MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

最後の四重奏曲 (6)

2010-02-14 00:02:45 | 私の室内楽仲間たち

02/14 私の音楽仲間 (137) ~ 私の室内楽仲間たち (117)



     弦楽四重奏曲 第16番 ヘ長調 作品135 



         これまでの 『私の室内楽仲間たち』




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               キャッチボールの基本?
                共通項の無い世界
                八方美人になりたい
             それでいいのだハムレット君!




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(1) ~ (2)    Mozart  『プロシャ王四重奏曲ヘ長調』
               

(7) ~ (11)  Schubert  『第15番 ト長調 Op.161, D887』
               

(12)   歌曲集『冬の旅』 第1曲 『お休み』

(13)   歌曲集『冬の旅』 第5曲 『菩提樹』

(14)   歌曲集『冬の旅』 第15曲 『カラス』

(15) ~ (16)  Schubert  『第15番 ト長調 Op.161, D887』
                           






 『第九』(1824年初演) 以後の Beethoven が弦楽四重奏曲に
没頭していたこと、また『最後のヘ長調』 Op.135 が実質的
には遺作に当ることを、前回見てきました。



 この曲は、1826年の10月頃、遅くとも11月には完成していた
と考えられています。

 翌12月に入ると彼は健康を害し、作曲という作業は、もはや
許されませんでした。




 この間の事情を、大変丁寧に記したウェブサイトがありました
ので、該当部分をそのまま転載、ご紹介させていただきます。




           高崎の第九 より

    (段落、改行に手を若干加えた以外は原文のままです。)




1826年になると新作の四重奏曲の試演や作品130のための新たな終楽章の作曲、そしてさらに新しい「嬰ハ短調」弦楽四重奏曲の作曲などに集中することになり、初夏までウィーン市内で作曲の仕事を進めていたが、ここでベートーヴェンの生涯で最大の痛恨事となる事件が起きたのである。甥カールがピストルで自殺未遂をはかったのだ。

カールは前年まで通っていた大学を中途退学して実業学校に通っていたのだが学業についてゆけず、ベートーヴェンが大金を払って家庭教師をつけたうえ、弟のヨーハンやこの頃秘書であったカール・ホルツに命じて、カールの監視をするような状況になっていた。恐らく精神的に追いつめられていた20歳のカールにしてみれば、自分への周囲の期待の大きさに押しつぶされるような思いをしていたのであろう。腕時計を質種にして2丁のピストルを入手したカールは、7月29日にバーデンに向かい、何度も伯父ベートーヴェンと登ったことのある美しいヘレーネ渓谷の遺跡ラウエンシュタイン城趾で、ピストルを左のこめかみにあてて弾丸を発射したのである。

幸いにも弾は頭皮を裂いたものの頭蓋を貫通することなく命をとりとめたのである。偶然通りかかった人に助けられ、ウィーン市内の母親の家まで運ばれたのである。ただちに外科医の治療を受けさせ、傷口は思いのほか軽傷で済んだのだが、当時のオーストリアでは自殺行為は神に対する冒涜(ぼうとく)との考えから重罪に処せられる法律があり、当初ベートーヴェンは外科医に口止めしていたが1週間後の8月7日にはホルツを代理人として警察へ届け出をしたのである。カールは司直の手により強制的に病院に入院させられ、取り調べと救世主会司祭による厳重な警告を受けて9月25日に釈放されたのである。



この間のベートーヴェンの精神的苦痛は想像にあまりあるのだが、そうした悩みを押し殺すかのように創作に打ち込み、2曲の弦楽四重奏曲の筆を進めていたのである。「商社マンになることをあきらめ、軍人になりたい。」というカールに大反対したベートーヴェンだったが、ブロイニングなどの友人たちに説得されて渋々承知したのだった。




カールが退院して3日目の9月28日には、カールと弟ヨーハンの3人でヨーハンの農場のあるグナイクセンドルフに静養をかねて出かけ、ドナウ渓谷の高台にある美しい景観を持つヨーハンの家で11月末日までの2ヶ月間を過ごすうちに、最後の作品となる「へ長調」四重奏曲を仕上げ、また作品130のための『大フーガ』に代わる新しい終楽章も完成させている。

暮れのウィーンでの演奏会や新作の出版交渉も気になり始めたベートーヴェンは、12月1日の早朝に突然ウィーンに帰宅することになる。予約が必要な駅馬車も準備できず、厳寒の冬の朝に幌も付いてない牛乳運搬馬車でグナイクセンドルフを後にしたのである。



防寒コートもなく馬車を駆り、途中で一泊しなければならなかった宿には暖房もなく、カゼから高熱を出し、一晩中寒さに震え翌朝再び馬車に揺られてウィーンに帰り着いた時には、かかりつけの医者の往診の都合がつかず、12月3日と4日を自宅で耐え、5日にようやくホルツが連れてきた総合病院のヴァヴルフ博士の診断を受けたのであった。

6日にも2回往診しなければならないほど体力は衰え、肺炎も危険な状態を起こし、12日には強い黄疸が現れ、夜間には発作的な呼吸困難も起こし、腹水も大量にたまるほど悪化していた。ヴァヴルフ博士は同僚のシュタウデンハイム博士と相談し、腹水を抜く手術が緊急を要するとの結論に至り、外科部長ザイベルト博士の執刀により12月20日に第1回目の手術が行われたのである。



1827年3月26日に56歳の生涯を閉じるベートーヴェンに残された4ヶ月弱は病床生活となる。しかし、体力の衰えとは逆に悟りの境地に至ったベートーヴェンは、イギリスから「ヘンデル全集」を取り寄せるなど、もし健康が回復すればオラトリオを書きたいという考えを強く持ち、楽曲の研究を続けている。

ベートーヴェンの重体の噂はウィーン中に知れ、毎日のように旧友や知人たちが見舞いに訪れ、その都度ベートーヴェンは気丈ぶりを発揮し、駄洒落さえ口にするほどであったという。恩人への礼状やら出版に関する事務的通信をシントラーたちに口述させ、3月23日には遺書を認め、翌24日には見舞い品としてマインツのショット社から送られてきた「1806年物リューデスハイム・ワイン」を横目にしながら、「残念、残念、遅過ぎた」と言うだけで、もはやグラスを口に運ぶ気力さえ失っていた。

この日に医師団は司祭を呼び、終油の秘蹟を授けると、この晩から昏睡状態に陥ったのである。そして3月26日午後5時45分、2日間の昏睡から目覚めた彼は、両目を見開き、右手拳をふりあげて一点を見つめ、無言のまま手を落とすと同時に永遠の眠りについたと言われている。最後の住居となったシュヴァルツシュパニエルハウス(シュヴァルツシュパニエルシュトラーセ15番地)の庭には春の残雪が、時ならぬ稲妻に輝き、雷鳴が轟いていた夕方のことであった。




 「参列者は2万人」と言われた、大がかりな葬儀。



 その群集の中に、やはり最後の弦楽四重奏曲を、すでに
書き上げていた若者がいました。

 Beethoven より30歳近く年下でありながら。



 Beethoven と同じ1826年に。 それも、偉大な先輩より
半年近く早く。




  (続く)