吉本 隆明,中沢 新一,梅原 猛 「日本人は思想したか 」読了
この本は梅原猛、吉本隆明、中沢新一の3人による鼎談を1冊の本にまとめたものだ。
ちなみに吉本隆明は吉本ばななの父親だ。
テーマは日本人の「思想」について。
しかしながら、「思想」という言葉が何を意味しているかがわからなかった。
「思想」という言葉はその前の何かの言葉がくっついて“OO思想”となっていると、ああ、OOについて何か考えをまとめているのだなとなるが、この単語だけで、日本人は思想したかと書かれていても一体何を思想しているのだ?となってしまう。
読んでいるうちにこの言葉は、哲学や宗教、歴史、文化の枠を超えて、「日本人とは何者なのだ」ということを指しているのだとわかってくる。
梅原猛は哲学者、吉本隆明は評論家で詩人、中沢新一は宗教学者であるが、それぞれの専門分野(といってもどの人もその分野を超えて著作や発言があるが。)から日本人とはということを話し合っている。
僕みたいな凡人には半分も理解できなかったのだが、縄文の時代から続く人々の営みの流れが日本人というものを形作り受け継いできた。それは形而下では短歌や俳句、能やその他の文化として、形而上では日本人が持つ独特の気質のようなものとして受け継がれているというようなことがおぼろげながらわかってくる。
それは貴族社会から武家社会、昭和時代の戦争などの大きな転換点があったにせよ何らかのつながりを持って連綿と引き継がれてきた。
この鼎談は阪神淡路大震災の前におこなわれ、その後に発刊されたそうだが、もうひとつ、この年には地下鉄サリン事件も起こった。そんなことを受けて最後のあとがきで、中沢新一は、「この一連の出来事の衝撃は、今後の日本人の精神にボディブロウのように効いてくる。これをきっかけに、日本人の思想には、目に見えるような地殻変動がおこるだろう。」と書いている。その後、吉本隆明もこふたつの事件を「日本の切れ目」と評したそうだ。また、この年はウインドウズ95が発売された年でもあるけれども、確かに、日本人が持っている価値観を根底から覆す、もしくは覆し始めた年と言っていいのかもしれない。
僕は小売業界のなかで生きているが、消費ひとつを取ってみても、ブランド志向というものが崩れ始めたのもこのころだ。100均が世間でにぎわい始め、ユニクロもこの頃で、モノを買うより携帯電話の通信費にお金を使い始めたころでもある。人々の価値観が大きく変わってく曲がり角であったようにも思う。(まあ、ブランド志向というのは短期的なバブルの産物であったのかもしれないが。)
「思想」というものは人と人との関係で成り立ち、受け継がれてきたのだとすれは、インターネットの発達はそれをよくも悪くも大きく変えてしまった。
しかし、中沢新一が言うように、「日本人はこうであった。」ということはやはりみんな知っておくべきでそういう定義づけみたいなものも誰かが残しておくべきだとういうのがこの3名の考え方なのだろう。
これが多分、ヨーロッパでいうと、宗教というものが生活に密着しているからそれがその役目をになうことになっているが日本にはそれがない。そのかわりにこういう人たちにほとんどの人たちの目に触れることはないとしても残していってもらわなければならないものではないのかと思うのである。
吉本隆明はこの本の中で、科学技術がどれだけ進歩しても日本人はそれを受け止めてまたそれを利用してさまざまな困難を乗り越えてゆくのだ。原子力さえも数々の問題を乗り越えて使いこなしてゆくに違いない。と書いていたが、当時からもっと発達してしまったネット社会、東北の震災と原発のメルトダウンを見てどう評価するのだろうか。
2012年に亡くなったそうなので何か思うことがあったにちがいない。梅原猛は存命で、中沢新一はまだ60代だ。
これからの日本、日本だけじゃなくて世界は情報という目に見えないものを中心にして回っていくのは間違いない。永遠にそれが中心になってゆくのか、それとも手に取れるものに再び回帰してゆくのか・・・。
これからの日本人の思想とはどう変化してゆくのだろうか・・・。そういうことを聞いてみたい気がする。
この本は梅原猛、吉本隆明、中沢新一の3人による鼎談を1冊の本にまとめたものだ。
ちなみに吉本隆明は吉本ばななの父親だ。
テーマは日本人の「思想」について。
しかしながら、「思想」という言葉が何を意味しているかがわからなかった。
「思想」という言葉はその前の何かの言葉がくっついて“OO思想”となっていると、ああ、OOについて何か考えをまとめているのだなとなるが、この単語だけで、日本人は思想したかと書かれていても一体何を思想しているのだ?となってしまう。
読んでいるうちにこの言葉は、哲学や宗教、歴史、文化の枠を超えて、「日本人とは何者なのだ」ということを指しているのだとわかってくる。
梅原猛は哲学者、吉本隆明は評論家で詩人、中沢新一は宗教学者であるが、それぞれの専門分野(といってもどの人もその分野を超えて著作や発言があるが。)から日本人とはということを話し合っている。
僕みたいな凡人には半分も理解できなかったのだが、縄文の時代から続く人々の営みの流れが日本人というものを形作り受け継いできた。それは形而下では短歌や俳句、能やその他の文化として、形而上では日本人が持つ独特の気質のようなものとして受け継がれているというようなことがおぼろげながらわかってくる。
それは貴族社会から武家社会、昭和時代の戦争などの大きな転換点があったにせよ何らかのつながりを持って連綿と引き継がれてきた。
この鼎談は阪神淡路大震災の前におこなわれ、その後に発刊されたそうだが、もうひとつ、この年には地下鉄サリン事件も起こった。そんなことを受けて最後のあとがきで、中沢新一は、「この一連の出来事の衝撃は、今後の日本人の精神にボディブロウのように効いてくる。これをきっかけに、日本人の思想には、目に見えるような地殻変動がおこるだろう。」と書いている。その後、吉本隆明もこふたつの事件を「日本の切れ目」と評したそうだ。また、この年はウインドウズ95が発売された年でもあるけれども、確かに、日本人が持っている価値観を根底から覆す、もしくは覆し始めた年と言っていいのかもしれない。
僕は小売業界のなかで生きているが、消費ひとつを取ってみても、ブランド志向というものが崩れ始めたのもこのころだ。100均が世間でにぎわい始め、ユニクロもこの頃で、モノを買うより携帯電話の通信費にお金を使い始めたころでもある。人々の価値観が大きく変わってく曲がり角であったようにも思う。(まあ、ブランド志向というのは短期的なバブルの産物であったのかもしれないが。)
「思想」というものは人と人との関係で成り立ち、受け継がれてきたのだとすれは、インターネットの発達はそれをよくも悪くも大きく変えてしまった。
しかし、中沢新一が言うように、「日本人はこうであった。」ということはやはりみんな知っておくべきでそういう定義づけみたいなものも誰かが残しておくべきだとういうのがこの3名の考え方なのだろう。
これが多分、ヨーロッパでいうと、宗教というものが生活に密着しているからそれがその役目をになうことになっているが日本にはそれがない。そのかわりにこういう人たちにほとんどの人たちの目に触れることはないとしても残していってもらわなければならないものではないのかと思うのである。
吉本隆明はこの本の中で、科学技術がどれだけ進歩しても日本人はそれを受け止めてまたそれを利用してさまざまな困難を乗り越えてゆくのだ。原子力さえも数々の問題を乗り越えて使いこなしてゆくに違いない。と書いていたが、当時からもっと発達してしまったネット社会、東北の震災と原発のメルトダウンを見てどう評価するのだろうか。
2012年に亡くなったそうなので何か思うことがあったにちがいない。梅原猛は存命で、中沢新一はまだ60代だ。
これからの日本、日本だけじゃなくて世界は情報という目に見えないものを中心にして回っていくのは間違いない。永遠にそれが中心になってゆくのか、それとも手に取れるものに再び回帰してゆくのか・・・。
これからの日本人の思想とはどう変化してゆくのだろうか・・・。そういうことを聞いてみたい気がする。
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