赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

勧進帳の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史―「越中吉岡庄」「五位庄」

🔴🔹鎌倉時代の「越中吉岡庄地頭沙弥迎蓮(※「相良頼俊」)」の素性 ⇒「後白河上皇」が「蓮華王院領」とされた「越中吉岡庄」の記録!!

2017-05-28 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸










●「越中吉岡庄地頭沙弥迎蓮(※「相良頼俊」)」の系譜 ⇒「相良氏」は現在の静岡県に在った「相良郷」を発祥として、「源頼朝」の旗揚げに従い、北条時政の後妻「牧の方」が頼朝の腹臣で在った「畠山重忠」を謀叛人と称して追討した時に相良氏は畠山重忠との戦いで戦功を上げ、更に後鳥羽上皇が起こされた「承久の乱」でも鎌倉幕府側で戦功を上げて、肥後人吉庄を初め、全国的に庄園を広げた。










■「相良氏の系譜」については、浜松市の「相良史」に、肥後球磨郡人吉庄を知行された「相良氏の系譜」が「求麻外史」に載せられた文書を引用して詳しく載せられている。
(※「相良郷」は上杉氏や田沼意次の領地としても著名。)

【沙弥迎蓮】
相良氏は鎌倉幕府の源頼朝の命を受け、遠江国榛原郡相良庄(静岡県牧ノ原市相良)から熊本県に在った「人吉庄」に来て地頭になった。建久9年12月、肥後国球磨郡人吉庄に下向し人吉城に拠る。後に肥後人吉藩主相良家(2万2100石)となる。
相良頼俊(生年不詳、延慶4年1月25日(1311年2月14日)死去)は、鎌倉時代中~後期の武将で相良氏の第3代当主。(相良長頼の三男。通称は相良六郎。)
当初は大村の佐牟田に住み「佐牟田六郎」と称した。寛元4年(1246年)3月5日、父の長頼から(熊本県)「人吉庄」の南方にある「経徳名」外を、また建長3年(1251年)3月22日に「成恒庄」を譲り受け、建長6年(1254年)には兄の頼親より家督を譲られ当主となる。
その後、正嘉元年(1257年)9月14日に「成恒庄」の、その二十日後には「刁岡(とらおか)名」の地頭職を安堵され、同年、剃髪し「六郎法師沙弥迎蓮」と号す。
文永11年(1274年)の「文永の役」、そして弘安4年(1281年)の「弘安の役」では「菊池武房」と共に蒙古軍と戦って武功を挙げ、弘安10年(1287年)、家督を子の「相良長氏」に譲り隠居、延慶4年(1311年)に死去。法名は「迎蓮」。
元寇の後には越中の蓮華王院領「吉岡庄」の地頭をしていたと見られる。











★「東京大学資料編纂所」の掲載文書には「美濃茜部庄地頭代沙弥迎蓮状 正応三年(1290年8月)」とされているが、この「茜部庄」は「蓮華王院領越中吉岡庄」とは異なり「東大寺庄園美濃茜部庄」の庄園で在り、「越中吉岡庄」については「当家知行分 越中吉岡庄」と記載している所から相良氏が「地頭」をしていたと見られる。
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🔷🔹越中国の古代 ⇒ 『藤原種継事件』の 「大伴家持」と「石川朝臣一族」 !!

2017-05-28 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

「赤丸浅井神社」創建の『石川朝臣広成』の系図。



越中国『延喜式内社五位庄五十三ケ村総社 赤丸浅井神社』の創建は「赤丸浅井神社三社史」に拠ると「元正天皇の二宮」が創建されたとされ、この人物は文武天皇の二宮で聖武天皇の義弟に当たり、母親は元、文武天皇の嬪で在った「石川刀自娘 イシカワトジノイラツメ」で、名は「石川朝臣広成 イシカワアソンヒロナリ」(※後には高円朝臣広世 タカマドアソンヒロヨ)とされる。越中にはこの時期に石川氏が多く国司等で赴任しており、「石川朝臣広成」は「大伴家持」と共に恭仁京で「内舎人」として勤務しており、万葉集にも三首の歌が掲載されている。
(※石川朝臣は蘇我氏の末裔。)
(※「浅井神社三社」とは「赤丸浅井神社本社」、「末社石堤浅井神社」、「末社舞谷八幡宮」を指している。)


●加賀藩の歴史家の富田景周は、その著作の「越登賀三州志」で「元正天皇は女帝で子供はいない。」として、「赤丸浅井神社三社誌」を否定しているが、惜しいかな、景周は皇統譜しか調査しておらず、文武、元明、元正、聖武天皇と続いた背景を調べていない。「石川刀自娘」は嬪を廃され臣籍に降下されたが(※「続日本紀」)、その子の「広成」は元正天皇の「天皇の子は全て親王とする」と言う宣命に助けられて、聖武天皇の側近の「内舎人」から初めて、その後は官僚として活躍して、後には更に「高円朝臣」と賜姓されている。聖武天皇の母親の宮子は、実は天智天皇(中大兄皇子)の実の子(※「大鏡」)とされた権力者の藤原不比等 [斉明天皇5年(659年)~養老4年8月3日(720年9月9日)]の娘で有り、不比等の陰謀があったとされる。「高岡市史」はこの森田柿園の浅い歴史を100%踏襲して、孫引き、ひ孫引きの資料、創造された資料だけで「高岡市史」を編集しており、基本的な「続日本紀」等の元本を知らずに創作された「低俗な物語集」で有り、「歴史書」としての価値は皆無だ ❗ ここでも高岡市の行政は加賀藩の封建的な悪政を「無条件」でバイブルとして引き継いでいる事が解る。
⇒※同じく、「義経記」記載の五位庄の「如意の城」について富田景周は「古国府城」の事だとと断定している。この事を信じた高岡市は「二位の渡し」は小矢部川河口の「六渡寺の渡し場」として、近くに「守護町」が在るからだとこじつけている。この守護町に守護が館を構えたのは南北朝後期に斯波義将が暫くの間館を構えたとされ、時代的に大きなズレがある。
(※「富山県の歴史」山川出版社、p99)
『吾妻鏡』に拠れば、この越中吉岡庄の関守は福岡町馬場村の「吉岡谷」に館を構えた「吉岡成佐」で在ったと見られる。皇室庄園「後院領」の「越中吉岡庄」は「後院司」が事務を行い、収穫を納める「地頭」だけしか配置されていない。しかも、「五位庄」は赤丸村周辺の広大な庄園で、鎌倉時代は「越中吉岡庄」と呼ばれていた。この「守護町」を引き合いに出す等は素人騙しの議論で有り、ここでも高岡市は歴史を捏造している。







「藤原種継事件が起きた頃の天皇家系図」







【藤原種継と大伴氏・石川氏との葛藤】

藤原種継は光仁天皇の時に近衛少将・紀伊守・山背守・左京大夫・下総守等を歴任。光仁天皇即位に尽力した藤原式家の政治的な発言力上昇に伴って、宝亀5年(774年)従五位上、宝亀8年(777年)正五位下、宝亀11年(780年)正五位上、天応元年(781年)従四位下と順調に昇進。叔父の藤原良継・百川の死後は、藤原宇合の孫の中の最年長者の種継が式家を代表する立場になる。天応元年(781年)4月桓武天皇の即位に伴い従四位上に昇叙され、桓武天皇の信任が厚かった種継は以降急速に昇進。延暦元年(782年)参議に任ぜられて公卿、延暦2年(783年)従三位、延暦3年(784年)正月には先任の参議4名(藤原家依・神王・石川名足・紀船守)を飛び越えて中納言に叙任され、さらに同年12月には先任の中納言・大伴家持を出し抜いて正三位となった。

【長岡京遷都】

延暦3年(784年)桓武天皇は平城京からの遷都を望み「天皇はなはだこれ(種継)を委任し、中外の事皆決を取る」とされるほど大きく政務を委ねられていた藤原種継は山背国乙訓郡長岡の地への遷都を提唱し、桓武天皇の命を受けて藤原小黒麻呂・佐伯今毛人・紀船守・大中臣子老・坂上苅田麻呂等と共に長岡の地を視察し、同年長岡京の「造宮使」に任命される。遷都先である長岡が母の実家秦氏の根拠地山背国葛野郡に近い事から、造宮使に抜擢された理由の一つには秦氏の協力を得たいという思惑があった事も考えられる。実際、秦足長や大秦宅守など秦氏一族の者は造宮に功があったとして叙爵されている。

【藤原種継暗殺事件と大伴家持】
桓武天皇が大和国に出かけた留守の間の、遷都直後の延暦4年(785年)9月23日夜、藤原種継は造宮監督中に矢で射られて翌日には死去。暗殺犯として大伴竹良等が捕縛され、取調べの結果、大伴継人・佐伯高成ら十数名が捕縛されて斬首となった。事件直前の8月28日に死去した大伴家持は首謀者として官籍から除名された。事件に連座して流罪となった者も五百井女王の兄弟(能登内親王の子)の五百枝王・藤原雄依・紀白麻呂・大伴永主など複数にたのぼった。
その後、事件は桓武天皇の皇太弟であった早良親王の廃嫡、讃岐への配流に発展し、遂には早良親王が憤死される。元々、藤原種継と桓武天皇の弟の早良親王は不仲であったとされているが、実際の早良親王の事件関与有無は定かでない。しかし家持は生前に「春宮大夫」であり、佐伯高成や他の逮捕者の中にも皇太子の家政機関である春宮坊の官人が複数いた為に一味とされた。その後、長岡京から平安京へ短期間のうちに遷都する事になったが、早良親王が怨霊として恐れられた為とされる。大伴家持は一味として死去した後に財産は没収され、葬儀も許されなかった。しかし、後には家持は名誉を回復されて財産も返却されたと云う。

【註釈】桓武天皇・早良親王の姪で能登内親王の子「春原五百枝王」の姉の「五百井女王」は越中の現在の高岡市国吉に在ったとされる「須加庄」を所有していたが、早良親王が亡くなった二年後に、早良親王が出家されていた東大寺に庄園五町歩を寄進している。⇒『東大寺庄園須加庄図』正倉院所蔵


『大伴家持と藤原種継事件の記載された古文書』(※「日本紀略」)







【藤原種継事件の石川一族と大伴家持】

《蘇我氏から石川氏への関係略図》
 蘇我馬子━(略)━石川難波麻呂━豊人(※越中国司)━継人




●【石川豊人】;(?~790年)奈良~長岡京時代。蘇我氏。父は石川難波麻呂。
従四位上。大蔵卿兼武蔵守。「朝臣」姓。石川難波麻呂の子。子に、石川継人。
天平20年(748年)2月に従五位下。
天平勝宝6年(754年)には主税頭、越中守を歴任。越中守を務めた後不遇の時代が長く続く。
(※従五位下になって以来、天武天皇皇統天皇の朝廷下では20年以上もの間不遇で在った。)
天平宝字7年(763年)造宮少輔、造宮大夫。
宝亀元年(770年)8月称徳天皇の崩御に際して高松笠麻呂等と共に作路司となる。
宝亀元(770年)10月1日光仁天皇が即位。光仁天皇に重用され次々と昇進。同月23日に右少弁、従五位上。
(※石川豊人は天智天皇皇統の光仁天皇が登場して以降に活躍。藤原仲麻呂と近かったが仲麻呂以外の執政者の橘諸兄、道鏡等とは対立。)
宝亀2年(771年)下総介。宝亀7年(776年)従四位下。宝亀7年右大弁。
宝亀9年(778年)2月。
宝亀10年(779年)12月に藤原縄麻呂が死去した際に、藤原刷雄等と共に勅使を務め縄麻呂邸を弔問している。
天応元年(781年)2月、能登内親王の薨去に際して大伴家持等と共に葬儀の監督に当たる。この時、刑部卿の職にある。
大和守。天応元年(781年)4月3日、桓武天皇が即位。5月出雲守。
延暦3年(784年)11月11日に平城京から長岡京へ遷都。右京大夫、中宮大夫等。
延暦4年(785年)7月右京大夫。8月従四位上。長岡京建設に関わる
延暦4年(785年)9月23日桓武天皇の留守を狙って大伴竹良派が長岡京建設の中心人物である藤原種継を襲撃して『藤原種継暗殺事件』が勃発。種継死去。
延暦5年(786年)4月中宮大夫に転じる。光仁天皇皇后、桓武天皇・早良親王の母親の高野新笠側近官司である事から、先の長岡京入りでの出迎え等で石川豊人は高野新笠からの信頼が熱かった。
延暦7年(788年)正月、桓武天皇の皇子で皇太子の安殿親王が元服すると高野新笠の下を訪問し拝謁。この一連の行事も豊人が整えたものと思われる。2月6日、中宮大夫と兼任で武蔵守となる。同月28日に和気清麻呂が中宮大夫に任じられ、豊人は武蔵国へ下向したものと見られる。3月には武蔵守と兼任で大蔵卿に任じられる。豊人が武蔵に滞在したのは実質数ヶ月程度だったか。大蔵卿との兼任は武蔵守として実務を担当し、桓武天皇が豊人に対して予算権限を与えたもの。当時の武蔵国は、桓武天皇の宿願である「蝦夷征伐」の為の東日本における策源地として重要な位置を占める国であった。しかし、京畿に比べて未開の辺鄙な土地で有り、大軍の動員、及び、移動の為の基盤整備が急務とされていた。豊人の大蔵卿と武蔵守の兼任は、
蝦夷征伐事業の一環として武蔵国を急ぎ整備する為の人事であったと見られる。即ち、長岡京建設の決済は桓武天皇が直々に監督し、武蔵国整備の決済は桓武天皇の信任厚い石川豊人に託されたものか。石川氏から武蔵守となった者も多く武蔵国での人脈も期待された。
延暦9年(790年)5月 大蔵卿兼武蔵守として在職中に死去。



【石川豊人】の縁者

※「石川豊成」;石川豊人の甥。最終は「正三位中納言兼宮内卿右京大夫」に迄昇進し、越中射水郡の「東大寺庄園鹿田庄」(高岡市と大門町の間)の隣地に自分の庄園を所有していた事が東大寺庄園図に記載されている。

※石川真守;宝亀3年(772年)4月27日:【越中守】。奈良時代中期から平安時代初期にかけての貴族。大臣蘇我馬子の後裔で、中納言・石川豊成の子。

※「石川名足」;桓武天皇の近臣として参議従三位。左大弁(光仁天皇の側近)。

※「石川河主」;中納言・「石川豊成」の十男。 延暦25年(806年)3月の桓武天皇崩御に際して御装束司を務め、翌月の平城天皇の即位に伴い正五位下に昇叙された。


※「石川継人」;[天平13年(741年)~ 天長3年1月3日(826年2月12日)]。右大臣の蘇我連子の曾孫で石川豊人の子。官位は従四位上・玄蕃頭。

※「石川年足」;「持統天皇2年(688年)~天平宝字6年9月30日」。壬申の乱以降蘇我氏の嫡流となった少納言・蘇我安麻呂の孫で権参議石川石足の長男。官位は正三位・御史大夫。勲等は勲十二等。天平宝字6年(762年)9月30日薨去。享年75歳。最終官位は御史大夫正三位兼文部卿神祇伯。薨去の際に淳仁天皇から佐伯今毛人・大伴家持が弔いの為に遣わされた。
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🏯 🔹徳川家康の旗本となった越中守山城城主の「神保氏張」系図 ❗❗

2017-05-28 | 富山県高岡市






高岡市の守山城城主「神保氏張」は、能登畠山氏から神保家に養子に入り、織田信長の妹を妻として上杉謙信と戦ったが敗れて上杉謙信家中となる。その時に信長の妹とは離縁させられ、信長の妹は再婚している。その後、織田信長軍が越中に攻め込み、再び信長幕下の佐々成政に従う。信長亡き後、佐々成政と共に、木舟城の佐々平左衛門、柴野城の寺島牛介・小島甚助兄弟、牛介の甥の中山直治等と共に富山県と石川県境の西山を越えて末森城に向かい、能登末森城で戦った。しかし、末森に向かう途中で、五位庄沢川村の土郷田畑兵衛が前田利家に内通して、道案内と称してわざと山中を引き回して末森城への参陣を遅らせた為、その間に、前田利家が応援に駆け付けて、佐々陣営は奮闘空しく撤退した。その後、前田利家の通報で、豊臣秀吉が呉羽山に押し寄せると、佐々成政は恭順の意向を示して降伏し、成政は秀吉から一端、新川郡を知行されたものの、再び九州肥後に転封される。神保氏張は佐々成政と共に肥後に移ったが、成政の検地に怒った農民の一揆に手こずり、秀吉から切腹を命じられた。その為、神保氏張は再び流浪して、徳川家康に仕官して旗本として家康に仕えた。


・この時に、寺島牛介・小島甚助兄弟は末森の戦いでの鉄砲の腕を買われて前田利家に仕官して、高岡市伏木の勝興寺の一画に屋敷を構えた。後に寺島牛介家に原家から養子に入った「寺島蔵人」は加賀藩で高岡町奉行、算用場奉行等を歴任して、藩の財政改革に貢献したが、耳障りな意見書や大きくなった蔵人の勢力を警戒した第十三代加賀藩主前田斉泰によって能登島に流罪となり、そこで生涯を終えた。現在も「寺島蔵人邸」は金沢の観光地として残されている。


●畠山氏張が養子に入った「神保家」は、系図に拠ると、先祖は秩父平氏の中村、土屋、二宮を名乗り、氏張の数代前から「神保」を名乗って「守山城城主」となっている ❗❗

【越中の『神保氏』には系図に拠ると、能登畠山氏家臣の[平姓良文系]と[惟宗姓系]の系統が在る。
・元々の越中守山城の神保氏は、系図に因ると、上総一族の千葉一族で有数の大族であり、千葉介常胤の叔父にあたる常康が印旛郡臼井庄(千葉県佐倉市臼井)に移住して臼井と称した。上総一族の臼井常康の子の常員が「臼井庄神保郷」(船橋市神保町から八千代市)を領して神保を称した。千葉氏は平安京時代の桓武天皇の血を引き「桓武平氏」の一族で、中世の房総半島を中心に栄えた。平安時代末期、千葉氏の惣領であった「千葉介」は、下総国(千葉県北部から茨城県の一部)の在庁(国府に出仕する地方官僚)としての「介」を称し、千葉庄を本拠とする地方豪族で平家に敗れた「源頼朝」を同族の「上総権介広常」と共に、挙兵から一貫して協力して「源頼朝」の信頼を得て鎌倉幕府の成立後には東北から鹿児島に至る全国各地に領地を与えられた。承久3年(1221年)の「承久の乱」で宇治川の戦いで神保氏の一族が幕府側で活躍している。(※「吾妻鏡」)⇒「神保氏張系」
・鎌倉幕府御家人、六波羅探題評定衆の大内氏に仕えた神保氏の一流は、「臼井常俊」が嘉暦3年(1328年)越中国守山庄神保に移住して神保を称したとされる。臼井常俊の7代孫の神保時綱(左近将監)の次男の「神保尹胤」は延徳元(1489)年 延徳元年(1489年)に足利義尹(足利10代将軍)に仕え、義尹は義材と改めたが、明応2年(1493年)に管領の細川政元により京都を追放されて越中に逃れた。その翌年の明応3年(1494年)9月に、足利義材は細川政元追討の為に越中で挙兵し、細川政元も新将軍足利義高(義澄)を奉じて義材討伐軍を起こした。足利義材は近江・河内の戦いで連敗し、周防・長門守護の大内義興を頼って落ちて行った。神保尹胤もこれに供奉して大内氏の重臣となった。この系統は富山城や放生津城の「神保長職」の系統とされる。この系統は九州の島津氏と同じ「惟宗姓」とされる。
■東京神田の神田神保町は、徳川家臣名簿に在る「惟宗系 神保長職」の系統の屋敷跡で在る ❗】

■守山城の「神保氏張」の系統は、先祖を「良文系平家」として、中村、土屋、二宮、神保と改姓しており、この一族は「守山城」に入城した時に「神保」を名乗った様だ。
・桓武平氏の「千葉氏」は、「千葉宗家」「千葉六党」「良文流」「千葉一族」等の大族で、「神保氏張」が養子に入った神保氏の「良文流」でも、平良文の末裔、三浦党、三浦惣領家、岡崎氏、和田氏、蘆名氏、正木氏、秩父党、秩父氏、河越氏、畠山・小山田氏、江戸氏、渋谷氏、鎌倉党、鎌倉氏、大庭氏、梶原氏、長尾氏、中村党、中村氏、土肥氏、小早川氏、土屋氏、二宮氏、平良文の兄・平国香の子孫、平良文の兄・平良兼の子孫、安達氏他の氏系統を持つ。(※「千葉一族」http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/index.htm 参照)

(※「改選諸家系図」徳川家臣系図)






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🔴『赤丸浅井神社』の古い墓碑銘と越中での石川朝臣の展開!!

2017-05-28 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
「延喜式内社赤丸浅井神社」の神官を47代も務めた川人家の墓所には「郎女」の名前が入った墓碑銘が有る。創建は700年代に元正天皇の第二皇子が創建されたと伝わる所から、この墓碑銘も皇族に連なる女性かも? ……と思ったら、神道では亡くなった女史には[郎女 イラツメ]の尊称をつける様だ。



「赤丸浅井神社」の創建は「元正天皇の二宮」とされ、元正天皇は文武天皇の姉で、文武天皇が早逝された為に、皇統譜上では文武天皇の中宮に擬せられて女性で有りながら、女帝に就任されたと云う。
元正天皇は未婚で、聖武天皇の母代りになった方で、二宮というのは文武天皇の第二皇子の「石川朝臣広成」が該当する。「石川朝臣広成」は万葉集に3首の和歌が掲載されており、この石川氏は蘇我氏の一族で蘇我石川麻呂の子孫である。蘇我氏は蘇我入鹿や蝦夷が誅殺された為に、以後、慎んで「石川氏」を名乗った。石川朝臣の一族が大伴家持の前後に越中国司をしていたり、左大臣を務めた「石川朝臣豊成」が高岡市と射水市大門町の間に在ったとされている「東大寺庄園鹿田荘」の隣地に名前が記載されている事から、当時は、越中には[石川朝臣]の一族が展開していた様だ。「石川朝臣広成」は後に更に「高円朝臣広世」と賜姓されている。
ちなみに、「石川県」と云う名前は、蘇我氏の末裔が「石川郡」に住み着き、「石川県」の名前の由来になっていると云う。

『赤丸浅井神社』には「宮様、京のみやびをこの地に移され…」と伝承されている。『赤丸浅井神社』の背後の『清水山』には、京都清水寺の千手観音像を写した石像が祀られる『観音堂』が在り、その右には清水寺の『音羽の滝』と名付けられた大滝が在った。又、近くには、『下加茂社』や『上加茂社』、『熊野社』、『愛宕社』等の都の著名な神社や『鞍馬寺』等の仏閣も勘請された。加賀藩第十三代前田斉泰公は「赤丸浅井神社」を信奉されて『浅井神社』の額を寄進し、加賀藩の板橋宿「江戸下屋敷」には、この山並みを模して「赤丸山」と名付けた築山も造られている。




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🔴 📃小矢部川河口へでっち上げられた「如意の渡」!⇒「義経記」の真実 の勧進帳の場面は赤丸村 !!

2017-05-28 | 富山県高岡市福岡町赤丸村




赤丸浅井神社前の「二位の渡し」と云う舟乗り場の事。





「赤丸浅井神社」前の、「小矢部川」と「庄川」の合流地点の「阿光ケ淵」(阿古ケ淵)(※「赤丸浅井神社絵図」森田柿園文庫、石川県立図書館)から下流に「小矢部川」と「谷内川」の合流地点が有り、石堤では山裾の直近を通過していた様だ ❗ ⇒「石堤」の地名は山裾を通る小矢部川の土手に積まれた石づくりの土手から名付けられたと思われる。「阿古ケ淵」の前の「赤丸浅井神社」の祭神は「八河江比売神」で有り、「河の江の神」であるという。この御神体は、この「阿古ケ淵から上がった」と伝わり、この神はびわ湖にも祀られている。



小矢部川は徃古、西山の山裾を流れていた。







「二位の渡し」は赤丸浅井神社前の舟乗り場の事。「如意の渡し」は小矢部川と庄川が合流していた赤丸浅井神社前から下流の「六渡寺の渡し場」迄の「舟下りルート」の事で、「六渡寺川船渡し」とも呼んでいた。


この事件は、当時は後白河上皇の庄園「越中吉岡庄」(南北朝時代に五位庄と改名された。)の「赤丸浅井神社」前の「二位の渡し」と云う渡船場で起きた…と云うのが「義経記」の真実の記載だ。「義経記」には「五位庄に至りて」と明確に記載してあるにも関わらず、「市長」と言う権力者が、歴史家?、財界の名士を動員して歴史を偽造した。それを高岡市長が銘版を作り、小矢部川の伏木河口にでっち上げた。
義経、弁慶のこの彫像の原形は石黒孫七氏の力作で、弁慶の迫力は素晴らしい ❗ しかし、残念ながら、この力作も歴史を偽造する為の証人にされてしまった。惜しい事だ。
時代考証の北野勝次氏は石川県小松市博物館にあった郷土史研究会の会員の様だ ❗
※「小松のすがた」―社会科資料(研究紀要〈第29〉)1955年、北野勝次著、小松市教育研究所
⇒「義経記」も読まずに「時代考証」とは?? これが高岡市の歴史か ⁉ 権力者は「歴史」をもでっち上げる?

有名な「歌舞伎」や「能」にもなっている「安宅の関」の場面は、今も石川県小松市の「安宅の関」で起こったと信じている方も多い様だが、元本を見られれば、真実の「弁慶が義経を打擲した場面」が「五位庄」で起った事件であった事は直ちに解るだろう。五位庄「赤丸村」の「赤丸浅井城」は、東大寺大仏造営の時に「米五千石」を寄進して「国司」にもなった「利波臣志留志」の末裔とされる「越中石黒氏」が居城とし、後鳥羽上皇が起こした「承久の乱」には石黒氏や越中の宮崎氏、加賀の冨樫、林氏等は同族として上皇側で戦い、破れて石黒氏は降伏し、「新川に去った」とされる。(※「赤丸名勝誌」)
鎌倉時代に「越中吉岡庄」と呼ばれた「後院領」(※上皇の庄園)であった赤丸村周辺は、「承久の乱」の時には後鳥羽上皇の庄園で、石黒氏はその地頭をしていたようだ。 越中石黒氏は「承久の乱」で破れた後に、南北朝期には南朝側の雄として復活して、興国三年には後醍醐天皇の第八皇子「宗良親王」を越中吉岡庄に御迎えしたと伝わる。「宗良親王」が名付けられたと云う「赤丸城ケ平山」にはこの親王が滞在されたと伝わる「親王屋敷跡」が言い伝えられている。
一方、加賀の冨樫氏は勧進帳に登場する「富樫左衛門」が有名だが、この人物は初代とされる「冨樫泰家」をモデルとしている。冨樫氏は加賀の林氏の同族で、後鳥羽上皇の「承久の乱」で鎌倉幕府北条氏側で上皇側と戦うが、上皇側で戦った本家の林氏は破れて降伏し、この後に本家の林氏は没落して冨樫氏が興隆したと云う。加賀の林氏は越中石黒氏と縁組して、後には加賀林氏の名跡も石黒氏が継いでいる。元々、越中石黒氏と加賀林氏は先祖を藤原利仁将軍とする藤原一族であった。南朝の後醍醐天皇の時に「富樫高家」が加賀国の守護職[1335年(建武2年)]になるが、加賀守護職を望む有力者が多くその地位は不安定であった。1387年( 南朝 : 元中4年、北朝 : 至徳4年)に「富樫昌家」が没して、管領「斯波義将」が実弟の「斯波義種」を加賀守護職に任じ、その没後もその息子の「斯波満種」に継がせる等、30年近くの間、富樫氏は足利一族の斯波氏に守護職を奪われた。
その後、将軍「足利義持」の側近となった「富樫満成」が1414年(応永21年)に「斯波満種」を失脚させて加賀半国守護(南部)となり、更に残り半国(北部)も一族の「富樫満春」が守護となった。1418年(応永25年)に「冨樫満成」は有力守護との政争に敗れて殺され、「冨樫満春」が冨樫満成の地位を継いで加賀一国の守護職となる。以後の「富樫政親」は1488年(長享2年)に石川と富山県の県境に近い「加賀高尾城」で加賀一向一揆に攻められ敗退する(※長享の一揆)。(※この時に冨樫の一部は東北に逃れたらしく、東北に加賀冨樫氏の末裔が残っている。)「冨樫政親」の死後は一揆側の手で名目上の守護として「富樫泰高」が守護になる。その後、冨樫泰高の孫の「富樫稙泰」が本願寺の内紛と絡んで発生した一揆で一揆側に加担して敗れ、守護の地位を追われて冨樫家は更に衰退する。元亀元年(1570年)に「冨樫稙泰」の次男「富樫晴貞」は、元々、斯波氏の家臣であった織田氏の家系の「織田信長」に従って一向一揆に対抗し、一向一揆側に討ち取られた。後を継いだ「冨樫晴貞」の兄の「冨樫泰俊」は天正2年(1574年)に討ち死にし、生き残った泰俊の子「冨樫家俊」は織田家の「佐久間盛政」に仕え、「後藤弥右衛門」と改名。その後も富樫家を存続させた後藤家の子孫は加賀藩の三役の十村役・肝煎を歴任して明治維新迄続く。
















小矢部川の河口に「如意の渡」のモニュメントが建つ。最近は観光案内にも登場するこのモニュメントは「勧進帳」の原点になった「義経記の二位の渡」(歌舞伎勧進帳では「安宅の関」のシーンになった。)の場面を大きな彫像にしたもので、「石川県小松市の安宅の関」とちょっとした本家争いが有ったと云う。両者とも偽物同士の争いだ。
高岡市は広報統計課1996年発行の「高岡散策」という本でこのモニュメント製作の経過を説明し、成人式にも配布した。それによると、モニュメント製作は民間のレジャー会社が観光振興の為に製作したもので歴史的な検証が行われた訳では無いらしい。元々、全国に義経所縁の場所とされる場所は数多く有り、北陸の福井、石川、富山県にも遺跡と称する場所が多い。高岡市の説明に拠ると、この場所は浄土真宗の古刹「高岡市伏木の勝興寺」の麓に在った従来はただ「渡船場」と呼んでいた渡し場に、「如意渡」という名前を平成元年に付けたのだと云う。名付けたのはこの「渡船場」を経営していた会社の役員で、地元の歴史を知って欲しいと云う事と勿論、本心は赤字続きの経営を上向きにする為にこの名前を付けたのだと云う。そして、新しく就航させた新造船の命名を地元の伏木小学校の子どもたちに委ねた。子どもたちはこの船に「如意渡丸」と名付けた。翌平成2年に高岡市の大手銅器メーカーの社長が石黒孫七氏の原形による銅像を建立したのだと云う。宣伝の為に地元の観光協会も説明看板を建ててアピールした。その結果、新しい観光地が産まれたのだと云う。
しかし、これには先立つ別の話が有る。昭和29年、地元の「如意渡保存会」が、伏木の八幡社横の東亜合成の寮の地に「渡守の館跡」が有ったと言われているので八幡社境内に「記念碑」を建てたが、早くもその年の秋にはその石碑が崖地に放置されていたと云う。しかし、昭和30年秋には今度は「高岡市」が八幡宮境内に「如意の渡碑」を建てたと云う。昭和34年には「高岡市史」を刊行して、「如意の渡し」は小矢部川河口の六渡寺村とその対岸の間の渡しであると発表する。こうして、この地に「如意の渡し」が確定してくる。加賀藩の時代にも確かに小矢部、五位、守山とこの近くに官営の渡し場が有り、加賀藩は「渡し守」に屋敷を支給していたと記録されている。しかし、これが「義経記」に登場する渡し守の屋敷では無い。江戸期と鎌倉期の話がゴチャゴチャである。ここは明らかに「守山の渡し」で在り、「二位の渡し」はもっと上流の赤丸浅井神社前に在り、そこから河口迄の舟下りルートを「如意の渡し」「六渡寺川舟下り」と言った事すら調べないで、お粗末な持論を発表している。当初は、この様に地元の盛り上がりを受けて、「高岡市」が自ら石碑を建立して「歴史のロマン」をデッチ挙げた。(※「北陸史23の謎」能坂利雄著 新人物往来社刊 参照)
「義経記」に「守護の館の近ければ」と記載される為に、この「守護館」は高岡市守護町の事だと主張する意見もこの偽説を後押ししているが、この当時赤丸村は「越中吉岡庄」と呼ばれた後白河上皇の直轄庄園「後院領」で有り、「後院領」は「後院庁」「後院司」が管轄し、税の徴収は頼朝の任命した地頭が代行したが、基本的には行政・司法を担当した守護の権限は及んでいない。高岡市が平成三年に発行した100年記念誌「たかおかー歴史との出会い」には、この守山の守護町は南北朝期に桃井直常が敗走した時に幕府側の斯波義将が設置したと記載されており、義経が通過した時期にはこの場所にはなかった事が分かる。学者の方々がこの程度も調べずに「歴史書」を書かれたのだろうか? この点については義経記の方も誤記だと思われ、「守護の館」は「地頭の館」の誤りと見られる。この「二位の渡し」の近くには源頼朝の配下の「地頭吉岡成佐」の館が在った「吉岡谷」や「東砦」「西砦」が在った事は高岡徹氏の近年の調査で明らかになっている。(✳「吾妻鏡」、「富山県史 中世」に頼朝の書状を掲載)
高岡市は今となって「義経記」自体が後の世の南北朝期の作品で有りフィクションだと解説している。しかし、フィクションにしては地理的にも、郷土の史実についても驚く程調査しており、あたかも著者が現場に居たかの如きリアルさである。例えば、赤丸浅井神社の創建の由緒迄調べ挙げてある事には驚きを隠せない❗ 又、小矢部市の「五位堂」についても、都では知り得ない様な山道沿いの小さなお堂と神社迄調べ挙げている。現地や神社資料を調査した所、その場所には確かに「五位堂」が在り、しかも木曽義仲が勘請したと思われる「諏訪神社」だった。この事は「西礪波郡紀要」(✳西礪波郡役所発行)にも記載されているが、ここは小矢部市がPRする「歴史街道」に在るにも関わらず小矢部市教育委員会すら認識していない。
「義経記」を「偽作」とする学者の方々の意見を検証して見ると、「義経記」がフイクションでは無く、むしろ「高岡市史」等がフイクションなのである。
2009年(平成21年)8月2日 にこの小矢部川河口の渡船場に橋が開通し、即日、この作り上げられた「如意の渡し」の渡船場は廃止され、モニュメントも放置された。根拠の無いでっち上げの歴史は、小松市の「安宅の関」と云い、高岡市の「如意の渡し」と云い、観光だけを考えた商業ベースの観光地は事情が判れば誰も見向きもしなくなるのは当然である。否、むしろウソの観光地を喧伝する自治体の社会的信用が失墜して、民度の低下に地元民も呆れ果てて、毎年1000人近くの人口減の現象を生じさせている誘因なのかも知れない。高岡市二上山周辺や能登半島に残る「源義経伝承」は地元民にとっては大事な退屈しのぎのお伽噺だが、歴史や郷土史を研究する学者や教師、教育委員会、官庁が如何に「観光振興」とは言え、事実を歪曲して「権威者面」をして「嘘を事実として喧伝する」のは最悪だ。せめて観光課が「お伽噺の紹介」として、旅人に夢を与える程度にして欲しいものだ。
高岡市の観光の目玉の雨晴海岸の「義経岩」は昔から義経弁慶主従が岩穴で雨を避けたと云う伝承から、富山県の代表的な観光スポットとして富山県や高岡市の観光パンフレットには欠かせないシーンになっている。霧に浮かぶ「義経岩」とその背景の富山湾、さらに、その背景として海の上に屏風の様にそそり立つ白銀の立山連峰は正に圧巻の景色で、富山県民が誇る景観である。しかし、この岩も本当は古代の遺跡では無いかと言われるし、高岡城築城の時の石切場だとも言われる。「歴史のロマン」は観光振興の大きな力にはなるが、眉ツバな、ご都合主義の歴史認識を捨ててそろそろ真剣な歴史検証と真実に基づく本当の「歴史の町づくり」を目指してはどうだろう❗ 力を持った行政や商工団体なら何をしても赦される事ではない。嘘で塗り固められた歴史はいつか瓦解する事を覚悟すべきだ。




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🔴💥『強者共が夢の跡』⇒静かに消し去られようとしている『越中吉岡庄』、『五位庄』の文化と生活!!

2017-05-28 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸











●富山県⇒消え行く西山街道沿いの村々!!

西礪波郡福岡町と赤丸村が合併して、赤丸小学校は福岡小学校に吸収された。今度は二年後には石堤小学校が立野の千鳥ケ淵小学校に吸収されると云う。これで川西地区から小学校が消滅する。赤丸小学校が廃校になってから旧赤丸小学校下の村々からすっかり子供の遊ぶ声が聞こえなくなり、若い世帯は市街地に移転している。正に高岡市が進める「中心市街地活性化法」に基づく町づくりが着々と進んでいる。ある高岡市の職員は密かに「市長の前向きに検討する」と云う言葉は政治的な発言で「何もやらない事」だと呟いた。何回も市長の市政懇談会が各地区で開かれ、その都度市長は「前向きに!」と後向きの発言を繰り返してきた。知らない内に小矢部川の川西地区から全ての公益施設が消えて行く。
赤丸小学校と石堤小学校は、元々、赤丸村の皆月太玄氏の私塾が発展し、赤丸村と石堤村の子供を対象にして「知新小学校」が設立された。その後、学区の見直しで、赤丸小学校と石堤小学校に別れた。
赤丸小学校の教鞭を取った「早苗西蔵氏」は高岡市の第十一代市長と成り、赤丸小学校からは各界の数々の知識人・産業人を輩出している。近年では、選挙制度の専門家の川人東京大学大学院教授を輩出した。川人氏は「延喜式内社赤丸浅井神社」の神官の川人家から出て、学会のノーベル賞ともされる「学士院賞」も授章されている。
過去には、富山県西部の中心地として、天皇家庄園や蓮華王院三十三間堂、上賀茂・下鴨神社、相国寺(金閣寺)等の庄園で在ったこの地区は、正に「見えざる手」で静かに消し去られようとしている。著名な歴史書や古文書に数多く記載されたこの富山県西部の里は「真綿で首を絞められる」様に、正に静かに息絶えようとしている。


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🔴📃「越中砺波郡頭川村村御印」と加賀藩の政治!! ⇒幕末迄続いた過酷な仕置き。

2017-05-28 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
最近入手した『頭川村村御印』





⇒加賀藩は各村に「村御印」と云う納税通知書を発行し、十村役、肝煎、組合頭に納税必達を指示した。全ての責任はこの三役に課せられ、果たせない場合は、役替え、所払い、追放等の厳しい仕置きが課せられ、届け出と違う作付けは「隠し田」として摘発された。赤丸村住民を動かして村が興された高岡市の「和田新村」の和田佐吉は「磔」の極刑となった。当時は連座制だった為、一族も死罪、財産没収、所払い等の刑が課せられた。
赤丸村の肝煎「五衛門」はこの再発行される事の無い「村御印」を紛失して「手鎖、入牢」の上、厳しい取り調べを受けて遂には亡くなっている。(※「杉野家文書」福岡歴史民俗資料館)








前田氏は天正十三年以降、越中の検地を行った。慶長二年以降にも検地が続いたが、その時の年貢は100俵につき何俵と言う考え方で「物成◯◯俵」とされ、越中では地域によって25俵程度の地域と60俵程度の高税率納地域が在った。慶長三年の検地の時には税率が「免二十八」等と税率で表示されている。但し、新しく荒れ地を開発した時は免6~7つと軽減されたらしい。しかし、実際には免二つ(2%)位が限度で、苦しい農民は「退転」とされて入れ換えされた。これは田畑であったが、山野については別で、五位庄十六村では慶長十七年、利常は「三貫三百文」の年貢を倍に上げ、利長は同年に小矢部川から川西地区の土屋、向田、西明寺村について更に吊り上げて「十貫文」に決めている。又、当初は集落毎に「せり」を行い、「せり免」と言われる税制も行われた。当初、徴収する税は豪農の倉に納められていたが、後には小矢部、三日市等の地域に「御蔵」が建てられ、収納された。家臣の知行米等の「預り米」もこれ等の「御蔵」に収納された。税の取立てが厳重に行われた為に百姓は地域の取りまとめをした十村役や、知行地としていた「給人」から米や銀を借りて二割の利子をつけて返済した。不作の為に年貢が納められない者や遅れた者は「女子供牛馬家屋下女によらず御取下されたく…」との借用書により借金せざるを得なかった。年貢が不足すると、翌年の種籾も二割の利子で借りる事になり、百姓は次々に借金を背負う事になる。当初、加賀藩では給人(家臣の知行地域)が年貢を徴収し、役人は藩の直営地の税だけの徴収をしていたらしいが、次第に給人が百姓を個人的に使役したり、勝手に税を取立てて百姓が逃げ出すケースが出た為に、税の徴収は郡役人が各地の十村役、肝煎、組合頭に命じて徴収を行い、給人が直接百姓から徴収する事を禁止した。十村役には「村御印」と呼ばれた税の納付指示書が発行され、十村役の責任を追及した。徴収した米は「蔵入地」「知行地」共に一貫して徴収され、「蔵入地」については「代官」が支配した。利長は代官に対して、人馬の不当使役や百姓の「糠、藁、薪等」に至る迄、物資の収奪を禁止し、百姓の中に介入しない様に定めたが、実際には逆にこれ等の不法が頻繁に行われていたらしい。しかし、それでも続いた不法に対して、慶長十二年には改めて給人、代官に通達して「走百姓の調査」(※逃げた百姓の調査)や「給人、代官の不法禁止」を命じて、水争い等に介入して利得を得る事を禁止して、百姓間の事は十村役や肝煎に任せる様に指示している。この事で加賀藩は「百姓の処罰は藩の目安場で裁定する事」、「年貢の未納の代償に恣意的に百姓の不利益を生じさせない事」を改めて再確認した。ここでは、「公領」と「給人地」の区分を明確にして、「公領⇒代官」、「給人地⇒郡奉行・十村」の系統を分けたと言える。
(※赤丸村は長九郎佐衛門に知行されている。⇒十村役「大滝村 杉野家」、肝煎「赤丸村 奥田家」、組合頭「赤丸村 皆月家」)
(代官は当初、公領、給人地の全てについて責任を持ったが、給人地については次第に郡奉行が采配したらしい。)
しかし、十村、肝煎の責任は大きく、藩は、この制度下で逃げ出す百姓(走百姓)を調査させ、その百姓は「死罪」、その田畑の耕作はその十村組の責任とされた。
(この場合に、死罪になった百姓の借金、未納の年貢の納入も十村の責任とされた。)
反面、郡奉行と十村役からの圧力が加わる百姓には、「十村、肝煎が組の百姓を直接雇い入れない事。」、「頼母子の働き掛けの禁止」(※相互に無償で働かせる事)、「自分銀米の高利貸付の禁止」、「百姓から十村への礼物の禁止」を命じて百姓の保護を命じている。
元和6~7年頃から平均免、銀納が決まってきたが、承応2年の「改作雑集録」では「平均免」について触れ、「能登、越中は三つ九歩(39%)、加州三つ五歩(35%)、小松三つ六歩(36%)」と平均の税率が定められたとしている。(※四公六民の制度)
一方、この平均免に対して、越中砺波郡の内で小矢部川西部については、かつて、前田家に対向した地域として懲罰的な60~75%云う高率の税率をかけた。又、かつて、一向一揆で反抗した子孫にも代々に亘り厳しく対処したと云う。
加賀藩は年貢の増収を目指して非生産的な百姓を追放した。怠惰な百姓と認定されると、村役は私財没収の上、単なる水飲み百姓に降格され、一般の百姓は「耳、鼻をかき、身体に印を付けて元々の地の耕作者の下人とし、妻子も下人にする」とされ、「打ち殺しても苦しからず」として、「御折檻百姓」と呼ばれた。この百姓は「持高、家、諸道具等」の全財産を没収され、「追放」されてその財産は後継の百姓に与えられたと云う。又、納税が果たせない時は婦女子を売らせ、男は下人として奉公させた。当初、女は加賀藩士が内職で行う女郎屋で働かされ、役に立たなくなると豪農等に売り飛ばされて、能登では売られた女は女郎として村に与えられて、終生、村の共有奴隷として働かせた記録が有ると云う。(※「加賀藩の光と影」浅香年木著)
明暦元年には利波郡の麻生谷村(高岡市)、淵ケ谷村(高岡市福岡町)等の六カ村で700石を超える草高について大規模な百姓の入れ換えが行われている。この時、蓑谷村(城端町)、麻生谷村(高岡市麻生谷)、十年明村(砺波市油田)の追放された百姓の跡地は戸出(高岡市)、宮丸(砺波市)、田中村(福光町)の十村役に任されてその管内の百姓に宛がわれた。
寛文六年七月に園田佐七等六人の改作奉行が御扶持人十村・十村に出した四ケ条の指示書には、「利常の定めた改作法の厳守、給人の威光を借りて働かない者等を追放、入れ換えし、時には殺害しても構わないから、真面目に取り組む百姓に替える様に」と記載され、「殺害しても」との強硬な指示が出されている。
加賀藩はかつて敵対した勢力や一向一揆に関わった者の子孫を代々に亘り十村役に監視させ、何か有れば、死罪、追放等の厳しい仕置きをした。又、禁断のキリスト信奉者も代々監視され、全ての生活に宗門改め役の目が光っていた。又、これ等の死亡の時には、遺体を塩漬けにして葬儀を許さない等の嫌がらせで、キリシタンの末裔に対しても報復した。
「高岡史料」には「罪を得る者枚挙に暇なし」として加賀藩の残虐、非道の政治を記載している。しかし、これ等の政治の「陰」を知らない歴史家や高岡市は無批判に前田家の治世を讚美している。前田家の治世を継承する高岡市にとっては、これが「絶賛」する加賀藩前田家の農業政策だったと云う事も知るべきだろう ❗
(※「加賀藩改作法の研究」坂井誠一 著 参照)
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📚『高岡市史』掲載の「荊波神社」の祭神と『富山県神社誌』掲載の「荊波神社」の祭神!!

2017-05-28 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
高岡市和田、福田、立野、東石堤、池田、上渡り、高田島地区には、福田の「荊波神社」や高田島の「五位庄神社」、上渡り「八幡社」等の多くの神社が遺されている。



公的な『高岡市史』のデタラメな記事。砺波市池原の『荊波神社』の祭神は石黒氏の祖の『利波臣志留志』の祖先神『日子刺方別命』であるが、高岡市福田の『荊波神社』の祭神は二上射水神社と同じく『瓊瓊杵尊』である。ところが、「高岡市史」では福田の神社の祭神も「日子刺方別命」だと訳の分からない主張をしているのだ。









神社を語るのに祭神も調べていないこのいい加減さ? 一体、何を主張しようとしているのか?
この前提で高岡市史は、「この福田地区に都の政庁が在ったとは考えられず、砺波市池原の『荊波神社』が位置的には有力である」と結んでいる。延喜式内社は必ず都の政庁に在った訳では無く、このデタラメな論理は何処から来るのか?
一方、砺波市は池原の神社は、「東大寺庄園井山庄」に「荊波神社の神田」が記載されるから、その「井山庄」が在った砺波市の池原の神社がこの「荊波神社」であると主張している。しかし、「赤丸浅井神社」の神田が遠く庄川町に在った「東大寺庄園石粟庄図」に「浅井神一段」と記載されており、この論理にも無理がある。庄園のすぐ近くに在ったからと云う理屈は必ずしも当てはまらない。現に、砺波市が主張していた「東大寺庄園杵名蛭庄は井波の高瀬庄の位置に在った。」とする事についても、東大寺庄園研究の権威の金田先生が「高岡市戸出市野瀬辺り」とする意見を発表されており、砺波市の主張は否定されている。この「杵名蛭庄図」には「荊原里」と明確に記載されており、「杵名蛭庄」が高岡市の砺波郡界に位置していたとすれば、当然、「荊原の里」に「荊波神社」が在った事に成り、立地的には「高岡市福田地区の荊波神社」こそが、延喜式内社であると云える。どうして行政の歴史研究はこの様にいい加減なのか? この事からも『高岡市史』のデタラメさが分かる。

★福田の『荊波神社由緒』では、元々の在った場所を何故か不明としているが、近くには『イバラの宮』の故地とされる写真や遺物を保管している一族が在る。
高岡市細池の旧家池田家に伝わる「イバラの宮」の写真や地蔵菩薩の板光背等がそれで在る。歴史学者の浅香年木氏は『寿永の内乱論序説』で、この池田氏は「源平盛衰紀」に登場して木曽義仲を埴生八幡宮に案内した『池田次郎』の末裔で、氷見市池田、高岡市池田、赤丸村池田島、小矢部市今石動(旧池田)等を開発した国人領主で在ろうとされている。この池田家は高岡市の総持寺の敷地も寄進したと浅井神社記録に伝えており、古い「吉岡庄」の時代から繁栄した一族の様だ。又、この一族は元々、赤丸浅井神社の門前に屋敷を構えて「肝煎」を勤めたが、加賀藩から下された二度と発行されないとされる納税の割り当て書である「村御印」と呼ばれた重要書類を紛失したとして、「手鎖、入牢の刑」を受けて所払いと成り、国吉村四十九に動いたとされる。(※「杉野家文書」福岡歴史民俗資料館) この跡は弟が全財産を受け継ぎ、赤丸村の肝煎を勤めた。(※赤丸村の「池田」、「奥田」、「桜木」の総本家に当たり、この池田家は高岡市の総持寺千手観音像の鎌倉時代の胎内仏や冑に祀った「冑仏 カブトブツ」等を保管している旧家である。)



「東大寺庄園杵名蛭庄図」に記載される『荊原里』⇒福田地区の『荊波神社』が延喜式内社の『ウバラノ ヤブナミジンジャ』と推定される根拠!!






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🏯📃 越中五位庄「加茂城」の「二宮円阿」軍忠状!!

2017-05-28 | 富山県高岡市


貞治2年(1363年)3月、南朝の武将桃井直常討伐に従軍した「二宮円阿」が「五位庄の鴨城衆と頭川城、松根城等での戦い」を命じられて任務を果たした事等が記載された「二宮円阿軍忠状」が有り、是が「五位庄鴨城」の説明に登場する。この「二宮氏」について調べて見る。

【二宮次郎左衛門入道円阿申軍忠事】
「右、去年二月九日令発向越中国、可致忠節之由、賜将軍家自并七条殿(斯波高経)御教書、当国松□(根)御陣下向仕、同七月三日大将御共仕、和三(田)合戦令致忠節、致其外圧城・野尻御供申、自同十一月至今年三月令和田十一警固、同十三日可為鴨城衆由依仰下候、於当城致忠節、同五月十二日向馳頭高城、追落凶徒等、焼払彼城、鴨城衆等相共致忠節、至南条枯本木金山城、令致忠節候上者、賜御判形為備後証、恐々言上、如件、
貞治弐年六月 日
一見了 印 」

詳細を調べるとこの二宮円阿という人物は足利一族の斯波高経の家老に見られる。
●「斯波高経」; 尾張足利氏四代目 1362年細川頼和に代わり越中に息・義将を派遣。信濃国から越中乱入。南北朝時代の南朝の武将で守護大名。越前・若狭・越中守護。南朝の勇将新田義貞を福井県で破る。観応の擾乱では足利尊氏と直義双方にその都度、仕える。
●「二宮円阿」;次郎左衛門入道貞光円阿。斯波家家老で信濃口から越中へ乱入し庄城、野尻城、和田城、鴨城、頭高城で戦う。1363年(正平十八年)に軍功を申請する申請書を提出した。

●天正二年に上杉謙信から知行安堵された新川郡(現富山市)上熊野の二宮左衛門大夫は、神保長住から越中国入国直後の天正六年五月十七日付け(1578年)で知行安堵状が出されて、更に同年七月八日に重ねて織田信長から知行安堵の朱印状が発給されている。当時は最終的に織田信長の朱印状を頼っていたらしい。(※「富山県史」資料編Ⅱ中世)

●高岡市守山城の神保氏張は能登畠山氏から神保氏に養子に入ったが、静岡県立図書館にある徳川家臣の「神保系図」に拠れば、守山城の神保氏はその祖先は平姓良文系「二宮氏」で有り、守山城を居城として中村、神保と改姓している。(※「神保氏」には「惟宗姓」と「平姓良文流」の二系統在り、各々が能登畠山氏から「神保」の姓を授かったと云う。)

【武蔵七党と二宮氏】
中世の薩摩国甑島の領主小川氏は、武蔵七党の一である「日奉姓西党 ヒマツリセイニシトウ」から出たと云う。
「日奉姓西党」は武蔵守として赴任した藤原宗頼が武蔵国に土着したことに始まり、系図によれば宗頼の孫宗忠が西内大夫を称している。宗頼→長男は西太郎宗守、次男宗貞→宗貞の長男宗綱(宗綱の系統が西党の嫡流)→二男上田二郎の子宗弘[小川(小河)太郎入道を名乗り小川氏の祖]
その他、西党からは長沼、稲毛、平山、由木、立河、二宮、由井、小宮氏らが分出して、多摩郡を中心として都築・橘樹郡に一族が広まった。 子孫は居住地が国衙の西方にあった事から西党を名乗る。
治承四年(1180年)に「平治の乱」に敗れて伊豆に流されていた源頼朝が旗上げする。安房の頼朝の下には上総・下総・武蔵武士達が参集してくる。相模国鎌倉に本拠を置いた頼朝は東国の武士団の棟梁になり、武士達は頼朝の家人となる。小川氏や同族の二宮氏・小宮氏も頼朝の御家人となり本領を安堵された。頼朝はこれ等の東国武士団を率いて平家と戦い、遂に鎌倉幕府を開く。 鎌倉幕府を樹立した頼朝が建久元年(1190年)に上洛した時に随兵の中に小川二郎、二宮小太郎、小宮七郎が見える。同四年の的始の射手に二宮弥次郎が選ばれている。(※『吾妻鏡』 )

[武蔵七党]
・野与党 平忠常の次男胤宗子、基宗が興す。
・西党 日奉連宗頼(ヒマツリノムネヨリ) が祖。小川・由比牧支配。(日奉・西・長沼・上田・小川・稲毛・平山・川口・由木・西宮・由井・中野・田村・立河・狛江・信乃・高橋・清恒・平目・田口・二宮)
・私市党 私市家盛が祖。「私市キサイ」は皇后領を治めた。皇后の牧を管理。
・児玉党 藤原道隆の孫の子で維能コレヨシが武蔵介児玉郡を開いた。
・横山党 小野篁の7代目子孫の小野孝泰が武蔵守となり多摩たまの横山(八王子)を開く。
武蔵七党中最大の規模。(※小野篁…平安初期の有名な学者、参議。)
・丹党 宣化天皇系の多治比古王の子の広足が丹治姓を賜姓され、武蔵守となる。
・村山党 平忠常の子孫、野与基永の弟、村山貫主頼任が祖。狭山丘陵。
・猪俣党 横山党の一族。小野孝泰の子孫の時範が児玉郡猪俣に住。荏原氏、岡部氏等。

【二宮氏】東京多摩地域の「あきる野市二宮」の「二宮城」を拠点とした。
「西党」は藤原氏真夏流の日野中納言資朝の玄孫資忠の後裔説がある。又、大伴氏と同じ「高皇産霊尊」(タカミウブスナノカミ)の後裔共云う。武蔵守として下向した日奉連宗頼の後裔は小川牧、由比牧の別当を兼ねて多摩川中流域に勢力を扶植して武蔵七党の一として一族は西党とも呼ばれる。

 


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🏯🐎『北国太平記』の「石動山の殺戮」と 『北国全太平記』に記される「能登末森城の戦い」 ⇒ 『前田利家』の真実!!

2017-05-26 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
『越中の戦記』
=>『北国太平記』と『北国全太平記』


「前田利家戦功図」 (北方心泉作)
(※金沢市では北方心泉の作品が文化財に指定されている。 )






高岡市内の守山城の城主神保氏張とその家臣の柴野城城主寺嶋牛之助・甥の赤丸・浅井城城主中山直治は佐々成政に従い石川県の能登末森城で前田利家と戦った。負けた越中砺波郡の諸将はある者は前田家にすり寄り、ある者は意地を通して領外に落ち延びた。神保氏張は佐々成政に従い、熊本に転じ、成政の死後は徳川家康に従って旗本として遇された。五位庄領主寺島牛之助(牛介)は鉄砲の腕前を買われて加賀藩に士官し、高岡町奉行や算用場奉行等の要職を勤めた後に罪を得て能登島に流されそこで生涯を閉じた。赤丸城の中山直治は敦賀に逃れて敦賀の今井家を継いだ。しかし、残された砺波郡、取り分け赤丸城や柴野城が在った小矢部川と西山一帯に囲まれた小矢部川の川西地域は、施設が破壊され、寺院は移され、西山沿いの住民は農奴として無産の頭振り百姓として現在の高岡市和田の和田新村の開発に従事させられ極貧に喘いだ。(※「富山県立公文書館資料」)
通常は「四公六民」で40%の課税標準だが、佐々成政の牙城の赤丸城の麓の舞谷村には75%もの課税が行われ、それ以外の村々の小矢部川川西の鳥倉村75%、花尾村71%、赤丸村61%、細池村70%、馬場村70%の重税が課せられ、その他の西山沿いの集落にも60%以上の税が課せられた。加賀藩からは「村御印」と云う課税通達が村々に発給され、この書面は再発行がされなかった為、紛失、汚損は重罪とされ、それだけで「手鎖の上、入牢」の処罰を受けた。赤丸村の肝煎「五衛門」も処罰を受けて、遂には亡くなっている。
(※「杉野家文書」福岡歴史民俗資料館)

「加能越三箇国高物成帳 部分」
(※金沢市立玉川図書館 発行)


事情の知らない歴史家は、これは小矢部川川西の生産高が高い為、或は品質が良い為だと解説しているが、加賀藩の情け容赦の無い占領政策を知らない者の戯言に過ぎない。当時は種籾を借りれば二割の利子、地域の土木工事や藩の工事には駆り出され、森林の利益は山役、河川の漁には川役として課税された。又、米を集める手数料として米の1割が役人の手元に入った。勿論、米は百姓が地域の「お蔵」に迄届けるのだが、検査と称して役人によって米が抜かれたと云う。地域は十村役、肝煎、組合頭と言う三役に徴税の義務が課され、連座して罪を問われた。示された納税が期限迄に出来なければ女房、子供も売り払い、それでも払えない凶作の年には小矢部川に次々と遺体が流れ着いた。この遺体処理費用も村の連帯責任とされた為、村々では小矢部川に立ち番をして流れて来た遺体を長い竹棒で下流に押し流していたと古老は伝えている。
赤丸地域の住民は、為政者が代わる度に家を焼かれ、農地を荒され、人間が売り買いされると云うのが実状で在った。特に五位庄は南北朝時代の桃井直常の「五位庄の戦い」や「一向一揆の五位庄への集結」、上杉謙信の「石動山焼き討ち」、前田利家の「石動山・西山」の焼き討ちにより徹底して施設は燃やされ、前田利家は、住民は女子供に至る迄斬殺して寺の山門に一千以上の首を掛けて見せしめにし、山から流れ出る谷川は流れる血で真っ赤になり溢れたと地域の古記録や伝承は伝えている。

『北国太平記』の「前田利家石動山攻め」





佐々成政勢が前田利家との雌雄を決する為に能登末森城の戦いに望んで柴野城、赤丸城、木舟城から出撃した時、高岡市福岡町沢川の田畑兵衛という土豪が、能登末森城の戦いに向かっていた佐々成政に味方して道案内をするフリをして成政陣営を山中でワザと迷わせ、末森の戦いに遅れさせたという話がある。この話しは通俗的な日本史とされる「北国全太平記」と云う江戸時代の物語に詳しく載っている。田畑兵衛は富山県から石川県に向かう山中の沢川村の土豪であったが、昔から能登の入口の羽咋郡・鹿島郡の二郡を領有していた平家の末裔だと云う。前田利家はその所領を返してやるとでもいったものか、沢川の田畑兵衛は見事に裏切り、前田側が戦勝した。前田利家はその後、沢川村周辺の見渡す限りの山地を田畑兵衛に与え、寛延元年、文久三年の御扶持人十村名簿には「無組御扶持人」として田畑兵衛の名前がある。又、250年近くも山廻役を務め名家とされたと云う。(※「高岡市福岡町歴史民俗資料館」には「田畑家」文書がある。)

『北国全太平記』の「能登末森城の戦い」








「田畑兵衛由緒」(※富山県立図書館)


「前田利家の武生での殺戮」
福井県武生市では「前田利家は一向宗門徒を虐殺した武将」として言い伝えられている。
武生 一向一揆では、山々に逃れた民百姓を徹底的に探しだし、女、子供に至る迄、熱釜に放り込んで焼き殺したり、磔に架けて虐殺した。その時逃れて怨みを記入した屋根瓦が残されている。伝承は前田利家の狂気を今に伝えている。




豊臣秀吉は各種の諜報活動と調略を駆使して、闘わずして味方に着ける事に腐心したが、前田利家の政治手法もこれに似ている。武骨な佐々成政は各種の調略で豊臣秀吉から離反させられ、まんまと前田利家が100万石の領地を手中にした訳だ。前田家は元々畠山氏の統治時代からの能登の雄で有った長氏の所領を没収し、代わって越中五位庄赤丸村の領地を宛がった。代わりに赤丸村等の五位庄を上杉謙信以来安堵されていた元佐々氏の配下の寺島牛介は助けられて加賀藩の家臣となり、その子孫の寺島蔵人(原家からの養子)は高岡町奉行、算用場奉行等を歴任し、加賀藩の重役として処遇を受けたが、遂には能登島に配流されて生涯を閉じた。加賀藩は巧みな情報操作と、巧みな策略、統治手法で徳川の時代を生き延びた。
戦乱は勝者と敗者の歴史を塗り替え、勝てば官軍で、敗者の歴史は消され、勝者が作り上げた「歴史」だけが残り、都合の悪い真実は隠される。戦争史に正義や真実は無い。全てが勝者の主張に沿った「歴史」だけである。今、高岡市の歴史は「前田家」一色である。長い古代、中世、近代の歴史は全て加賀藩の色眼鏡で脚色され、加賀藩におもねた家臣や町民の事だけが歴史として標榜されている。現代の高岡市は加賀藩の延長かと見紛う位だ。京都や奈良等が古代・中世に歴史の焦点を定めているのと同様に、富山県の歴史では長く統治した畠山氏や神保氏、桃井直常等の南朝の武将、上杉謙信、一向宗等の時代は霞んで見える位、前田家一色なのである。
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📚📖「妙法院」・「三十三間堂」と後白河上皇 ⇒「越中吉岡庄」、「越中五位庄」の「川人山鞍馬寺」・「赤丸浅井神社」!!

2017-05-26 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
古地図に見る「妙法院」・「三十三間堂」・「方広寺大仏」






『妙法院』は平安時代末期に後白河法王の帰依を受けた僧「昌雲」が法王の御所の「法住寺殿」に隣接して住坊を構えた事から始まった。又、『三十三間堂』は後白河法王の御所の「法住寺殿」に付属する御堂として創建され、法王が愛された絵巻等を所蔵した。又、豊臣秀吉が方広寺の大仏殿を造営した時に妙法院はその経堂と定められ、近世になると妙法院は三十三間堂を管理する様になった。『妙法院』は天台の僧「昌雲」が比叡山西塔に在った本覚院を分かち、一院を建立した。初代門主は『最澄』で、第十五代門主には『後白河法王(行真)』が就任され、南北朝時代には後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が第二十四代門主(尊澄法親王)に就任(正中二年、1325年)され1330年には座主に就任された。しかし、父の後醍醐天皇が足利幕府との戦いに身を投じられ「元弘の乱」が起こると、座主就任からわずか半年後に親王は還俗して将軍と成り全国を駆け巡られ、興国三年には越中に入られ赤丸浅井城に入られたと伝える。その後継は弟子で北朝の後伏見天皇皇子(亮性法親王)が第二十五代に就任されている。しかし、後醍醐天皇の「建武の中興」が成ると尊澄法親王は再び座主に返り咲き、その後更に内乱が激しくなると再び還俗して諸国を転戦されている。後醍醐天皇は倒幕の戦力として延暦寺や妙法院の兵力を便りにされた。

・「妙法院」は元々比叡山の一院で在ったが、何故、京都に移されたかははっきりしないと云う。保元元年(1156年)に、保元の乱を避けて方違えとして法住寺に行幸された後白河天皇はここがお気に召したのか保元三年に二条天皇に譲位して応保元年(1161年)にはここに移り住まれここを御所にされた。これが法住寺殿で現在の妙法院から蓮華王院等を含む広大な敷地で在ったと云う。上皇は御所の守りとして比叡山延暦寺の鎮守の日吉社を勘請して今日吉社とされた。その別当には妙法院昌雲が任じられている。
・「蓮華王院」は元々、別の寺院で在ったが、後白河天皇が譲位後法住寺を御所とされ、その仏堂として上皇が発願され、平清盛が造営して長寛三年(1164年)に落慶している。その内陣の柱間が三十三間在る事から三十三間堂と呼ばれ、その堂内には一千一体の千手観音像を祀られた。千手観音は蓮華王とも呼ばれる所から別名「蓮華王院」と呼ばれた。

・豊臣秀吉と妙法院
豊臣秀吉の「文禄の役」の終局に当たり万暦二十三年(1595年)に明朝の皇帝が秀吉に贈った装束が保管されている。又、豊臣秀吉は京都に大仏を造営する事を発願して、三十三間堂隣の旧仏光寺の跡地に天正十六年(1588年)から着工した。文禄四年(1595年)に大仏寺住持に聖護院の道澄が任ぜられた。しかし、大仏殿は慶長七年(1602年)に火災で焼失した。
慶長十九年(1614年)、徳川家康は方広寺の鐘の銘文の「国家安康」に意義を唱える。翌、元和元年(1615年)妙法院門主が方広寺住持を兼務した。聖護院住持は家康に呼び出されて暗殺されたと云う。

●富山県高岡市福岡町赤丸の『赤丸浅井神社』の別当「川人山鞍馬寺」は聖護院派本山派(天台宗)だった為に、江戸時代には聖護院派は豊臣恩顧の寺院として激しく圧迫されたと云う。
又、赤丸浅井神社を郷社とした「越中吉岡庄」、「越中五位庄」は後白河上皇以来、上皇の庄園「後院領」として後醍醐天皇迄伝領した。その為に「越中五位庄」は妙法院、聖護院等の運命と密接で有り、歴史的にも度重なる動乱に巻き込まれている。













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🔴『北陸七国志』に見る「能登末森の戦い」⇒【高岡市福岡町沢川村の「田畑兵衛」狭導の事】!!

2017-05-26 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
富山県西部について記された「戦記」で、鎌倉時代では「吾妻鏡」、南北朝時代のものには「太平記」や「花榮三代記」(※「群書類従」)等が在り、室町以降の「軍記」には、「北陸七国史」、「北越軍談」、「荒山合戦記」、「末森記」、「越登賀三州史」、「小松軍記」、「富樫記」等の多くのものがある。それらは現在、市販もされておらず、郷土の人達も目にする機会は少ない。これ等の戦記を見ると、越中と加賀、能登がいつの時代にも良好な食糧生産地として、又、大陸との海外交易について重要な地域で在り、戦乱が絶えなかった事が理解できる。
特に越中と能登、越前等を集中的に扱っているものに「北越七国史」がある。「末森記」はその中でも「能登末森城」での前田利家と佐々成政の戦いについて記し、「荒山合戦記」は前田利家の石動山攻撃と殺戮について記している。





「北陸七国史」(※部分)






(高岡市福岡町)沢川村(ソウゴウムラ)は高岡市と小矢部市の中間に在って、「五位庄」に在り、「赤丸村」、「鳥倉村」、「西五位村」、「小矢部市」から富山県と石川県の間の西山を能登に抜ける間道に在る。この山中には間道が網の目の様に広がり、「沢川村」から「小野村」を過ぎると能登の宝達山の麓に抜ける。その点では「津幡町経由」、「沢川村経由」、「氷見村経由」のルートの内で佐々勢が拠点とした「木舟城」から「守山城」、「柴野城」、「赤丸城」を前線として西山を山越えする為には最短のルートになる。しかも、「小野村」は石川県と富山県の二つに分かれている。
「沢川村」の「田畑兵衛」は元々、平家の末裔で能登にも所領を持っていたと云う。「田畑兵衛」は佐々成政から能登末森城への案内を乞われた時に「前田利家は領地を奪い、賦役をかけて地元の人々を苦しめて来た。だから、末森城への間道を案内する。」と佐々軍に告げて佐々軍を山中の狭い、道無き道に引き込み、散々連れ廻して佐々軍が道に迷うと自分は姿を消してしまう。佐々軍が末森城に到着するのが遅れた間に伝令が前田利家に末森城の危機を伝え、利家は早速末森に応援軍を送った。前田軍の末森城が籠城して佐々軍がこれを攻めあぐねている所に前田軍が駆けつけ、末森城は落城を免れた。この時に末森城を攻めた主力は高岡の「守山城神保氏張、その子清十郎」、「高岡柴野城寺島牛介」とその兄の「斉藤甚助」、「赤丸城中山直治」等で在った。
戦後、「前田利家」は「田畑兵衛」に恩賞として、周辺の山林、田畑を与えて全十村役を取り締まる「無役十村」に任じて、西山一帯を取り締まる「山廻り役」に任命した。苗字・帯刀を許された田畑兵衛は、家臣に準じて加賀藩の慶弔行事に参列する事を認められた。
一方、この戦いで敗れた「佐々成政」は越中に侵攻した「豊臣秀吉」に降伏して、暫く新川郡を知行されたが後には「肥後」に転封され、その後、一揆の鎮圧に失敗して切腹させられた。「守山城神保氏張」は佐々成政と共に肥後に赴いたが成政切腹後、浪々して後に「徳川家康」に仕官して千葉に知行地を貰って旗本として処遇され、「柴野城寺島牛介」は鉄砲の腕前を買われて前田家に仕官し、兄の「斉藤(小島)甚助」は富山市の蜷川村で出家した。「赤丸城中山直治」は前田家への仕官を断り福井県の敦賀に落ち延びたて、その地で今井氏の養子になった。一方、神保氏張に加勢した高岡守山城から柴野城、赤丸城のお膝元の住民は、前田利家が占領すると、西山一帯の住民は高岡市和田新村の開発の為に移住させられ、赤丸村の浄土真宗長善寺は和田の善宗寺、福岡町の長安寺に三分割され、長善寺は僅かの門徒しか残されなかった。しかも、残された住民に対しては、通常は四公六民の税制で四割の課税だったが、この小矢部川西岸の地域には幕末迄「60~75%」もの課税をかけ続けて住民に報復し、赤丸城のお膝元の「舞谷村」と末森城への間道(※「片山大道」)が在った「鳥倉村」に対しては、何と「75%」、その他の「赤丸村」、「頭川村」等にも61%もの課税をかけ続け、長く皇室庄園で優良米を生産して来てその生産額も断突に多かった「赤丸村」は加賀藩の重臣の「長九郎佐衛門」や「前田一族」に知行された。一方、前田利家に内通した田畑兵衛のお膝元の「沢川村」には40%強の低率の課税がかけ続けられて優遇された。
その為に、疲弊した小矢部川西岸地域の「赤丸村」、「舞谷村」、「花尾村」、「鳥倉村」等の住民は明治維新後には続々と多くの住民が北海道に新天地を求めて移住した。この悲惨な様子は最後の赤丸小学校の畠山校長が「赤丸小史」(※福岡町図書館蔵)に纏められて遺されている。長く加賀藩政の後遺症に苦しんだこの地域は、現在も続く高岡市の都市偏重政策の中で、人工減少、高齢化が進展して益々、限界集落に近づいている。 



「赤丸村」、「花尾村」、「鳥倉村」等の住民は明治に入ると続々と北海道へ逃れた。その時の役場の証明書が2016年11月に北海道の開発地域住民から届けられた。




    
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💠◇「越中五位庄」と足利義満創建の「相国寺」(※塔頭寺院鹿苑寺金閣)!!

2017-05-26 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●室町幕府第三代将軍足利義満の時代、「南北朝の合一」が成った明徳三年(1392年)には「相国寺堂供養」が行われ、その「供養記」には「越中守護畠山満家」と共に「遊佐」「神保」「井口」「斉藤」等の越中諸将と見られる名前が列記されている。応永12年(1405年)には足利義満が「相国寺」に「越中五位庄」を寄進し、応永15年(1408年)には足利義満が死去した。




「金閣寺」は足利義満の法名「鹿苑院殿」と舎利殿「金閣」から「鹿苑寺金閣」⇒通称「金閣寺」と呼ばれ、「相国寺」の頭塔寺院である。













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🔘● 徳川幕府旗本の越中神保氏の二つの系統の江戸屋敷図!!

2017-05-26 | 富山県高岡市福岡町赤丸村






室町幕府管領、能登畠山氏の家臣として活動した越中神保氏には、全く異なる二つの系統が在り、何れも畠山氏から「神保」の名前を授けられて足利幕府三代将軍足利義満、越中守護畠山満家の時に越中に展開した。この子孫は豊臣秀吉、徳川家康と主家を変えながらも、幕末迄、徳川幕府旗本として江戸城近くに屋敷を構えていた。この内、「富山城」を拠点とした「神保長職」の系統は江戸神田小川町神保小路に屋敷を構えて、その跡地は東京の「本の町」となっている「神田神保町」と成り、高岡市の「守山城」を拠点とした「神保氏張」の系統は「番町」に屋敷を構えていた。

「神保長職系の屋敷位置」



「神保氏張系の屋敷位置」


『嘉永2-文久2(1849-1862)刊』とされる「江戸切絵図」には、富山城を拠点とした『惟宗姓神保氏』の「神保長職」の子孫「神保伯耆守」の屋敷が「小川町図」に記載され、守山城を拠点とした『平姓良文流神保氏』の「神保氏張」の子孫「神保数馬」の屋敷が「番町図」に記載されている。
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🔘越中の畠山氏家臣『神保氏』!! ⇒越中の二つの神保氏。

2017-05-26 | 富山県高岡市
●富山城を拠点とした『惟宗姓 神保氏』の系統は、高岡守山城を拠点とした『平姓良文流 神保氏』と共に徳川幕府に仕官して旗本として処遇されている。この系統が屋敷にした江戸の旧地は『神田神保町』と呼ばれた様だ。(※「平姓 神保氏」の守山城城主神保氏張の居宅は江戸裏二番町に在った。)


「惟宗姓神保氏系図」(※静岡県立図書館蔵)

























静岡県立図書館の「徳川諸家系図」と「大日本人名辞書 明治四十二年版」に拠ると、富山城神保氏の「四代目 相茂 スケモチ」は「本姓は惟宗長三郎」と言い、この一族は「鎌倉に本拠地を持ち、室町幕府管領畠山氏に仕えたが、父の式部少輔春茂の時に豊臣秀吉に仕えて和州(大和国)高市郡に6000石を有したが、慶長五年の関ヶ原の合戦に十九才で徳川軍に参戦して軍効在り、更に1000石を加増されて7000石を有した。しかし、大阪冬の陣で天王寺の地で34才で戦死した。」と云う。この系統は、越中に展開した神保長職、長住等の系統で在り、この一族は守山城の神保一族(当初は中村を名乗る)と共に、主家畠山家から「神保」の姓を授けられて、足利義満の時に越中守護畠山満家に従ったと云う。「相国寺供養記」にはこの二つの神保氏の氏名が載せられている。
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