今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

424 野積(新潟県)荒海にうずくまるかや杜氏の里

2012-02-20 14:51:11 | 新潟・長野
日本海の風波から稲作地帯を守かのように、新潟の海岸線には弥彦連山が延びている。西蒲原で生まれた私にとって、それはふるさとの記憶に欠かすことのできない風景である。新潟市に引っ越す前の幼い日、母を迎えに勤める中学校まで農道を行きながら、弥彦山に落ちる夕陽を浴びた記憶である。しかしそれほど親しんだ存在であるにもかかわらず、では山の向こうはどうなっているのか、考えてみたこともなかったのは不思議である。

弥彦山(標高634メートル)は、新潟市の子供にとっては遠足で必ず登る山だ。ただ東麓の弥彦神社から登り、そこに下りて来るのが決まった道であったから、弥彦とはすなわち山の東側のことであった。確かに西側はそのまま日本海に落ちるのだが、わずかな土地に集落が営まれ、名高い越後杜氏が酒造りの技を継承していることなどは、宮尾登美子の『蔵』を読むまで知らなかった。越後生まれが、高知の人に足元を教えられたのである。

        

そこは「野積(のづみ)」という、いささか変わった名の土地で、古くは三島郡寺泊町、合併したいまは長岡市に含まれる。西蒲原郡とは弥彦山を挟み、交流が薄かったのかもしれない。弥彦神社の伝承に、日本海を荒らす海賊を弥彦の神が退治し、略奪品を奪い返して浜に野積みにしたからその名がついたと伝わるというが、この海岸線には上杉勢に追われた能登の豪族が流れ着いたという里があったりして、隠れ里的集落が点在する。

それほどに荒海と向き合い、耕す土地の乏しい地勢なのであろう。だから冬場、大地は雪に埋もれ海は荒れる日々を、男たちは遠い蔵元の求めに応じ、杜氏となって稼ぎに出た。その労働は厳しく、しかも長年の修行の末の技が必要だった。国内有数の杜氏集団を輩出した新潟には、越後流と呼ばれる杜氏の流れがあり、なかでも野積杜氏は代表的な流派であるらしい。そして春を前に、彼らは家族の待つ野積に帰り、土を耕したのである。

        

その集落を見渡す高台に立つと、山の傾斜がようやく緩んだ海沿いの街道に沿って、僅かな防風防砂林に守られた家並みが延びている。黒い瓦屋根に守られた家々は天上大風にじっと耐えているかのようだ。集落のはずれに滝が流れ落ちている。かなりの落差を豊かな勢いで轟々と音を響かせている。それほどの滝が道路脇に突然現れるのだから驚かされるが、地図には特に記されていない。「浜滝」という看板を見かけただけである。

弥彦は小さな山塊ではあるが、小学5年生の夏休みに叔父に連れられ「沢登り」をしたことがある。大学の山岳部だった叔父は、まずロープの結び方を入念に教え、岩場をよじ登った。小学生にとってはなかなかの難行で、滝状の岩場で動けなくなったりしながら、何とか山頂近くに出た。そのまま尾根を越えて西麓の沢を下っていたら、「浜滝」にゴールしたのかもしれない。私のスジに見切りをつけたか、叔父には以後、誘われたことがない。

        

元禄2年(1689年)7月4日、芭蕉と曾良は弥彦神社近くの宿を発って峠を右折、西正寺で即身仏を拝んで野積の浜に出た。快晴の夏陽を浴びて、まだ芭蕉に発句の気配はないけれど、寺泊を経て出雲崎に宿すまでのこの日の行程が、あの「荒海や佐渡によこたふ天河」につながったのは間違いあるまい。出雲崎の夜は驟雨となり、星は隠れていたようだから、案外、野積からの佐渡の眺めに天の川を架けたのかもしれない。(2006.3.17)





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