写真①:「桂岳」の麓にある「桂岳神社」
=福津市勝浦で、2017年10月30日撮影
〈津屋崎千軒・町歩きスポット〉 64
:桂岳神社
「勝浦」の地名由来の神功皇后を祭る
福津市勝浦の「桂岳神社」(旧称「勝浦明神」)=写真①=は、宗像市との境の「桂岳」(別名「勝浦嶽」、標高165㍍)の麓、県道502号線(玄海・田島・福間線)脇に立つ「桂岳神社」の道標から少し北に入った所にあります。以前、「桂岳」の中腹にあったのを、昭和46年に移転。祭神は、神功皇后と天満天神(菅原神)、歓喜天です。例祭は、4月3日。
「桂岳」=写真②=の名は、神功皇后が朝鮮出兵から帰られた際、登られて「加都良(かつら)」と唱えられたので「桂岳」(「勝浦嶽」)、村名を勝浦と呼ぶようになったと言われています。
写真②:宗像市との境にある「桂岳」(左側の峰)と「名児山」(標高160㍍)
=福津市桂区で、10月31日撮影
「桂岳神社」の道標近くには、当地は「勝浦」地名発祥の地です、の見出し付き案内板が建てられています=写真③=。
写真③:当地は「勝浦」地名発祥の地です、の見出し付き案内板
=10月30日撮影
案内板は平成20年(2008年)、「勝浦古代ロマンを語る会」が建てたもので、〈「勝浦」神功皇后、新羅にかちて帰りこの浦にあがらせ給う。故にかつらと名付くと云う。
貝原益軒(1630~1714)の「筑前国 続風土記」より
今から1000年以上前の西暦200年頃、仲哀天皇と神功皇后(第15代応神天皇の母〉が都(奈良)から少数の家来を連れて三韓(新羅)征伐のため当地勝浦へやって来ました。 ここで宗像水軍や勝浦人を結集し征伐の戦略を練り、203年桂嶽(「勝浦嶽」)へ登り必勝祈願を行い、205年勝浦浜(桂浜)と神湊から対馬海神族や宗像水軍を水先案内人にして神功皇后、武内宿禰等が征伐へ出兵しました。〉などと説明。
さらに〈勝利を納め206年に帰還し、この年瀬戸内海を通り都へ凱旋する路々で、ついて行った勝浦人たちに褒美としてそれぞれの土地が与えられ、与えられた者が「阿波勝浦」「那智勝浦」「(高知)桂浜」等等、全国10ケ所以上に「勝浦」の名がつけられたと伝えられています。(中略)「勝浦」は勝った浦、「勝島」は勝ったところにある島、「勝浦浜」は勝った浦の浜、「神湊」は神功皇后の湊と伝えられています。私たち、勝浦に住む者は先人が残したロマン溢れるこの宝(財産)をしっかり、後世に引き継いで行くことが使命であると思ってやみません〉と結んでいます。