千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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習志野市の戦争遺跡3(津田沼駅周辺の戦争遺跡)

2008-04-02 | 習志野市の戦争遺跡
1.津田沼鉄道連隊

鉄道第二連隊は、津田沼鉄道連隊といわれるほど、津田沼と縁が深い。しかし、現在の千葉工大が、かつて陸軍鉄道連隊のおかれた場所であったことを知る人は、今では少なくなっているかもしれない。

1907年(明治40年)に従来の鉄道大隊が鉄道連隊に昇格、津田沼に兵営を一旦移した後、1908年(明治41年)に千葉に鉄道連隊司令部、第一大隊、第二大隊が移転、津田沼には鉄道第三大隊が置かれた。1918年(大正7年)に津田沼の鉄道第三大隊が、陸軍鉄道第ニ連隊に発展的に改組された。

<鉄道第二連隊の臨時検閲>


鉄道第二連隊が出来た当初の臨時検閲。近衛師団長久邇宮邦彦王が立会い(中列右から3人目、頭上に印のある人物)。

その鉄道第二連隊が出来た当初について、新聞は以下のように書いている。

「大正7年8月4日(日)東京日日(房総版)

連隊と津田沼 町民は軍隊に冷淡

千葉鉄道連隊が8月1日から拡張されて津田沼に1個連隊を置き、千葉を第一連隊、 津田沼を第二連隊とし、旅団に編成された処で、津田沼町は急に連隊附将校の居を構うる者が激増した。一体、同町附近には騎兵も4個連隊居るので、何分狭い街の事とて貸家が無く、該将校等は船橋や市川或は態々東京方面から通って来る始末で、同地には空地も多く、且つ相当財産を有する者も尠くないに拘らず、町民は一向平気で、軍隊など見向きもせぬと云った調子だが、恁麼事では同町将来の発展上遺憾である。殊に大工其他の職工が多数入り込んで居るにも拘らず、之に供給すべき物資に乏しき為め、職工連は非常な不便を感じて居れりと。」

しかし、津田沼の町の発展には、鉄道第二連隊の存在が大きかった。

1928年(昭和3年)に松井天山が描いた「津田沼町鳥瞰図」(成田山仏教図書館蔵)には、鉄道第二連隊の配置が細かく描かれている。それは国鉄津田沼駅の南北にあり、北は材料廠の倉庫群、南には連隊本部と兵舎や作業場、火薬庫が描かれている。

なお、「津田沼町鳥瞰図」にある商店街は津田沼駅の北側、その殆どが今の船橋市域にあり、これらが鉄道第二連隊に大きく依拠していたことは想像に難くない。果物の堀越商店や戦後料理屋をしていた「かし熊」、洋食の松栄軒、酒屋であった渡辺商店など、戦後も地元の人間になじみのあった店の名前が書かれている。おそらく連隊の兵隊たちも、外出時にはこういう店で買い物をしたり、外食することを楽しみにしていただろう。

現在の新津田沼駅とイトーヨーカドー、ジャスコのある場所には材料廠の倉庫が並び、連隊の主要な建物は千葉工大の敷地になっているのがよく分かる。なお、千葉工大の前の正門(現在は通用門)は、鉄道第二連隊の隊門であり、現存している。隊門と総武線の線路を挟んだ商業地域との間には、踏み切りがあり、現在ある歩道橋はもちろん存在しない。鉄道第二連隊の兵舎は戦後かなり長い期間残っていたが、千葉工大の新校舎建設に伴ってなくなった。

その他、総武線の上を通る跨線橋の土台は、かつての鉄道連隊演習線当時のものが残っているという。

<津田沼町鳥瞰図の一部>


現在のJR津田沼駅附近。赤字は筆者が追記したもの。

戦後、その津田沼の地にできた千葉工大は、東邦大学などと同様にその兵舎を校舎などとして利用したのである。

前述したように、かつては、その兵舎を利用した校舎もあったのだが、10年以上前に立て替えられ、現在は見ることができない。今なお残るのは、レンガ造りの隊門のみである。その隊門は、1998年(平成10年)に国の登録有形文化財の指定をうけた。

この鉄道第二連隊の歴史を振り返ると、

1918年(大正7年) 鉄道連隊第三大隊が改組、鉄道第二連隊となる。

1923年(大正12年)関東大震災で関東戒厳令司令官の指揮下にて、鉄道復旧作業に出動。

1928年(昭和3年)、中華民国山東省済南で出兵した日本軍と蒋介石軍が武力衝突した済南事件に派兵。

1937年(昭和12年)華北で鉄道の運営、徐州作戦に参加。なお、この頃から京漢線、津浦線、石太線、朧海線の占領、開拓、運営にあたった。

1940年(昭和15年)、旧満州・華北を転戦した後、主力は1945年(昭和20年)4月、九州に移転、終戦を迎える。

なお、1940年(昭和15年)の平時編成表で第一連隊が連隊長(大佐)のもと、連隊本部、三個大隊、三個中隊、材料廠で編成されていたのに対し、津田沼の第二連隊では、他に練習部、幹部候補生隊、下士官候補生隊が付設されており、留守部隊には練成部隊としての位置づけもあったようである。

かつての鉄道連隊の材料廠の主力は千葉の鉄道第一連隊となったが、津田沼の第二連隊でも材料廠の倉庫は現在の新津田沼駅周辺、イトーヨカドーやジャスコのある広い場所に建っていた。

2.鉄道第ニ連隊の演習線廃線跡

前述のように鉄道第三大隊を津田沼に移転させた軍は、占領地への軍用物資補給を円滑にするための手段として、演習線を作り、それで要員訓練することを考えた。演習線は、津田沼~松戸、津田沼~三山新田~犢橋~千葉のニ区間とし、総延長45Kmで、敷設、撤去、修理の訓練も行われた。それは、千葉に鉄道第一連隊、津田沼に鉄道第二連隊と連隊が地区ごとに独立してからも同様であった。そして、ここで教育を受けた兵たちは、樺太の鉄道敷設、日中戦争などへの出動に駆り出されたのである。

津田沼~松戸の演習線は、戦後京成が払下げをうけて、新京成電鉄とした営業運転をするようになったが、津田沼~千葉の演習線については廃線となった。

その一部の演習線の廃線跡は、現在ハミングロードとして市民の遊歩道ともなっている。これは京成大久保駅近くのスーパーマルエツ前の歩道が該当する。今では、地域の人の生活道路となっているが、れっきとした軍用の演習線である。これは、津田沼から総武線を離れて大久保方面へ大きく湾曲しながら続き、京成大久保駅の前を通って、八千代方面へつながっている。

遺構としては、多くはないが、境界標石が残っており、鷺沼台の畑のなかやスーパー店舗前にいくつか現存する。いずれも白御影石製の「陸軍用地」と刻まれたものである。

<京成大久保駅近くの鉄道連隊演習線跡>


<ハミングロード脇の畑の中にあった陸軍境界標石>


<陸軍境界標石に近づいてみたところ>


<駅前のスーパー店頭にも境界標石が残る>


3.新京成新津田沼駅および周辺に残る遺構

現在の新京成線は、鉄道連隊の軍用線のうち、津田沼~松戸間の路線を戦後京成電鉄が獲得し、演習用にその余りに湾曲していた部分はショートカットするなどして営業運転させたものである。現在のイトーヨーカドーに隣接した新京成電鉄新津田沼駅付近は、かつて鉄道連隊の倉庫や資材置場があった。また戦後の一時期、千葉工業高校があった場所でもある。

現在の新京成線新津田沼駅といっても、三代目くらいの駅で、今はない藤崎台駅が新津田沼駅という名前だったこともあり、また西友裏の、かつて八坂神社があった場所の近くに、新津田沼駅があったこともある。

今の新津田沼駅の前の新津田沼駅があった、現在の西友の東の線路脇の駐車場のなかや、その近くの線路沿いにも、陸軍境界標石がある。

新津田沼駅と京成津田沼駅の間にある総武線を越える、新京成電鉄の鉄橋(跨線橋)は、前出の松井天山の「津田沼町鳥瞰図」にも描かれているが、その基礎部分には鉄道連隊時代の煉瓦の基礎が使われている。ただし、外からは確認できなくなっているので分かりにくい。

<鉄道連隊時代の基礎が残った跨線橋>


なお、現在新津田沼駅の南側、総武線の線路沿いに上述の八坂神社がある。これは元は船橋市域にあったため、純粋な習志野市の戦争遺跡とはいえないが、その境内に「皇紀二千六百年紀念」と書かれた国旗掲揚台がある。

<八坂神社の国旗掲揚台>


現在は、津田沼の商店街と遠くなってしまったが、八坂神社はかつては商店街のなかにあって、お参りする人も多かった。おそらく鉄道連隊の兵士たちも外出時には船橋市域に広がった津田沼商店街で洋食を食べ、買い物を楽しんだであろうが、商店街近くの八坂神社にもお参りした兵士も多かったであろう。

(付記:以前の習志野一中にあった防空壕について)

現在の千葉工大の西、前のサンペデック、現・モリシア津田沼がある場所には、習志野第一中学校がありました。昭和30年代終り頃には、その校庭の一角に防空壕があったのですが、現在は習志野一中自体、別の場所に移転し、防空壕も残っていません。小生の知人によれば、それは土を掘っただけの簡単なもので、「危険なので防空壕に入るな」という立て札が傍にあったそうです。

場所からみて、鉄道第二連隊関連のものと思われますが、それ以上の情報がないのです。当時の習志野第一中学校関係者の方、どなたかご存知の方、コメント等でご連絡をお願いします。 

参考文献:『千葉県の戦争遺跡をあるく』 千葉県歴史教育者協議会 (2004)

       『千葉県の歴史』 山川出版社 (2000)

      『歴史読本 日本陸軍機械化部隊総覧』 新人物往来社 (1991)ほか



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6 コメント

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津田沼から千葉方面への演習線 (伊 謄)
2008-04-02 22:13:37
 森さん、こんにちは。
 津田沼から千葉方面への演習線ですが、自衛隊に鉄道部隊があったときにここを使っていましたから、数キロだけですが、線路が復活したことがありました。
 しかし、新潟地震ののちに鉄道部隊が廃されましたから、1960年代半ば過ぎには、また廃線状態になっていたのかなと思います。
自衛隊の鉄道部隊 (森兵男)
2008-04-03 20:13:42
伊謄さん、コメントありがとうございます。

自衛隊の鉄道部隊とは、陸上自衛隊第101建設隊ですね。詳しく知りませんが、1960年くらいに出来たとか。戦後、鉄道連隊の津田沼~千葉路線の一部が使われていたとなると、二度廃線になったということになりますね。
Re:自衛隊の鉄道部隊 (伊 謄)
2008-04-03 23:57:47
 森さん、こんにちは。
 記していただいたように、2度廃線となった部分があるわけですが、以前に歩いたときには防衛庁の境界石は見つけられませんでした。もしかすると、線路敷は防衛庁の財産にならず、旧陸軍省財産としてずっと大蔵省のものであったのかもしれません。

Unknown (元船橋市民)
2008-12-16 19:53:51
習志野市の広報冊子に今で言うところの国家公務員宿舎の前、泉町三丁目あたりの草に埋もれる線路の写真がありました。
図書館などに行けば見られるかと思います。
Unknown (元船橋市民)
2008-12-16 19:55:00
昭和40年初頭の頃だそうです。
泉町三丁目あたりの線路 (森兵男)
2008-12-18 06:13:55
元船橋市民さん、コメントありがとうございます。

それはやはり陸軍鉄道連隊の演習線跡の一部だと思います。習志野市の広報冊子ですか、お教え頂き恐縮です。

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