ニューヨー句

1ニューヨーカーの1ニューヨーカーによる1ニューヨーカーのための1日1ニューヨー句

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わが脚を見て歩きけり花の雲

2009年10月21日 | Weblog
四歳と二歳の道子と町子をつれてニューヨークに来たのが二〇〇〇年四月。来月、二人は十四歳と十二歳になる。十年間、子供たちのおかげで、かけがえのない思い出ができた。学校で出会った先生や友達も忘れがたい。あっという間に、家族それぞれの思い出を作ってゆく時がきた。十年後の道子と町子はどうしてるだろうか。二人にとって、いつかこのニューヨー句が、自分たちのこども時代を思い出すよすがとなれば幸いである。

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秋の蚊の空の一角より来たる

2009年09月19日 | 欧介
I先生とそのゼミ生に、歴史やその他いろいろ教わるうちに、数学がやりたくなってきた。他の理系の学問は、howという質問に答えることで懸命で、whyにはとても手が出ない。唯一数学だけはwhyに答えようとしている学問だと思ったからだ。(それが違うことは後で思い知ることになる。が、そのことはむしろ爽快であった。)
そのことをI先生に言うと、同僚の数学者S先生を紹介してくれた。S先生は、すぐれた業績で有名な方だが、歴史が趣味で、I先生と親しかったらしい。S先生の所へ行って、何を話したのか覚えていないが、最後に先生が、「今度来るときはお土産を持ってきなさい」とおっしゃり、次回までに私が読んで勉強すべき本を紹介してくれたことは、ありがたかった。

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鶏頭や適当なこと言つてみる

2009年09月18日 | 欧介
この適当なこととはもちろん適切なことという意味では無い。究極的に適当なことを言うことができるかどうか考えているうちに、I先生のことを思い出した。
私は大学一年生の時、専攻を何にするかで迷っていた。理系のクラスにはいたが、主に文系の学問、特に、当時流行っていた人類学、広松先生がまだ指導されていた科学哲学、そしてI先生の教えてくださった歴史にひかれていた。
I先生のゼミの仲間10人で、夏休みに蓼科高原にあるI先生の別荘に行った。ゼミは夏休み直前に始まったので、まだそのころは(私のみならず)全員お互いによそよそしかった。そこでI先生は、次のような、単純だが非常におもしろいゲームを教えてくれた。
・まず10人を5人づつのチームに分ける。そのチームで勝敗を決める。
・チームAに白紙を一枚づつ配る。
・チームBの代表者(交代制)が「お題」を出す。
・チームAの各人は、その「お題」をふまえて(無視してもかまわない)、何か白紙に書く。(長さも自由)
・チームAの書いた紙5枚は、チームAの代表者(交代制)のところに集められ、彼/彼女がシャッフルした後、名前を伏せて、読み上げる。
・チームBの人たちは、合議して、誰が書いたものかを当てる。当たった数がチームBの得点になる。
・これが一回の表。一回の裏はチームAとBとが逆になる。これを9回の裏まで繰り返し、合計得点でAとBとの勝敗が決まる。
自分が書いたものだとバレないようにするために、まったく自分が書きそうもないことを書こうとする。例えば、お題が「歴史」で、「いつもへりくだっているだけの戦略で生き残れるとは思うなよ」とか書く。しかし、おもしろいことに、いくらそうしようと思っても、その人の文体というか、匂いは、完全には消すことができない。だから意外によく当てることができる。また、その人がどういう人なのかの深い部分がよくわかる。このゲームの後、われわれ10人はいっぺんで仲良くなった。
この体験があまりに印象深かったので、社会人となり、合コンをしたときに、このゲームをやろうと提案したことがあった。もちろんすぐに却下された。

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鶏頭に雨なにもかも忘れ行く

2009年09月17日 | 欧介
人の顔が覚えられない。クライアント(私はコンサルタントです)の一人で、アクチュアリーで(私も)、日本人で(同じ)、年齢もほぼ同じで、二人だけで飲んだにもかかわらず、数ヵ月後にその会社を再び訪れた際、本人を目の前にしてわからず、「ここにはアクチュアリーは一人もいらっしゃらないようですが」と言ってしまった、そのくらい覚えられない。
非アジア系の顔だと、もう本当に何がなんだかわからない。町子の友達だと思って「ハーイ、ソフィー」と言ってぎょっとされたり(なぜかいつも「ソフィー」というらしい)、逆に知らない人に親しく話しかけられて結局誰だかわからないことがしょっちゅうある。だいたい私の会社は30人くらいしかいないのに、まだ全員の顔と名前が一致しない(もう10年も勤めているのに)。
覚えられないのは人の顔だけではない。上司の内線番号、二次方程式の解の公式、毎日飲んでいる薬の名前、自分のソーシャルセキュリティー番号、英単語、歌詞、こういうものがまったく覚えられない。

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鶏頭の花星のない朝に似て

2009年09月15日 | 欧介
星といえば、中学生のころ、友達数人と野辺山に星を見に行ったことがある。一面の星空で、星座が見えないほどだった。魔法瓶の中の湯が数分で氷るほどの寒い夜だった。笑ってしまうほどの寒さをともに経験した中にF君がいた。
F君は、明るくて、乱暴者っぽいところもあり、みんなから「センパイ」というあだ名で呼ばれて、好かれていたが、えらい淋しがりやであった。他は私と似ていたが、私はむしろ一人が好きだった。たとえば、昼ごはんの弁当を食べる時、私は常に自分の席で食べていた。一人で本を読みながら食べることもあり、誰かが私の隣に来てその人としゃべりながら食べることもあった。反対にF君は常に自分の席を離れてみんなの中心に位置するようにしていた。F君から見れば、私の態度は不遜に思えただろう。私が「センパイ」と決して呼ばないことにもいらいらしていたらしい。
淋しがるくせに、深いつきあいを避けていた。用事もないのに、みんなと図書館には行きたがったが、私と二人っきりでは行きたがらなかった。そういうF君の繊細なところが私は好きで、よく一緒にいた。

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やはらかく葡萄の種を噛みつぶす

2009年09月14日 | 欧介
会社の独身寮に住んでいた5年間、ピアノを弾くのに苦労した。近所を散歩して、ピアノの音が聞こえると、その家へ行ってピアノを弾かせてくださいと頼んだ。5軒に1軒の割合で弾かせてくれた。そういう家を何軒かローテーションでまわった。ある家で、いわゆる認知症の老婦人が、私にバタートーストをご馳走してくれたのがきっかけで、なんとなくバツが悪くなり、家をまわるのを止めてしまった。それ以降は、会社の同僚やその知り合いの家を渡り歩いた。



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ゆらゆらと電車の中の秋夕焼

2009年09月12日 | 欧介
1990年から5年間、大阪の江坂にあった会社の独身寮に住んでいた。高台にある寮の最上階(5階)の角部屋が私の部屋で、窓からは大阪湾までが見えた。夕方帰ると誰もいない大浴場で温泉気分を味わった。風呂に入ったあとは、夕食に出かけた。江坂周辺には食べる所はいろいろあって、今から思うと、信じられないほど美味しいものを信じられないほど安い値段で食べることができた。深夜まで一人でだらだら飲んでいると、ちょうど同僚たちの帰宅時間と重なったりした。
週末の半分くらいは旅行に出かけた。俳人たちを訪ねる旅で、東北から九州まで日本中をまわった。
残りの半分は、オーケストラの練習に参加した。練習場所は清荒神駅前の宝塚ベガホールにあり、江坂から1時間ほどかけて阪急服部まで歩いて行き、そこから宝塚線で清荒神まで行った。夕日の中を走るそのすばらしい電車に乗ると、いつもわけなく憂鬱になったことを覚えている。
東京もので、ヴィオラも下手、そして練習に半分しか来ない私であったのに、オケの連中は、よく仲間扱いしてくれた。練習が終わると毎回仁川の焼鳥屋へ誰かの車で連れて行ってもらい、そこで日曜の朝まで飲んでいた。
みなさん、特に管楽器は、なかなか上手だった。しかし、図抜けてうまかったのはファゴットのHさん。太くて大きな音と、訴えかけるような、ねじ伏せるような歌い回しで、一小節でも吹けばすぐにわかった。オケ全体が振り返るほどだった。今でもバルトークのオーケストラコンチェルトのソロは忘れられない。当時、大きな楽器を小さな楽器のように演奏すること、例えばチェロをバイオリンのように、ファゴットをオーボエのように吹くことで、テクニックを強調する演奏が流行っていたが、Hさんのファゴットはそういうちゃちなものではなく、本当の木の音がした。性格も非常に明るく、気が強くて、みんなから好かれていた。私はあまり話す機会がなかったが、チャイコフスキーの5番の演奏会の後、あまりにソロがすばらしかったので、宴会でHさんの所へ行って激賞した。自慢するかと思ったら、照れていたのがかわいらしくて意外だった。そして、また意外なことに、Hさんはその翌週、コンサートマスターのO君と婚約された。婚約祝いの飲み会の帰り道、O君が私に語ったところによれば、先週の私の激賞を聞いていて、危機感がつのり、あわててプロポーズしたらしい。
Hさん、O君、バイオリン職人のS君、一番親しかったオーボエのI君、ウィーンの音がしたホルンのF君、多彩な音色の持ち主だったクラのTさん、すばらしく澄んだ音だったクラのN君、いつも隣で弾いてくれていたヴィオラのSさん、あの人たちにまた会えるのだろうか。

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渡辺明森内俊之涼あらた

2009年09月12日 | 欧介
今朝、今年の竜王挑戦者が森内九段に決まった。来月から渡辺竜王に挑戦する。
森内にしろ、渡辺しにろ、今回森内に負けた深浦にしろ、プロ棋士というのはそれぞれ個性的でしかも清清しい。M九段は、友達の披露宴に招待されたがずっとテーブルの下で詰め将棋を解いていたとか、趣味はドライブというのでどこをドライブするのか聞くと「自宅から駅までです」と答えたとか、「N君(棋士)とはよく遊びます」というので「何をして遊ぶのですか」とたずねると「将棋です」と言ったとか、そういうエピソードがたくさんあり、M九段が特別ではない。

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マネキンの片足上ぐる雁渡し

2009年09月11日 | 欧介
「雁渡し」は初秋の頃に吹く北風。
道子の高校第一日目。ハードスケジュールに驚く。が、本人は気に入ったらしい。特に図書館がいいという。司書の先生がとても厳しい人で、ちょっとしゃべっただけでも怒られるらしい。昼休みは図書館にいるんだよ、と自慢げに言う。
私の高校時代の居場所は音楽室だった。朝、登校するとまず音楽室に行き、昼休みはおろか、わずか10分の休み時間でも音楽室に行き、もちろん放課後は、残れる限り音楽室に居た。
チェリストのY君は、とても無口で、おとなしい人だったが、早熟の天才で、チェロも、コントラバスも、作曲も、指揮も、ピアノも、それからピアノの調律も、すべてうまかった。フォーレの曲を何曲もいっしょにやった。メシアンが好きで、時の終わりの四重奏をとてもやりたがっていた(が私のピアノの腕には難しすぎた)。バルトークのカルテットなんかにも付き合ってくれた。春の祭典の連弾を弾いた。
学園祭の前日の夜遅く、誰も居ない学校の、よく響く理科室で、私だけのために、バッハの無伴奏チェロ組曲1番プレリュードを弾いてくれた。その、初めての素晴らしさに衝撃を受け、もう一回、もう一回、と何度もせがんだのと、何度も弾くにつれて表現がだんだん大げさになっていったのを、覚えている。

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逃げる夜の通りに溢る貝回し

2009年09月09日 | 欧介
昨日偶然30年ぶりに中学校の同級生に会った。
中学生のころマーラーにはまっていた。最初に買ったレコードはバーンスタイン/ニューヨーク・フィルの交響曲一番だった。授業で書いた自画像には背後霊のようなマーラーを書いた。修学旅行は伊豆へ行ったが、頭の中でずっと6番が鳴っていたので、今でも6番を聴くと、湯ヶ島の霧を思い出す。ショルティ/シカゴ交響楽団の演奏が順番にリリースされ、毎日図書館へ行ってそれらを聴いた。図書館でスコアを借りて、暇があると頭の中で鳴らしていた。大晦日には、ベートーベンの第九を聴かず、マーラーを1番から10番まで順番に聴いてすごした。
マーラーの音楽は、メロディーが親しみやすいし、構造もわかりやすいので、鑑賞するのに難しくはない。しかし、最大の、ユニークな特長は、精神的に不安定でないと良さが分からないという点だ。マーラーは聴く人を選ぶ音楽である。実際私も、高校生になると、まったくマーラーを聴かなくなった。たまに聴くと、なぜこんな甘くてカッコ悪い音楽が好きだったのだろう、と不思議に思った。
今ではもちろんマーラーの曲の良さも悪さも冷静に評価できる。それでも、マーラーに熱狂している若い人たち(アメリカ人に多い)を見ると、なんとも言えない気持ちになる。
(「貝回し(ばいまわし)」はベーゴマ遊びのこと。秋の季語)

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