赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

▶ 💠「知行分蓮華王院(三十三間堂)領越中吉岡庄」と記載される 「吉岡庄地頭相良迎蓮」の「蓮華王院領岐阜茜部庄」に関する書状(※東京大学資料編纂所)!!

2017-03-25 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「越中吉岡庄(後の五位庄)から見る立山連峰」


【吉岡庄(五位庄)赤丸村】





【蓮華王院(三十三間堂)庄園の地頭沙弥迎蓮の書状】
役夫工米(ヤクブクマイ)免除に関する文書⇒南北朝迄続いた「後院領」と呼ばれた上皇の庄園「蓮華王院領吉岡庄」や、室町時代の足利将軍家庄園「五位庄」では、伊勢神宮の式年遷宮の為の臨時費用が免除されていた。











「沙弥迎蓮」が妻と見られる「宇葉伊路」に対して庄園の権利を譲った「譲状」

「相良頼俊(沙弥迎蓮);鎌倉幕府の家臣、京都蓮華王院領の肥後人吉庄、美濃茜部庄、越中吉岡庄等の地頭を勤めた。(出生)不詳~(死去)一説に延慶4年1月25日(1311年2月14日) 。元寇(文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)の時にも高齢乍ら参陣したと云う。 」


源頼朝に従って戦功を上げた【 遠江国(静岡県)相良庄】の相良氏は九州に「肥後人吉庄」等を知行され、次いで全国に知行地を広げ、「美濃国茜部庄」や鎌倉等に知行されていた。「四代目相良頼俊」(※出家して「沙弥迎蓮」)は多くの知行地を家族に贈与した。多くの「沙弥迎蓮譲状」が慶応大学の「相良文書」に残されて、東京大学資料編纂所でデーターベース化が進められている。
その中には、妻と見られる「宇葉伊路」に宛てた数通の「譲状」も遺されている。
(※事例のものは妻?の「宇葉伊路」に鎌倉の知行地を譲った譲状⇒「慶応通信」参照)

「沙弥迎蓮」が「蓮華王院領吉岡庄」(※高岡市福岡町赤丸周辺)の地頭になっていたのは、「吾妻鏡」に後白河上皇のクレームで頼朝から解任された記事が登場する「吉岡成佐」の数代後に就任している。




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💥💥 「赤丸村村御印紛失事件」(安永7年5月12日 ※1757年)と、加賀藩の仕置き。

2017-03-24 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「江戸時代の刑罰」
【追放刑 ⇒重追放( 闕所 )、中追放、十里四方追放、※江戸払い、所払い 】



【手鎖、村役人預り】


【(例)砺波郡頭川村村御印 】


五位庄赤丸村で突然に大事件が勃発した。何と加賀藩が示した「納税命令書」に当たる「村御印」と呼ばれた重要書類を、赤丸村肝煎の五右衛門が紛失したと云う。この「村御印」は再発行されない重要書類で在り、これに基づいて十村役、肝煎、組合頭が連帯責任で毎年納税する為にも重要で、加賀藩としては重大な事件で在った。
赤丸村では、その直前に「肝煎 市右エ門」が「所払い」の刑を受け、その後の財産等を弟の「五右衛門」に引き継いでいた。
この「所払い」は「好ましく無い話しを広げたり、所払いの人間を匿う事等」がその罪の対照に成った。「所払い」は刑罰としては「追放」の内で最も軽い罪で在ったが、市右衛門は全財産を弟の五右衛門に譲って自らは国吉村に動いた。
その後、赤丸村五右衛門が保管していた「村御印」が紛失して、肝煎 五右衛門は十村役の杉野家に届出した。恐らく、交替の時に市右衛門が慌ただしく村を出た為に引き継ぎの過程でこの書類が紛失した様だ。
その結果、肝煎五右衛門に「手鎖、縮込め、村役人預り」の処分が降り、組合頭が連帯して罪人を預かった。
その後、厳しい取調で五右衛門は病気に成り亡くなった様だ。






この事件の為に、赤丸村の「村御印」はその後も再発行されず、代々、村役人が変わる度に十村役、奉行に「村御印紛失届」を提出していた。
その記録が「高岡市福岡歴史民俗資料館」の「杉野家文書」に17枚の古文書として遺されている。

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💠🔷🔶「保元の乱」「承久の乱」後の「越中吉岡庄」と「衆徳山総持寺の国指定重要文化財木造千手観音坐像」 !!

2017-03-24 | 富山県高岡市福岡町赤丸村









《保元の乱と越中吉岡庄》
保元元年(久寿3年、1156年)7月10日、左大臣・藤原氏長者藤原頼長と崇徳上皇は朝廷側の後白河天皇・平清盛・源義朝等の軍勢に攻撃され、数時間の戦闘で敢無く敗れた。崇徳上皇は仁和寺に救いを求めたが断られて朝廷側に捕えられた。
その前年の久寿2年近衛天皇が崩御され、7月24日の後白河天皇践祚をきっかけに、後白河天皇側から頼長が呪詛した為に近衛天皇が亡くなったとの風聞が撒かれ、久寿3年7月2日に鳥羽法皇が崩御すると、前年に正室の幸子を亡くした藤原頼長に対して容赦の無い攻撃が始まった。後白河天皇側は7月8日には頼長の東三条邸を武力で接収して、攻撃を開始した。崇徳上皇と藤原頼長は白河北殿に移るが、源義朝等に攻撃されて敗走する。久寿3年7月14日、藤原頼長は首に流れ矢を受けて父の忠実に助けを求めるが拒否され、37歳で死亡した。崇徳上皇は7月23日讃岐国に流され、保元2年3月25日、藤原頼長の所領29か所は後白河上皇の後院領に組み入れられた。
後白河上皇の時、治承元年(1177年)、朝廷は讃岐院と呼ばれていた崇徳天皇に追号を、藤原頼長に正一位・太政大臣を贈っている。次いで、寿永3年(1184年)には、崇徳天皇と藤原頼長を霊神とする霊社(後の粟田宮)を保元の古戦場に建立して、悪霊と化して転変地異を起こす二人を神として祀っている。後白河天皇側としては、相次ぐ転変地異を二人の怨霊のせいだと恐れたらしい。
讃岐の金毘羅宮には崇徳天皇を祀り、歴代の天皇はその霊位を恐れて勅使を派遣している。
藤原頼長は左大臣として厳しい掟と裁きをした為、「悪左府」と恐れられた。時には罪人の腕を切り、貴族の館内までも罪人を追いかけて切り殺させる等、周辺はその厳しさに慄いていたらしい。後白河側に皇位継承権を奪われ、失意の中に有った崇徳上皇は、藤原頼長を近臣としていた為に、鳥羽法皇の死去をきっかけに反乱を起こすと懸念され、後白河天皇側に先手を打たれて失意の内に死亡した。
藤原頼長の父忠実は、その子の忠通に弟で庶子の頼長を養子に迎えさせ、頼長に摂関家長者として荘園等の財産も譲り渡していた。この複雑な人間関係と崇徳上皇と後白河天皇の関係が絡み会い、後白河天皇と忠通、崇徳上皇と頼長のグループの対立に至る。頼長が敗れると直ちに朝廷は藤原忠通に藤原氏長者の宣旨を下し、従来の藤原氏長者の荘園は忠通に受け継がせ、頼長の個人的な荘園は後院領に組み入れられたと云う。
■この時に没官されて後白河上皇の後院領に組み込まれたのは、北陸では「赤丸浅井城」を中心とする「越中吉岡庄」(後の五位庄) と能登の「一青庄」(ヒトトソウ・シトドソウ) であった。「越中吉岡庄」が「五位庄」(※53ケ村) となったのは、加賀藩の記録「宝永誌」によると南北朝時代に後醍醐天皇第八皇子宗良親王の命名に拠ると云う。
■「赤丸浅井城」の設置年代は不詳だが、越中の古書の「肯搆泉達録」には「浅井城と云ふあり 元正天皇の皇子在せし所と云ふ」と記載され、「赤丸名勝誌」には「花園天皇の頃より石黒光弘の後裔此地に住して延元中次郎光景此の城にありて南朝のために謀ることあり」と記載されている。又、「天正以降相伝へて二十四郷一庄一山(五ケ山)となれり 其の一庄は即ち五位庄なり」とも記載されている。



《河内金剛寺と衆徳山総持寺の国指定重要文化財「木造千手観音坐像」》
高岡市の衆徳山総持寺の国指定重要文化財「木造千手観音坐像」は昭和十二年に国宝に指定された時、胎内名に記載されている僧「禅恵」が後村上天皇、長慶天皇を護持した金剛寺の僧で有った事から、南朝の牙城で有った河内の金剛寺から伝わったと判定された。この寺は宇多法王を第一世とする「真言宗御室派」だが、藤原氏の寺の「興福寺」から代々の長者が派遣される由緒の有る寺で、空海が修業した事も有る事から、「高野山」の別院的な扱いを受けていた。高野山が女人禁制で、この寺は女人の参詣を許した事から「女人高野」と呼ばれていた。
河内金剛寺の結縁過去帳によると「鳥羽太上法王、鳥羽法皇の中宮美福門院、近衛院、後白河院、二條院、八条院、三條宮(高倉宮以仁王)、仁和寺宮(後白河の子守覚法親王)、九条兼実、宣秋門院(後鳥羽院中宮任子)、春華門院(後鳥羽院娘)、右大将源頼朝、入道圓位(西行)、楼子内親王(鳥羽天皇の娘)、女廊御方(平清盛・常盤の娘)」等男女を交えて、一級の著名人ばかりが記載されている。

衆徳山総持寺の「木造千手観音坐像」が伝来したのは、その胎内に「正平八年 御入り」と記載されている事から、後醍醐天皇(1288-1339年)の子の後村上天皇(1328-1368年・母は阿野廉子 )の時代の正平8年(1353年)とされている。
後醍醐天皇の中宮は西園寺禧子(藤原禧子)で有るが、西園寺禧子は太政大臣西園寺実兼の三女で、姉は亀山上皇の妃の西園寺瑛子(昭訓門院)で有り、この家系は藤原氏の中でも代々、中宮を輩出してきた家系であった。この家系は閑院流藤原氏と呼ばれ、藤原道長の叔父の閑院大臣藤原公季に始まり、藤原北家の基礎を築いた藤原冬嗣の邸宅の閑院を伝領した事から「藤原氏閑院流」と呼ばれた。この家系からは後三条天皇妃、白河天皇の母の茂子、鳥羽天皇の生母苡子、崇徳天皇・後白河天皇の母璋子等を輩出している。この家系は璋子の父公実の次代に、三条家、西園寺家、徳大寺家に分かれたが、元越中吉岡庄の領主・左大臣・藤原氏長者藤原頼長の妻藤原幸子はこの閑院流藤原氏の徳大寺内大臣実能の第一女で有った。この様に見ると、何と白河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇・後白河天皇の実母は閑院流藤原氏で有り、藤原頼長の妻藤原幸子と後醍醐天皇の中宮西園寺禧子・妃の阿野廉子も閑院流藤原氏である。「金剛寺結縁過去帳」を見ると、これ等の閑院流藤原氏の関係者が多く記載されている。しかも、後鳥羽院こそこの中に見られないものの、後鳥羽院中宮任子(宣秋門院※父は九条兼実、母は後鳥羽天皇の乳母藤原兼子)、後鳥羽院娘(春華門院※母は任子、八条院猶子)の名前が「結縁過去帳」に記載されている。「結縁過去帳」は「結縁灌頂」を受けた人の名簿で有るから後鳥羽院の妻と娘は金剛寺で灌頂を受けていた事になる。
■九条兼実の妻兼子は後鳥羽院の乳母、後鳥羽院中宮任子の母で有るだけでなく、坊門信清の娘の生んだ後鳥羽天皇の皇子の頼仁親王(1201-1264年、承久の乱に関わり備前児島に配流)も養育している。九条兼実は娘の任子に男子が生まれなかった為に失脚している。
■閑院流藤原氏の中に「西園寺寧子。広義門院。父左大臣西園寺公衡、母従三位藤原兼子(九条兼実の妻とは別人)。後伏見天皇女御。光厳天皇・光明天皇・景仁親王・子内親王等母。花園天皇准母。正応5(1292)年生。建武3/延元元(1336)年落飾。延文2/正平12(1357)年閏7月22日薨)」との記載有り、北朝の光厳天皇・光明天皇の母で後に北朝で上皇の役割を担った西園寺寧子は後醍醐天皇の中宮西園寺禧子とは同族であった。正平7年(1352年)南朝側後村上天皇は北朝の光厳上皇・光明上皇と 光厳の子の崇光上皇、前皇太子・直仁親王を拉致し、奈良県賀名生を経て、正平9年(1354年)には河内天野山金剛寺に移り、ここに一時期、金剛寺は南朝と北朝双方の行宮となった。金剛寺の僧「禅恵」はこの時に、南朝・北朝の天皇・上皇に講義をしたと伝わる。総持寺の観音像が伝わったとされる正平8年には、河内金剛寺にとっては一触即発の危険な状況で有った。
■後白河--高倉--安徳・後鳥羽の天皇の流れには藤原氏閑院流の血脈が流れており、後醍醐天皇の中宮西園寺禧子、妃の阿野廉子も同族で有り、女系血族の関係が強い。後鳥羽上皇、後醍醐天皇は共に幕府に隠岐の島に配流されており、共通点も有る。後鳥羽上皇が祈願して製作された千手観音像に対する後醍醐天皇の思い入れが強かったのも血縁と似通った境遇が有ったからかも知れない。


《衆徳山総持寺の木造千手観音坐像と後鳥羽上皇・承久の乱》
衆徳山総持寺の木造千手観音坐像の胎内名に有る「藤原浄円」(※1225-1239年) は藤原氏系図で見ると藤原北家で有る。この人物は鎌倉幕府の評定衆を務め、「御成敗式目」の草案をたした人物である。後鳥羽上皇(※1180-1239年) は最後の源家将軍の源実朝に肩入れしていたが、実朝が亡くなると、後鳥羽上皇の愛妾亀菊の荘園を幕府の地頭が荒らした為、地頭を廃止する様に申し入れる。しかし、幕府はアッサリこれを拒否する。上皇はこれをキッカケに藤原北家流で北面・西面武士の一族で河内守、能登守等を歴任した藤原秀康(藤原秀郷流)を中心に北条氏追討の院宣を出して「承久の乱」(※承久3年・1221年) が始まる。越中の宮崎氏、石黒氏等は後鳥羽上皇側で戦ったが、敗れて降伏したと云う。敗色が濃くなった後鳥羽上皇は上皇側の武将を裏切り、逆に追討の宣旨を出して、自分だけが助かろうと画策する。その結果、味方の藤原秀康他の武将は捕えられ惨殺されたと云う。後鳥羽上皇も隠岐に流される時、息子の仁和寺御室「道助入道親王」(長仁親王、1196-1249)により出家し、法名を「金剛理 良然」と名付けられた。後鳥羽上皇は亡くなると「隠岐院」と諡号されたが、その後「顕徳院」と訂正された。しかし、後鳥羽上皇の怨霊を恐れて、「崇徳」「安徳」「顕徳」に共通する「徳」は禍をもたらすとして、改めて「後鳥羽院」と諡号したと云う。
■歴代の天皇で諡号に「顕」の字が用いられたのは後鳥羽上皇だけである。(総持寺千手観音の胎内名に「顕」に近い文字が有る。)
後鳥羽上皇は菊花を愛し、衣装、刀等にも菊花の紋章を入れた。これが、現在、パスポート等に国章として使用されている十六菊紋の初めである。後鳥羽上皇は自ら刀を鍛え、お抱えの刀鍛冶に作らせた刀にも菊花を彫り込ませたが、この刀を「菊一文字」と云う。
尚、総持寺の千手観音像の台座は普通、蓮の花の 「蓮花座」であるが、良く観察するとこの台座には「菊の花弁」や「小菊」「菊の蕾」が配されている様だ。
■「斉藤長定藤原浄円入道」と「後鳥羽上皇」は「吾妻鏡」に拠ると、同じ年の1239年に亡くなっている。


《衆徳山総持寺の木造千手観音坐像の製作と伝来》
衆徳山総持寺の国指定重要文化財「木造千手観音坐像」は、河内地方の南北朝の戦乱を避けて越中吉岡庄に避難したと考えられる。しかし、この観音像の胎内名を調査すると明らかに鎌倉時代の製作であるにも関わらず、文化財行政の官庁は口を揃えて南北朝時代の製作だと云う。
河内金剛寺には「金剛寺住持の持仏に仏舎利5粒を施入した」との文観と後醍醐天皇の書簡が残り、実際に総持寺の「木造千手観音坐像」の顔の内部の胎内名には「奉納 仏舎利」と2か所に記載されている。河内金剛寺は現在、建物、仏像の修復を行っているが、河内金剛寺には現在、この仏舎利を施入した仏像は見当たらないと云う。
この仏像は国宝指定の際も仏像の専門家は参加しておらず、胎内名の「禅恵」が決め手になったらしい。昭和38年にこの仏像はバラバラに解体され、胎内名の調査も行われた。しかし、肝心の仏の白毫下の埋木部分の調査記録が無い。東寺の仏は白毫の下に金の小さな容器に米粒位の仏舎利を入れて埋め込み、その上に埋め木を施し、更にその上に「白毫」を取り付けているらしい。東寺の仏を修理した運慶は解体修理の際に初めて白毫の下の仏斜容器を発見したと云う。その後、慶派はその様に仏像を製作したかは判らないが、少なくともこの総持寺の観音像には「奉納仏舎利」と記載して有る訳だから、少なくても国の重要文化財にも指定されたこの仏像は再調査すべきである。東寺に伝わる「仏舎利」は「勅封」が施されている程、貴重な宝物で有る。これ等の事が調査・研究されてその経緯が判れば、河内地方にとっても、もちろん富山県にとっても、いや文化庁にとってもスゴイ発見になると思われる。(✳近年、総持寺で古い「舎利容器」が2基発見されている。この「舎利容器」がどこに在ったものかは未調査だが、1基は相当古いものだ。)
この観音像に何故、後鳥羽上皇の法名が有るかは以上の経過を見れば判ってくる。何故、後醍醐天皇はこの金剛寺住持の持仏に空海が唐から持ち帰ったと云う貴重な仏舎利80粒の内から5粒も施入したのか? それも「女人高野」に安置されていた仏の由来を検討すれば判ってくる。


衆徳山総持寺の国指定重要文化財「木造千手観音坐像」の胎内名と河内金剛寺に残る後醍醐天皇・文観による東寺仏舎利施入状。









藤原北家「藤原浄円斉藤長定」の記載。


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📕🗻 「越中五位庄」に創建された「高獄山雲龍寺」 の真実⇒室町時代に創建された古刹の由緒は誤っているのか?

2017-03-23 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「越中五位庄」に創建された『高獄山雲龍寺』⇒「加賀半国を与えられた赤松次郎政則に関する伝承」と兼六園近くの金沢市小立野に在る「雲龍寺由緒」の調査!!














富山県内の各図書館に「雲龍寺と赤松政則」と云う書籍が在る。その中で、越中五位庄高畑村(加茂村)の「加茂城」に「赤松次郎政則」が在城し、その時に加茂城下に「高獄山雲龍寺」を開いたとされている。地元の人達が「雲龍寺」の石標を発見してからこのストーリーは広く県内で流布されている。

「雲龍寺」が金沢へ動いた後に八世天景が赤丸村に創建したと云う「天景寺」
(高岡市関町)


「嘉吉の乱」で、室町幕府重臣の赤松満祐は足利義満の子供の将軍足利義教を自宅に招いて殺害してしまう。その後、赤松氏は誅殺されて家門は断絶した。その後も赤松氏の残党はお家再興を目指して暗躍して、遂に後南朝の親王を殺害して奪われた天皇の神璽を取り返して、足利幕府に届け出て、お家の再興を果たし、3才の赤松次郎法師丸(元服して足利義政「法名慈照院」から一字を与えられて政則と成る。)を当主として加賀半国他を与えられた。この加賀半国は石川郡、河北郡辺りの加賀北部で在ったと云う。この地は元々、加賀富樫氏の領地で在った為に、赤松氏が統治する為に相当の争いが在ったと云う。
しかし、加賀藩の「森田柿園」は、「金沢古蹟志」でこの見解に異議を唱えている。森田柿園が調査した「高獄山雲龍寺由緒」には、「開基を赤松彦五郎政矩」で在るとされており、「政則」とは異なる事を指摘している。
この時期に、砺波郡の「越中五位庄」は富山市の蜷川城を居城としていた政所代越中蜷川氏が統治しており、その地に足利将軍近臣の蜷川氏を排除して迄、赤松氏に与えたのかも疑問が残る。しかも、この雲龍寺は、由緒からすると赤松政則が生まれる前に創建されており、柿園は創建の年代か、開基の誤りだろうとも指摘している。又、由緒に記された開基は「彦五郎政矩」で在り、別人で在る。

■『赤松彦五郎の事』
【太平記巻37「南方官軍落都事」
宮方には、今度京の敵を追落す程ならば、元弘の如く天下の武士皆こぼれて落て、付順ひ進せんずらんと被思けるに、案に相違して、始て参る武士こそなからめ。筑紫の菊池・伊予土居・得能、周防の大内介、越中の桃井、新田武蔵守・同左衛門佐、其外の一族共、国々に多しといへども、或は道を塞がれ、或は勢ひ未だ叶ざれば、一人も不上洛。結句伊勢の仁木右京大夫は、土岐が向城へよせて、打負て城へ引篭る。仁木中務少輔は、丹波にて仁木三郎に打負て都へ引返し、山名伊豆守は暫兵の疲を休めんとて、美作を引て伯耆へかへり、赤松彦五郎範実は、養父則祐様々に誘へ宥めけるに依て、又播磨へ下りぬと聞へければ、国々の将軍方機を得ずと云者なし。】と在り、南北朝末期に「赤松彦五郎」の名前が見られ、この当時は「足利義詮」の時代で在った。越中の桃井直常が「五位庄の戦い」(※応安4年、1371年、7月)で敗れた後に「赤松彦五郎範実?則尚?」が、南朝と北朝の激戦地の「五位庄」に「雲龍寺」を開いた可能性は考えられる。
【※赤松彦五郎則尚 ; 応永32年生(1425年)~享徳4年5月12日没(1455年6月26日)→「嘉吉の乱」では伯父の赤松満祐に従って播磨国で幕府軍と戦ったが、9月に満祐が自害すると、則尚は播磨から逃亡した。その後、各地に潜伏して御家再興を目指し、足利義政の時に山名氏と争い戦死した。】

・雲龍寺創建年 嘉吉元年(1441年)に越中五位庄に創建(※「雲龍寺由緒」)
【※曹洞宗本山記録は永正8年頃(1511年)としている。(開基)雲龍寺殿高峯生庵大禅定門
⇒雲龍寺殿とは赤松彦五郎政矩の事】
・「長禄の変」;長禄2年(1458年)8月に赤松一族が後南朝から奪還した神璽が京都に戻り、その功績により赤松家の再興が幕府から認められる。
・文正元年(1466年)に政則は幕府に分割された伊勢領の代わりに加賀国内で半国を与えられた。
・応仁の乱が始まり、応仁2年(1468年)迄には赤松領の加賀半国は富樫政親が奪回している。曹洞宗本山記録の《永正8年頃(1511年)創建》は応仁の乱後の再建年と思われる。
・文明16年(1484年)、加賀半国を加賀富樫氏に奪われた赤松政則は、家老達から連名で罷免する様に政所代蜷川新右エ門に申し立てられた。その上で家臣達は養子の有馬澄則の子「慶寿丸」を主君にしたいと申し入れた。


「相国寺蔭涼軒日録」によると、この時期には「五位庄」は足利家菩提寺の「等持寺」、「等持院」の庄園になっていた様で、何よりも、「能登半国」と「五位庄」が相当、距離的に離れている事にも疑問を感じる。
赤松満祐は当初、将軍足利義教(義円)と良好な関係に在ったが、義教に依る身内の殺害と周辺重臣の暗殺に危機感を持った赤松一族が自宅に将軍を招いて殺害し、一旦は追討を受けて滅亡した。その後、天皇の神璽を南朝から奪いお家の再興を果たしその後は足利幕府に再度仕えている。
「曹洞宗本山記録」に拠ればその創建は永正八年(1511年)頃とされており、その頃は第10代足利義材(再任して改め「足利義稙」)の時代で在る。「足利義材」は囚われていたが、越中の神保氏に助けられて越中放生津に逃れて「越中臨時政権」を立て、後に再任されて「足利義稙」と名乗っている。時代としては正にこの時期に当たる。
【「足利義稙」(初め義尹);永正5年7月1日(1508年) ~ 大永元年12月25日(1521年)】
(※高岡市石堤の「西光寺」には、この時期に「足利義材」が度々、寺を訪れて休んだと言う記録が遺されており、この地域は正にこの臨時政権の影響下に在った時期である。)

もう1つ指摘すれば、「赤松政則の居城」を、五位庄の「高畑村」の城としているが、金沢市の郊外の金沢東インター近くにも「金沢市高畠村」が在り、この地で在れば、充分に「加賀半国」の中に含まれていたと考えられる事だ。この寺が足利義材の越中在任の時に五位庄加茂村に動いたとすれば辻褄が会う。「五位庄」は室町幕府の三代将軍足利義満以降、足利家菩提寺の「相国寺」(※金閣寺)、「等持寺」、「等持院」の庄園になっていたから、「足利義材」が越中に逃れたのは室町幕府政所代の「越中蜷川氏」の代官「神保氏」の助けを受けた為だ。この時期に足利家家臣の赤松氏が、金沢市高畠村に在った「雲龍寺」を越中加茂村に動かした可能性が考えられる。従って、この「雲龍寺」は「金沢市高畠村に創建⇒高岡市加茂村に移転⇒金沢市小立野に移転」の歴史が在ると思われる。
(※金沢市高畠村に「高畠城」が在ったかは確認できていない。)
🔴高岡市加茂村の加茂城が在った場所は「高畑村」で在り、赤松氏が拠った「高畠城」は「高畠村」で在り、明らかに字が異なる。
森田柿園は金沢市の各地の由緒を調べて「金沢古蹟志 卅四巻」に納めているが、その調査は細密で在り、加賀藩の地理にも明るい森田柿園の意見の方がどう見ても妥当と考えられる。

●「赤松氏」については金沢市郊外に「別所」の地名を遺す「別所氏」、加賀藩に仕えた一族は「石野」と名乗り、「有馬氏」もこの係累に成り、相当な大族で在り、これ等の系図を調べるのは困難だが、豊臣秀吉の家臣だった赤松一族が前田利家に従って加賀藩に仕えたとされる事から、高岡市の「天景寺」を再建した「赤松氏家臣」は前田利家に従った赤松氏と言う事は推定できる。











■「天景寺」⇒「雲龍寺」が加賀藩の要請で金沢に動いた後の信徒を救う為に赤丸村に「天景寺」が創建された。この寺は雲龍寺八世「天景」から「天景寺」と名付けられて、高岡市関町に動いたが、加賀藩が「瑞龍寺」を建立した時に敷地を接収されて、再び現在地に動いた。
寺紋は赤松氏の「笹竜胆紋」を使用している。











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🔴🌸 「 日の丸 」と「菊花紋章 」 の始まり ⇒天皇家庄園「越中吉岡庄」に残る「日本文化のルーツ」!!

2017-03-23 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「両部神道 延喜式内社赤丸浅井神社」の「古い社殿」と「両部鳥居」













神仏を併せて信仰した「赤丸浅井神社」は別当寺「川人山鞍馬寺」が併設され、門跡寺院「聖護院派」の寺院で在った。
「両部鳥居」は本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)が在り、その笠木の上にも屋根がある鳥居。「両部」とは密教の金胎両部(金剛界・胎蔵界)を云い、神仏習合で在った。「四脚鳥居」、「稚児柱鳥居」、「権現鳥居」、「枠指鳥居」等とも呼ばれた。明治に入り両部神道が廃止された為、「赤丸浅井神社」に奉仕していた山伏「西宝院」は還俗して「川人他治馬」と名乗った。鳥居もこの時に神道の鳥居に建て変えられ、敷地内に在った「西宝院」の建物の拝殿が現在の神社拝殿として移設されて一部は新築され、旧の社殿は高岡市羽広の「諏訪社」の社殿として移設され現在も使用されている。この建物にも赤丸浅井神社と同じく天皇家の「十六菊菊花紋」が刻まれており、この紋は「越中吉岡庄」を所領とされた「後鳥羽院」が衣装他の全てに付けられた紋で在る。この紋は現在、天皇家の紋として、又、パスポート等にも使用されて「国章」として使用されている。後の吉岡庄領主「後醍醐天皇」は冠に日輪を付けて、錦の御旗の金の丸を「赤丸」の血の色に染めて、倒幕の旗標とされた。「赤丸村」には、あちこちに天皇家庄園「越中吉岡庄」の時代の面影が遺されている。「赤丸浅井神社」は皇室の主祭神「正一位 高皇産霊神」を主祭神としている。
山伏には「本山派聖護院派」と「当山派」の二流が在り、山伏の衣装も異なっており、歌舞伎等に見られる山伏は本山派の衣装で在る。「本山派」は「三井寺」が検校ケンギョウを勤めていたが、「後白河上皇」は比叡山山伏を牽制する為に三井寺で出家され、本山派の支援者で在った為、比叡山山伏は度々、神輿を担いで朝廷に「強訴」をして強迫した。平清盛はこれに対して比叡山で出家して比叡山山伏を引き入れて安芸の宮島を建立した。宮島の鳥居もこの「両部鳥居」で在る。













現在高岡市内に在る「総持寺」は「越中吉岡庄」の赤丸村から動いた。







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🏯🎠「越中石黒氏」は「孝霊天皇」の子孫か?⇒「坂上田村麿」の ルーツと「百済国」。

2017-03-22 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「菅原道真」の編纂による「六国史 三代実録」の記載には「坂上氏は後漢孝霊皇帝の末裔」とされ、百済からやって来たと記されている。




東大寺大仏造営の時に「米五千石」を寄進して国司待遇の「員外介」に昇任した「利波臣志留志」の子孫は「越中石黒氏」とされる。「石黒光景」は赤丸浅井城を築き、その子の「石黒光広」は福岡町の木舟城に在城したと伝わる。「越中石黒氏」については、「孝霊天皇」の子孫とされる系図と、その次の「孝元天皇」の子孫とされる二つの系図が在る。「古事記」では「孝霊天皇」の子の「日子刺肩別命」の子に「高志利波臣」が登場する。一方、「孝元天皇」の子孫の「武内宿弥」を祖先とする系図では、「射水臣」の同族として登場する。北陸各県の県史では一般的にこの「武内宿弥」を祖先とする系図が採用されている。





菅原道真の編集とされる清和源氏の祖の清和天皇の時代の記録の「三代実録」には興味が有る事が記載されている。その上巻823(※大岡山書店版)には、「後漢の孝霊皇帝の四代の孫、阿智使主の子孫の坂上伊美吉能文等九人に坂上宿弥と賜姓した」、「百済から来た」と記されており、この「孝霊天皇は後漢の孝霊皇帝の名前を借りたもの」だったと事を記している。何故、後漢の皇帝の名前を借りたのか? 漢の末裔の血筋が入っていたものか? 後漢の末裔の坂上田村麿とは縁者だったのか? 日本の歴史の中でこの時代は「欠史八代」と呼ばれ、実在が懸念されている。勇将「坂上田村麿」の一族は百済から来たとされ、古事記に登場する「高志利波臣」は「百済系」の一族とされ、東大寺の大仏造営の勧進をした「行基」も「本姓高志氏」とされ、百済氏族だったとその墓誌銘には記載される。「僧行基」は余りにも有名で各地に伝承が残る事から架空の人物の様に考えられているが、実際にその骨壺の断片も発掘されている。(※下記の記載中の黒い部分が残欠部分)




一方、越中石黒氏が「武内宿弥」の系統という事になれば、この一族は蘇我氏や紀氏等の朝廷の中核になった貴族の系統という事になる。従って、この系統とされれば、この「利波臣」は大和系の一族という事に成り、説明がし易い。
そこで、疑問とされるのが、聖武天皇の発願によって東大寺の大仏造営が進められた時にその中心に在った僧「行基」の勧進に、何故、越中の「利波臣志留志」が率先して筆頭になる位の「米五千石」もの大金を寄進したかと言う疑問が残る。当時としては、寄進の額によって昇進が決まっていた事は勿論その背景に有るが、同じ「高志氏」の「行基」により「利波臣」が協力を求められたとすれば、分かりやすい。

「行基」は各地に寺社を建てたとされるが、石黒氏が居城とした「赤丸浅井城」の守護神である「赤丸浅井神社」も、「行基」が開いたと伝わる事も、石黒氏と行基の繋がりを窺わせる。
古代には、中国の秦の始皇帝の子孫が日本に逃れて「秦氏」の姓を受け、京都の太秦等に機織りの文化を伝え、或は、百済や新羅等の韓国系貴族が亡命して、大和朝廷で姓を受け、領地を授けられて優遇されている。
特に清和天皇の時代に「坂上氏」の姓を受けた一族から、蝦夷征伐の英雄「坂上田村麿」が出現して、京都の「愛宕山」や「清水寺」では本尊として「坂上田村麿」の騎馬像「将軍地蔵」が奉られ、その後も武士が戦場に出向く時には、冑の中に「冑仏」としてこの「坂上田村麿」の騎馬像を納めて戦っている。「三代実録」によると、この「坂上田村麿」が「高志氏」、「利波臣」(※石黒氏)が同族という事になれば、見方によれば「武内宿弥」と「坂上田村麿」との混同が在った事も考えられる。この「三代実録」や「利波臣系図」、「越中石黒系図」の記録はどれもが作為的に改変されている事も考えられるが、「古事記」が意図的に改変されているとする歴史学者もおられ、この「三代実録」の記載では新たな第三の系統が出現した事に成り、疑問は広がるばかりだ。
「赤丸浅井神社」の背後にはこの「坂上田村麿」の「将軍地蔵」を祀った「愛宕社」が在り、この神社の別当は後に還俗して「愛山」を名乗っており、「赤丸浅井神社」鳥居や設備に愛山氏の寄進が多い事から、この愛宕社が「越中石黒氏」と相当の関係が在った事も窺わせるのだ。この「将軍地蔵」は明治の廃仏毀釈の後に「愛宕社」が閉鎖され、神官の愛山氏が北海道へ去った時に、高岡市天景寺(※元々赤丸村に在った。)に客仏として動いたものと見られる。
(※「赤丸浅井神社三社権現」の一社の「舞谷八幡宮」もこの「坂上田村麿」や「武内宿弥」を武神とした越中石黒氏の信仰に繋がるものだろうか?

「京都愛宕社」と「赤丸愛宕社」の「将軍地蔵」(※坂上田村麿像)


「京都清水寺」の「坂上田村麿像」


「越中石黒氏」の先祖の「利波臣志留志」は東大寺大仏造営に際して全国の豪族に率先して米五千石(※東大寺要録)を寄進して国司待遇に昇進して、越中に30%近く在った東大寺の庄園開発に当たっており、「東大寺庄園図」にも志留志のサインが在る。⇒「利波臣志留志」は「利波臣志留」と言う人物で「志 サクヮン」と言う当時の役職で在った人物と云う意味で有り、当時の役職ー正八位下【大志】、従八位上【少志】と言う位階から当時の地方官の役職を示している。当時の「四部官制」と言う役職により「カミ、スケ、ジョウ、サカン」は様々な文字で表されており、「神祗官」では伯・副・佑・史、「省」では鄕・輔・丞・録、「職」では大夫・亮・進・属、「寮」では頭・助・ 允・属、「国」では守・介・掾・目と異なった文字を使用するが、すべて『かみ』『すけ』『じょう』『 さかん』と読み、【兵衛府、衛門府、検非遣使】では「督」、「佐」、「尉」、「志」を使用している。「利波臣」は武人としてこの「志 サカン」を当てた官職だった様だ。
⇒★この御指摘は東大寺に御問い合わせの上確認済み。一般的にその名前を「利波臣志留志」としているのは誤りである。)








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🎌🔴「赤丸浅井神社」と「後醍醐天皇第八皇子宗良親王」ー「高岡市史」の欺瞞!!

2017-03-22 | 富山県高岡市福岡町赤丸村

『越中の平安時代の藤原氏の庄園』


🔷『後白河上皇の庄園と成った越中吉岡庄』の記載
⇒【平範記】(※以下は、別名「人車記」と言われる近衛家陽明文庫保管の原本の陰影版)





赤丸浅井神社由緒(部分)




赤丸村は南北朝期迄「越中吉岡庄」と呼ばれた皇室領で在った事は、国立歴史民俗博物館のデータベースを調べても判る。その中心は高岡市石堤の「長光寺」の敷地に在った「総持寺」で在ったと「高岡市史」は主張したい様である。長光寺の敷地に総持寺が在ったという事実は聞いた事が無い。一方、赤丸村では古地図に在った赤丸の「観音堂遺跡」が総持寺の旧地で、総持寺は元々、両部神道「川人山鞍馬寺」の48坊の一つとしている。総持寺の過去帳には赤丸浅井神社の別当の西宝院の法名が残り、総持寺の持宮の「熊野社」は現在赤丸浅井神社に合祀されている。(「※越中古文抄」高岡市中央図書館蔵)
「高岡市史」は、高岡市の「福田荘」こそ「天台宗妙法院領」で在り、宗良親王が越中に入られた興国三年頃は持妙院統の「北朝」の亮性法親王が座主で在ったから、天台座主もされた「南朝」の宗良親王(大覚寺統)は当然、福田荘を頼りにされたと云う。??

■以下の歌は「赤丸浅井神社」では宗良親王が「赤丸浅井城」に入られ、城ケ平の親王屋敷に入られた時の歌としているが、「高岡市史」はこれを全否定して「これは妙法院領の福田庄で歌われたもの」としている。
「李花集」宗良親王の御歌
興国三年越中国にすみ侍りし頃、羇中百首よみ侍ける歌の中に神祗を
かそふれば七とせもへぬ頼みこしななの社のかけを離れて

■「高岡市史」では、赤丸浅井神社に伝わる宗良親王の「七の社のかけを離れて」の御歌は実は、「福田庄」で歌われたものだとして、赤丸の浅井城の話しは「勝手に改変される伝説で史料的価値は認められない」と否定している。しかし、この時の妙法院座主は次の資料を参照すると持妙院統の北朝初代光厳天皇の時代で有り、大覚寺統で、南朝の為に越中に入られた宗良親王が敵側の福田庄を頼られたというのは信じ難い。又、その福田庄で地元民が「延喜式内社荊波神社」と唱えている事についても「高岡市史」では「式内社を称するのはいささか疑わしい」と資料も示さず根拠も無く否定している。地元で「延喜式内社荊波神社」として信仰している神社も実は「十禪師社」という神社で天台宗の比叡山七社の一つの神社と主張している。地元の福田地区では、当初は「延喜式内社荊波神社」であったが妙法院領になってから神仏混淆の「十禪師大明神」になったとし、現在は「延喜式内社荊波神社」と称して高岡市の観光コースにも入っている。しかし、これも「高岡市史」は地元民の信仰を否定して、その史実も否定しているのだ。ある人に取ってはその「神」は至上のもので、信仰の自由は根拠無く否定されてはならない。否定するなら根拠資料をキチンと示して、「史実」を明らかにして、後に混乱が生じない様にするべきだろう。

●一説に、宗良親王は「佐野に入られた。」とする説がある。高岡市佐野は古くは現在の越中宮極楽寺の敷地の裏の段差部分迄が「佐野」で在ったと地元の古老は言う。(佐野台地)
とすれば、後に極楽寺が守山から現在地に動いたのは、元々、宗良親王の御所が在った地域に動いたのだろうか?

(※「歴代妙法院座主」・部分
●尊澄法親王(宗良親王) (南朝:大覚寺統) 後醍醐院皇子。母藤原為世女贈従三位為子。還俗宗良。二品〔諸門跡譜作一品〕。天台座主。護持僧。【1325年(正中2年)妙法院門跡を継承。続いて1330年(元徳2年)には天台座主に任じられるも、元弘の変により捕らえられ讃岐国に流罪となる。】
🔹宗良親王が越中に入られたのは興国三年だから、北朝の光明天皇(北朝)の時代である。この時期には妙法院領福田庄も北朝の影響下に在ったものと考えられる。
●亮性法親王(1318-1363) (北朝:持明院統) 後伏見院皇子。天台座主。護持僧。
●堯仁法親王(北朝) 後光厳院皇子。母勘解由小路兼綱女仲子(崇賢門院。実石清水八幡宮祠官紀〔善法寺〕通清女。号梅町殿)。一品。天台座主。護持僧。
●堯性法親王 (北朝) 後光厳院皇子。応安4/建徳2(1371)年生。嘉慶2/元中5年正月26日(1388年3月5日)自害。
◎亮性法親王(リョウショウ)(1318年-1363年 鎌倉-南北朝時代,北朝後伏見天皇の第9皇子)は康永3年(南朝 興国5年)近江守護佐々木高氏父子が妙法院を焼き討ちして寺領券が消失した為に官符により証明を求め、天台座主慈円⇒後鳥羽上皇皇子朝仁親王⇒妙法院領として伝領し、妙法院では円実法眼の私領⇒浄仁比丘尼⇒公性僧正⇒尊教僧正(父は太政大臣西園寺公相)⇒実静僧正(西園寺公基の子)⇒亮性法親王に伝領した事の経緯を述べている。(✳「妙法院文書、大日本資料6/8」)(【角川日本地名大辞典16富山県】参照)
この経緯を見ると、尊教僧正は正和3年(1314年)4月妙法院門跡及び荘園・坊舎などを西園寺実兼の子の権僧正性守に譲与した経緯が抜けているものの、この中に宗良親王の所有については出ていない。宗良親王は妙法院に入り1325年(正中2年)に妙法院門跡を継承。続いて1330年(元徳2年)には天台座主に任じられた。宗良親王の弟子として亮性法親王の名が見られる。

★光厳天皇(北朝1代目:1331年10月22日-1364年7月7日 (正和2年7月9日<1313年8月1日>- 正平19年7月7日<1364年8月5日>)
★光明天皇(北朝2代目):1336年9月20日(建武3年<延元元年>8月15日)- 1348年11月18日(貞和4年<正平3年>10月27日)
★崇光天皇(北朝3代目):1348年11月18日(貞和4年<正平3年>10月27日) - 1351年11月26日(観応2年<正平6年>11月7日)
★ 後光厳天皇(北朝4代目):1352年9月25日(文和元年<正平8年>8月17日) - 1371年4月9日(応安4年<建徳2年>3月23日)

興国 元年 2年 3年 4年 5年 6年 7年
西暦 1340年 1341年 1342年 1343年 1344年 1345年 1346年
北朝 暦応3年 暦応4年 康永元年 康永2年 康永3年 貞和元年 貞和2年
干支 庚辰 辛巳 壬午 癸未 甲申 乙酉 丙戌

【参考】(妙法院の歴代住職の流れ)【出典:安藤希章著『神殿大観』】
1最澄:日本天台宗開祖。伝教大師。延暦寺浄土院に墓。
2円仁:天台宗山門派開祖。慈覚大師。比叡山に墓。
3恵亮:内供奉十禅師。西塔宝幢院検校。大楽大師
4常済:西塔院院主。
5延昌:法性寺座主。天台座主。慈念とも。
6陽生:竹林院に住す。天台座主。
7教円:天台座主。
8勝範:天台座主。
9定慶
10源暹
11相命
12快実
13快修:天台座主。この頃から妙法院と号したらしい。
14後白河法皇(行真)蓮花王院三十三間堂建立、越中吉岡庄を蓮花王院に寄進。
15昌雲:新日吉神社検校
16実全:天台座主。綾小路座主と呼ばれた。
17尊性法親王:守貞親王(後高倉院)の第1王子。天台座主。四天王寺別当。綾小路宮。
18尊恵
19俊円
20尊守法親王:土御門天皇の第2皇子。高橋宮。
21性恵法親王:亀山天皇の皇子。綾小路宮。
22尊教
23性守
24尊澄法親王(宗良親王):後醍醐天皇(南朝)の皇子。天台座主。井伊谷宮祭神。宗良親王墓。⇒亮性法親王の師に当たる。
25亮性法親王:後伏見天皇(北朝)の第9皇子。日厳院住職。天台座主。⇒以降は北朝の親王に受け継がれるが、数度に亘り『宗良親王』が妙法院院主に再任されたと云う。
26亮仁:後光厳天皇の第2皇子。
27尭仁法親王:後光厳天皇の第7皇子。天台座主。四天王寺別当。
28尭性法親王:後光厳天皇の皇子。
29明仁法親王:木寺宮出身。
30教覚:天台座主。
31覚胤法親王:伏見宮貞常親王の王子。日厳院住職。天台座主。
32尭尊法親王:伏見宮貞敦親王の王子。天台座主。
33常胤法親王:伏見宮邦輔親王の第5王子。天台座主。『方広寺別当』(聖護院)。妙法院宮墓地。
34尭然法親王:後陽成天皇の第6皇子。天台座主。妙法院宮墓地。
35堯性法親王 ;(北朝) 後光厳院皇子。応安4/建徳2(1371)年生。嘉慶2/元中5年正月26日(1388年3月5日)自害。 (以下省略)

🔴「妙法院」と「赤丸浅井神社」の関係
京都大仏で有名だった『方広寺』は、この時期には「聖護院派」に属し、聖護院別院の扱いを受けていたと云う。「赤丸浅井神社」は聖護院派(本山派山伏)で在った為に徳川家康が豊臣恩顧の宗教として弾圧し、関ヶ原の戦い後、聖護院別当は江戸に呼ばれて暗殺されたと云う。
🌸「豊臣秀吉」、「豊臣秀頼」が情熱を注いだ「方広寺」と『京都大仏』
数回の火災、震災等で倒壊したと云う。







【■「高岡市史」は高岡市福田の「荊波神社」に「式内社」としての疑議をはさみ、この「福田庄は妙法院領で在った」からだとしている。その為に「砺波市」や「福光町」の「延喜式内社荊波神社」と称する神社を取り上げてその反証を試みているが、他の神社は何れも越中石黒氏の祖先神を祀っており、国指定の神社としてはその要件を満たしていない。
因みに、「延喜式内社荊波神社」は富山県福光町岩木にも有り、ここは石黒氏の祖の越中利波臣の先祖の「日子刺肩別命」を祭神にしている。岩木集落の浄土真宗大谷派金色山慶誓寺が在り、神社には「荊波神社」が鎮座する。昔は近くに在った山伏石黒山寛勝寺が別当で、この神社後方の山中には福光町指定史跡の「志留志塚」(利波臣志留志の墓とされる)が在る。この別当は宝歴二年から大正八年迄の167年間、石黒氏が石動山修験道の山伏として別当を勤めたが、明治に入り修験道を真言宗か天台宗に改宗させる動きになって横浜に移住して火災で亡くなり途絶えたと云う。1653年(承応二年)「越中国式内等旧記」に「岩木富士神社 同郷(石黒郷)岩木村鎮座、称富士権現 旧社地」と有り、当初は富士権現と呼ばれたこの神社は、「1759年(宝歴九年)神社改書上帳」にはじめて寛勝寺と共に「荊波神社」として記されたと云う。大正時代に寛勝寺が無くなり、宮司が城端町北野の利波氏が宮司となり、宮内省諸陵寮が「記塚経塚」(志留志塚)を調査して「利波臣志留志」の塚と認定されると、一躍、この神社に「延喜式内社荊波神社」としての認定運動が起こったと云う。この神社も当初は「富士権現」と呼ばれたが、大正になって一躍、「延喜式内社」とされた神社で有り、この神社にも明確な資料は無い様だ。しかし、歴史に触れるなら、少なくとも何に基づいて判断したか記載すべきで、感情や推測だけで公的な歴史書を作成してはいけない。それでは私小説と何ら変わりが無い。(※「砺波地区散居村地域研究所研究紀要第18号」尾田武雄氏論考 参照)

■「高岡市史」は「赤丸浅井城」に宗良親王が入られたと言う事を否定している。
「高岡市史」は「吉岡庄」については触れていても、その歴史や「赤丸浅井神社」が「越中吉岡庄」という「後醍醐天皇の庄園」(※「日本庄園史大辞典」、「国立歴史民俗博物館庄園データーベース」)の中心施設で在ったという事も調べていないらしい。何故、赤丸浅井城に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が滞在されたのか、牧野に滞在されたのか? その何れもが赤丸浅井城城主石黒氏が地頭で在ったからに他ならない。「高岡市史」は「福田荊波神社」や「赤丸浅井神社」、「浅井城」の歴史を否定している。歴史を批判し、否定するなら詳細の調査をしてからにすべきで、特に公的な刊行物で「個人の信仰、思想、信条」に触れる場合は、「信教の自由」を尊重して、「事実を示さず個人的な意思だけで安易な否定」はすべきでは無い。場合によっては何万人もの市民の信仰の否定につながる大罪を犯す事になる。】

■後醍醐天皇第八皇子宗良親王は元は天台座主もされたが、天台宗から還俗されて越中では時宗に改宗されて極楽寺を各地に創建されたと云う。赤丸城ケ平の「親王屋敷跡」の後ろには高岡市の「極楽寺由緒に記載される極楽谷」が在る。この様に資料も示さず、宗良親王が元天台座主だから比叡山系妙法院領の福田荘を頼ったと結論付けても良いのだろうか? ここは「高岡市史編集者和田一郎氏の独断場?」である。
「七の社のかけを離れて」とは、「比叡山(日枝山)の日枝信仰から離れて、保護から離れて」とは解釈できないだろうか? 赤丸浅井神社では「七の社」とは比叡山山王七社では無く、後醍醐天皇が頼りにされた両部神道の山伏の信仰の神々を宗良親王は信仰されて勧請されたとしている。赤丸浅井神社の神々の内容と浅井神社合祀の神社を見れば如何に多くの神社を赤丸浅井神社が御守りしていたかが判る。一方、福田庄には「七つの神社」は無い。又、赤丸浅井神社の宮司が、加賀藩の時代にも小矢部市から国吉、立野、福岡町迄の広範囲の神社の宮司をしていた事は「小矢部市史」「福岡町史」にも掲載されている。「赤丸浅井神社」は「五位庄郷社」で有り、その祭神の格式を見れば、「石堤浅井神社」が「郷社」と称して単一の神を祀っていた事と比べても何れが郷社であるかも歴然としている。この実態を見れば、「石堤浅井神社」や「舞谷八幡宮」を吉田神道が必死になって赤丸浅井神社から分離するべく画策した実態も自ずから明らかになる。かくのごとき「赤丸浅井神社」を否定しようとするデマは全て徳川幕府と組んでいた「吉田神道」の影響のせいである。これ等は全て、伝統有る「皇室庄園越中吉岡庄」の歴史を知らない無知な人達が吉田神道の宣伝に惑わされてでっち上げた「ウソ」で有る。【「延喜式内社浅井神社」には「赤丸浅井神社」と「石堤浅井神社」と言う「論社」が有る。】と高岡市は吹聴しているが、「延喜式内社浅井神社」は皇室の神「正一位 高皇産霊神」(※「文徳実録」)を祀っている「赤丸浅井神社」以外にはあり得ない。

🔴「赤丸浅井神社の七の社の伝承」は「赤丸浅井神社」が以下に示す数多くの祭神を祀っている事から来ている。
「赤丸浅井神社祝詞と赤丸の管理神社」は以下の祝詞にも記載されている。
●「赤丸浅井神社祝詞」
掛巻毛畏支比乃御社尓添弖(そえて)齋比奉利座寸奉畄。神皇産霊((かむみむすびの)大神。八幡(やはたの)大神。相(あへ)殿(どの)尓(に)座(ま)寸(す)。天照((あまてらす)大神。熊野(くまのの)大神。
八幡(やはたの)大神。天満(てま)大神。八幡(やはたの)大神。諏訪(すわの)大神等(たち)。日吉(ひよしの)大神等(たち)。愛宕(あたごの)大神。白山(しらやまの)大神。富士大神。庚能((かなへの)大神。
赤丸舞谷((まへのや)入會(いりあへ)尓座(ま)寸(す)。清水(きよみづの)大神。向野新(むかへのしん)尓座(ま)寸(す)。天照((あまてらす)大神。石名田尓座(いしなだにま)寸(す)。天照((あまてらす)大神。麻生谷(あそや)尓座(ま)寸(す)。熊野(くまのの)大神。少名彦(すくなひこの)大神。諏訪(すわの)大神。八幡(やはたの)大神。西廣谷(にしひろたに)尓(に)座(ま)寸(す)。
白山(しらやまの)大神。天照((あまてらすの)大神。諏訪(すわの)大神。沢川尓座(そうごうにま)寸(す)。愛宕(あたごの)大神。東石堤尓座(ひがしいしづつみにま)寸(す)。八幡(やはたの)大神。笹川尓座(ささがわにま)寸(す)。丹生川(にふかわ)大神。熊野(くまのの)大神。高田島尓座(たかたじまにま)寸(す)。五位庄((ごいのしょうの)大神等乃(たちの)。御前乎遥尓(はるかに)拝美奉利弖。畏美々々毛白左久。敷座畄氏子等乎。守利恵美給倍止稱言竟(おえ)奉良久止白寸。
●赤丸浅井神社管理の宮
・愛宕社 祭神 軻愚突智命
赤丸村古谷五四〇二(古村)
・清水社 祭神 大巳貴命  清水山鎮座
赤丸村古谷五三六三(古村)
●赤丸浅井神社に合祀されている神
(明治四十二年合祀)
・神明社 祭神 天照大御神
赤丸村向野新村字石名田八一八番(向野新村)
・神明社  祭神 天照大御神
赤丸村焼田六七一四(鞍馬寺)
・八幡社 祭神 誉田別尊
赤丸村砂田六二九〇(鞍馬寺)
・熊野社 祭神 伊弉諾命
赤丸村古谷五〇三一(古村)
・天満社 祭神 菅原道真
赤丸村子吉三八七三(古村)
・諏訪社 祭神 健御名方命
赤丸村縄田二五一七(川原)
・諏訪社 祭神 健御名方命
赤丸村草安五七五三(鞍馬寺)
・庚能社 祭神 金山彦命
赤丸村焼田六六一九(鞍馬寺)
・庚能社 祭神 金山媛命
赤丸村古谷五二七五(古村)
・日吉社 祭神 大山咋命
赤丸村勝負田一四五四(古村)
・日吉社 祭神 大山咋命
赤丸村山王四三九八(古村)
・富士社 祭神 木花咲夜比売命
赤丸村山王四五〇六(古村)
・白山社 祭神 白山媛命
赤丸村古谷四八三八(古村)
●「赤丸浅井神社由緒」





■「赤丸浅井神社」は藤原摂関家長者藤原頼長の庄園を経て後白河上皇の「後院領」となった「越中吉岡庄」の鎮守社で有る。後白河上皇の皇子静恵法親王が聖護院(総本山三井寺園城寺ー天台宗寺門派本山)に入り聖護院は門跡寺院となったが、赤丸浅井神社の別当寺の「川人山鞍馬寺」は聖護院派(本山派)の両部神道である。聖護院増誉は白河法皇が熊野行幸の時に先導した為、熊野三山検校に補されて修験道の統轄を許され、「聖護院」を勅旨により建立した。白河上皇の時に「越中吉岡庄」は京都上鴨神社の社領として寄進されている。後白河上皇は三井寺で出家し、強大になった比叡山延暦寺を牽制されたと云う。後白河上皇は度々熊野三山に行幸されたと言われ、赤丸浅井神社の奥山にも「総持寺」の持宮の「熊野社」が勧請されている。「越中吉岡庄」の「赤丸浅井神社」は元正天皇の二宮御創建と言われ、一条天皇の時には勅願所になり、後白河上皇の時には「蓮花王院、三十三間堂」の庄園として、後は後鳥羽上皇から後醍醐天皇迄伝領した皇室領で在り、時の幕府とは常に対立してきたが、足利義満の時には義満創建の京都の相国寺(金閣寺)の庄園になり、以後、足利氏菩提寺の等持寺、等持院領になった。
唯一神道を唱えた「吉田神道」はこれに対して時の幕府に近づき、徳川家康の久能山での葬儀は吉田神道で行われた。その後、天海僧正により改めて日光東照宮に改葬され、「東照大権現」とされた。前田家は当初 南光坊(倶利伽羅長楽寺の住職?)と言う僧で瑞龍寺の地鎮祭を行ったが、改めて「まつ」の提言により吉田神道により行われたと云う。 赤丸浅井神社と石堤浅井神社は、両部神道山伏の赤丸浅井神社と吉田神道石堤浅井神社の争いとなったが、前田家は徳川牽制の背景から、天皇家所縁で両部神道の赤丸浅井神社の立場を尊重した様だ。これは前田家が菅原道真(神道)の末裔として梅鉢紋を使用した事もあったと思われ、今も尚、旧加賀藩領内には正月に菅原道真像の軸を床の間に掛けて「学業成就」を祈る習慣が続いている。赤丸浅井神社には「菅原道真」が御神体として合祀されている。

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🎠「後醍醐天皇」とその皇子「宗良親王」の信仰⇒富山県高岡市の「曳き山祭り」の真実 !?

2017-03-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
高岡市博労町に在る「越中宮極楽寺」は後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が越中吉岡庄(後に五位庄)の極楽谷(赤丸村舞谷の赤丸城ケ平山の中腹)に創建されたと伝わる。親王は篤く「熊野社」を信仰された。当時の吉岡庄は後醍醐天皇の庄園であった。(※「越中宮極楽寺由緒」)
⇒しかし、高岡市はこの説を真っ向から否定して「たまたま赤丸村に極楽谷が在ったからと言って、そこが極楽寺の旧地とは言えない。」として批判している。当の「極楽寺由緒」に記載されているにも関わらず、又、現地には800年近くもの間地元民に伝えられてきた旧地と云う場所が語り伝えられてきているにも関わらずである。高岡市は根拠が全く無くても、あくまでも極楽寺が旧高岡市域で創建されたとしたいらしい。赤丸浅井神社を郷社とする五位庄の前身が後醍醐天皇の庄園「吉岡庄」で在った事も知らずにである。自らの庄園以外の地に創建されたとする方がウソっぱちなのでは? 兎に角、反証するなら具体的な場所を呈示するか、証拠となる古文書でも呈示する以外に「歴史」としては何方も信用しないだろう ❗

「国立歴史民俗博物館」の「庄園データーベース」に掲載された上皇の「後院領」の『越中吉岡庄』(※平成26年)



『後醍醐天皇像』⇒「明治維新」は「後醍醐天皇の天皇親政」を復活する事を目指し、明治政府は『南朝を正統とする議決』を帝国議会で可決して、皇統譜にも掲載されていなかった南朝の『長慶天皇』については、南朝の牙城であった赤丸村や関係市町村を調査して『皇統譜』に掲載されて正式に天皇在位が確認された。


宗良親王像



富山県高岡市二番町の「山車」




(※下は有職故実の「輿車考」に記載される「唐車」)


高岡市の「曳き山」の中で、後醍醐天皇皇子宗良親王の木像が安置される「越中宮極楽寺」の町内会「二番町」の「曳き山」は一台だけ二輪車である。「極楽寺由緒」ではこの車は「宗良親王の御座車」を利用しているという。しかし、「高岡市の歴史」では太閤豊臣秀吉より後陽成天皇を聚楽第に迎えた時に使用された7台の「車」を前田利家に下賜されたものだと云う。
しかし、正確に言えばこの車は「輿車 ヨシヤ の一種」であり、天皇、親王、関白が使用した「唐車」と言う車で、屋根は「びんろうじゅの葉」で葺かれていた。「輿車」には他には屋根が布張りのものや板張りのもの等が有り、貴族が乗る車で牛に引かせていた。しかも、天皇が乗られるのは一台だけであり、当時の「行幸絵図」を見る限り、この絵図には天皇は人が担いだ「 鳳輦 (ほうれん)」に乗られている。ある人はこれについて「天皇は疲れたら 鳳輦 から輿車に乗り換えられた」と云うが、京都市上京区中立堀通に在ったとされる聚楽第から京都御所迄は約1300mで有り、輿車から鳳輦に乗り換えるには、先ず牛車を止めて牛を外し、前に踏み台を設置して衣装を気遣いながら前から降りる決めがあった為、乗り換えには相当の時間を要する。この距離で疲れたから乗り換えるという事が実際に在ったものだろうか?
又、「塙保己一」編集の「続群書類従 第四編 上」記載の「天正年中聚楽亭両度行幸日次記」の天正十六年四月十四日~天正廿年四月廿八日の記載には、天正十六年には天皇は鳳輦で移動され、二回目の天正廿年にも鳳輦で移動された事が記されている。廿年の行幸の時は、「鳳輦の中が異常に暑く、御気分が悪くなり、この時は天候が風雨の為に五日間も御逗留されたと伝えている。天正十六年の時には、関白秀次が対応し、五日間も滞在され、天正廿年の時には三日間滞在されて関白や諸卿が対応して三日目には太閤が天皇に和歌を進上したと伝える。(※この記録にはお付きの中山大納言が車で入られたと記されているが、天皇が車で入られた記載は無く、関白が天皇をお出迎えに御所に出向いた事は記載されている。関白は車に乗る事が許されている為にお出迎えの時に秀次が車を使ったと思われる。)
こうして見ると、高岡市の民衆が伝えて来た「7台の下賜された輿車」は、歴史資料では検証できず、何でも「前田の殿様の御陰」という高岡市の独特の歴史観から創出されたものか?
『※「 鳳輦 」は天皇が行幸される時に使用された「輿」の一種で人が担いだもの。「上皇」が御行された時には庇をびんろうじゅの葉で葺いた特別の唐車を使用されたと云う。』


『※昭和47年10月、高岡市は高岡市の古文書等を検証した「高岡史料」を刊行した。それに拠ると、高岡市の曳山の歴史を立証できるものは無いと記載している。しかも、「熊野社」の由緒についても細かく検証しており、この熊野信仰が後醍醐天皇八の宮宗良親王の信仰に由来する事も匂わせている。又、「高岡史料」では「熊野社社務所記録」として高岡開町以前から「先宮熊野神明」があり、この神社は「木町、土器町、開発村の産神」であったと云う。前田家の由緒を調べると『物部氏、野見宿彌、土師氏、菅家党』を祖とするとされ、金沢市の前田家氏神「尾山神社」は高岡市守山から勧請した「物部神社」である。一方、高岡市に古くから在ったと言う「先宮熊野社」は「土器町の氏神」であったと言う。前田家が「熊野社を崇敬した」と言うのは「熊野神への信仰」と言うよりもむしろ前田家の先祖の「土器町の氏神」と言う所から信仰したものと見られる。
現在の「曳山の物語」はこの史料に拠ると【「高岡車山騒動記」と題するものがあり、何人の記する所なるを知らず】と記し、根拠の分からない資料を現在、この曳山の由来にしていると記しており、「天正十六年、後陽成天皇及び皇后宮、皇族の宮を豊臣秀吉が聚楽亭にお迎えした時に使用した七台の車を前田利家が拝領し、その車を利家薨去の時に利長が高岡城に取り寄せて、それを市民に与えたもの」と云う。』

一般に「曳き山」と呼ばれるものは四輪車で、基本的には「神々が降臨される依り代」の自然の木が飾られていたが、後には様々なからくり人形や高い尖塔を飾る様になった。従って、この「山」と言うのは自然の山を意味するもので、地鎮祭の時に盛り砂の上に杉や竹の枝(草と云う)を刺すのと同様の意味がある。京都の葵祭で引き回される「山鉾」は台車の下から一本の木が建てられており、正に「山」である。この様に「曳き山」と言うのは「御神輿」と同じ意味があり、単に、二輪車とか四輪車とか云うのは間違っている。高岡曳き山祭りの解説では、「二輪車が走る速度が早いから一番最後に巡航する」と説明していたが、「山車 ダシが先行してから高貴な人の乗る車が最後に巡航する」と説明すべきだ。又、車輪には豊臣家の「桐紋」が使用されているとしているが、この紋も初めから付いていたものかもわからないし、そもそも、この「桐紋」は古くから天皇家が使用されていたもので、後鳥羽上皇が菊をこよなく愛された為に「十六菊紋」という「花弁が十六枚の菊紋」を使用されて以来、天皇家ではこの「菊紋」が代表的な紋として使用されたと聞く。この「十六菊紋」はその後、「日本国」の標としてバスポートにも使用されている。
第一、後陽成天皇の「聚楽亭行幸絵図」では天皇は人が担いだ「 鳳輦 」に乗られているし、他の皇族がこの 「 鳳輦 」 に乗って天皇が 「牛車」 で行幸されるという珍事は絶対に考えられない事だ。仮に「田舎に伝わる伝承」と考えても、この稚拙な伝承はいかにも「作り事ですが」と言っている様なもので、「高岡史料」は、昭和44年に刊行された「高岡市史上、下巻」の思想を否定する証拠集めとも言える史料になっている。市民も一度はこの「高岡史料」を熟読されると、先に刊行された「高岡市史」や「高岡市役所が広報している内容」が、如何に偏向した内容で流布されたものかがお分かりになると思う。
この有り様で「文化財」を語るのも面はゆい限りだが、高岡市では、多くの歴史が「加賀藩のおかげさま」と言う発想を根本として「歴史」として作り上げられている事が多いのだ。それを調べもしないで「伝承は定説になっている」と称して広報しているのが「高岡市の歴史、文化」の根本に有る基本的な思想なのだ。



京都「山鉾」



「高岡市」の「高岡」は、詩経の「鳳凰鳴けり高き丘に」 からきているとされているが、富山新聞社発行の「富山県大百科事典」では、「元々、総持寺の山号であった高岡山 コーコーサン が前田家に取り上げられて瑞龍寺は高岡山瑞龍寺になった」と記載されており、「高岡」の由来は何と総持寺の山号を取り上げたものだと云う。この二番町の山車だけが「鳥居」を飾り、鳥居の上には熊野信仰の烏が二羽止まっているのは、「越中宮極楽寺由緒」では、後醍醐天皇の皇子の「宗良親王」が信仰された「熊野大社」をこの車に乗せたもので、前田家が作り上げた「関野神社」とは関係が無い様だ。しかし、高岡市の曳き山祭りは「前田利家から拝領の天皇の車を引き廻す祭り」として町の有力者が喧伝したものらしくこれが定説となっている。これが「歴史の町づくり」を標榜する高岡市の実態だ !!
「歴史」は具体的な根拠資料を編纂したもので、単なる伝承だけで「歴史」とすべきではない。支配者の歴史は支配者の都合が良いように書き換えられるのが常であり、被支配者から見た事実も民主的な現代の「歴史」では検証されるべきだ。富山県郷土史会の方がある総会で「歴史のダイナミズム」として「新しい事実が1つでも発見されると歴史というものは180度見方が変わる。それが『歴史』と云うものだ❗」と発言された。伝説や伝承が事実に拠って変われば「歴史」に携わる者は躊躇なく変更すべきだ。既存の「歴史」に拘らず、勇気を持って変化に対応できなければ、真に「歴史のまちづくり」は果たせない。その点で歴史に携わる人達の権限は果てしなく小さく、事実の前ではその主張は謙虚であるべきだ。「歴史」は「権威者」に拠って「事実とされる」場合があるが、寧ろ、「権威者こそが事実の前では謙虚であるべき」だ。

高岡市の「宗良親王木像」を安置する「越中宮極楽寺」の「熊野社の厨子」


元々、高岡市の瑞龍寺隣接地には「熊野社」「稲荷社」があった事が判る。「熊野社」は「関野神社」に合祀されて前田家の神社とされ、「稲荷社」は高岡城内に祀られたと云う。総持寺の旧地の赤丸村に在った総持寺持宮の「熊野社」が「赤丸浅井神社」に合祀されたと伝わるが、敷地の管理を委ねただけで、実際はこの「熊野社」が赤丸村から動いたものと思われる。
総持寺周辺の「天景寺」や「鎚の宮」、「宗泉寺」は全て赤丸村に在ったが、赤丸村の国人領主の池田氏の所領の高岡市の現在地に動いている。これ等の寺社は瑞龍寺建立の時に強制的に移転させられており、「瑞龍寺」の山号の「高岡山」さえも、元々は総持寺の山号が奪われたものだと云う。(※「富山大百科辞典」富山新聞社発行)
(※「鎚の宮」と言うこの鍛冶職の神社は富山県神社庁の記録では赤丸村から動いてきたと云う。恐らく、この神社は加賀藩時代にも残っていたと伝わる、赤丸村領三日市に拠点を構えたあの著名な「宇多刀工」の氏神であったと思われる。)



その他の「輿車」



高岡市教育委員会が偏向した歴史を標榜していても、市内の小中学校、高校には数多くの歴史の専門家が在職されている。是非とも各位に此処に記載した「真実?」を否定する御意見が頂きたいものだ。高岡市で問題なのは、歴史が偏向しているだけでは無く、歴史の専門家がその真実を調べて、自分の教え子に真実の歴史を教え様とする熱意や正義感が欠如している事だ。「歴史の薄い地域に歴史を創造して歴史のまちづくりをする」と言う発想自体に無理がある。「歴史」は「事実の積み重ね」で有り、「へ理屈の積み重ね」で歴史を創造してはならない事は歴史に関わる人達の常識である筈だ。歴史は一つの事実が証明されれば根本から変わりうる。ある方はこの事を「歴史のダイナミズム」と表現された。文科省の教育指導要領で日本の学問は著しく停滞している。子供達が地域の歴史の真実を知り、目を輝かせる時代が来る事を期待したい。
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🌸🏯🐎 越中赤丸村の「京都清水寺」に対する信仰 ⇒「五位庄」(※元、吉岡庄)の清水山には古い石仏が祀られる「清水観音堂」が在る。

2017-03-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸










■この石仏は、京都清水寺の千手観音像形式で在り、独特の「化仏」を頭上に両手で捧げた形をしている。往古、ここには「観音堂」と言う古寺が在ったと言われるが、現在は粗末な祠が地元舞谷村の方達の奉仕で祀られている。
又、「京都清水寺」は「坂上田村麿」所縁の寺で、もう一体の本尊として「将軍地蔵」も祀られている。
赤丸村では、「清水山」の中腹で、「赤丸浅井神社」の背後に当たる場所に「坂上田村麿」を祀った「愛宕山」が嘗ては在ったが、この本尊は「将軍地蔵」と呼ばれ、現在は高岡市関町の「天景寺」(※元、赤丸村舞谷) に火伏せの客仏として祀られている。













平安時代に京都の「清水寺」は「後白河上皇」の住まいの「法住寺殿」や「三十三間堂」の背後に立地しており、「赤丸浅井城」を中心とした「吉岡庄」が「後白河上皇」により「蓮華王院領」(京都府,後白河院御願寺の三十三間堂)として寄進された事との関連性が考えられる。
【後の「五位庄」は、平安時代には「後院領」(※天皇を退いた上皇の所領の意)の「越中吉岡庄」と呼ばれていた。】



【註】古来、赤丸清水山の千手観音像は西国25番霊場の播州清水寺の観音像を勧請したものと伝わっていた。播磨の清水寺は「行基の開基」で「聖武天皇勅願所」であり、赤丸の「川人山鞍馬寺」の創建と重なる事からこの観音像が播磨の清水寺の本尊を勧請したものと考えられていたのか? 伝承では赤丸清水山の千手観音像は南北朝時代に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が勧請されたと伝わるが、もっと古い時代の後白河上皇の「後院領吉岡庄」の時代だったと考えられる。後白河上皇は篤く千手観音像を崇敬して、三十三間堂に1001体もの千手観音像を安置された。
(※舞谷村の総持寺跡地に隣接して「天景寺跡地」が在る。この寺は赤丸村から高岡市関町に動いたが、前田利常が瑞龍寺を建設した時に敷地を接収され、近くの現在地へ移転させられた。この寺は播磨の赤松氏所縁の寺と言われ、高岡城建設に携わった赤松氏の家臣が再興したと伝わり、この寺は境内に「西国25番播磨清水寺観音像」を祀っている。⇒同じく「清水寺」と呼ばれる事から勘違いされたものと見られる。)




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🔴🔵「河内金剛寺」から伝来したとされる高岡市「衆徳山総持寺」の「国指定重要文化財木造千手観音座像」と「金剛寺由緒」!!

2017-03-21 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「総持寺」の慶派仏師「幸賀 作」の「千手観音像」




「河内金剛寺」は後白河上皇と同じ鳥羽法王の娘の八條女院の祈願寺として「女人高野山」と呼ばれた。





この寺は聖武天皇の勅願により僧行基が天平年間に草創しその後、空海が修行して霊跡と成り、後白河上皇は高野山から丹生高野の両明神を勘請して鎮守護法の神とされて伽藍の整備を進められ、東寺から本尊仏舎利を奉納され、寺号を「金剛寺」とされた。その後に河内の武将「源貞弘」は山野、田畑を寄進して寺の財政を安定させた。この「源貞弘」は源平の倶利伽羅合戦で死亡している。次いで、後白河上皇の皇子守覚法王親王の支配と成り、その時にこの寺は仁和寺末と成り、九条家の祈願寺と成った。
その後も「後鳥羽院」の中宮で九条家の「宣秋門院」の帰依を受けて、その後、大覚寺統の亀山法王、後二条、後宇多、昭慶門院、昭訓門院と伝えられ、後醍醐天皇迄伝来した。

(※「越中吉岡庄」も後白河上皇以来、金剛寺と同じ様に大覚寺統に伝来して後醍醐天皇迄伝来した。)

後醍醐天皇の真言宗の師の「東寺長者文観」と後醍醐天皇は東寺の仏舎利五粒を金剛寺住職の持仏に施入して、その仏像をその時の金剛寺学頭「禅恵」は正平八年に越中吉岡庄赤丸村の総持寺に伝えたとされる。この翌年には、南朝の後村上天皇は北朝の天皇を拉致して金剛寺に入り、一時期には南北朝両朝の天皇が行在所に成った稀有な寺院で在る。金剛寺にはこの地域の武将で南朝の武将として戦った「楠正成」の武具等が奉納されている。
























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💥💥 東京築地市場問題は「専門家もどき」の学者と「無知な議員」の空論!! ⇒悩ましい公害対策の議論。

2017-03-20 | 歴史
●日本全国の自然由来の鉱物のデーターベースが有り、各地の鉱物や有害物質を事前に調べられる。データーベースのダウンロードも出来る。
(10mg/L≒10ppm)
※濃度は地域平均値⇒ポイントによっては異常値が出ている場合もある。
※「地中砒素」の例





東京豊洲の市場では有害物質の検出が問題になっているが、国立産業技術研究所のデーターベースには自然由来のヒ素等の程度が示されており、この例では東京湾は一面にヒ素濃度が高い。元々、ヒ素濃度の高い東京湾を埋め立てた場所で地下水からヒ素が検出されるのは当たり前なのに今更何を騒いでいるのか。土壌汚染対策法では、建設土壌も改良が必要になっており、東京都はそんな事前調査もしていないのか? 表土処理はどこまでやるべきなのか?
わざわざ汚染水を汲み上げて地上に露出させるべきなのか?
エリートばかりの行政マンの盲点?


■土壌汚染対策にはどこまでが売主負担か、買い主負担かの交渉は当然在る。土壌汚染には自然由来の汚染も在り、工場等では浸透汚染も在る。その土地を売買する場合には当然、表土と地下●●m迄は売主が負担すると言う区分負担の問題が在る。その土地を買いたい時には当然、その区分交渉に応じた上で契約するし、その土地に対して無限責任を問うならその売買は成り立たない。地下数十メートルの水を調べる事ができても、それを全て処理してから売買すると云う事は事実上不可能。敷地外への浸透汚染やその逆も在る。この争論では知識の無い議員とマスコミがセンセーショナルに騒いでいるが、その区分、土地取引の常識も分からない連中の空論が余計に混乱を深めている。議論の為の議論を重ねて政治的なパフォーマンスをしているだけ。化学者は何故明確な判断を示さないのか?

■富山県の「カドミウム汚染対策事業の事例」
⇒富山県では神通川流域の汚染土壌を地下に埋め込んで、僅か22.5cmの「覆土」を行って農地、宅地化して利用している。建物の基礎掘削や融雪井戸でも露出する恐れが在る。カドミウムは「痛い痛い病」を発症させ、骨が曲がって生涯、イタイイタイと泣き叫びながら生きなければならない恐ろしい公害。時間が経つとカドミウムは表土に染みだして黄色い水になる。自然減耗を考慮しても不安の残る対策事業。農地は水を使うから地下からの浸出を考慮するとこれで対策は万全なのか?
富山駅北の富岸運河も工場からの廃水汚染を土を覆土して、上には観光船を走らせ、その汚染した掘削土は新湊港の埋め立てに使用されたと云う。沿岸の漁業は大丈夫なのか? 行政は市民が監視しないとやりたい放題に成り、無責任な役人はやりっ放し。
カドミウム被害者は殺されっ放し。コレが日本の政治、行政の本質。

東京都は地下数十メートルの水迄キレイにすると云う。地下には元々、自然由来の汚染土壌が在る。特に東京都の港湾地下は一帯が砒素等で汚染している。わざわざ汚染水を汲み上げて検査して何になるのか? しかも、汚染処理後の水には問題が無いと言う。しかも、表土はコンクリート構造物で覆われており、地下水を汲み上げて融雪等で使用しなければ、何故、地下数十メートル迄処理する必要があるのか?
小池のパフォーマンスの為に市場関係者だけが犠牲者。御用学者の世論におもねる情けない態度。築地市場の人達は小池と御用学者、マスコミの犠牲者で、その上、御用学者はこれをネタに荒稼ぎか? 築地市場は女の「蜂の一刺し」で大混乱!

公害対策はいつも政治の犠牲に!!

(以下は富山県広報PDFの一部)
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🏯🏯「高岡瑞龍寺」の【鉛瓦】⇒高岡市博物館に陳列されている加賀藩の真実!!

2017-03-19 | 富山県高岡市



加賀藩は金沢城、瑞龍寺の屋根を鉛瓦で葺き、戦時に砲弾を造る供えにしたと云う。又、加賀藩が流罪地としていた五箇山では鉄砲の火薬を造る為の煙硝を製造していた。そのやり方は、人尿を合掌葺きの高床式の床下に撒き、その上で囲炉裏の火をガンガン燃やして蒸発を早くしたと云う。尿は各地から五箇山に山越えで送られ、出来た煙硝は富山県福野の山中から金沢の湯涌温泉に至る山越えの道を通って密かに金沢に運ばれたと云う。これは「煙硝の道」と呼ばれたと云う。加賀藩は五箇山を流罪地としてカムフラージュして、実際は徳川幕府に隠れて罪人に火薬を製造させていた。流罪地の警備が厳しいのは当然だが、外部から密偵が入る事も防いでいたと云う。
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🔷🔶 室町幕府第三代将軍「足利義満」は何故「日本国王」を名乗ったか? ⇒「 相国寺」(※「鹿苑寺金閣」)庄園の「越中五位庄」 !!

2017-03-19 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸








「足利義満」は「越中五位庄」を室の業子の追善料として自ら創建した「相国寺」(※鹿苑寺金閣)に寄進した。その後も、五位庄は足利家菩提寺の「等持寺」、「等持院」の庄園となっている。






「足利義満」の母の「紀良子」は先祖に「第59代宇多天皇」を持ち、その中宮は越中蜷川氏の系統の「胤子」で在った。
「足利義満」は南北朝の合一を行い、自らは「順徳天皇」の孫でも在る事から、「第26代継体天皇」が「応仁天皇五代孫」で在った事も在り、自らも「天皇」に比して「日本国王」と称した。「越中五位庄」は「天皇」を意識した「足利義満」の直轄庄園と成った。

※「足利義満」の妻の「日野業子」は浄土真宗の祖の「親鸞」の一族に当たる。



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🔳🔲 『越中吉岡庄』、『越中五位庄』は何故「富山県史」から消されたのか?

2017-03-19 | 富山県小矢部市



「平成26年」になってから初めて「国立歴史民俗博物館」は「庄園データーベース」に【越中吉岡庄は高岡市福岡町周辺】と確定した。



「保元の乱」の後に「後白河上皇」の「後院領」と成り、上皇は自ら創建した「蓮華王院 ※三十三間堂」の庄園とされた。



「白河天皇」の時に「上賀茂神社」の庄園と成り、その後、「藤原摂関家長者藤原頼長」の庄園になって歴史上誰もが知る「保元の乱」で「後白河上皇」の「後院領 」になった『越中吉岡庄』は、その後、「後鳥羽上皇」以後、「後醍醐天皇」迄皇室庄園として続いた。その庄園の地域神が「延喜式内社赤丸浅井神社」で在る。「赤丸浅井神社」の祭神は天皇家の神の「正一位 高皇産霊神」を祀っており、「文徳実録」等に拠ると、天皇家の神として天皇祭祀が行われた宮中の神殿の分院的な扱いで在り、越中の式内社が社格や位階を与えられた時にも、この神社だけは別格の神社として扱われ、神社前を通過する者は必ず「下馬して拝礼する定め」で在ったと云う。(※「赤丸浅井神社由緒」)
南北朝争乱の記録の「花栄三代記」にはこれも又、有名な「桃井直常の五位庄の戦い」が記載されて、後には能登畠山氏が守護と成り「足利義満」の時代には「金閣寺」で知られる著名な「相国寺」の庄園になって、その後も足利将軍家菩提寺の「等持寺」、「等持院」の庄園になっている。歴史書でも「平範記」や「東寺百合文書」等にも登場している「越中吉岡庄」、後の「五位庄」が何故、富山県の歴史から抹殺され、学者すら「富山県史」にも記載しない状況になったのか?
その「富山県史」すら「越中吉岡庄」は富山市吉岡村等も挙げた上で「恐らく富山県福岡町の吉岡が越中吉岡庄の可能性が高い」と言う表現に止まり、断定はしていない。「東京大学資料編纂所」のデーターベースでも「越中吉岡庄」は「砺波郡」では無く、「射水郡」と但し書きが付けられている。富山県内の歴史家でも「越中吉岡庄」を「富山県福岡町赤丸周辺」として著作に記載している方は非常に少ない。
高岡市は、「義経記」の「五位庄二位の渡し」で弁慶が義経を打擲する場面で「守護の舘が近ければ」と記載される事から、この「二位の渡し」は守山近くの守護町に守護がいたからこの「二位の渡し」は「守山城近くの六渡寺の渡し」だとして、当時の高岡市長が大きい看板を書いて 、この小矢部川河口に巨大な「義経と弁慶像」を造って「ここが勧進帳の原点」として宣伝している。少し歴史を知った方だったら御存じだが、元々放生津に在った守護所は桃井直常との戦乱の後に斯波氏が越中守護となった時に僅かの間だけ守山に守護所が設けられた。「義経記」は南北朝時代頃に記載されたと云われる事から、「守護の舘が近ければ」と書いたのかも知れないが、「義経記」ではわざわざ「五位庄に至り」としてこの事件は「五位庄の出来事」であると断っている。ここで、「義経記」には誤りが有り、義経が「五位庄」を通過した時期には「五位庄」では無く後白河上皇の「後院領」の「吉岡庄」と呼んでいた。しかも、「吉岡庄」には源頼朝配下の地頭「吉岡成佐」が配置されていた事が「吾妻鏡」に記載が有り、「吉岡庄」には「地頭」だけが配置されていたのだ。そもそも、富山県の歴史家は赤丸村周辺が天皇を退位された上皇の庄園の「後院領」で在った事すら知らず、この「後院領」は「後院庁」と云う上皇直属の役所が管理しており、守護の不入地域で在り、専任の「後院司」が政務を行っていた事も御存じ無い。この「後院領」に地頭が配置されたのは「義経の探索の為」として頼朝が配置したものだが、実際には地頭は収穫物から院庁へ税を納める役割だけで守護の様に裁判権等は無かった。この地域は「後鳥羽上皇」の時には「石動山」も「後院領」で在ったと「日本庄園史大辞典」には載っており、全体が皇室や貴族の庄園が広がっていた様だ。
「越中吉岡庄」は平成24年に『国立歴史民俗博物館』のデーターベースで「高岡市福岡町」周辺の吉岡庄として確定して頂き、「五位庄」についても、平成28年に「東寺百合文書」に見られる「おいの庄」=「五位庄」であると確定して頂いたが、何故、富山県では敢えてこの有名な庄園を歴史的に無視してきたのか?
これは単にこの地域で主張する歴史家が居なかったと云う事も有るかも知れないが、この地域の独特の歴史も近寄りがたい原因だったと思われる。元々、「藤原氏長者藤原頼長」の庄園だったが「後白河上皇」に逆らって殺され、その後の「後鳥羽上皇」や「後醍醐天皇」は王政復古を目指して倒幕を進めて島流しになった。その後、「日本国王」を名乗った「足利義満」はこの庄園を室の供養の為に「相国寺」(※金閣寺)に寄進して、その後も足利家菩提寺の「等持寺」、「等持院」の庄園として続いた。長く続いた室町幕府の足利将軍が「織田信長」に廃位させられ、その織田信長が越中に侵攻してその配下の「佐々成政」は豊臣秀吉に自害させられ、その後越中を治めた「前田利家」は「佐々成政」を「小百合伝説」等で悪逆非道の武将と印象付けて、佐々勢に味方した「五位庄」地域に徹底的に酷税をかけて報復している。前田家の治世では、触れてはならない「タブーとされた地域」の印象が強かったものか?
兎に角、この様に最近迄「越中吉岡庄」、「越中五位庄」については長く天皇家の庄園だったにも関わらず歴史家すら興味も示さず放置されてきた地域だ。しかし、地域の歴史資料を掘り下げれば他地域に劣らず豊富な歴史資料が埋もれており、非常に興味深い地域である。惜しむらくは、この地域に残される明らかな史跡が「延喜式内社赤丸浅井神社」しか遺されていない事だ。しかも、度重なる戦禍で施設が度々焼き付くされ、古文書も金沢市図書館や石川県立図書館、国会図書館等の県外施設にしか遺されていない。その為に富山県内の歴史には登場する事も少なく、「高岡市史」の様に偏見に満ちた史料もこの事に拍車をかけている。
福岡町が高岡市と合併して十年以上にもなるが、「高岡市」の偏見に満ちた歴史を変えようと云う機運も生まれないのは残念な事だ。




























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🔷🔶「延喜式内社 速川神社」と「東大寺庄園杵名蛭庄」 ⇒高岡市立野、池田、東石堤、高田島地区辺りに推定される「古代庄園」!!

2017-03-18 | 富山県高岡市
「延喜式内社速川神社」(※高岡市波岡地区)










「東大寺庄園杵名蛭庄」

この庄園図には「砺波郡」の語源と成り、越中国司に成った「利波臣志留志」がサインしている。


東京大学資料編纂所は「東大寺庄園図」を精密写真に撮りそれを図面化している。その庄園図を拡大して詳細図にして見ると、その中には高岡市福田地区と推定される「荊原里 ウバラノサト」や「石黒上里」、「石黒中里」、「石黒川」、「速川」等の表示が在る。
「国立文化財機構」ではこの庄園は高岡市戸出辺りに比定しているが、この「速川」の位置、流域の「早川地区」や「延喜式内社速川神社」や「石黒川」(※アラマタ川)、「杵名蛭川」(※)の位置等を考慮するとこの位置は高岡市立野から高田島地区辺りに該当する。この庄園図中に、地区に隣接して「荊原里」が在り、この地区には現在も「延喜式内社荊波神社」が在り、「延喜式神名帳」にはこの神社に「ウバラノヤブナミ」とフリカナ が付けられている。





この地域の「祖父川」下流に「高岡市早川」や三協立山アルミ本社近くには「延喜式内社速川神社」が在る。
「祖父川」は加賀藩時代の絵図には「ソフ川」と記載されている。「速川」⇒「ソフ川」⇒「祖父川」とその呼び名が変化した事は間違い無い。しかも、この地域内には「聖武天皇勅願社 五位庄神社」が高田島地区に在り、又、「上渡り」、「東石堤」地区には「八幡社」が遺されている。「東大寺庄園杵名蛭庄図」には「神社」の位置が三ヶ所記載されている。東大寺大仏造営の時に聖武天皇に対して「宇佐八幡宮」が協力する意向を示した事から聖武天皇は「東大寺大仏の鎮守」として東大寺に「八幡社」を勘請された事から、嘗ては東大寺と八幡社は一体のものとして信仰された様だ。明治維新後の「神仏分離令」、「廃仏毀釈運動」の結果、現在では神社と寺院は別々と言う考え方が強いが、本来は「空海」が高野山を開いた時にその地域の地主神の神託を得て高野山を開いた。従って、元々、天皇家も「寺院」は「神社」と一体で信仰され、その後、「本地垂迹説」では正に神仏は表裏一体として信仰される様になっている。
又、立野地区隣接の高岡市東石堤地区に「イバラの宮跡地」と見られる「野バラ」が繁っている敷地が在り、そこにも小さい「神明社」の祠が在り、この神社は赤丸浅井神社の神官が祭祀を行っている。この神社を長く守っていた池田家にはこの敷地の写真と祭神とされていた「地蔵菩薩」の光背が遺されている。現在の「福田荊波神社」の祭神は「ニニギノミコト」であり、本地垂迹説では「地蔵菩薩」として信仰された。「福田庄」は嘗ては南北朝時代に比叡山系の妙法院の庄園となっていた為にこの祭神も仏像の「地蔵菩薩」とされた。現在の「福田荊波神社」は区画整理の時に何れかから動いたがその旧地は不明としているが、その旧地がこの東石堤の敷地とみても良いと思われる。










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