千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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流山市の戦争遺跡1(流山糧秣廠)

2007-08-19 | 流山市の戦争遺跡
あまり知られていないが、流山市にも陸軍の大規模な糧秣廠(兵員や軍馬の食糧を保管、供給する軍の施設)があった。場所は、現在の総武流山電鉄の平和台駅の南西にあたる。終戦時の正式名称は陸軍糧秣本廠流山出張所というが、馬糧すなわち軍馬の糧秣を保管、供給することを任務としていた。その敷地は、南北約350m、東西は上底約260m、下底約390mの台形をなしており、終戦後は北側はキッコーマンの倉庫群(現在はイトーヨーカドー)、南側は住宅や学校敷地となって、出張所というイメージと異なる広い敷地を持っていた。

<1974年当時の航空写真にみる流山糧秣廠跡>

(なお航空写真は国土交通省の1974年撮影のもの、着色・字入れは筆者)

もとは陸軍馬糧倉庫として東京本所錦糸堀にあったのだが、付近に人家が増え、火災の危険もあるとのことで、1922年(大正11年)に本所秣倉庫移転が起案され、移転先として流山が選ばれた。なぜ、流山かといえば、千葉・茨城という干草原料の生産地をひかえ、江戸川の水運も利用できるという交通の利便性や、比較的東京に近いという地理的条件もあった。実際に流山で開庁したのは、1925年(大正14年)である。「秣倉庫移転」ということで開設されたが、当初からここで馬糧製造も役割として含まれており、「秣倉庫」という名称の業務の内容は少しく異なっていた。

<キッコーマンが建てた「流山糧秣廠跡」の碑>


なお、1941年(昭和16年)当時の設備は、倉庫が20あったほか、携帯馬糧工場、圧搾梱包工場、事務室、秤貫所、守衛所などがあった。変わったところでは、敷地内に保育所があり、当時としては珍しく福利厚生に対する配慮がみられた。また、水路や、引込線も設けられていた。この引込線については、今でもかすかにその名残をみることができる。さらに、千草稲荷が敷地内にあり、朝礼などの儀式は千草稲荷の前で行われた。

ここで働いていた人員は開庁時33名であったが、終戦当時は513名で、所長以下10名ほどの軍人と技術者、監督者などである少人数の軍属以外は、大多数の民間人からなる職員たちであった。

ここでは馬糧製造、貯蔵や干草の加工などを行ない、糧秣を近衛第一師団隷下の各部隊や宮内省警視庁に供給した。また、1933年(昭和8年)頃には、馬糧に関する各種の試験が行われ、糧秣の研究開発、生産という役割を中心を流山糧秣廠が担っていたことが分かる。

<現在の千草稲荷>


原料である干草の納入元は、関東、中部で、最も遠い納入元は甲府だったという。その運搬には流山鉄道や常磐線だけでなく、江戸川の水運も利用された。糧秣本廠東京出張所(芝浦)への糧秣の供給は、江戸川の水運が用いられたが、各部隊への供給には鉄道が主に用いられたようである。江戸川の水運を使った輸送では、現・流山5丁目地先の江戸川河畔の流山揚水機場が利用され、そこには「ガラガラ」と称される架空輸送機があって、原料である干草を荷揚し、トロッコに載せるなど、舟運の荷役に用いられた。

なお、敗戦後は、残務整理していた80名ほどの職員ともども、流山糧秣廠の設備、敷地は運輸省(国鉄)に移管された。そして鉄道用品庫として利用されていたが、1952年(昭和27年)3月の国鉄改革後は大蔵省の所管となり、キッコーマンといった民間会社などに払い下げられた。
こうして昭和50年代までは、キッコーマンの倉庫などとして、かつての流山糧秣廠の倉庫が残っていたが、キッコーマンなどが移転したあとは大型スーパー(イトーヨカドー)などの建物が建っており、かつての面影はない。

<道路と少しずれているが、引込線跡>


付記:
流山糧秣廠の引込線が柏陸軍飛行場の辺りまで続いていたという話とか、終戦前に糧秣本廠から持ち込まれた「特殊物品」の話、また流山にあったという慰安所などについては、今回調査しきれずに記載していない。もし分れば後日追記したい。

参考文献 『流山糧秣廠』 流山市立博物館 (1996)
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28 コメント

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柏飛行場の鉄道計画 (伊 謄)
2008-01-27 10:13:06
 森さん、はじめまして。
 文末に記されていた「流山糧秣廠の引込線が柏陸軍飛行場の辺りまで続いていたという話」なんですが、『柏のむかし』に東武野田線の運河駅から柏陸軍飛行場の間に敷こうとした専用線の話はあるので、それが間違って伝わっているのではないでしょうか。
 糧秣廠と飛行場では何ら関係ありませんし、線形が悪すぎます。運河からなら比較的平坦ですが、流山からは勾配や距離もあります。
 あるいは、これも『柏のむかし』にありますが、筑波高速度電気鉄道の計画が話を混乱させているのかもしれません。昭和初期の話ですから、地元に鉄道の話が残っていてもおかしくはなく、鉄道を敷こうとした話が軍用鉄道を敷こうとした話にすりかわってしまうこともあり得るでしょう。
 ともかくも、この部分にはあまりエネルギーを割かれずにいいと思います。
Unknown (森兵男)
2008-02-03 17:55:19
伊謄さん、コメントありがとうございます。
本件、ある柏の人から聞いた情報だったのですが、その人も確証はないようでした。
仰るとおりなのかもしれません。
柏市の学芸員さんにも聞いたのですが、もともとその方は考古学がご専門ということもあり、はっきりしませんでした。ただし、高射砲陣地のある辺りには、学校の敷地内ですが、線路跡らしきものがあったと言っていました。
また何か分かれば、記事にしていきたいと思います。
線路跡=トロッコでは (伊 謄)
2008-02-04 23:18:59
 森さん、こんにちは。
 高射砲陣地で線路跡とすればトロッコの可能性が大でしょうね。
 柏飛行場への専用線計画ですが、一部は土地の買収が行われたかもしれません。そうすると地籍図には鉄道用地のような区切りが見られるかもしれません。この地籍図の利用は、鉄道連隊演習線の痕跡を探ったときに使ったことがあり、その時は効果がありました。

Unknown (森兵男)
2008-02-07 07:16:33
コメントありがとうございます。
そういえば、柏の学芸員の人は陸軍飛行場と高射砲陣地のあった高野台では土地の高低差があるので、つながっていたかどうか分からないと言っていました。陸軍飛行場のあった柏の葉には何度も行っていますが、高射砲のほうは、2,3回しか行っておらず、また調べてみます。
Unknown (Unknown)
2008-06-06 00:32:27
糧秣廠後の片隅、又現流山街道沿いに、不可思議な「場所」「物」があることをご存知でしょうか。
「特別」な「物品」とは何だったのでしょうか。
因みに、柏飛行場跡の近くに、「過酸化水素」の地下貯蔵庫跡のコンクリート製のパイプが、現在も残されています。
糧秣廠跡 (森兵男)
2008-06-10 06:02:50
糧秣廠跡、流山街道沿いにの不可思議な「場所」「物」とは引き込み線の線路跡でしょうか。現存する遺構としては千草稲荷くらいしか、思い浮かびません。
終戦間際に糧秣廠に持ち込まれた「特殊物品」は貴金属ですが、それがどうなったか調べようとしています。この辺はなかなか難しいです。慰安所は朝鮮の人の強制連行の一覧のなかにあるので、本当にあったのでしょうが、知る人が殆どおらず、よく分かりません。
それから、柏飛行場跡の近くに、「過酸化水素」の地下貯蔵庫跡のコンクリート製のパイプが現存するとはどこのことでしょうか。大室、花野井には今の地下燃料貯蔵庫跡があります。十余二にもあったらしいのですが、そのことでしょうか。
Unknown (Unknown)
2008-08-03 22:45:15
改めて調べたところ、現在人の目に顕現化しているのは花野井の東急ニュータウン内の更地を中心に残るものだけになっているようです。十余二のもの未だに未発見なので、ガセ、かも知れません。この点、お詫び申し上げます。現状で「過酸化水素貯蔵庫跡」とされているのは、花野井のものが一番確実です。私が足で稼ぐより、氏の方が事実に近かった。素直に感銘いたすところです。さて、花野井に過酸化水素貯蔵庫はあった、これは他の複数の方が証言しているところですが、今ひとつの「水化ヒドラジン」なる危険物は、一体何処に貯蔵されていたのでしょうか。
流山街道を「木」の交差点から現イトーヨーカドー辺りまで、線路の存在する側のみに、「野田方面に向かって右側」のみに点在する不思議な土地と装置。トロッコ説もある柏飛行場への糧秣省からのダイレクト・ライン説。共に扱い難い両主液長期貯蔵は、当然近くに貯蔵する筈はない。少なくとも、B-29編隊の3~4航過の爆撃程度なら耐えうる距離は保たれた、と考えるべきでしょう。
因みに、「水化ヒドラジン」は、過酸化水素と異なり、生成されると「極めて安定した物質」であるそうです。そのため、残ってしまった物質は機械的に制御され、定期的に点検やメンテナンスを受けていると思われます。第一波出撃後、第3波出撃までに間に合う量を山中に隠れて輸送する…。戦時下ならば、無茶も発案されそうな気がするのですが…。
流山と柏飛行場の間 (森兵男)
2008-08-09 08:25:28
森兵男です。

書き込みをなされた方、小生も流山糧秣廠と柏飛行場との間で何らかの輸送経路があったかどうか興味があります。いろいろ分からないことが多く、なんともコメント致しかねるのですが、ぼつぼつ調査していこうと思っています。
運河からの引き込み線 (『流山糧秣廠』関係者)
2008-08-30 06:14:44
昭和23年頃に アメリカ軍が撮影した航空写真に その痕跡らしきものを見ることができます。
この航空写真は 国土地理院の基礎ともなっている 測量用の航空写真ですので 信憑性は高いですよ
その写真に寄れば 江戸川台東4丁目の7号公園付近で 明らかに鉄道の曲線的に 道が造られています。
この道は 後年の航空写真と比較することによって ある程度の位置が特定できます
具体的には 江戸川台東4丁目の7号公園から 東へ一直線に 柏市のみどり台へ向かう道で、 7号公園付近と野田線を結ぶように 曲線的な道が写っています
その規模から見ると トロッコではなく 普通鉄道のようです

航空基地に輸送するには 同じ鉄道規格で貨車毎引き込むのが普通ですし 野田線との分岐点付近には 貨車を滞留するヤードが見られません
トロッコとすれば 線路規格が全く異なりますから 当時の駅である運河か初石から 別線を敷設しなければ なりません しかし、航空写真には野田線の線路以外には見られません(写真解析をした結果です)

防衛庁戦史部の古文書群を精査した結果、少なくても昭和18年までは 糧秣廠と柏飛行場での輸送連絡は存在していません

昭和19年になって 錦糸町の糧秣本廠の一部が 流山糧秣廠へ業務疎開してきますが 当時の庶務主任をしていた方々からの聞き取りでも 柏飛行場への直接搬入は無かった旨の証言を得ています。
さらに軍の命令系統からすれば 錦糸町の糧秣本廠の命令以外、流山糧秣廠は行動することができませんし、流山糧秣廠への搬出入の経路は流鉄からの引き込み線と 江戸川舟運、一部地域でのトラックと定められていますので 恒常的な柏飛行場との連絡経路は無かったことになります。
軍の記録は無いようでいて 膨大な量が残されており そのほとんどが法令ですので 先ずはその法令を精査することによって 陸軍航空隊と 糧秣補給とが直接結びつくことが明快に理解できます。
軍事史研究では 法令を理解していることが出発点になりますので 先ずは各施設毎に定められた法令を確認することから始めて下さいね
『流山糧秣廠』関係者 (糧秣廠の倉庫)
2008-08-30 06:41:40
上記とは別に 流山糧秣廠の倉庫の話です
『流山糧秣廠』の刊行後の調査で 大正14年(開設当初)の倉庫と、昭和20年(業務疎開のために増築)した倉庫が 各1棟づつ残っていることを確認しました

場所は このページのトップにある写真で言うと 流山南高校の南側で キッコーマンの配送倉庫になっているところです

勿論倉庫は 多くが緑色のビニールテント形式なのですが その中で当時の建物が移築されていたのです

倉庫の大きさは 1棟 300坪 無柱で 外側から見るとつっかえ棒が 多数刺さっているように見えますが これは柱を斜めにして 屋内に柱を立てない建築方法でした

現在は敷地の南側にあるため 斜め柱を切り取り、屋内に鉄柱を立てて使用していますが 外板のトタンや 屋内の壁板 明かり取りの天窓などは 建築当初のモノに間違いないようです

具体的な場所は 県道松戸・野田線から東へ入る細道の際で 流山南高校敷地(糧秣廠の南端)道路より 南側(松戸より)の道ですので 確認してみて下さい

なお、敷地外からは自由に見ることができますが 敷地内に入るには守衛室に申し出ますが 場合によっては キッコーマンの許可が必要になるかも知れません
流山糧秣廠の引き込み線と倉庫 (森兵男)
2008-09-04 06:45:34
『流山糧秣廠』関係者さん、長大なコメント、いろいろご教示ありがとうございます。

東武野田線江戸川台の付近から分岐する線路跡は、小生も国土地理院の空中写真閲覧サービスで見ました。USA-R393-119 という番号の1947年のものですね。これを見ると、確かに柏方面に向かっていますが、途中でなくなっているようにみえます。これはその線路が未完成だったということでしょうか。

糧秣廠が担っていた役割は、言うまでもなく、干草の生産など、軍の兵馬へ糧秣を供給することでありましょうが、当初江戸川の水運を使った輸送から、次第に鉄道が使われるようになり、終戦後糧秣廠は運輸省、国鉄の倉庫として使用され、職員も国鉄に移ったことは象徴的だと思います。

しかしながら、ここを物流の基地として、柏飛行場へ物品の輸送をしたというのは、後世の人間が想像して生まれた考えかもしれませんね。東武豊四季駅は間違いなく、その輸送の拠点で、そこから鉄道で運んできたものを下ろし、トラックなどに積み替えたのでしょう。そして、終戦近くになって、直接鉄道で結ぶことを考え、途中まで工事して終戦になったものでしょうか。

小生も軍事史関係の情報はいろいろ入手できる立場にありますが、いかんせんもう年が年ですので、今から法律を勉強しようにも、寿命のほうがさきに盡るかもしれません。

それから倉庫のほうですが、先日、流山に行ったのですが、結局よくわからずにバスで松戸まで引き返しました。途中、水路がありますが、なにか糧秣廠と関係あったかなと思いました。また引き込み線の跡らしい曲線的な道路もありました。
キッコーマンの看板も見ましたので、倉庫近くまでは行ったと思います。なにせ、暑さが身にこたえたもので、あまり歩けませんでした。また涼しくなったら、行ってみます。
もう少し (『流山糧秣廠』関係者)
2008-09-05 00:20:40
丁寧なレス ありがとうございます

>USA-R393-119 という番号の1947年のものですね。

そうです。
東武鉄道の資料を捜しても、分捕り線(他目的の線路が本線に接続する鉄道用語)が行われた記事が見あたらないことや、細くなっている道やその周囲に勾配改良(この場合は坂を緩和する)の痕跡が全くないこと(鉄道の場合は勾配を極めて重要視します)などから線路が未完成だったと私は推定しています。


>当初江戸川の水運を使った輸送から、次第に鉄道が使われるようになり、

当初から水運輸送は多少は考慮されていましたが、鉄道を輸送の中心としていました。
糧秣廠が開設された大正12年は、江戸川が改修され、高堤防が造られた年でもあり、堤防を越えるために架空搬送機(通称ガラガラ)と、トロッコ道が、急遽設計に組み込まれ用地買収が行われています。この部分は江戸川堤防からヨーカ堂に到る太めの道になっています。

また、流鉄はナローゲージででしたが、糧秣廠開設に伴い、陸軍の補助によって普通鉄道に改良されています。

さらに、大正時代には舟運が衰退を始めており、関東大震災によって多数の高瀬船が焼失し、堤防を築いたことによって江戸川、利根川の舟運は終焉を迎えます。

糧秣廠の開設から国鉄倉庫まで経理を担当された方の証言によれば「舟は時局輸送(昭和12年の支那事変)の時に芝浦へ直送しただけで、時々茨城の方から牧草を運んでくることがあって、その時はガラガラを運転した」です。

芝浦は宇品と並ぶ戦地への補給品積み出し港で、戦地には第一師団が出動していましたから、糧秣本廠の指示によって一部の納品先が芝浦となっただけです。


>終戦後糧秣廠は運輸省、国鉄の倉庫として使用され、職員も国鉄に移ったことは象徴的だと思います。

糧秣廠と国鉄とは全く関係がありませんでした。昭和20年10月31日をもって陸軍省が廃止され、翌日からは山糧秣廠も大蔵省の管掌に置かれ、所員は召集解除となることが決まっていたため、最後の所長が 所員の受け入れ先を捜し、国鉄に掛け合いました。
当時の国鉄の最大の使命は、滞留した貨物を輸送することであり、同時に復員者の復職による臨時雇員の解雇を進めていました。国鉄としても 流山糧秣廠を滞留貨物を整理する適当な場所として見込んでいたらしく、そこに所長が直談判で「人員」を売り込んで、召集解除となる所員の集団採用を認めさせたのです。
この辺の経緯やエピソードについては『流山糧秣廠』を再読願います。
最後の所長とは、晩年に面識を得て、その息子さんともお付き合いさせて いただいておりますが 『流山糧秣廠』を贈呈したところ 「父を正しく評価してくれた。本を仏壇に供え、乳と語り明かしました」との詞を頂戴いたしました。

>ここを物流の基地として、柏飛行場へ物品の輸送をしたというのは、後世の人間が想像して生まれた考えかもしれませんね。

一部の自称郷土史家は 糧秣廠、柏飛行場、豊四季の連隊(終戦直前のインフレ連隊)をもって「軍都」という語句を盛んに使っていますが、いかがなモノかと思います。陸軍、軍隊という組織からすれば、東葛地区は微細なものに過ぎないと考えられるのですが。。。。。


東武豊四季駅は間違いなく、その輸送の拠点で、そこから鉄道で運んできたものを下ろし、トラックなどに積み替えたのでしょう。

豊四季は明治時代の小金牧開墾の拠点として三井が開発しました。しかし小金牧開墾が失敗し入植者の多くが離散した後に、柏飛行場が建設されています。さらに、終戦近くになって、連隊も設置されましたので、柏飛行場は豊四季駅を利用したのが正しいですね。因みに豊四季駅から柏の葉までの道路は、県道豊四季停車場・高田原線といいます。


終生現役。これが生涯学習の本筋ですから、時間を気にせず頑張っていただきたく思います。戦後半世紀を経て、ようやく戦争が歴史学の手法をもって解明する時期が始まりました。それだけに証言として残っていた「資料」の再検証が必須となっていますから、頑張っていただきたいと思います。


>途中、水路がありますが、なにか糧秣廠と関係あったかなと思いました。

この水路は神明掘といって、流山地区の排水を木地区へ落とすためのモノで、糧秣廠とは全く関係ありません。


>また引き込み線の跡らしい曲線的な道路もありました。

おそらく、流山駅からキッコーマン工場への引込線跡と思います。近くに千葉銀行がありませんでしたか?


倉庫は、見かけた水路近くの方の配送所にあります。引込線の方は酒造工場で味醂を生産しています。

取り留めもない話で 失礼しました
引き込み線 (しばた)
2008-09-14 15:54:45
以前一度、書き込みさせて頂きました、しばたと申します。現在、陸軍の秋水を調査しておりこちらサイトを参考にさせて頂いております。東武野田線江戸川台の付近から分岐する線路跡を空中写真で拝見しました。道路が柏基地の誘導路に繋がっている事等から、おそらく柏基地および花野井の秋水用燃料庫まで引き込み線を引く計画だったと考えています。秋水の燃料である甲液(80%過酸化水素)の製造をしていたのは神奈川県山北の「江戸川化学」、大船の「第一海軍燃料厰」、四日市の「第二海軍燃料厰」が主なところで、実験段階での甲液輸送は「硫酸瓶」と呼ばれた20L入りのガラス瓶に詰め、それを水を張った木箱に入れて運んだそうですが、貨車の焼失、駅舎の破壊など事故を起こしています。また、秋水は一回の飛行で約1.5トンの甲液を消費するのでより安全に大量輸送するため、容積10トンの「錫板内張容器」を積んだ特性「タンク貨車」を予定したそうです。これは、三両を試作した段階で終戦になったそうです。花野井の燃料庫、タンク貨車が完成すれば一度に九両を連ねて花野井まで行き、貯蔵タンクに注入する計画だったようです。貯蔵タンクからはやはり特製の「タンク自動車」に積み替えて柏基地まで運ぶ計画でした。昭和二十年四月から花野井には甲液用に五基、大室側には乙液(水化ヒドラジン)用に二基、そして丁液(過マンガン曹達)用に一基、建設されていました。当時、花野井と大室のあいだには小川が流れており、仮に両液の流出があっても小川の水で希釈されるという意味で、好立地と考えられていました。引き込み線がトロッコで無かったのは、山北、大船、四日市といった国鉄線用に作ったタンク貨車をそのまま、引き込むためだったのではないでしょうか。また、東武野田線江戸川台の付近から分岐すれば、目的地まで川を超える必要がないのが分岐箇所選定理由のように思えました。東海道線からどのような経路で、野田線に入る計画だったかを明らかにする資料・証言はまだ見つかっていません。
今後とも、宜敷くお願い致します。

車で、一時間ほどの「柏探訪」も随分と回数が増えました。
秋水関連 (森兵男)
2008-09-28 22:32:37
しばたさん、コメントを頂きながら、お返事が遅れ、ご無礼しました。

小生もいろいろ考えてみたのですが、1944年7月24日に海軍省内で陸海軍、軍需省が三者一体となった特薬部を設立、部長には足立海軍少将が就任、各燃料液の増産計画を立てています。それは、甲液2500屯/月の計画に対し、終戦時560屯/月の完成能力しかなかったのですが、国家プロジェクトとして推進していたことは間違いありません。輸送についても、それだけの設備投資を考えていたはずです。それはおっしゃるように、「錫板内張容器」を積んだ貨車の開発や輸送鉄道路の建設になったのでしょう。

秋水燃料の甲液(80%過酸化水素水)の扱いは難しく、海軍の山北実験場でも爆発事故を起こし、技術士官1名が犠牲になっています。ですから、貨車で運ぶにしても、慎重を期したと思います。

貨車で運ぶ場合、江戸川台から柏飛行場までは分かりますが、花野井となると間に谷のようにくぼんだ箇所があり、高低差がありますので、花野井まで延ばすと色々手間がかかり、そこまでやろうとしていたかは疑問が残ります。「柏に残された地下壕の謎」(小野英夫、川畑光明)などに、何らかの記載がないか、もう一度調べてみます。
引込線計画と秋水は無関係 (伊 謄)
2008-10-01 01:15:32
 森さん、こんにちは。
 東武線と柏の基地を結ぶ未成線の件ですが、皆さん勘違いされていますが、この計画は1940年前後のもので、1942年ごろには取り止めとなったものです。つまり、秋水とは全く無関係なもので、経緯は簡単にですが『柏のむかし』の記事に書かれていますので目を通されてください。
秋水関連 (しばた)
2008-10-01 15:09:06
森さん、返事ありがとうございます。
伊さん、ご指摘ありがとうございます。さっそく「柏のむかし」を見てみましたがご指摘の記事はP122の『軍用鉄道』のことでよろしいのでしょうか?以下一部引用致します
「柏市内には戦時中、十余二に飛行場があり兵器、物資の輸送のため運河駅と飛行場との間に鉄道敷設を考えました。昭和十七年五月二十九日に『十余二軍部鉄道敷設に関する協議会』が田中村役場で開催され、すぐ測量を始め工事に着手しましたが、完成しませんでした」とあります。この記述が正しければ1942年の五月以降に工事が始まったが、1945年の終戦時までに完成しなかったとなりますが、いかがでしょうか。当時、柏基地に派遣されていた航空審査部特兵隊長のインタビュー記事及び手記に「我孫子と柏の間の崖を削った所(花野井と思います)へ燃料を貨車で輸送する予定であった」とありましたので運河駅からの引き込み線がこれに当たるものと考えました。昭和二十年四月七日の米軍空撮写真を観ると引き込み線が柏基地の滑走の脇を南下して、飛行場内秋水燃料庫まではつながっているように見えました。森さんのおっしゃるように、そこから花野井まで延長する予定であったかどうかは、いくつか疑問が残ります。
引込線の話題です (伊 謄)
2008-10-01 20:47:04
 しばたさん、こんにちは。
 記事は当該のもので間違いありません。それで、しばたさんでしたら現地の地形もわかると思いますが、この引込線の建設にどれくらいかかると思われますか。正直なところ数ヶ月で充分な距離ではないかと思うんです。つまり、引込線を考慮したがトラック輸送で足りてしまうので計画は進められなかったとしていいと思います。
 さて、秋水の燃料の輸送ですが、現実には機体が使えるものかどうかがわかりませんから、話はあくまでも机上の段階で終わっていると思います。せいぜい、貨車で運ぼうかという程度の中身ではないでしょうか。
 ですが、東武線を経由して燃料を運び込もうということにはならなかったろうと考えます。柏でスイッチバックし、基地に向う際に再度スイッチバックするというような線形では時間もかかりますし、輸送に伴う危険だけでなく空襲の恐れも増します。
 いかがでしょうか。
引き込み線の話題(続き) (しばた)
2008-10-01 23:02:36
伊さん、こんにちは。
私は部外者といいますか柏近辺に居住している訳では無いにも関わらず、この話題に関わらせていただいております。したがって古くからこの地域に関わっていらっしゃる方々や郷土史を研究されている方々には自分が「よそ者」という意味で何かしら申し訳ないという気持ちを抱いております。ただできれば、当時の体験者が存命のうちになるべく正確な事を調べておきたいと考えております。
運河駅から柏基地への引き込み線ですが、仮に滑走路東側の燃料庫までとしてもその建設にどの程度の日数がかかるものかは全く見当がつきません。また昭和十七年五月頃に始まったという鉄道工事が何故、終戦までに完成しなかったかの理由も色々と考えることできますが、所詮想像にしか過ぎません。あの記事を書かれた方(土村最後の村長)も既に鬼籍に入られ、『十余二軍部鉄道敷設に関する協議会』の会議資料も見つかっていないとのことです。
秋水の機体と燃料輸送の関係ですが、これはセクト主義といいますか機体・エンジン・燃料等の部門がそれぞれあまり横の連携を緊密にせず、「泥縄式」に開発をしていたそうです。ただ、陸海軍航空本部のたてた計画にそって(もちろん実現不可能でしたが)それぞれが軍務を遂行していたと考えられます。「どうせ機体の量産は出来やしない」「燃料基地や輸送路を造っても肝心の燃料は出来るのか」、目先の利く軍人の中にはそう考える者もいました。けれど命令とあらば全力でやらなければならないのが、実際の現場であったようです。「柏に残された地下壕の謎」や「海軍燃料史」のなかにも書かれていますが柏の数倍巨大なものを満州と朝鮮で実際に建設し稼働直前であったとの事です。現在から考えれば、もちろん本土への輸送途中で敵潜水艦に沈められるのは容易く想像できます。しかし海軍の厚木基地での巨大燃料庫建設がかなり進んでいた事から考えても柏への貨車による燃料輸送もペーパープランでなかったと考えています。
『柏でスイッチバックし、基地に向う際に再度スイッチバックするというような線形では時間もかかります』、これは私も同意見です。調査を始めた頃に「運河駅から引き込み線」ときいてどうにも納得がいかなかったのも事実です。仮に柏基地さらに花野井まで行くのであれば初石からの方が地形がよいのではないかと思いました。ただ引き込み線らしきものが米軍空撮写真から確認できたこと、特兵隊長が貨車での輸送について語っていること、特薬部の資料のなかに輸送貨車が三両まで試作された記事があることなどを総合的に判断したところ、「そういう可能性もある」と現段階で結論づけました。いかんせん、調査中ですのでご意見、ご指摘いただけますと幸いです。
余談ですが、私の居住地の近くにありました中島飛行機武蔵工場から北方の中島飛行機エンジン試験場の間も軽便鉄道が一年弱存在したと伝説のようにいわれていました。行政も当時を知る人に聞き取り調査をして路線跡図を作りましたが、最近米国の大学図書館から線路の書かれた米軍作成の地図が発見され、あらためて米軍の調査力に驚かされたところです。柏近辺の地図は残念ながら見つかりませんでした。


中島の軽便線の文献など (伊 謄)
2008-10-02 00:04:42
 しばたさん、こんにちは。
 明日にしようと思ったのですが、中島の話がありましたので、そちらに触れながら記しておきます。
 この中島絡みの軽便ですが、『トワイライトゾ~ンMANUAL』という本に記載があります。これはネコ・パブリッシングという出版社の「Rail Magazine」という雑誌の増刊という体裁で、90年代半ばから年1回の割合で出されていたものです。図書館で所蔵しているところも多くはありませんが、廃線を探すには必携といえます。
 さて、花野井への貨車での輸送ですが、これも泥縄ですから具体的な話はないだろうと思います。ただ、敷くとなれば適当な経路がないわけではありません。
 当時は現在の北柏駅はありませんから、そのあたりに分岐を設け、そこから専用線を敷くという経路です。敷地は県道の半分を使えば一ヶ月もかからずに敷けるだろうと思います。もちろん即製ですから、専用線では軌道用トラックで基地まで曳くことになるでしょう。
花野井の秋水燃料地下貯蔵庫 (森兵男)
2008-10-03 07:14:07
森兵男です。

伊 謄さん、しばたさん、コメントありがとうございます。

最初、小生が聞きかじりのことを書いてしまったために、議論を沸騰させてしまいました。

秋水の燃料地下貯蔵庫ですが、土盛りしてカモフラージュし、内面は錫張りした大型鉄製タンクを入れ、必要な時は薬液タンク車にうつして飛行場まで運搬する計画であったといいます。そもそも、燃料地下貯蔵庫をわざわざ飛行場から離れた丘陵地帯に作ったのは、空襲を恐れてリスク分散したためでしょう。

その輸送手段で、もう少し具体的な証言がなにかに出ていればいいのですが。
乾坤一擲にかける陸海軍は、秋水燃料関連で当時のお金で70億円、額面通りなら国家予算の7%を使おうとしていたのですから驚きです。

引き込み線の話題(続き) (しばた)
2008-10-03 17:56:28
伊 謄さん、森さん、コメントありがとうございました。
現在の北柏駅からの引き込み線案、非常に価値あるご指摘ありがとうございました。私も調査の当初から何故、一度常磐線から野田線に入らなければならないのか疑問に思ったものです。この疑問を市史編纂の担当者にぶつけたところ、「運河駅からの引き込み線計画は確かにあった」との回答でした。そこで、疑問は残りましたが現存した引き込み線が花野井まで延びる予定ではなかったのかと考えた次第です。確かに、現在の地理的要因のみで考えれば最短、最善の経路と思われます。ところが「柏に残された地下壕の謎」のなかに大船から立川の陸軍研究所へ向けて出発した燃料を積んだ貨車が「北茅ヶ崎駅」で爆発事故を起こした記録がありました。さらに伊さんはすでにご存知かと思いますがこんな記事を見つけました。「JR相模線は、戦前までは相模鉄道の本線でした。『戦時中、「東京・横浜が敵襲で被害を受けた場合、群馬・新潟方面と神奈川・静岡方面を結ぶ路線がなくなる』として、八高線と相模線による高崎・茅ヶ崎ルートが確立されました。この時、相模鉄道本線は鉄道省の相模線になったのです」そこで大船から燃料輸送ルートを考えてみました。「山北」も「四日市」も東海道線を北上しますので結局同じルートと考えてもよいと思います。目的地は「立川基地」「厚木基地」「柏基地」「松本(陸軍エンジン実験場所在地)」です。
「立川基地」
大船ー(東海道本線)ー茅ヶ崎ー(相模線)ー海老名ー橋本ー(横浜線)ー八王子ー(中央本線)ー立川(立川基地)
「厚木基地」
大船ー茅ヶ崎ー海老名ー(相鉄本線)ー相模大塚ー(航空隊線)ー厚木基地
「柏基地」
大船ー八王子ー(八高線)ー高麗川ー(川越線)ー大宮ー(東武野田線)ー運河駅ー柏基地
「松本」
大船ー八王子ー高崎ー松本
このルートですと空襲の危険があり、さらに危険な燃料を積んだ貨車が横浜、東京と云った大都市を通過せずに目的地にたどりつけます。柏へは大宮からですとスイッチバックの必要も無くなります。また相模大塚から厚木基地への引き込み線である「航空隊線」は元はといえば1941年(昭和16年)に開設された「相模 野海軍航空隊(厚木)飛行場」への軍用線として引かれたものだそうです。鉄道関係の知識が無いものですから是非、ご意見伺えればと思います。
森さん、随分と最初の記事から脇道にそれてしまい大変恐縮しています。すみません。

議論というよりも空想かなぁ(笑) (伊 謄)
2008-10-04 00:22:09
 森さん、こんにちは。
 議論というよりも空想といったほうが近いだろうと自覚しています(笑)。というのは、秋水が未完成ですから、いくらプロジェクトがあっても具体性がないので、仮に輸送の話があったとしても、この時点では単に体裁を整えたものという域をでないでしょう。秋水関係のものに限らず何かを実際に運ぶとなれば、その荷があってはじめて具体的に詰められるようになるからです。
 ただ、空想ではあっても経路を想定することは何かの際に役立つかもしれないと思いますので、無駄ではないだろうと思います。
迂回ルートは時間がかかるので危ないんです (伊 謄)
2008-10-04 00:23:54
 しばたさん、こんにちは。
 鉄道での大船から各基地までの輸送経路ですが、厚木に関してはレールが繋がっているのは相模鉄道を使うコースしかありませんので、大船→茅ヶ崎→厚木を経て相鉄線に入ることになります。厚木から相鉄線への貨物線は、1980年代まで現役だったと思います。

 さて、立川ですが、相模線は迂回路ですので線路の規格も低いということで、やはり線路規格の高いところを使ったほうが実際には安全だろうと思います。ですので、武蔵野線開業以前のメインルートとなる大船から新鶴見を経て山手貨物線を通って新宿から立川へ向うになるだろうと思います。事故の心配はしないでしょう。どの路線であれ事故が目立つようであれば、輸送そのものが中止されるでしょうし、都心部も焼け野原が多いですから。

 ですので、柏へも山手貨物線から田端で常磐線に入るという経路がいちばん無難でしょう。これは線路の状態だけではなく、このルートであれば夜中に輸送が完了するので、昼間に艦載機の攻撃を受けることがないというメリットもあります。遠回りをすると途中で夜が明けてしまい、グラマンかマスタングがやってきて大爆発で終わりになる気がします。また、最短ルートであれば、機関車の付け替えが不要になります。新鶴見機関区のD51に頑張ってもらえば済みます。大船から柏までならノンストップでも可能かもしれませんし、最悪でも田端で給水するだけです。
 結局、線路状況、運行時間、機関車の運用のいずれの面からも最短ルートでなければ敵の目を掠めて運ぶことは出来ないというわけなんです。

 なお、松本へ行く場合は大船と山北からの荷と四日市からの荷を名古屋で合わせて中央線を進むかと思います。あるいは、双方が別々に運ぶかもしれません。ただ、高崎経由はあり得ないルートなんです。碓氷峠が急なので貨物列車は通れなかったんですね。ですので、東京から長野への貨物は中央線経由で運ばれていました。
引き込み線(終わり) (しばた)
2008-10-04 04:26:07
伊 謄さん、大変貴重なご意見多々ありがとうございました。とても参考になりました。
森さん長々と大変失礼致しました。
私の方は、今回でこの件終わりにさせて頂きます。
どうもありがとうございました。
また、柏へ現地調査に行こうと思っています。

ありがとうございました (森兵男)
2008-10-05 20:02:12
森兵男です。

しばたさん、伊 謄さん、ありがとうございました。3日の夜に宴会があり、4日は用事で出ていたりしましたので、今日ブログを開いて議論がとびかっていて正直驚きました。

八高線の話は、よく知りませんでしたが、終戦と同時くらいのころに多摩川鉄橋で列車同士が正面衝突する事故がありましたね。小生のいた航空隊も武装解除をうけ、一部要員は残務整理、その他は解員することとなりましたが、当時まだ部隊にはいるにはいました。

それは別として、今回話題になった、秋水についても、わからないことが多いです。

しかし、夢想に近い陸海軍の計画のために、民間企業である伊奈製陶(現・INAX)は当時ほとんどの社業を秋水燃料容器である呂号陶器の生産に振り向けるなど、産業経済に与える影響も大きかったのです。輸送についても、徐々に解明されたら良いですね。
乙液に関して。 (Unknown)
2008-10-13 21:05:10
「流山街道沿いに…」云々と書き込んで、今回の議論を呼び込んでしまったのは私です。
申し訳ありませんでした。
同時に、皆様の求道に対しての謙虚と挑戦、かつ真摯なお志の実践に、改めて感銘と自省の念に苛まれております。
皆様の示された道筋に限りない感謝をお奉げ致します。
ですが。
皆様の論点の主題たる処は、「甲液(過酸化水素)の輸送ルート」にあるように思います。
確かに、独文献にも「爆発事故」の記述は輸送・機体運用中を問わず「T液(過酸化水素)」が散見されます。皆様のご指摘の通り、輸送・貯蔵に関して特別な注意が払われたことは察せられます。
では、「乙液(C液)=水化ヒドラジン」は、何処で精製され、何処から如何なるルートで輸送され、「何処」に貯蔵される(あるいはされていた)のか。
今ひとつ、柏飛行場は陸軍飛行47戦隊が成増に移動以降、事実上有力な迎撃飛行隊は在籍していない、と聞きます。
錦糸町倉庫 (keita)
2012-01-10 14:37:48
初めて投稿させていただきます。
戦時中から戦後(朝鮮動乱あたり)までの、砂糖、米などについて調べています。

2008-08-30 06:14:44付け
『流山糧秣廠』関係者様の投稿文中、

>昭和19年になって 錦糸町の糧秣本廠の一部が 流山糧秣廠へ業務疎開してきますが 

と、お書きになっていますが、この倉庫での取り扱いは「馬の飼料だけ」だったのでしょうか。
「兵士向けの糧食」を取り扱う事は無かったのでしょうか。
お教え頂ければ、幸いです。
宜しくお願い申し上げます。
流山糧秣廠の扱い品 (森兵男)
2012-01-14 09:40:30
流山糧秣廠は元来馬糧を専門に扱ってきましたが、1944年(昭和19年)から精米を始めたというのが廠員の証言にあります。また糧秣本廠の業務が戦争激化に伴い、同時期に分散疎開し始めると、流山には糖精課と機材課が本廠から移ってきて、米の精糖を行ったそうです。その輸送は各部隊に鉄道などで行ったと思われますが、輸送が困難な時に備えて、カマスに詰めたという証言もあります。
さらに、戦争末期には食糧確保のため、飼畜隊を組織し、子ブタや子牛、鶏卵を育てたらしいですが、各部隊へ配送するに至らず、準備段階で敗戦となったとのこと。

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