
vaimu tänav
←#022:エストニア・タリンのスーパーマーケットで寿司を買ってみたからの続き

およそ千年に及ぶ長い歴史を持ち、バルト海最北のハンザ同盟都市 として繁栄したタリン。
世界遺産にも登録されている旧市街は、中世以来この街で暮らしていたハンザ同盟のドイツ商人たちの影響が今も色濃く残り、「ドイツよりもドイツらしい」と讃えられています。
タリンはまた、歴史に翻弄された都市でもあります。
ハンザ同盟以降、スウェーデンや帝政ロシアの支配下に置かれ、20世紀以降はエストニア独立からナチスドイツとソビエト連邦による占領を経験し、第二次大戦後は長らくエストニア・ソビエト社会主義共和国の首都となりました。
ソ連邦時代はタリンにもソ連の軍事関連施設などが置かれていたようで、当然ながら“西側諸国”の外国人が自由に訪れることが出来る場所では無かったのです。
しかしながら、抑圧が長く続いた社会主義体制下にあったタリンの旧市街は中世当時からの姿をそのまま残して変わることなく、まるでタイムカプセルのように生き永らえました。
この美しい中世の古都が再び自由な世界に開かれたのは、バルト三国がソ連からの独立を果たした1991年のことです。

そんな歴史の幾星霜が折り重なる、真夜中のタリン旧市街を、少し彷徨い歩いてみましょう。
夜の闇の中に沈んだ街角は、旅行者にも何かを語りかけてくれるかもしれません。
この街の長い長い記憶と古くからの物語を、感じることが出来るかもしれません。


昼間は観光客が行き交いよそ行きの顔をしていた路地も、夜にはその真実の姿を見せます。

石門の向こうに切り取られた箱庭にブルーモーメントの夜空と、三角屋根の塔と星が一つ。
深夜のタリンに出現した、稲垣足穂の「一千一秒物語」 の世界…
旧市街のメインストリート、ピック(Pikk)通りからは、分かれて建物の間に入る横丁の路地が幾つもあります。
その中でもいわくありげなのが、旧市街の下町地区のほぼ真ん中を通るこのvaimu通り 。


…vaimu(ヴァイム)とは、エストニア語で「幽霊」。
そう、この道の名は何と幽霊通りなのです。
言い伝えによれば17世紀に、ここでオランダ商人による妻の殺害事件があり、
以来この道では夜な夜な不気味な足音や物音が聞こえてくるとか、こないとか…
…千年の歴史を持つ街なのだから、怪談話や幽霊通りの一つや二つはあっても可笑しくありませんね。
でもやっぱり怖いから、薄暗いvaimu通りではなくて街灯の点っている明るい大通りを歩いて行きます(笑)



つるべ井戸のある広場に出ました。
この井戸にも、水の精が住んでいるという伝説があるそうです。でも、今は蓋をされて使われていないみたいですね。
井戸に閉じ込められた水の精はどうなってしまったのかな…?

段々人通りが多くなって来ました。旧市街の中心部が近いようです。

そしてここが、旧市街の中心。ラエコヤ広場です。
エストニア第二の都市タルトゥにもラエコヤ広場がありましたが、どうやらラエコヤとはエストニア語で市庁舎のことのようです。
美しくライトアップされた市庁舎の周囲に広がる広場は真夜中だというのに観光客で大賑わい。
オープンテラスのカフェで一杯やってる人も多いようです。皆さん元気だねぇ…
夜明けまで盛り上がっていそうなラエコヤ広場を後にして、そろそろ帰りましょう。


路地を一本入ると、すぐに辺りは暗闇と静けさに包まれます。

ホテルはどっちだったっけ…
迷っちゃったみたい。
適当に歩き回ることにします。
何、タリン旧市街は全長1キロ程の小さな区画。彷徨い歩いていれば、いつかホテルに行き着く筈…


何となく通り過ぎた薄暗い路地で見つけた、僕と同い年のマンホールの蓋。
そして、ふと路地の住所板に目をやると…

「vaimu通り…何てこった。ここは、幽霊通りじゃないか…!」
この時はさすがに、背筋が寒くなりました。
さっきは避けて通った幽霊通りに、結局迷い込むなんて…ひょっとして、幽霊に呼ばれたかな?まさかね…


でも、幽霊通りを出たところはホテルに続くLai通りでした。尖塔がライトアップされた聖オラフ教会が見えます。
「きっと、幽霊が道案内してくれたんだな。親切な人じゃないか、オランダ商人の奥さんは、ははは…」

ホテルに辿り着いた時には、もう午前1時を回っていました。
あの細長い部屋に戻ったら、シャワーを浴びてさっさと寝てしまいましょう。
初夏のエストニアの短い夜は、あっという間に明けてしまうでしょうから…
それに…
vaimu通りから誰かが着いてきてたら、困るからね…
→#024:エストニア・タリン街歩き 朝の旧市街散歩、教会巡りに続く
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