ニューヨー句

1ニューヨーカーの1ニューヨーカーによる1ニューヨーカーのための1日1ニューヨー句

あらかたの工事終はりし夏の川

2009年06月29日 | Weblog
ついに部屋が見つかる。ウエストエンド通にあるタワーの一つ。ハドソン川とタワーの間に新しいアパートが建ったんで安くなったのだと思う。公園を見下ろす二十四階のツーベッド。道子の高校まで歩いて五分。夫の会社へも多少近くなる。町子の学校だけは遠くなるが、歩いて通えなくはない、バスでもいい。八月中に越すので、今から少しずつ物を捨てて片づければいい。新しい部屋には新しいキッチン(臭くない食器棚!)と、バスルームが二つある。四人でチェロを持って見に行き、じっさいに弾いて音をチェックした。ここほどではないが、けっこう廊下に音がもれなかった。それに管理会社の人から、「リンカーンセンターに近くてミュージシャンもたくさん住んでいるから楽器を弾く人は多い」と聞いて決心した。同じ日にまわったもう一軒の戦前に建ったアパートは廊下や上下階にまでひどく響き渡って、まずいと思った。古いビルのほうが壁がしっかりしてるかと思ったら、そうとも限らないのだ。ウエストエンドアヴェニューは、「とぼとぼ歩く国道」っぽい道である。帰りにブロードウェーへ押し出して、バーブールでランチ。これが最後の贅沢、家賃があがるので倹約生活再び、と言い交わして入る。ベルギービールに、イベリコハムを食す。欧介がバルセロナでこれを食べ、「薔薇の花びらを食べているよう」と形容していたが、まさに言いえて妙だと思った。香りが素晴らしいのだ。

写真は、セントラルパークの大芝生。日曜の朝はこんなに空いてるが、午後になると日光浴の人でぎっしりうまる。

団欒の窓に夕焼の終はりゆく

2009年06月29日 | Weblog
町を歩きながら、寺山修司の詩(「思い出すために」「世界のいちばん遠い土地へ」)について、解釈を話す。互いに俳句をよむおかげで、歌詞の解釈の話がしやすいのは助かる。先日のことになるが、NY句会に私が出した蛍の句について欧介が、どんな川のどんな橋で詠まれたか的確に描写し、最後に「これは四万十川の蛍です」と言った。確かにそれは、むかし姉や夫と吟行した四万十川の蛍の句。私は吟行か、吟行の思い出からしか句が詠めない。架空の句は一句もない。しかし夫は四万十川の他にもさまざまなの蛍や橋や川を見てきているのだから、ずばり四万十川の蛍と言いきるだけの川の広さ、土佐の山の夜の華やかさなどの必然がその句にあったということだからよかった。

馬車道を避けくちなしの香を避けて

2009年06月28日 | Weblog
新潮七月号を、紀伊国屋へ取りに行く。町田康「尻の泉」を読む。「わたしの人間失格」競作のなかで抜きん出て素晴らしい、面白い、感動する。太宰治にこれだけの才能があればなあ、おっと、才能才能言うのは止そう。才能をまるで権威のように言うことに対する嫌悪。個性を育てる。才能を伸ばす。才能がなければ人間失格。これみな権威主義である。たとえばミスターローゼンに向かって、「あなたにはチェロの才能がありますね」と言う人はいない。ミスターローゼンの音が素晴らしく、曲の解釈が独創的で、出てくる音楽が感動的なこと、それだけが重要なことで、才能は問題ではない。

町子と三人でセントラルパークを突っ切って歩いて紀伊国屋まで行く。かなり長時間の散歩になる。歩くのが一番嫌いな町子なのに、紀伊国屋というと最近必ず一緒に来る。よほど漫画が読みたいのである。でんじゃらすじいさんの単行本三冊と少女漫画の月刊誌の分厚いやつを買う。

欧介が春と修羅を聞いている。一緒に歌いうめき雄たけびする。宇宙人に対して、「これが地球の音楽です」と聞かせる曲は何? という問いに、いつか欧介は、「やっぱそれは春の祭典でしょう」と答えていた。春と修羅もそのくらいのものになりつつある我が家で。どうしても指揮したい。歌いたい。

寿司食ひに出れば夕立にあふことよ

2009年06月27日 | Weblog
道子の卒業をGRIにて祝う。蟹、河童巻、海苔の天麩羅とマグロのユッケ、酢〆の鰯などが美味しい。私はSPARKLING SAKE、欧介はGRIの酒を飲む。オーナーのGRIさんに初めてお目にかかる。寿司シェフMsさんが、お祝いです、と道子にデザート盛り合わせをくださる。自家製抹茶チーズケーキが素晴らしい。食べながら、夏休みの間、家族で毎週ブック・クラブをやることを話す。一作目は、キャッチャー・イン・ザ・ライ。四人それぞれ読んで、木曜に感想を語り合う。

ランナーYMさんのご案内で賃貸物件を見に行く。うちからそう遠くないウエストエンド通りで場所はよし、壁はがっしり、角部屋、ツーベッド。あと三百ドル安ければ即決するのだがなあ。あきらめずもう少し粘ってみたい。

次のこと考えながら梅雨終はる

2009年06月25日 | Weblog
三善晃の混声合唱と二台のピアノのための交響詩「海」の楽譜が届く。十二月の定期演奏会には信長貴富の組曲「思い出すために」をやる。いつか「海」をやりたいと思う。そしてまたいつか「春と修羅」を歌いたい。そのために毎日三十分、発声とコールユーブンゲンをする。毎朝二時間、小説の海にもぐる。合唱の歌詞もまじめに書こう。


道子は今日で、中学生活が完全に終わる。みながサインと寄せ書きを交換して書いている。道子は誰に頼まれても同じ言葉を一行だけ、「来年から会えなくて寂しい。さようなら」と書いているらしいが、親友のjkyからは、「明日最後に、私のイヤーブックにはパラグラフ(一段落)を書いて」と言われているそうだ。

本番の近づく蔦のあをあをと

2009年06月23日 | Weblog
猫が、私の集中力と緊張の匂いにつきまとう。ピアノで音取れば、ピアノの上に乗って楽譜を落とす。鍵盤の上に寝る。PCのiチューンで郡山中学にあわせて手紙を歌ってれば、キーボードを歩いて邪魔する。キーボードの上で寝る。生来猫は人間の忙しい場面にうろつく生き物なのである。遺伝子にそういう資質が組み込まれてある。昔から正月や祭や葬式の準備に人が走り回る下、床にこぼれたご馳走をうはうは食べてきた歴史がそうさせたのであろう。と信ずる。

「星と呼ばれた少年」ロディ・ドイル作、読了。おもしろかった。大作であった。前にも書いたけど、思想はともかくとして、描写が激しく美しい。並大抵のエナジーではない。アイルランド人は激しいね。ブラッド・ピットが演じるようなピュアな主人公である。「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」のブラピのようである。これを貸してくれた中年男性の内にもピュアなブラピが入っているのだなと推察する。物語中、ラトビア人が一人登場する。そのラトビア人は日本人のように知的で物静かであった。

青蔦の壁を離れて迷ひをり

2009年06月23日 | Weblog

紀伊国屋で漫画を買ってやると言って、町子を誘い出す。久々の親子散歩。ビデオ屋で伊丹映画を買う。N花で、お刺身、海鼠酢、金目鯛。帰ってタンポポ、マルサの女をたて続けに見る。役所広司、渡辺謙、山崎努、宮本信子、みな若い。黒田福美の含み。ホームレスコーラスは記憶してたほどうまくはない。

道子、コナンライブラリーを開く。

欧介に歌(アルト)を聞いてもらい、「手紙」と「蔵王」に一つずつ違う音を発見。自分では気づかなかった。明日の最終練習までにさらに自主練が必要であると。

地下鉄に鼠を見たり梅雨寒く

2009年06月21日 | Weblog

父の日のお礼eメールを東京の義父へと送る。eカードにすればよかったー、と後で思いついたが後の祭。川の祭。もう送信したあとだった。いつも私はこれだ。私のすることは後手後手。気を取り直して、子供たちの名前で欧介にeカードを送ってみる。子供は何もせぬ。似顔絵一つ描かぬ。そりゃそうか十三と十一だもん。でも十三はわかるが、十一まで一緒になって大人になってしまうのは寂しいなあ。町子は私と同じ服のサイズ、足のサイズは私より大きい。少女マンガにはまって勉強もチェロもおろそかになっている。しかしこの快楽に水をさすこともできかねる。私にも経験がある。何かにはまって底から出られなくなることも人生の醍醐味。つげ漫画を読むとつくづくそう思う。

少しの暇に墓裏記の続きを書こうと思うができない。書く事はできるが、いいものを書くことができないのだ。小説はエッセイとは違う。ニューヨー句は日常のままで書ける。小説はその世界に完全にイってしまわないと書けない。毎日一定時間、最低二時間以上その世界にどっぷりはまり、登場人物と一心同体にならなければならない。それを毎日続けてようやくリズムができアイデアも生まれる。ぶち切れの時間では無理なのだ。俳句も似たところがあるが、吟行(机上吟行)に出さえすればスイッチが入るので、小説よりは短時間でできる。言い訳になるが、合唱にこう集中していては小説は書けない。ラトビアが終わったら、毎日二時間を確保して書くつもりである。

引越の手伝ひに行く五月闇

2009年06月19日 | Weblog
マンハッタンの学校はビルディングに縦長に入っている。町子の中学は三階の半分だけ。あとの半分と一階二階に別の小学校が入っている。ジムとオーディトリアムは共同で使っていた。あまりに狭すぎて下の小学校ともめにもめた末、人数の少ない中学がよそのビルディングへ越すことになった。引越し先にはエレベーターがない。おとといから父兄が寄ってたかってパッキングした箱が、部屋ごとにいくつあるか数えて回り、重すぎる箱は開けて別の箱に分けるとか、まぎれているゴミをより分けるとか、細かい作業を手伝う。「手紙」を小声で歌いながらする。校長先生が一人で取り仕切ってて、かわいそうなくらい学校中を行ったり来たり。私の母くらいの年で痩せて疲れておられる。ちょっと休まれたらいかが? 肩もんであげましょう、とつい言いたくなる。が、言えないくらい気を張っておられる。終わるとどっとお疲れが出そうだ。オークションに我が家の出したヤンソンスのチケットが「よかったわよ」と話してくださる。話のついでにラトビアのチラシを見せてお誘いする。「この状態ではコンサートどころじゃないわ」とおばあちゃん先生はため息をつきながら、でも、「町子のダディは指揮者なのね」と喜んでおられた。なりたてだけどね。つい助けてあげたくなる校長の人柄の魅力でこの中学にはよい先生が集まっている。

ヤンソンスはラトビア(リガ)出身。欧介の尊敬する指揮者。

写真はナイトアットザミュージアム2をやってたときの映画館の飾り窓。映画のなかでこの人形たちも引越した。うちから歩いてすぐの自然史博物館から、ワシントンDCのスミソニアンへ、箱詰めされて運ばれた。

駅前の蝿と話してゐる女

2009年06月19日 | Weblog

天才ピアニストTKさんのコンサートへ初めて行く。初めて聞くTKさんの音。連弾なのだが、きらきらしたTKさんの音が高音部に現れ魚のように跳ねて透明に鳴り響いて消えてゆく。ペダルを踏んでいたのは相方さんだが、不思議にも、TKさんの一音一音に、独立したペダルがかかっているように、ひとつひとつが響いて、独立した一音の世界を瞬時に作る。指がそれをする。盲目のピアニスト辻井さんの音も粒だってきれいだと思うが、言っちゃなんだが、数段上の輝きである。この音でぺトルーシュカ弾かれたらどうにかなりそうだ。
ところでホールがまた素晴らしい。教会の前庭のベンチで蛇のように絡み合っているカップルがいて、パフォーマンスがすでにここから始まっているのかと思い、立ち止まりしばし見る。それほど複雑な体位で、かつノーブルにいちゃついてた。内部は少人数の合唱や室内楽にぴったりの広さ。地明かりだけの舞台に一台のピアノ。田舎の夏芝居を思わせる。最初に二人の男が出て、それぞれ客席に向かって喋る。非常にシャイな二人。上品で立派な役者である。最初のピアニストも上品かつシャイ、非アメリカ的、洗練されている。曲の合間に彼女が腕をかさかさ掻きむしりながら、鼻歌を歌いつつ、響かせつつ、舞台を横ぎってゆく演出が美しい。源氏物語の世界といっても過言ではない。花道という概念を使っている。能に影響を受けているかもしれない。客層も素晴らしいサロンコンサートだと思う。パンクっぽいところはなく、ゆえに多少爆発力に欠ける面もあるが、これはそういう演出のもとになされているものなので別物である、ワインが飲みたくなる。「ださい」の反対はなんというのか、世界最先端の「ださくなさ」を見ているのだと思った。バイオリンの女の子はクリアでストイックでかわいい。バストロンボーンは熱演、名演である。合唱団の伴奏者HN子さんが共演しておられたのでびっくりした。

道子に教えてもらった傑作CG。「歴代アメリカ大統領