再掲
明治三十八年五月二十七日午前四時四十五分、五島列島沖で警戒していた仮装巡洋艦「信濃丸」から、「敵艦隊らしき煤煙見ゆ」との第一報が打電されました。
これが、後の世界の歴史を大きく変えることになった「日本海海戦」の始まりでした。
この信濃丸がバルチック艦隊を発見した位置が、海図を碁盤の目のように区分けした中の、偶然にも旅順要塞攻略の要となった二百三高地と同じ「203」地区でした。
バルチック艦隊発見の報に接し、出撃する連合艦隊は、
「敵艦見ゆとの警報に接し連合艦隊は直ちに出撃、之を撃滅せんとす。
本日天気晴朗なれども波高し」と大本営に打電しました。
午後一時五十五分、旗艦三笠の檣上にZ旗が翻りました。
「興国の荒廃この一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」
戦闘は世界の海戦史に残る、連合艦隊の一方的勝利に終わりました。
この時ロシアに負けていたら日本はおろか朝鮮半島はどうなっていたでしょうか。
当時、満州は既にロシアに占領されていた事実を忘れていないでしょうか。
白人に劣ると思われていた有色人種が白人に勝った。この事は世界の植民地に勇気を与えました。
胡錦濤主席が来日した折、孫文縁のレストランに行きましたが、その孫文も日本の勝利に次のように発言しています。
エジプトのサダト元大統領は、
トルコには東郷通り、乃木通りが命名されています。
フィンランドには「東郷ビール」が有ります。
私達の先人が命を賭して護った物は、非常に大きな物だったと誇れるものです。
海軍記念日
海軍記念日に軍艦行進曲
記念艦三笠とニミッツ提督
明治三十八年五月二十七日午前四時四十五分、五島列島沖で警戒していた仮装巡洋艦「信濃丸」から、「敵艦隊らしき煤煙見ゆ」との第一報が打電されました。
これが、後の世界の歴史を大きく変えることになった「日本海海戦」の始まりでした。
この信濃丸がバルチック艦隊を発見した位置が、海図を碁盤の目のように区分けした中の、偶然にも旅順要塞攻略の要となった二百三高地と同じ「203」地区でした。
バルチック艦隊発見の報に接し、出撃する連合艦隊は、
「敵艦見ゆとの警報に接し連合艦隊は直ちに出撃、之を撃滅せんとす。
本日天気晴朗なれども波高し」と大本営に打電しました。
午後一時五十五分、旗艦三笠の檣上にZ旗が翻りました。
「興国の荒廃この一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」
戦闘は世界の海戦史に残る、連合艦隊の一方的勝利に終わりました。
この時ロシアに負けていたら日本はおろか朝鮮半島はどうなっていたでしょうか。
当時、満州は既にロシアに占領されていた事実を忘れていないでしょうか。
白人に劣ると思われていた有色人種が白人に勝った。この事は世界の植民地に勇気を与えました。
胡錦濤主席が来日した折、孫文縁のレストランに行きましたが、その孫文も日本の勝利に次のように発言しています。
「アジア人とヨーロッパ人とを比べるのに、以前は世界で優秀なのは白人だけだと考え、何事も白人の独占となっていた。われわれアジア人は、白人にはおよびがたきものと諦め、中国人だけでなく、アジアのすべての民族が、絶望していた。
そこへ日本が忽然としておこり、世界の一等国となったのを見て、アジアの民族に、無限の希望が輝き始めた。白人のやることは日本人にもやれた。皮膚の色の違いは、知力や才能の優劣とは関係ない。そういうことが、わかったのだ」
エジプトのサダト元大統領は、
「私は近く日本を訪問するが、その時は真っ先に明治神宮を参拝するつもりだ。今日エジプトが独立し、このような繁栄をきたしたのも、その根源をたどれば明治天皇様の率いる日本軍が、白人帝国主義のチャンピオンたるロシア帝国を敗ったことに起因する。エジプトで今なお愛唱されている『日本の娘さん』という歌は、日露戦争に従軍看護婦として出征する日本の女性を讃えた詩なのです」
トルコには東郷通り、乃木通りが命名されています。
フィンランドには「東郷ビール」が有ります。
私達の先人が命を賭して護った物は、非常に大きな物だったと誇れるものです。
海軍記念日
海軍記念日に軍艦行進曲
記念艦三笠とニミッツ提督
連合艦隊解散の辞
「二十閲月(えつげつ)の征戦已(すで)に往時と過ぎ、連合艦隊は今や其の隊務を結了(けつりょう)して茲(ここ)に解散する事となれり。然れども我等海軍軍人に責務は決して之が為に軽減せるものにあらず、此戦役の収果を永遠に全くし、尚ほ益々国運の隆昌(りゅうしょう)を扶持(ふうじ)せんには時の平戦を問はず、先づ外衝(がいしょう)に立つべき海軍が常に其武力を海洋に保全し、一朝緩急に応ずるの覚悟あるを要す。而(しこう)して、武力なるものは艦船兵器のみにあらずして、之を活用する無形の実力にあり。百発百中の一砲能(よ)く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚(さと)らば我等軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず。近く我海軍の勝利を得たる所以(ゆえん)も至尊霊徳に由る処多しと雖(いえど)も抑(そもそも)亦(また)平素の練磨其因を成し、果を戦役に結びたるものして若し既往を以って将来を推すときは征戦息(や)むと雖(いえど)も安んじて休憩す可らざきものあるを覚ゆ。惟(おも)ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして時の平戦に依り其責務に軽重あるの理(ことわり)無し。事有らば武力を発揮し、事無かれば之を修養し、終始一貫其本分を尽さんのみ。過去一年有余半彼(か)の波濤(はとう)と戦い、寒暑に抗し、屡(しばしば)頑敵(がんてき)と対して生死の間に出入(しゅつにゅう)せし事、固(もと)より容易の業(わざ)ならざりし、観ずれば是亦(これまた)長期の一大演習にして之に参加し幾多啓発するを得たる武人の幸福比するに物無く豈(あに)之を征戦の労苦とするに足らんや。
苟(いや)しくも武人にして治平に偸安(ゆうあん)せんか兵備の外観巍然(ぎぜん)たるも宛も沙上(さじょう)の楼閣の如く暴風一過忽ち崩倒するに至らん。洵(まこと)に戒むべきなり。
昔者(むかし)神功皇后三韓を征服し給ひし以来、韓国は四百余年間我統理の下にありしも一度(ひとたび)海軍の廃頽(はいたい)するや忽ち之を失ひ又近世に入り徳川幕府治平に狃(な)れて兵備を懈(おこた)れば挙国米船数隻の応対に苦しみ露艦亦(また)千島樺太を覬覦(きゆ)するも之に抗争する能(あた)はざるに至れり。翻って之を西史に見るに十九世紀の初めに当たり、ナイル及びトラファルガー等に勝ちたる英国海軍は祖国を泰山の安きに置きたるのみならず爾来後進相襲(あいつい)で能(よ)く其武力を保有し世運の進歩に後れざりしかば今に至る迄永く其(その)国利(こくり)を擁護し、国権を伸張するを得たり。蓋(けだ)し此の如き古今東西の殷鑑(いんかん)は為政の然らしむるものありしと雖も主として武人が治に居いて乱を忘れざると否とに基づける自然の結果たらざるは無し。我等戦後の軍人は深く此等(これら)の事例に鑑(かんが)み既有の練磨に加ふるに戦役の実験を以ってし、更に将来の進歩を図りて時勢の発展に遅れざるを期せざるべからず。若し夫(そ)れ常に聖諭(せいゆ)を奉戴(ほうたい)して孜孜奮励し、実力の満を持して放つべき時節を待たば庶幾(こいねがわ)くは以って永遠に護国の大任を全うする事を得ん。神明は唯(ただ)平素の鍛練に力(つと)め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に一勝に満足して治平に安(やすん)ずる者より直(ただち)に之を奪ふ。
古人曰く勝て兜の緒を締めよ・・・と
明治三十八年十二月二十一日 連合艦隊司令長官 東郷 平八郎」