吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2007年3月18日〈津屋崎学〉025:津屋崎の町名と特色

2007-03-18 08:59:50 | 郷土史
●写真①:津屋崎公民館前にある津屋崎の地図を表示した〈福津市地区案内図〉
      =福津市津屋崎天神町で、2006年11月30日午前10時11分撮影

・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第25回:2007.3.18
  津屋崎の町名と特色


清 「〈津屋崎千軒〉のことは、前においしゃん(叔父さん)に聞いたばってん、きょうは津屋崎の町名と地区別の特色の話をしちゃらんね」
琢二 「そうだな。福津市津屋崎公民館の前にある津屋崎の地図を表示した〈福津市地区案内図〉=写真①=を見れば分かるが、旧宗像郡津屋崎町大字津屋崎は、津屋崎町の南西部にあり、西方の津屋崎橋が架かる津屋崎漁港の入り江から砂浜の海岸線に沿って広がっている。入り江に近い地区が北区、海岸線の内側にあるのが新町区、北側の陸地に入った地区が岡区と、大きく三地区に分けられるが、住宅が軒を接しており、はっきりした境界はない。東には、新しい住宅街の東町があり、宮地嶽神社のある宮司地区に接している」
清 「北区、新町区、岡区の三地区に大別するのは、津屋崎祇園山笠の北流(ながれ)、新町流、岡流の三地区と同じやないと?」
琢二 「いいところに気付いたな。その通りたい。津屋崎祇園山笠の北の山、新町山、岡の山の区域で分けとるのと同じばい。旧福間町と合併して今の福津市になる前の旧津屋崎町が、同町史編集委員会の編集で平成10年に発行した『津屋崎の民俗(第四集) 北の一、北の二、新町・天神町・東町』という町史民俗調査報告書がある。この本の中に掲載されている〈大字津屋崎旧町名図〉=写真②=を見ると、各地区の位置がおおかた分かるたい」


写真②:旧津屋崎町発行の『津屋崎の民俗(第四集)』に掲載された〈大字津屋崎旧町名図〉
     =福津市津屋崎で、2007年3月15日複写

清 「この〈大字津屋崎旧町名図〉を見ると、北区は大きい字で書かれた〈北の一〉と〈北の二〉に分かれとるようやね」
琢二 「そうたい。〈北の一〉には小字の北本町(ほんまち)、上(うえ)本町、浜町南が入り、〈北の二〉には東古小路(こしょうじ)、西古小路が入っとる。浜町南は、〈大字津屋崎旧町名図〉では浜の町と書かれているようだが、浜ノ町と表記されたり、昔はハマンチョウと呼ばれた」

清 「新町区に含まれる小字は、どことどこね?」
琢二 「新町区には、横町、下魚町、上魚町、上船津町、下船津町が入る」
清 「魚や船の付く町名は、いかにも港町・津屋崎らしいね。それから、〈岡区〉は、〈岡の二〉と〈岡の三〉に分かれとるようやけど、なして〈岡の一〉がないとね?」
琢二「ハハハ、よう分かったな。〈岡の二〉に入る小字は裏町、門前町、出口町、新屋鋪(敷=しき)、蔵屋鋪で、〈岡の三〉に入るのは沖町。福岡藩政時代には、旧筑前国宗像郡津屋崎村に属して〈岡〉と呼ばれていた地区が、その後分かれて〈岡の一〉、〈岡の二〉、〈岡の三〉となり、〈岡の一〉の呼び名が〈天神町〉になったとたい」
清 「へー、僕の生まれた〈天神町〉が〈岡の一〉やったとは知らんかった」
琢二 「その〈天神町〉は、戦後の人口増加で、天神東と天神西の二つの行政区に分けられとったが、昭和30年に天神東と天神西は合併して天神町区になった」

清 「すると、〈天神町〉の東が東町か。大字津屋崎の北のはずれは、末広になるとかね?」
琢二 「そうたい。天神西の旧津屋崎町役場跡にある〈福津市地区案内図〉の津屋崎の方位を示した地図=写真③=を見ると分かりやすい。赤い四角で囲まれた地域が〈福津市地区案内図〉=写真④=に大きく表示された大字津屋崎だ。津屋崎の方位を示した地図の中に、津屋崎干潟のある〈内海(うちうみ)〉と呼ばれている入り江の東岸を走る道路を北東に行った所に勝浦区の〈塩浜〉という小字が表示されとるやろ。もともと津屋崎の末広は元禄時代に塩田が開かれ、一村を形成して塩浜と呼ばれていたが、昭和30年に津屋崎町と勝浦村が合併して新しい津屋崎町になった際、勝浦に〈塩浜〉があるため末広と改称した」


写真③:旧津屋崎町役場跡にある〈福津市地区案内図〉の津屋崎の方位を示した地図
     =福津市津屋崎天神西の福津市駐車場で、06年11月17日午後2時36分撮影


写真④:大字津屋崎の地域を表示した〈福津市地区案内図〉
     =福津市津屋崎天神西の福津市駐車場で、06年11月17日午後2時36分撮影

清 「次は、大字津屋崎の地区別の特色を話しちゃらんね」
琢二 「清が生まれた〈天神町〉は、職人の町たい。鍛冶屋や津屋崎人形師などいろんな職種の人が集まり、活気がある町だった。昭和10年には、渡地区にあった町役場が移転し、町の中心地区になった」
清 「そう言えば、天神町生まれで詩集『鵲声―津屋崎センゲン』(新風舎刊)を出版した吉村青春さんのお父さんは、江戸時代から続いた大工の棟梁やったね」
琢二 「その通り。それから、旧津屋崎町役場のところに天神様が祀ってあったから、〈天神町〉と呼ぶようになった町名の由来は、前にも話したな」
清 「聞きました。ほかの地区の特色は?」
琢二 「〈岡の二〉と〈岡の三〉は、農家と商家が混在し、鍛冶屋、菓子屋、傘屋などの製造業も数軒あった。〈北の一〉は漁業中心の地区で、漁師の生活用品を扱う商家が多くあったそうだ。〈北の二〉は、昭和4年ごろまで村役場や産業組合、津屋崎製塩会社などがあり、廻船業や漁業も盛んで、料亭、商家も多く、遊郭もあった。当時、津屋崎で一番賑やかな地区だった
清 「フーン、そうなんだ。〈新町〉はどう?」
琢二 「〈新町〉は、江戸末期から明治初めまでは漁業が主だったが、だんだん商家が多くなり、料亭、旅館も集中し始め、商業地区の様相が濃くなったようだ。最後に〈東町〉は、元は松原だったが、明治の末ごろから製造業の人が移り住んだり、一般の人も住宅を構えるようになって戸数が急増した」
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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんにちは (稼ぎ太郎)
2007-03-18 09:05:52
はじめまして

突然のコメント失礼します。

私は「稼ぐ方法どっとコム 」と言うサイトを運営しています。

そこでこちらの記事を紹介させて頂きましたので
ご連絡させて頂きました。

該当記事
http://blog.livedoor.jp/kasegu1121/archives/50915690.html
返信する
稼ぎ太郎さまへ (青春)
2007-03-18 09:37:47
記事紹介ありがとうございます。
「稼ぐ方法どっとコム」の「稼ぐ方法」と
〈津屋崎学〉とのつながりがよくわかりません。
当記事にご関心を持たれた理由を教えていただければ、うれしいです。参考にしたいので。
返信する
こんにちは (稼ぐ調査員)
2007-03-20 20:42:46
はじめまして!!
突然のコメント失礼いたします。

わたしの稼ぐ関係サイトで、
こちらの記事を紹介させていただきましたので、
ご連絡させていただきました。

該当記事は
http://blog.livedoor.jp/s0710shun1/archives/53227792.htmlです。


どうぞこれからもよろしくお願いいたします^^
返信する

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