音次郎の夏炉冬扇

思ふこと考えること感じることを、徒然なるままに綴ります。

皆が好きなことだけやる社会

2006-09-10 02:26:17 | 時事問題
好きなことを自由にできる世の中は素晴らしい。戦時中は個の自由が著しく制限されていたといいますが、私などは軍隊に入ったら真っ先に上官に目を付けられそうなタイプですから、たぶんいいことは何もなかっただろうと思います。戦争が終わると、好きなことよりもまず食うこと(生きること)が先決の時代があり、そして好きなことをする金がそもそもない時代が続きました。その後の高度経済成長で、欲しいものはあらかた自由に手に入る世の中になりましたが、物質的な欲望実現度はバブル時に絶頂期を迎えました。でも一方、その頃までは、地域の規範とかうるさい親や親戚の存在、または管理教育の学校など、社会の強制装置が残っていたため、「好きでないこと(嫌いなこと)もやらなくてはいけない」という社会のコモンセンスがあったのではないかと思います。

最近、この「好きなことしかしない」ということに言及した論調を目にすることが多くなりました。日経新聞には一面左の連載を読者の投書によって振り返る不定期の欄があるのですが、先々週は若年退職にまつわる現状をレポートしていました。突然若い社員から退社を切り出された人事担当者の困惑を描いた第598話には、様々な立場から賛否両論が寄せられたそうですが、以下はその中から抜粋したものです


「会社の方の憤りはよく分かる」と企業側に共感を示すのは女性教員。この女性も今年四月に市で新規採用された教員三人が辞めたと聞き、「まだ始まったばかりなのに・・・」と驚いたという。一方で「私たち教員は、今の若い人たちが中学生のころ、『個を生かす授業』をすることが求められた」と指摘。今の若者は「嫌いなことはやらなくてよい、好きなことだけやればよい」というメッセージを受け取って育ったと考えている。「そういう意味では、若者が身勝手なのは当然かもしれない」と自省を込めて振り返る。(日本経済新聞9/4朝刊)


うーん、「ナンバーワンにはならなくていい、オンリーワンになればいい」という歌がもてはやされる時代ですからね。普通に考えれば、真のオンリーワンになる方が遙かに難しいと思うのですが・・・。

また、先週の「AERA」(9/11号)ではオタキングこと岡田斗司夫のインタビューをまとめたものが掲載されていました。内容はこれまでの氏の著書のダイジェスト版的なもののようですが、「オタク統一戦線の崩壊」と題して、オタクの沿革から現状を語っています。雑誌が手元にないので、辰巳さんの要約を引用します。オタクの世界でも、以前は自分の専門外のジャンルも教養としてある程度カバーしていなくてはならないという、ある種のたしなみのようなものによって、オタク同士の会話が成立する環境があったものだが、今は「自分の気持ち至上主義」によって、ほかの分野のオタクと会話が成立しなくても気にせず、自分が「好き」と言っていることと同じことを「好き」と言っている人とだけ付き合いたい、というオタクばかりになっているという現状を嘆いて、社会の色々な組織が崩壊の危機に瀕しているのではないかと結んでいます。これは今日のSNSの隆盛にも通底するものがあるかもしれません。

さらにカトラーさんが、例の坂東眞佐子の子猫殺しを題材に、独自の論考を展開されています。


唐突に聞こえるかもしれないが、私は、彼女の言葉に、秋田県能代市で起きた幼児殺害事件のことを連想した。坂東は意識していないかも知れないが、子猫の話を書きながら、彼女が無意識に表現していたのは、「子殺し」の問題ではないかと考えている。「自分の育ててきた猫の『生』の充実を選び」と言っていることは、自分の生の充実を優先して、子を殺すことを選択してしまった、子殺しの母親の精神構造と正しく相似形を成している。


出産・子育ては、人によっては自己の「生」の充実とは相反するものがありますから、作家の行為は少子化と子殺しの時代に生きる我々にアンチテーゼを突きつけているのではと指摘しています。

「好きこそものの上手なれ」「好きなことでメシを食う」とポジティブに捉えられている「好きなこと」ですが、世の中に「好きなこと」ばかりやる人が氾濫したらどうなるのでしょう。「好きなことばかりやる人」とは「嫌いなことは忌避する人」ということになります。皆がそういう人だと、岡田斗司夫がいうように組織が成り立っていかないかもしれません。持ち回り的なもの-ゴミ当番やPTAの役員やマンションの管理組合の役員といった類のことも、徹底的に回避しようとする人が今でもいますからね。そして、この「好きなことしかしない」「好きな人としか付き合わない」を突き詰めていけば、行く先は引きこもりしかありません。

軍隊や、地域や親、そして学校という強制装置が作動しなくなった現代において、いささか唐突かも知れませんが最大の強制装置は結婚生活ではないかと思います。先のエントリーで、「自分がもし今独身だったら、きっと間違いなく好きなことしかしないだろう」と書きました。それでは自由の対義である不自由のメリットはないのでしょうか。嫌いなことをする意義というものを考えてみました。

①ペイシャンス(忍耐力)の向上
好きなことばかりやっていると、自分の中の耐性が著しく低下していくのですね。人間はどうしても易きに流れる傾向がありますから。それに苦行から解放されたときの爽快感も味わい深いものがあります。

②ポテンシャルアップ
昔のカネやんこと金田ロッテ監督やサッカーのオシムみたいな「走れ、走れ」という指導者は選手にとってはキツイんです。アスリートとて本心では苦しいことはやりたくないのですが、でもそれに耐えた結果は悪いものではありませんでした。時に自分が勝手に規定していた枠を広げることが可能だということです。

③他者への想像力の醸成
自分とは違う趣味や嗜好またはライフスタイルを持つ人への完璧な理解はなかなか難しいものですが、向こう側に行ってちょっと見てくることで、少なくともこういう世界があるんだなという認識を持つことは可能だと思います。

④思わぬ発見がある
いわゆる「食わず嫌い」というものはあるのですね。よく知らずに避けていたものでも、やってみると意外に面白いことがある。食べ物も、ファッションも然り。自分では似合うと思っている格好でも、端から見ると「ちょっとイタイ」という場合があります。「自分のことは自分が一番わかっている」というのは一面の真理ではありますが、「自分のことは自分が一番わからない」ものなんです。

④でいうと、もし子供がいなければ、私は生涯埼玉県など(失礼)に住むことはなかったと思いますが、住めば都で物価や練習場のボール代も安いし、サイクリングコースも豊富なので気に入っています。

今も昔も、地位が高く富裕な人だけでなく、人並み以上の能力があり、エネルギー旺盛の方々には「ノーブレスオブリージェ」ともいうべきものが求められます。これは自分さえよければいいという概念とは正反対のものです。私の子供時代には、勉強が出来る子は、たとえ自分がわかっていても、わかっていない級友のために手を挙げて質問していたものです。今でもいるのでしょうか、こういう子は。

憂慮すべきなのは、そのリーダーの下に位置する良質な市民が減ってきているのではないかということです。人が嫌がることも黙々とこなす担い手であり、寡黙だけれど物の本質がわかる上等なひとたちの層が日本を支えてきたのだと思います。嫌なこと・辛いことは全部外国人にアウトソースして、自分にとって快適なコミュニティーに閉じこもって対話せず、皆が好きなことばかりしている社会はこの先どうなっていくのでしょうか。




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2 コメント

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私は子どもに・・・ (すみれ)
2006-09-14 01:38:18
こんにちは。

私は音次郎さんのおっしゃっていることをどのくらい理解できているかわかりません。

だから、見当違い、またはずれていることを述べるかもしれませんが、お許しください。

私は子どもに、「大人になって社会に出たら、嫌なことでも仕事としてしなくてはならないことがあると思う。子どもは勉強することが仕事。将来そういうことがあっても苦痛に思わないで対処していくことができるように、嫌だと思う勉強もしなさい。今はその練習なんですよ。」と言っています。

最もうちの子供たちは、学校の教科の勉強は全部嫌いなんですけどね・・・。

笑いました。 (音次郎)
2006-09-16 08:51:19
>すみれさん、毎度ありがとうございます。

最後のオチについ笑ってしまいました。

(笑い事ではないかもしれませんが)

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