高天原への扉

水瓶座の時代を生きるヒント

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生命の実相と無我

2013-03-02 18:35:03 | 水瓶座の時代を生きるヒント

「迷ひ迷ひて流転せる心は
その信念が形となりて仮の相(すがた)を現ずべし。
されど如何に相(すがた)を現ずるとも
仮相(かりのすがた)は永遠に仮相(かそう)にして実在となることを得ず。
汝ら、実在にあらざる物を恐るゝこと勿(なか)れ、
実在にあらざる物を実在せるが如く扱うこと勿(なか)れ。
実在にあらざる物には実在をもって相對(あいたい)せよ。
真にあらざるものには真をもって相對(あいたい)せよ。
仮相(かりのすがた)に對(たい)しては実相を以(も)って相對(あいたい)せよ。
闇にに對(たい)しては光をもって相對(あいたい)せよ。
非実在を滅するものは実在のほかに在らざるなり。
仮相(かりのすがた)を破(やぶ)るものは実相のほかに在らざるなり。
虚妄(こまう)を壊(ゑ)するものは真理のほかに在らざるなり。
闇の無を証明するものは光のほかに在らざるなり。
彼らに生命の実相を教えよ。
彼らに生命の実相が神そのものにして完全なる事を教えよ。」-谷口雅春 「甘露の法雨」

迷いというものであっても、信念となりますとそれが姿を現すのが現象の世界です。いくら迷いというものを神様がお創りになってはいなくとも「自分は病気だ」とか、「自分は貧乏だ」とか信念となっているうちは、それが現象化してくるのが現象の世界です。

ときおり、「何故、世界には貧困があるのだろうか?」「何故、神様は貧困や病気、悪というものをお創りになったのだろうか?」「何故、神は悪を創ったのか?」と思われる方がおられますが、それは神様がお創りになったのではないのです。人が迷いによって作り出した信念、その信念が現象化しているというだけであるのです。

ですから、人々の迷いがなくなれば、神様がお創りになったものではないので、そのような、病気であるとか、貧困であるとか、悪というものは消えてなくなっていくのです。

では、迷いとは何か?迷いと言うのは、視覚(眼)、聴覚(耳)、嗅覚(鼻)、味覚(舌)、触覚(身)の五官、また、霊視、霊聴、霊鼻、霊舌、霊触といった第六感に基づいた自己認識です。その自己認識から生じるもの、それが迷いであります。

平たく言いますと「我(が)」です。我欲です。肉体こそ自分だと思うことであり、自分と他人というものを分け隔てる考え方です。我というものが、自己保身を生み、恨み、妬み、怒り、そしりなどを生み、ひいては争いの心などが生まれてくるのです。

それで仏教では、「無我」の大切さを説いているのです。「無我」というのは、私心(ししん)をなくすということです。私心とは、自分だけを利したいという思いです。自分だけが得したいという気持ちです。人よりも良い生活がしたいですとか、人よりも偉くなりたいですとか、人よりも良い家に住みたいですとか、そのような自分だけの利益を考えることです。

どうして、そのように自分を利したいと思うかというと、自分と他人は切り離されておって、全然別の存在であると認識しているからなんです。

ただそれは良いとして、「無我」になれと言われても、「自分がないとはどういうことなんだろう?」と、どうすれば良いのか分からなくなってしまう方もいらっしゃることでしょう。

そこで、次ぎのように言われています。

「今まで、『無い我』をアルアルと思っていたその力味(りきみ)を捨ててしまわなければならないのであります。すなわち『今までの我』を捨てて『我』そのものの置き換えがそこに始まらなければならないのであります。今までは、この我というものが、この物質の、この殻の中に入っているところの小さな意識の主体であると考えられておった。ところが、そんなものは無いのでわれわれの本当の実相はこの天地に充ち満ちているところの法性法身(ほうせいほっしん)の阿弥陀如来または宇宙普遍の神と一つのものであるのであります。実相世界の尽十方(じんじっぽう)に充ち満ちているこの無限の光、無限の慈悲、無限の真理こそ自分であるということになるのであります。」-谷口雅春 「生命の実相」第21巻 経典篇

自分、自分と思っていた自分、その自己認識を、「すべてを貫いて生きている神の生命である。天地一切を貫いている神こそが自分なんだ。」というところまで入れ替えてしまえということであります。「自分と他人がいるのではなく、そこにいるのも自分である。」という自己認識で生きなさいということであるのです。

例えば道を歩いていて誰か困っているとしましょう。そこで困っている人は、他人ではなく自分であるという気持ちをもつということであります。困っている人がいれば、それは困っているのは自分とは関係のない赤の他人ではなく、姿を変えた自分であるという気持ちを持つということであります。

ここに愛というものの原点があるのです。自他一体の気持ちを持つことが愛の出発点であるからです。

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