イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「夜空はいつでも最高密度の青色だ」読了

2024年09月18日 | 2024読書
最果タヒ 「夜空はいつでも最高密度の青色だ」読了

先日、同じタイトルの映画を観た。エンドロールに原作者として最果タヒの名前がでてきた。この人って詩人じゃなかったかしら、小説も書くのかなと思いながらこの本を借りてみたら、原作はやっぱり詩集だった。
この映画の監督である石井裕也がこの詩集にヒントを得て脚本を書いたということである。
詩集を読みながらあのシーンはこの詩から生まれたのかなどと想像できるのかと思ったけれども共通点は唯一、タイトルにもなっているフレーズが含まれている一編を主人公が詠みあげている部分だけであった。その詩はこのようなものだ。
『都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。
塗った爪の色を、きみの体の内側に探したってみつかりやしない。
夜空はいつでも最高密度の青色だ。
きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、きみはきっと世界を嫌いでいい。
そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。』

タイトルは「青色の詩」という。

詩集は難解そのものだ。それぞれの詩には意味と理由があるはずだと思いながら何度か読み返すが僕には全然わからない・・。
映画のストーリーはというと、都会の中の最低辺に生きる若者たちが、今は這い上がれないと知りながらも小さな希望の灯りを点しながら愛を育むというような内容であったが、詩集の方にはそれとはうらはらに「死」という言葉がたくさん出てくる。
「都会は死を隠そうとしている」というのは石井裕也が監督した別の映画に出てくるセリフで、この詩集の舞台も都会であろうと思われるものが多い。著者はそんな都会の中で「死」という言葉を必死で探しながら、生きるとは、愛とは何なのかを自身の心の中に見つけようともがいている。そんなイメージが僕の中に浮かんでくる。結局、すべてを無に帰す「死」ではあるが、それを肯定し、それこそが生きることなのだとしている。
また、著者はあとがきで、『100%誰かに理解してもらえるなら、そんな人間、この世界にいる意味がない。憂鬱が、かわいく見えて仕方がなかった。人には話せないような、汚い感情、正論だとか優しさだとかで押しつぶされていく、そういう悩み、膿。あってはならないとされている感情が、好きだ。感情にあってはならないなんて、ありあえないのに、それでも押し殺すその姿が好きだった。どんなに因数分解したって理解を得られないだろうそんな感情が、その人をその人だけの存在にしている。人は、自分がかわいいのだということをもっと知るべきだ。』という文章を書いていた。
人と人はわかり合えないということさえ愛おしいものだと書いている。
自分を理解してほしいと思うことは暴力であって自分の想像以上に他者は自分を理解できず、そして、自分も理解できないから自由なのであると、だから、他者をかわいいと思うとも書いている。
後ろ向きな言葉を集めながら実は前を向いている詩集であると思ったのである。
本当は後者の、自身の内面と他者の内面とのギャップと同一性に言及したかったのだというのが著者の意味と理由だったのだとは思うが、僕には前者の意味と理由を強く感じた。先に映画を観てしまったというところもあったのだとは思うが・・。
と、言いながら、やっぱりよくわからない。せめて、「うねりとビート」を見つけることはできないかと思うのだが、やっぱりそれも見えない。奥が深いのである。

この詩集は著者が30歳の時に出版されたもので、きっと若い人が色々な悩みを抱えながら読むものだと思うのだが、60歳の中老にも悩みはある。ミッドライフクライシスと呼ばれるようだが、キャリア(というようなものは何もなかったが・・)、人間関係を振り返り、これでよかったのかと思うと同時に、残りの人生をお金の問題を含めて考えて思い悩むのである。だから、こういう詩集を読んだとしても恥ずかしくはないのである・・。

この感想文を書きながらテレビを観ていると、「寅に翼」のテーマソングのフルコーラスが放送されていた。その歌詞はこの詩集のテーマとよく似ているような気がした。
こういうテーマが親しまれるというのは、自分らしさを維持しながら他人の心と折り合いをつけて生きてゆくことが求められているのだろうなとも思うのである。
きっと寅子さんが生きた時代はひたすら自分らしさを押し殺して他人と折り合いをつけていた時代だったのである・・。
それに比べると今の時代を生きる人は少し幸せなのかもしれない。
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紀ノ川河口~加太沖釣行

2024年09月16日 | 2024釣り
場所:紀ノ川河口~加太沖
条件:大潮 3:19満潮 10:20干潮
潮流:5:26上り1.2ノット最強 8:05転流
釣果:タチウオ7匹

夜釣りの翌日ではさすがに早朝起きる気になれず、連休の最終日だが加太に行くことにした。まあ、昨日は起きていたとしても雨が降っていたのであるが・・。

朝はとりあえず保険のタチウオからだ。午前4時40分に出港。



一昨日の1匹の大物を僕も持って帰りたいと願うのである。しかし、今日もアタリが少ない。そして釣れ始める時刻も遅い。最初のアタリは午前5時15分。予定よりも15分遅い。アタリが少ない日は喰い込みも悪い。目の前で逃げられた魚も多数いた。そんな中でも1匹だけ指3本半の魚が混ざっていた。指4本は欲しいが今日はこれで我慢をしておくとする。しかし、ひょっとして今年はこのままタチウオが終わってしまうのではないかと危惧と恐怖を覚えるのである・・。

午前5時40分に切り上げて加太へ。船の足は2割減だ。四国ポイントまでが限界だ。そしてもう、船の底を手入れするまでは加太へ来るのは無理だ。
幸いにしてというか、田倉崎の沖に数隻集まっている。



ダメでもここでねばることにする。時折魚探には反応が出るけれどもアタリはない。はるか南にある台風の影響なのか、うねりがある。沖をゆく化学薬品の運搬船もバルバス・バウを露出させながら航行している。



をこんな日にアタリがないと船酔いをし始める。やっぱり僕は乗り物に弱い。
その後テッパンポイントの南に移動してみるがアタリはなく少々吐き気もするので午前8時に終了。

少ないけれども叔父さんの家にタチウオを持って行く。
明日は中秋の名月。叔母さんは小芋を持って行けと言ってくれる。



叔父さんと一緒に掘るのだが、その叔父さんはどうも最近めっきり老いてしまったように感じる。いつも同じことを僕に聞いてくる。まあ、80歳ともなればそうかもしれないがまだまだ早い気がする。それはきっと息子が家に帰ってきたことで肩の荷が下りた反動なのだろう。もう、跡を任すことができるという安心から張りつめていた(のかどうか知らないが・・)気持ちが緩んでしまったに違いない。
まあ、そういう気持ちはわかる。まだまだ先はあるはずだが、「いい人生やったで・・」というような言葉を聞くとちょっと寂しくもなる・・。
逆に僕は息子からはなかったことにされているようだし、こっちも何も任すべきこともない。だから叔父さんみたいに気持ちが安心して老いるということはないだろう。僕はなかったことにはできないので仕方がないが、それでボケずに済むのならそれでそれはありがたいことなのである。

なんだかモヤモヤした1日であった・・。
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「センスの哲学」読了

2024年09月15日 | 2024読書
千葉雅也 「センスの哲学」読了

よく読まれている本らしい。この本の存在を知って貸し出し予約してみるとすでに数人の予約が入っていて、僕の後にも数人の予約が入っている状態だった。

「センス」と「哲学」、一見まったく無関係のように思えるが、著者は哲学の知識を使ってセンスのよい人間を目指そうというのである。フロイトやラカン、ベルクソン、カントなどの考えたが紹介されている。
この本でいうセンスとは、美術や芸術を鑑賞、理解ができる“センス”を指す。魚を釣るセンスがあるというのとはちょっと違う。ファッションセンスというのとは少し近いかもしれないが・・。
そして、センスの定義とは、“直感的”にそれを理解できる能力という。そのためには作品が訴えていることを考えるよりその流れを読む方がよいというのである。

ドラスティックな解釈かもしれないが、作品が訴えたいことを探るより、ストーリーなり絵画なりの表現に見える、「うねりとビート」を追いかけるのが正しいというのである。
著者はそれを“脱理解”と表現しているが、作品が抽象化すればするほど、「うねりとビート」を感じることが必要であるという。
「うねりとビート」・・。よくわからないが、著者は、複雑な生成変化を「うねり」と言い、存在/不在の明滅が「ビート」だという。

確かに、映画を観ているとときにはそう思うことがある。創作をする人はその作品に何らかのメッセージを込めていると思ってしまうのだが、どうしてもそれがわからないことがあり、やっぱりセンスがないなと思うと同時に、この映画をまったく理解できていないと思うのである。しかし、うねりとビートを感じるというのであればその観方も変わってくる。

そもそも、作家は、『問題を解決するために作品をつくるのではなく、問題を「抱えている」から作品を作る。個人が抱えている、自分では十分自覚できていないような問題をめぐって作品が生み出される。』のだから、その作品を、観たり、読んだりしている側の人間がわからないのは当然であると納得できるのである。
現代国語のテストの問題を解くような観方や読み方をするのはダメだということだ。
だからまず、「うねりとビート」を感じ、その後に美術史なり文学史を学んで時代の流れを理解し、センスを磨くのが王道なのだろうと思える。美術史や文学史の勉強までいかなくても、その作家の人生をたどることでもその作品の意味を垣間見ることができるかもしれない。
と、いいながらも、著者が表紙のデザインとしえ選び、「うねりとビート」を見出す例として挙げているラウシェンバーグという画家の「Summer Rental+1」からは著者のいう、「うねりとビート」を感じとることができない・・。
困ったことだ・・。

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水軒一文字釣行

2024年09月14日 | 2024釣り
場所:水軒一文字
条件:中潮16:54満潮
釣果:限りなくボウズ・・(写真の魚はほとんどがNさんの釣ったもの・・)

当初はタチウオを釣った足で住金一文字へ連れていってもらおうと思っていたのだが、天気予報では今日も猛暑だというので夜釣りにしましょうということになった。
昼間テレビをしているとなんだか雲行きが怪しくなってきて夕立の気配が出てきた。午後5時30分集合だが午後4時ごろには本当に夕立になってきた。LINEで中止の連絡が来ないかと見ていたが雨天中止はないようだ。
僕も午後4時過ぎに家を出てエサ屋にアミエビを買いに行きバイクのガソリンを入れて港へ。
みんな気合が入っているのか、午後4時過ぎには全員集合していた。
港を出るときれいな虹がかかっている。長く生きてきたがこんなにきれいな虹を見たのは初めてだ。



夕立の水滴と水平に照射される太陽光線のコラボは奇跡と言っていいのかもしれない。

これはきっと今日の釣果への祝負なのだろうと思っていたがこれがまったくそうではなく、恐ろしいほどの貧果で終わってしまった。

サビキでアジが釣れたのは日の入り直後の一瞬で、ヒラメとアコウが釣れるかもしれないという飲ませ釣りはまったく反応なし。おまけにオモリをひとつロストする始末だ。



タチウオのルアー釣りも1投目で小さなサイズが釣れたのでこれはアタリ連発かと思ったけれどもこれ1匹でおまけにリーダーが抜けてしまってジグヘッドをロスト。

たかがサビキされどサビキ。ここに来ればいくらでも釣れると思っていたがやっぱりサビキ釣りは難しい部類の釣りに分類されるべきなのである。

今日の収穫はというと、飲ませとサビキで2本の竿が必要になるのでなにか手ごろな竿はないかと物置を探していると2号の磯竿を見つけた。僕が買った覚えはないので父親がどこかから持ってきたものだろう。
20数年の時を経て知らない竿に日の目を見せてあげることができたのだから釣り竿の精も僕に恵みを与えてくれてもよかろうと思うのだが逆に、静かに寝ていたのを叩き起こしやがってとお怒りになってしまったのかもしれない。

また出直しだ・・。

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紀ノ川河口釣行

2024年09月14日 | 2024釣り
場所:紀ノ川河口
条件:中潮9:29干潮
釣果:タチウオ10匹くらい(と言っても僕が釣ったわけではない・・)

Nさんから、一度タチウオ釣りに連れてゆけという命令を貰っていた。陸戦での釣りに比べると短時間ではるかにたくさんの数が釣れることに興味を持ったようだった。もちろん、Nさんも長く雑賀崎に暮らす人だからこういう釣り方があるということはご存知なのだが、僕がどんな仕掛けを作っているのかということに興味を持っておられるようである。
何しろ、僕の父親が、「他人には絶対に教えるな」と言い残して死んだという秘伝(といってもまったく秘伝でもなんでもなかったのだが・・)の仕掛けなのである。Nさんにだけはこっそり教えてあげるのである・・。

午前4時半に出港。今日はNさんに仕掛けを操ってもらうことにしている。ひととおり使い方を説明して仕掛けを下ろす。
予定では午前5時になるとアタリが出始めるはずなのだが今日はまったくアタリがない。仕掛けの流し方にももんだがあるのかもしれない。普通なら仕掛けの抵抗を感じながら船を操るのだが自分が手に持っていないので当然ながらそういう機微がわからない。
やっとアタリが出たのは午前5時15分を過ぎてからだった。その後はどんどんアタリが出る。といっても、さすがにこの仕掛けを操るのは初めてのひとでは難しい。手返しが遅くなるぶんだけ獲れる魚の数が減っていく。



しかし、幸運なことに、先週に比べて魚の型がいい。間違いなく大きくなっている。一番大きいのは指4本に迫ろうとしていた。

アタリはすぐに無くなり、普通ならそのまま帰投と言うところなのだけれども、あまりにもあっけなく終わってしまうのもNさんに申し訳ないのでオジイやんずの定説である、「濁っている港内では明るくなってからでもアタリがある。」のとおり港内に向かって流すがアタリがない。



そろそろ終わりましょうかと仕掛けを回収すると鉤は4本ロストしていて残りの1本にはエソが引っ掛かっていた。これではタチウオが釣れるわけがなく、Nさんの話ではそういえば大きなアタリがあったが掛からなかったということがあったらしく、その時に幹糸を喰われたのだろう。はやり大きな魚が混ざっていたのだ。

少し期待が持てるようになってきたのかもしれない。

Nさんの知人にはホテルの板前さんがいるらしく、時々素晴らしい料理の写真だけ(そう、写真だけ)送ってくれる。
今日のタチウオも従業員さんたちの賄いになったらしい。
しかし、ホテルともなると賄いの盛り付けもすごい。お客さん用に作っているのじゃないかと思えるほど豪華だ。もちろんNさんもそのご相伴にあずかっていると思うと悔しくて仕方がない・・。

 


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「スペース・トランスフォーメーション 人類の生存圏が拡大する時代に向けて」読了

2024年09月10日 | 2024読書
堀口真吾 「スペース・トランスフォーメーション 人類の生存圏が拡大する時代に向けて」読了

「スペース・トランスフォーメーション」とは、DXに引っかけて創られた言葉のようだ。内閣府のホームページを見ると、『宇宙空間における活動を通じてもたらされる経済・社会の変革 』と書かれている。
僕のようにSF的な頭しかない人間から見ると巨大宇宙戦艦やスペースコロニーの建設なのかと思い浮かべるが、どこから投資を得てどうやって利益を出すのかというのを考えるとそれはちょっと無理だと思えてくる。
しかし、現実では身近な宇宙で、具体的には国際宇宙ステーションが周回している500キロメートル上空の宇宙ではスペース・トランスフォーメーションは始まりつつある。
奇しくも明後日は「宇宙の日」だそうだ。(何の記念かは知らないが・・)

著者は宇宙ビジネスのスタートアップ企業のCEOで宇宙ステーションで使用される実験装置の開発・製造をおこなっているビジネスマンだ。この本では、宇宙開発の歴史、現在の宇宙ビジネス、宇宙産業をいかにして盛り上げていくべきかについて書かれている。
以前に読んだ本に比べるとかなり現実的ではあった。

日本は宇宙ビジネスに対し、国家を含めてもっと投資すべきだという。まあ、これがこの本の結論ではある。著者は、日本の体質として、リスクのある投資に尻込みしすぎるのだというのである。リスクの高い宇宙開発に理解を示してほしいそうだ。

日本の宇宙に関する企業というと、串本でロケットを飛ばしたり流れ星を作る会社があるというのはニュースを見て知っていたけれどもまだまだ存在するそうだ。堀江貴文もそんな会社を立ち上げていたというのをこの本を読んで思い出した。そのほか、水平飛行で宇宙に飛び立つ宇宙船を造っている会社や「水」を推進剤に使った衛星用のエンジンを開発している会社もあるそうだ。スペースデブリの除去を目指している会社もある。
日本も宇宙産業への投資を頑張っている。2023年には10年で1兆円の「宇宙戦略基金」を運用することを決めている。しかし、アメリカはその比ではない。
2030年1月に退役したあとには3機の民間宇宙ステーションの建設計画がすでに進んでいるらしい。民間が主導する産業となるわけだが、NASAは総額4億ドルを超える支援が決まっている。4億ドルというと、600億円弱だから1兆円と比べると相当少ないように思えるが、その程度の支援しかなくても自立して経営ができるほど産業として成熟しているということなのである。
民間が造る宇宙ステーションはその内容も独創的で、微小重力下での科学実験や宇宙技術開発はあたり前だが、宇宙旅行の拠点や映画製作の舞台ともなるらしい。
周回遅れとも思えてしまいそうな日本の宇宙産業だがはたして勝算はあるのだろうか・・。

どちらにしても、ビジネスとなると投資した額以上のリターンがなければならない。微小重力下での科学実験といってもどれだけ新たなものが開発できるのだろうと、素人考えでは思えてくる。
投資家の中にはイーロン・マスクやジェフ・ベソスという名前も出てくるが、本当に将来には巨大な富を生み出すだろうと考えて投資をしているのだろうか・・。僕にはなんだか趣味の延長でしかないように思える。最近のニュースによると、イーロン・マスクは2026年に火星に向けてロケットを飛ばし、それがうまくいけば2030年には有人飛行を計画しているそうだ。しかし、数人の人が火星に行けたとしてもそこから何も生み出すことはできないだろう。そこに行くための装備を造ることで消費は生まれるだろうがそこ止まりだ。イーロン・マスクはこの発表に際して、『そこから飛行頻度が飛躍的に伸び、20年ほどで自律した都市を建設することを目標としている。複数の惑星が存在し、すべての生命が一つの惑星に存在することがなくなるため、人類の寿命は大幅に伸びるだろう』と語ったそうだが、やっぱり男のロマンのようにしか見えない。

まあ、そんなことしか思えない人間はビジネスマンとしても投資家としても落第なのではあるが・・。

しかし、当面は低軌道の宇宙を利用して地球上で富を生み出す形を続けることになるのだろうが、その先にはきっと宇宙空間から富を生み出す経済システムが生まれるのだろう。
僕の寿命はそれまで待てないかもしれないが、2030年1月に国際宇宙ステーションが大気圏に突入し流れ星となって燃え尽きる姿や、同時かその前後なのか知らないが民間宇宙ステーションが打ちあがるくらいまではおそらく見届けることはできるかもしれない。
その時には空のもっと奥の方を見ながら、投資家たちの野望に思いを馳せたいと思うのである。
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紀ノ川河口釣行

2024年09月08日 | 2024釣り
場所:紀ノ川河口
条件:小潮9:00満潮
釣果:タチウオ14匹

昨日の釣果に気をよくして、もう一度行ってみた。小船も長らく運転していないので性能維持も兼ねている。

昨日は二十四節季の「白露」だったそうだ。このくそ暑いのになにが白露かと思っていたが、駐車場の草を見てみると確かに露が溜まっていた。そういえばきのうはあまり感じなかったが今朝は少し涼しさを感じた。くそ暑いけど確実に季節は進んでいるようだ。



タチウオが釣れているという情報は昨日のうちにまたたく間に駆け巡ったのか、港の出口の埋立地の護岸には昨日と比べると3倍くらいの電気ウキが浮かんでいる。僕も早速1個ゲットした。



船を出すのが少し遅れたことと昨日の港内は1匹で終わったので今日は青岸へ直行。ちょうどフェリーが入港してきたところだったのでもうすぐアタリが出るぞと思っているとその通りになる。小船だと勝手が悪いのでうまく誘えない。魚の取り込みにも手間取る。潮と風に流されて仕掛けが船の下に潜ってゆくのである。風下方向に流せばいいのはわかっているがアタリが少ないとはいえすぐにアタリが出るものだから取り込んでいる間に船が流されてまた元の位置にもどってしまっていてまた風上に向かって流すことになる。
そんなことを繰り返しながら約30分、今日も午前5時半にアタリが途絶えてしまった。



今日はこのあとは何も予定がないので少しだけジギングをやってみた。しかし、やっぱり性に合わないのか、10分ほどで嫌になってしまった。

昨日もたくさん釣ったので今日は円卓会議のメンバーに全部持って帰ってもらおうと思っていたがどういう訳か今日は集まりがないようで仕方がなく全部持って帰ってきた。切り身にするにも小さいのでほとんどを三枚におろして干物を作ってみた。



どんな味になるのかと思ったがこれはこれで意外といける味になった。チーズ焼きに続く定番になりそうだ。

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紀ノ川河口釣行

2024年09月07日 | 2024釣り
場所:紀ノ川河口
条件:中潮8:22満潮
釣果:タチウオ23匹

4度目の正直でやっと釣れた。しかし釣れ始めると怒涛ごとくアタリがある。
朝は早い目に出港して港内のかなり手前から仕掛けを流し始めたのだが仕掛けを下ろしている途中にアタリが出た。



型は小さいが今年の最初の1匹なので取り込み再び仕掛けを流し始める。蓄光パウダーと紫外線ライトの賜物であったのかもしれない。

しかし、その後は一向にアタリがない。あれれ、スミ一でおわってしまうのか・・。やっぱり今年はダメなのかと不安な気持ちがよぎるのだが、それも杞憂で、青岸の灯台の前を通り、フェリーの影が見え始め頃からアタリが連発し始めた。とにかくどんどんアタる。完全に最盛期のアタり方だ。時には5本の鉤に全部掛かっていることもあった。
これで型がよければ本当に最盛期なのだが釣れてくるのは指3本までの大きさばかりだ。10本を超えたくらいからは少し小さいと思える魚で生きて海に返すことができそうなやつを放流しながらも合計で23本。
しかし、アタリがあった時間は30分ほど。見事なほどにピタッとアタリが止んでしまった。



今日は家に帰ってすぐに健康診断に行かねばならないのでほかには何もせずに帰投。

船の方はどんどん速度が遅くなり2000回転でも時速16キロしか出ていない。航跡もボコボコだ。



港に戻ってスクリューを見てみるとフジツボがびっしりと付着している。海水の濁りもひどく、お昼前にはスクリューの形が見えないほど濁っている。



濃厚な栄養スープの中に浸かっているようなものだからこの2週間で相当成長したのだろう。
アラを捨てるために港に戻ってついでにフジツボを掻いてみるが気休めにしかならないであろう。来月の後半に上架の予約をしたけれどもそれまでは我慢の時を過ごさねばならない。
水質がよくなって魚がいなくなり、代わりに船底の汚れはあまりにもひどくならないという仮説を立ててみたけれども全然当たっていなかった・・。

今の会社の健康診断は提携している医療機関を選んで自分で予約を入れるシステムだ。幸い家の近くに対象の機関があり、普通なら勤務扱いで会社を抜けることができるのだがそれも面倒なので休みの日にゆっくり受診しようと考えた。



そういうシステムを取っている企業はけっこうあるのか、僕と同じ封筒を持った人たちがたくさんいた。
検査は滞りなく終わり、最後の医師の問診の順番が来たのだが、聴診器を当てるだけで検査の数値については何も評価をしてくれない。特に問題がないので何も言わないのか、面倒くさいのかと思っているのかと思ったら、項目を見直してみると、「触診」と書いていた。確かに触診だったが、前の会社では「問診」となっていて気休めだけだが最近どうですか?みたいな問答があった。本当の無駄話でそんな話をしたからと言って隠れていた病気が見つかるわけでもないから気休めでも肺の音を聞いてくれた方がいいのかもしれない。しかし、せっかく医者が目の前にいるのだから少しは健康相談をしてくれてもいいんじゃないかと思うのだ。しかし、こんなところで土曜日に健康診断の場にいるというのは、医者のアルバイトのランクとしてはあまり上位でもないような気がする。この人もきっとやる気がないのだろうと納得したのである。

やっと釣れたタチウオなので今日はピザを作ってみた。おだんごクラブの会長さんのお店の人気メニューだ。どんなトッピングをしているのか知らないのだが僕はタチウオオンリーで勝負してみた。



おお、これはなかなかいける。人気メニューになるはずだ。

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「なぜテンプライソギンチャクなのか?」読了

2024年09月04日 | 2024読書
泉貴人 「なぜテンプライソギンチャクなのか?」読了

数日前の新聞のコラムに、『無用の事を為(な)さずんば何をもって有限の生を遣(や)らん』という言葉が載っていた。「死ぬことによってどんな意味づけもやがて無に帰すなら、無用の中に己を精一杯漂わせるほかない。」というような意味だろうとこのコラムの著者はかいていたが、この本の著者もこういう心で研究を続けているのだろうか。

著者はイソギンチャクの研究者で、それもカワリイソギンチャク(正確にはヤツバカワリイソギンチャク上科という)の仲間の分類をやっている分類学者だ。東京大学大学院の在学中の2018年に、「テンプライソギンチャク」という生物を新種、新属として記載したことで有名になったそうだ。著者は発見した新種に面白い名前を付けることでも有名だそうだ。テンプライソギンチャク以外にも、「ヘラクレスノコンボウ」「ヨウサイイソギンチャク」「ウミノフジサン」「ゲンシカイキ」という名前を付けた新種があるそうだ。

東京大学に入ってまでどうしてイソギンチャクの分類なのか・・。イソギンチャクって食べることはできたとしても地球の食糧危機を救うわけでもない。要はおそらくだけれども社会貢献にはまったく何の役にも立っていないような気がする。もし、この人の研究が社会に貢献しているものがあるとすれば研究費用を使うことでいくらかの経済の回転に貢献しているということくらいだろうか。だからもう、自己満足でやっているとしか思えないのである。
そこで最初の言葉が出てくる。きっと人生とはそういったものなのではないかと偶然読んでみたコラムによってこの本の真意がわったのである。
しかし、きっとそれは引き返すことができないところまで来てしまった白秋の老人が思うことであって、やたらとルビが多い構成を考えると中高生が読むような本なのだろうと思うので、大学での研究というのはこんなにドラマチックで面白く、やりたいことをやれ、我が道を行けということを伝えたいのだと思う。

しかし、この研究者はこの分野では確かに成功した学者には違いがないと思う。日本のなかでカワリイソギンチャクを語らせるとこの人の右に出る人はいないそうだから間違いない。
この人が無用の人なら僕なんかはもっと無用の人だったわけであるが、その違いというのは人脈と記憶力とコミュ力なのだと気がついた。何かを成し遂げるにはこの三つはきっと必要条件なのである。
そして、自己プロデュース力もすごい。東大卒というブランドを活かし、さらに学者らしくない風貌でそのギャップから強い印象を植え付ける。水族館と連携して研究成果を発信するというのも美味い考えだと思う。

自分の成功譚を面白おかしく伝えたいのだとは思うが、こういう類の本は、書き手がはしゃぎすぎると読んでいるこっちが醒めてしまう。洞窟の中にいる誰も知らない虫を探す研究者バッタを倒しに砂漠をさまよう学者世界の土を集める研究者ゴキブリを探し求める研究者などの本を読んだけれどもこんなにはしゃいだ書き方をしているひとはいなかったように思う。そこはちょっと残念に思うところであった。まあ、これも自己プロデュースの一環なのだとうは思うが・・。

テンプライソギンチャクというのは変わったイソギンチャクで、ウイキペディアを調べてみると、『体長は成体でも3-4ミリメートルしかない。カイメンの出水孔の脇に埋没するように棲息しており、刺激を受けるとカイメンの中に完全に隠れてしまう。本種とカイメンは、単に本種がカイメンの組織の隙間に入り込んでいるというレベルではなく、本種の外胚葉から出た繊毛が撚り合わさってカイメンの上皮に陥入しており、その結合は非常に強い。
また、自然下では必ず共生した状態で発見され、それぞれが独立した姿は確認されていない。
このため、本種とカイメンの間には、非常に強固な共生関係があると推測されている。本種は外敵に襲われてもカイメンの中に隠れて身を守ることができ、カイメンは天敵であるカイメン食性のウミウシから本種の刺胞で保護してもらえる。また、本種がカイメンの体を貫通し、かつ、両者が強く結合しているため、構造的に脆いカイメンが岩などの基質に付着するのを助けている。すなわち、両者は相利共生の関係にあるといえる。』
という生物でカイメンが衣でイソギンチャクの刺胞がエビの尻尾のように見えるので、著者はこういう名前を付けたということだ。ここまではしゃぐのなら、いっそのこと、「エビテンイソギンチャク」という名前にして、エビだかイソギンチャクだかなんだかわからないようにしてもよかったのではないかと思う。
そして、この本によると共生しているカイメンも新種である可能性があるそうである。この新種にはどんな名前が付けられるのか楽しみだ。



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「天気でよみとく名画-フェルメールのち浮世絵、ときどきマンガ」読了

2024年09月03日 | 2024読書
長谷部愛 「天気でよみとく名画-フェルメールのち浮世絵、ときどきマンガ」読了

前回読んだ本と同じような趣の本だ。今度は詩歌に書かれた生物ではなく名画に描かれた“天気”を分析している。

絵画の鑑賞に際して、天気に着目してみるとそれまでとは違った魅力が現れてくるという。
有名な絵画というのはそれが描かれた場所や年代が特定されているものが多い。だから、その場所のその当時の気候や天気はどのようなものであったかがわかっている場合が多い。この本は、画家たちがその時の天気をどのように切り取ったかを鑑賞するのである。

サブタイトルに書かれているフェルメールは窓からの斜めの日差しを受けた人物像で有名だが、風景画も描いていて、その中でも「デルフトの眺望」という絵画は空の表現が際立っているという。



デルフトというのはオランダの都市だそうで、海抜0メートルの土地が多く空が広く見える。しかし、この絵が描かれた17世紀というのは、14世紀から19世紀まで続いた「小氷期」の中でも最も寒い期間であったそうだ。低温と荒天が続いたこの時代にあって、貴重な青空が描かれている。
フェルメールはこの絵と合わせて2点だけ風景画を残しているそうだが両方ともその貴重な青空が描かれているということだ。青空を渇望していたのである。欧米の美術館41館が所蔵する1400年から1967年に描かれた1万2千点の絵画の天候を定量的に調べると、小氷期に描かれた絵画には曇天で、かつ暗く描かれた傾向があるそうで、そういったことを考えてもこの青空は貴重な青空と言えるのである。

イギリスでは有名なジョン・コンスタンブルはかなり雲の風景を観察し続けた作家のようである。1805年~17年の間に1点、1828年に同じ構図でもう1点描いていて、2点目は相当科学的な正確さで書かれている。タイトルは「テダムの谷」という。

 

この時代には科学的な知見に基づいた気象学が始まり、ルーク・ハワードというイギリス人のアマチュア気象学者が考案した「国債雲図帳」は今でも国際的に使われている雲の分類の基礎になっているそうだ。
この作品の変化は素人が見てもわかるレベルだ。

写実的な絵画だけでなく抽象的な絵画にも描かれた当時の天候を反映している作品があると著者は考えている。ムンクの「叫び」はかなり有名な絵画だが、背景の空の色は赤く燃えている。



この絵画は1893年に描かれたがその10年ほど前、1883年8月27日、インドネシアのクラカタウ火山が大爆発を起こし、その火山灰は長く全世界を覆った。日本では天明の大飢饉を引き起こしたのではないかと言われているがムンクの住んでいたノルウェーでもその影響で長い間空が赤く染まっていた可能性があり、その空のイメージが「叫び」に反映されているのではないかというのである。
他の作家の作品でもこの時代、絵画の色彩の分析をすると緑よりも赤の割合が多いそうだ。そんな分析をしている学者がいるというのにも驚かされるが・・。

日本の絵画では歌川広重と葛飾北斎の浮世絵の数々が紹介されている。広重は写実的、北斎は様々な雲の種類をアレンジしながら描いているそうである。しかし、どちらの浮世絵も雲の形だけでなく、雨や風の表現を改めて見てみると天気が見せるその時々の風景を印象深く描いている。
広重の絵では人は主人公ではないのだろうが、その動きはその時の風や雨の情景を映し出す。急な雨に慌てる人々、春先に降る強い雨にじっと耐える人々。

 

北斎の絵にも突風に慌てて対応しようとする人々が出てくるがこれなどは見えないはずの風の筋がはっきり見えてきそうである。



浮世絵というのはこんなに魅力的に自然を切り取っていたのかと思うと、永谷園のお茶漬けの素の付録をきちんと集めておくべきだったと思うのである。

広重の浮世絵には不思議な絵が1点ある。「名所江戸百景 亀戸梅屋敷」という浮世絵だが、夕焼けを描いているのはわかるのだがなぜか空の上の方が赤くなっている。



“なぜだか”とは書いたものの、多分幾度かは目にしていたことがあるはずだがそれがまったく不自然だとは気がつかなかった・・。
夕焼けというのは水平線に近い方ほど赤くて上に行くほど淡い色になるものだ。写実派の広重にしては想像で描いているのかと思えるのだが雲が空の高いところに出ている日の夕焼けは濃淡が逆になる日もあるらしい。細かな観察がこの絵を生んだと言える。
この絵はゴッホが魅了された浮世絵として有名だがその裏にはこんな特殊な気象現象があったのである。

日本には100を超える雲の表現が、雨にいたっては400を超える表現あるそうだ。これだけたくさんの表情をもつ気候がある日本だからこそ世界のコレクターを魅了する絵が生まれるのであろう。
この前のボウズの釣行で、絵心があればこの雲を描いてみたいと思ったのは、ちょうどその頃この本を読んでいたからである。
絵に描かれたものではなくても十分絵になるのが日本の空ということだろう。

この本意には、マンガやアニメの世界で表現されている気象現象についても書かれている部分があるのだが、そのマンガやアニメについての知識がまったくないのでこの感想文では触れないことにした。

この本には気象用語の解説が付録として掲載されている。雲については「十種雲形」というものが興味深い。これから先、雲を見るときの参考にもなると思うので記しておこうと思う。
雲を観測するときは、その形や発生する高さによって、大きく10種類に分類する。国際的に決められており、「十種雲級」とも呼ばれる。その際、使う漢字は次の5つだけでありその組み合わせで雲の名前を作っている。
「巻」(記号:C・Ci)上層(5~13km)の雲・氷晶からなる
「高」(記号:A)中層(2~7km)の雲・水滴からなる
「層」(記号:S・St)水平方向(横)に広がる雲
「積」(記号:C・Cu)垂直(縦)に発達する雲・対流性の雲
「乱」(記号: N・b)雨を降らせる雲

① 巻 雲(けんうん)
糸のように散らばった白い雲で「すじ雲」とも呼ばれる。はけで描いたような形が多く、秋から冬によく見られる。数ある雲のうち最も高いところに現れる。巻雲どうしが重なり合ってあばら骨状になると、次第に天候が悪化することが多くなる。
② 巻積雲(けんせきうん)
小さな雲のかたまりが、魚のうろこのように規則的に集まっている雲。「いわし雲」や「うろこ雲」とも呼ばれるが、よく耳にする「ひつじ雲」とは別物でである。
「ひつじ雲」は中層雲である「高積雲」を指すので雲が発生する高度が異なる。巻積雲のほうがより高い場所で発生するので、小さく見えることになる。判別するのはやや難しいが、1つ1つの雲が小さいほうが巻積雲(いわし雲・うろこ雲)、大きいほうが高積雲(ひつじ雲)ということになる。
巻積雲が現れ、次第に高積雲へと変化していく場合は、徐々に天候が悪化することが多い。
③ 巻層雲(けんそううん)
薄いベール状で太陽が透けて見える雲。うすぐもとも言う。この時、太陽の周りにぼんやりと輪っかのようなものが見えることがあり、これを「ハロ(暈)」という。
この光の輪は、太陽の光が雲の中に含まれる氷の粒に当たり、屈折することにより発生する。ハロ(暈)が起きる時、すなわち巻層雲が現れている時は、徐々に天候が悪化することが多い。
①~③は上層雲と呼ばれる。

④高積雲(こうせきうん)
白色または灰色の丸みのある雲のかたまりが規則的に並ぶ雲。巻積雲(けんせきうん)と特徴や成因が似ているが、高積雲のほうが低い位置に現れるのでより大きく見える。「ひつじ雲」は上記のとおりこの高積雲のことを指す。巻積雲⇒高積雲の順に現れると、次第に天候が悪化することが多い。
⑤高層雲(こうそううん)
灰色でやや厚みのあるベール状の雲。おぼろぐもとも呼ばれる。空全体を覆うように広がることが多く、太陽はぼんやりと見えるようになる。巻層雲(けんそううん)と特徴や成因が似ているが、高層雲は雲粒の大部分が水滴であるため「ハロ(暈)」は発生しない。また、高層雲は巻層雲と比べて分厚いので、日光を遮り、地上の物に影ができない。よって高層雲と巻層雲は地上に影ができるかどうかで判別することができる。
⑥乱層雲(らんそううん)
空全体を厚く覆う暗い灰色の雲。いかにも雨を降らせそうな雲である。
雨や雪を降らせることから、「雨雲」や「雪雲」と呼ばれる。雲頂部は、ところどころ積乱雲のように盛り上がっている。中層雲に分類されるが、発達して上層や下層に広がることも多く見られる。乱層雲が現れた場合は、これから天気が悪化するというよりも、すでに悪化している状態である。
④~⑥は中層雲と呼ばれる。

⑦層積雲(そうせきうん)
灰色または白みがかった大きなかたまりの雲。「くもり雲」とも呼ばれる。レンズ状、ロール状などの形状で、丸みがある。雲のかたまりは、つながったり離れたりしていて、規則正しく並ぶ。地上から2000mくらいの高さに現れ、やや分厚く見えることもあるが、降水をもたらすことはあまりない。積雲と比べるとやや灰色っぽくみえる。
⑧層 雲(そううん)
灰色の霧のような雲で、「きり雲」とも呼ばれる。きり雨(きりのように細かい雨)を降らせることがある。この雲が明るい灰色の時は天気が安定していると言われる。数ある雲の中で最も低い、地上から600mくらいのところに現れる雲である。「霧」との違いは、地表に接しているかどうかで決まる。地表面に達していれば「霧」、地表から離れていれば「層雲」となる。
⑨積 雲(せきうん)
青空にぽっかり浮かぶ白いわたのようなかたまりの雲。「わた雲」とも呼ばれ、地上から2000m付近で良く発生する。この雲が発達し、大きくなると中層や高層にまで広がる雄大積雲になる。雄大積雲の下は激しい雨となり、突風を伴う。積雲と積乱雲の違いは、外見上では判別しにくいが「雷」が発生しているかどうか決まり、雷が発生していると「積乱雲」、そうでない場合は「積雲」となる。
⑩積乱雲(せきらんうん)
巨大な山や塔のように垂直方向に発達した濃密な雲。「入道雲」や「カミナリ雲」とも呼ばれる。雲のてっぺんはカリフラワーのように盛り上がった形をしている。雲の底は非常に暗く、突風を伴って強い雨やひょうを降らせる。積乱雲が限界まで発達し、上部が平らになったものを「かなとこ雲」と呼び、ここまで発達した積乱雲の直下では、激しい雨や雷雨となっていることが予想される。
⑦~⑩は下層雲と呼ばれる。

 
コメント
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