戦いにおいても、足利尊氏(高氏)は京都の六波羅探題を攻略し、新田義貞が鎌倉を陥落させているので、その第一の功労者は義貞のように見えるが、実情は少し違う。
新田軍を中心とした鎌倉攻撃には、幕府の人質として鎌倉に残されていた尊氏の嫡男千寿王(後の義詮)が脱出に成功して参加していた。まだ五歳の千寿王こそが、関東諸豪族を結束させていたのである。

尊氏は、嘉元三年(1305)七月、足利嫡流家の貞氏の次男として誕生した。
母は側室上杉氏で、正妻の子である長男高義は左馬頭に任じられているが、尊氏が十四歳の頃までに亡くなっている。
誕生地についても、上杉氏の本願地である丹波国綾部が有力とされるが、鎌倉、あるいは足利荘という説もある。丹波は、幕府に反旗を翻した旗揚げの地でもある。

元応元年(1319)十月、十五歳で元服し、従五位下治部大輔に任じられているが、この時には貞氏の嫡男として処遇されていたと考えられる。名前も、得宗家北条高時から一字を与えられ高氏となる。名乗りを尊氏と改めるのは、六波羅探題を亡ぼした後、後醍醐から諱を与えられてのことである。

本稿冒頭にある、尊氏旗揚げの時は、二十九歳の頃である。
すでに父は他界しており、足利一族を率いていた尊氏が、単なる思いつきや後醍醐の誘いなどで幕府に反旗を翻すことなど考えられない。
父の喪中に関わらず出陣命令を下されたことや、今回の出陣に関しても妻子が人質として鎌倉に留め置かれたことなどの不満が重なっていたのである。これらは、尊氏の個人的な恨みということもできるが、鎌倉幕府とはいえ源頼朝以来の源氏の血筋は絶えて久しく、その跡実権を握ってきた北条氏の政治にも綻びが目立ち始めていたのである。

当時の世情の一端を「太平記」は、その冒頭で、中国の故事を引きながら次のように描いている。

『 ここに、本朝人王の始め、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇の御宇(ギョウ・御代)に武臣相模守平高時(北条高時)といふ者ありて、上(カミ)君の徳に違ひ、下(シモ)臣の礼を失ふ。
これにより、四海大いに乱れて、一日もいまだ安からず。狼煙天を翳(カク)し、鯨波地を動かす。今に至って三十余年、一人春秋に富むことを得ず。万民手足(シュソク)を措(オ)くに所なし。 』

すなわち、上に立つ天皇には君主の徳にはずれ、北条高時は臣下の礼を失っていた。そのため、世の中は大いに乱れていたというのである。この天皇とは、後醍醐を指していることは明らかである。
「太平記」の筆者が正しく世情を把握していたかどうかはともかく、少なくともこのような見方をしていた人たちが少なくなかったということはいえよう。

尊氏もまた、清和源氏の後継者として、北条氏による武家政権に失望を感じていたのではないだろうか。
従って、篠山八幡宮での旗揚げは、待ちに待った好機到来と判断した上でのことであったと考えるのが順当だと思われる。相前後して関東の反北条勢力も決起しているし、人質とされている妻子の脱出も実行されているからである。
そして、旗揚げした尊氏の敵は、北条政権だったのである。「太平記」などをうっかり読み流してしまうと、後醍醐の理想に真髄した上での幕府離反と受け取ってしまうが、尊氏が目指すものは、武家による政権であり、権謀術数を持て遊ぶような政権ではなかったはずである。

そう考えれば、後醍醐が建武の新政という体制を敷き、後醍醐を京都に帰還させるのに功のあった豪族たちに対して冷たい処遇しかとらない様子を知ると、早々に離反していった理由は簡単に理解できる。
足利尊氏が後醍醐に背いたというのは、あまりにも一方的な見方であって、尊氏は後醍醐を見限ったのである。
その後の歴史の流れは、足利氏による政権が固まって行く。南北朝と呼ばれる天皇の系譜も、当時は北朝が正当とされていたのである。

しかし、足利尊氏の評価は、逆風にさらされることとなる。
それは、江戸時代初期、天下の副将軍として知られる水戸光圀に始まる水戸学が最初である。さらに、明治時代末期に南朝が皇室の正統と定められてからは、南朝に叛旗を翻した尊氏は反逆者として位置付けられ、その後第二次世界大戦が終わるまで、不当な評価をされ続けてきたのである。
二次大戦後、著名な作家などにより足利尊氏という英雄の見直しが行われているが、さらなる研究がなされてほしいものである。

足利尊氏という人物には、「戦場での勇敢さ」「敵方に対する寛容さ」「部下に対する気前の良さ」という三つの徳を持っていたと、当時の高僧が書き残している。
江戸初期から昭和中期にかけての長い期間、ゆえなき非難を浴びてきた尊氏であるが、寛容な武人尊氏であれば、笑って見逃してくれていることであろう。
しかし、わが国中世の少なくとも百余年に影響を与えた足利尊氏という人物を、もっと正確に知る必要があるように思うのである。

                                       ( 完 )






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