団の男声Nさんのキャツキルの山荘へ、チェロ二台とビオラを持って行く。途中まで電車で行き、駅前で車を借りて走ること二時間、工事渋滞でさらに二時間かかって着く。タッパンビー橋からの絶景。蓮池。
ニューヨークの水源であるというリザーボア(貯水池)から奥へ入ったところにタブミル(水車)ロードはある。山荘へ続く急な坂の小道を下って、小橋を渡り、草だらけ、花だらけの山道をゆるゆる登るとNさんの家。蟋蟀がはや鳴いて涼しい。家のそばには、長命のおじさんにあやかって名づけたシュガーメープルの大木。荷を降ろして、さっそく川ぞいに散歩。フランス人の奥さん、Fさんの案内で山の滝を見に行く。滝のそばにも山荘。フランクロイドライトの滝の家に似ている。冬は凍滝になる。
川の音滝の音へと続きけり
滝殿を建てたる主の噂かな
濡れた落葉の山道を歩み、また車道へ。山荘へ戻って、道子と町子のチェロ(クンマーのスイステーマ)を聞きながら白ワインを飲む。チーズがどれも美味。欧介はNさんのバイオリンを借りる。驚くほど安値で買われたようだが、それにしては素晴らしい音。欧介は自分のビオラと「交換しませんか?」としきりにねだる。欧介の性格にはチェロやバイオリンのほうが合っているのだ。ストラヴィンスキーの「兵士の物語」みたいな音がする。野原と川のせせらぎ。
夏草や借りて弾きたるバイオリン
井戸と呼ぶ細き筒あり蛍草
子供たちはFさんにクレープの焼き方を教わる。生地は簡単で、すぐ焼けて、甘さ控えめ。フライパンでクレープをひっくり返すのを競う。デュ・ピフ・オ・メトル(目分量)という仏蘭西のことわざを教わる。子供はチョコレートとバナナ。大人はマーマレードにブランデーを垂らして食す。ざらめとブランデーもいける。Nさんの好物のチェリーパイも贅沢な味。ディナーはNさんが味噌を塗りつけてオーブンで焼いたサーモンとサラダ。赤ワイン。日本酒。Fさんは徳利とお猪口で濁り酒をやっている。残飯は裏口から原っぱに投げる。アライグマや熊や、鹿や野うさぎが来て食べるという。前にヤマアラシが来て、背中の針で玄関をがりがり引っかいたそうだ。奴が残していった針を見せてもらう。ハチドリの羽根も見る。
ほうたるやもたれし柵のゆらゆらと
短夜の鼠の針と鳥の羽根
明け方まで起きている子供たちも山の静けさに早寝、町子だけ階下のNさんの書斎にマットレスを敷いて、レコードコレクションに囲まれて寝る。夜中に熊が来たら町子がまずやられるかなと思いつつ、まあ来ないだろうとたかをくくって寝る。シャンソンの女の声は山で聞くと結構怖い。穴に引きずり込まれるように眠る。明け方欧介が起きている気配。烏が屋根を歩き回っている。次に目覚めると、すでに朝日。ベランダの向こうに山の霧が輝く。昨夜のチーズ、オリーブパン、メロン、コーヒーの朝食は無音。木々が風にそよぐのみ。
目が慣れて青ほゝづきを見つけたり
花胡瓜金網の色新しく
朝食後、みなでドライブ。まず幌(ほろ)つき橋を見る。これは怖がって川を渡らない馬車馬のために囲われたのだそう。マディソン郡の橋に似ている。橋の下の川辺で石飛ばしをやる。愛媛でもずいぶんやった。Nさんは石を細かくジャンプさせる技を持つ。橋の中を歩くとヤギの匂い。昨夜のチーズの匂いがする。橋をくぐり抜けたところに、とうもろこし畑がある。貯水池には、ツバメが群れをなしてゼロ戦みたいに飛んでいる。そこでNさん夫妻とお別れ。レンタカー店が閉まるのが午後四時なので、遅れないよう出発する。NYのアパートに戻ると、猫たちは平和に寝ていた。
合歓の花幌つき橋の長さかな
唐黍の畑に水の来てをりぬ