『流星シネマ』 吉田篤弘 著(角川春樹事務所)
好き!めっちゃ好き!今のわたしは、こういうお話を読みたかった!
というのを認識した作品でした。
ゴリゴリの本格ミステリももちろん大好物ですが、ほら、ご飯ばっかり続いたお腹が重い時にふっと今日はフルーツ盛り合わせでいいよね、っていろんな果物が順番にサーブされる感じ。あれ、余計にわかりにくい?
もともと吉田さんのお話は読むたびに好きー!って思うし肌に合ってるんだろうと思うんですが、このお話はリアルでいっぱい考えすぎてパンパンになってたわたしにとって滋味溢れるフルーツのような、体から発酵したガスが抜けてフルーツの香りが入ってきたような、そんな気持ちがしました。
昨年五月に出た御本ですが、リアルでいろいろ追い詰められてて読書に逃げる余裕もなくなってたくらいの時だったので新刊情報のチェックもしておらず。
人生で一番といっていいほどに自分に向き合いすぎてしんどかった2020年がやっと終わりに近づいた頃にようやく知って、新たな年を迎えた今、読みました。
わたしがずっと欲しかった言葉、答えの一つがありました。
うん。よかった。勝手にですが、受け取りました。ありがとうございます。
様々な人生を生きる登場人物たち。
おそらく読む人によって、言ってることがわかるキャラとわからないキャラがいてそれはみんな違うと思う。想いを乗せるキャラが、読むたびに変わる小説であるかもしれない。
主人公の太郎君を軸に様々な人が、様々な人生を、静かに生きている。ルーティーンを飽きることなく。
毎日同じことを、祈るように繰り返す。
でも、同じ祈りは、水のように日々を少しずつ角を削って丸くしながら流れていって、人はそれに流され見つめるしかできない。
当てにならない時計、調律の狂ったピアノ、昔は光ってたけれど今はすっかり錆びた星。
敢えて直さない、敢えて取り替えない。ただそれを見つめるのは、ひとりひとりの人生も同じ。
伝説が眠る町で、何も変わらないように見える町で、アルフレッドさんやアキヤマ君が何かを見ていたように、読者のわたしも太郎君と一緒に何かを。春を。
わたしが欲しいのは、心の平穏だと思ってた。先行きを心配しなくていいという安心感。
今もそれは変わってないと思うけど、わたしはこの2年か3年くらいのあいだ、自分の人生とは違うもう一つの世界のわたしの人生を生きていたのかなって。怒涛の水流に押し流されて、元の世界に戻ってきたわたしの心の中から流木や土砂は捨てて道を空けないと、新しい人生が入って来ない、やっとそれが腑に落ちました。
「空っぽが大きければ大きいほど、希望のキャパシティーも大きくなるわけです。埋めるべき大きな空白がすぐ目の前にあるという現実。これは、なかなか得難いものです」(220ページ)
「いちばん大きな空っぽを手に入れたものが、いちばん大きな夢を見られるってことです」(221ページ)
今のわたしにしっくりくる。
心の空っぽ、虚無感を埋めて、充実感を取り戻したかった。そんなふうにもがいてもがいて半年経って。
この虚無感は、新しいわたしの可能性であることを心で知りました。
半年前、あのまま、息苦しさの中で作り笑いの日々の道を選んでいたら。それはそれで何とかなっただろうしそれでも良かった。
でも、わたしはそれを選ばなかった。後悔というより押し流されたやるせない気持ちが怒りの感情だと気づいたのがほんの一週間くらい前なんですが(苦笑)、怒りの感情にもともとわたしは慣れてなくて、それよりも哀しみのほうを選んでもがいて足掻いて。
半年前までのわたしの人生がサイレント映画で上映されても、弁士さん居ないし、読唇術もってるバジ君もいないし、誰もわたしの喜怒哀楽はわからない。充実感が戻ってくる保証もない。
太郎君やカナさんのような、繋ぐちから、編集力はわたしのどこを探しても無いけど、アルフレッドさんやアキヤマくんのような見えないものを見たり聞こえないものを聴いたりするちからも無いけど、丹後さんや椋本(弟)さんやミユキさんのように人生のフェーズが変わった気はするので。
わたしの空っぽがいつか誰かと繋がることができるように、春を待ちつつ冬の日をさくさくと生きていこうと思います。