ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

保険とリスク、ブラックスワン的社会が背負っているもの

2010年11月27日 | 思考法・発想法
仮にあなたがコンビニを経営していたとして、そこに強盗がやってきた時にどうするのだろうか。レジに入っている10万円を守るために危険を顧みず必死に抵抗するべきだろうか、それともどうせ「損害保険」に入っているのだしそのまま強盗に30万円を差し出すべきだろうか。そうすれば怪我をすることもないだろう――そんな話を先日、友人と飲みながらした。

これは別に「正義論」の話をしていたわけではない。「保険」というものが何をもたらしたのかという話をしていたときのことだ。

「保険」というのは不思議なものだと思う。一体、誰が何を得をし、損をしているのかが今ひとつピンと来ない。理屈では分かる。しかしそれがもう1つ腑に落ちない。

仮に先のコンビニの経営者であれば、当然、「保険」に入るだろう。誰も損害を被りたくないからだ。例えばその「安心」を買うために月々1,000円の掛け捨て保険に入っているとしよう。1年ほど掛け金を払っていた頃に、強盗に押し入られ30万円がとられ、保険会社から50万円の補償されたとする。

金額だけを見れば、

【コンビニ】
掛け金:-1,000円×12ヶ月=-12,000円
損害:-30万円
補償:+50万円
-----------------
+18.8万円

【強盗】
+30万円

という事態が起こってしまう。

もちろんコンビニの収支を補っているのは「保険会社」だ。かといって民間企業である以上、原則的には保険会社が損をしているわけではない。多くの人から集めた掛け金やその運用によって成り立っているのであり、むしろ保険会社も収支としては「+」でなければならない。

となると一体誰が損をしているのだろう。強盗に入られていないコンビニか、はたまた株で損をしている人々か。いずにしろ、ここではある店舗の強盗事件という「個別の具体的案件」が抽象化され見えない存在となっている。現実に起こりうる「事件」が「リスク」という名の下に、数学的存在として抽象化されているのだ。

この「リスク」とは何だろう。

仮にコンビニが1000件あり、強盗事件が年に2件、平均被害額を50万円とした場合、強盗の発生率は0.2%になる。
1000件のコンビニが「平均被害額50万円×強盗発生率0.2%=1000円」を毎年支払えば、互いに被害を補償することができる。ここでいう「強盗発生率」というのが「リスク」と言い換えてもいいだろう。

ということは、「保険」というものは、「個別の被害(個別のリスク)」を多くの保険の加入者全体に「平面的に拡散」させたものといえるだろう。1つの店舗でみればあくまで被害は50万円だけれど、全体に引き伸ばすと1000円になる、と。

あるいはこうも言えるかもしれない。「個別のリスク」を「平面的」だけでなく、時間軸に応じて「垂直的」にも拡散したもの、つまり「時空間的」に拡散したものであると。

これは平均年2回程度強盗が起きるかもしれないが、実際は今年は1回しか起きていないが昨年は3度起きているといった場合があるし、年齢や経験値によって保険料率や掛け金が異なるのもことしたものを前提としているといえるだろう。

こうした統計的・確率的処理を行った結果、より多くの人でリスクを共有し、1人あたりの負担の少ない、魅力的な金融商品が成立する。しかしその反面、具体的な事象として存在するはずの「リスク」はより不透明となる。誰がどれだけの「リスク」を背負っているのか、どこにどれだけの「リスク」が偏在しているのか見えなくなる。

そうやって考えてみると、今、僕らが生きている社会の実像とこの「リスク」のあり方は妙にシンクロするような気がする。時代の持つ「息苦しさ」とはこうした感覚に近いのではないか。

誰もが何かをやっている。みんな忙しそうだ。でも誰も自分が何をやっているのか、どんな意味を持ちうるのか分かっていない。みんなが自由に何でもできるはずなのに、実際には何かがそれを妨げる。時には「お金」や「場所」といった現実的な制約かもしれないし、僕らが置かれている「立場」かもしれない。「他者の視線」「常識」「恥ずかしい」といった意識の問題かもしれないし、「安定志向」「将来への不安」といったより漠然としたものかもしれない。

本当ならもっといろいろな選択肢や可能性やできることがあるはずなのに、何かが「できない」と思わせる息苦しさ。そんなものを不透明に背負い込んでいる気がするのだ。

リスクの話に戻ると、実際には保険会社がさらに保険に入っているようなこともあるだろうし、そうしたリスクや金融商品を他のそれと組み合わせることで、よりリスクを分散するといったこともなされているだろう。そうして僕らは実際に加入しているとか、保険料を支払っているとかとは別次元で様々なリスクを背負っていることになる。

しかしそれらのリスクは必ず何がしかの条件を想定した上で存在していることになるが、そうした条件が崩れた場合、あるいはそうした条件が想定できていないようなことが起こった場合、そうした保険や金融商品も崩れることになる。年2回程度の強盗発生率しか想定していないのに、ある年だけ2000件も強盗事件が起きればこうした商品は破綻するのだ。

そうしてこうした「ありえないリスク」「あってはならないリスク」が発生する確率が実は高まっているのではないか。様々なリスクを分散し不透明化させた結果、こうした未知の条件もより不透明になる。誰もが気付かないうちにノイズやエントロピーのようにそれは増大していくのだろう。僕らが生きているこの社会というのもそれは同じなのだ。


ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質 / ナシーム・ニコラス・タレブ



ブラック・スワン[下]―不確実性とリスクの本質 / ナシーム・ニコラス・タレブ

1 コメント

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Unknown (iphone小僧)
2010-12-01 09:57:49
考えされられました^^
保険についてもう少し勉強しようと思います
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