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『言葉』に縛られない話

2010年08月25日 | 物語愉楽論
@gigir:何故か受け付けられないものというのはどうしてもあるので、そういうものは性急に理由を貼らずにとりあえず「よくわからないもの」フォルダに放り込むようにはしている。

@LDmanken:@gigir >そういうものは性急に理由を貼らずにとりあえず「よくわからないもの」フォルダ|良い姿勢だと思う。嫌いなものを理屈付けると人は自然その理屈に縛られるし、理屈付けした時点から「嫌いなもの」が「間違ったもの」に変じて、それと気づかず心を固定させてしまう人は多い。

@LDmanken:@gigir →しかし同時に「嫌いである」事、あるいはそれ以外の心象を含めてなぜそう思ったか説明できる(理屈付ける)準備も必要。「嫌いなものは嫌い。説明は特にない」では取り付く島がなくて他の人の「好き」を吸収しづらいんだ。→

@LDmanken:→でも人は自分の意見は正しいと思わないと、それこそ生きていけない面があるけど、それでも『言葉に縛られる』事を意識して、理屈を紡ぎながらも、そこに縛られない意識が必要。特に『物語を愉楽』するこの世界は現実世界と違って間違っていたからって生命は取られない。安心していい世界なんだ。→

@LDmanken:→そうすると今度は『縛られている』『囚われている』という指弾が生まれ、僕も場合により使うけど、他者の『言葉』を真摯に受信しようとしたと胸を張れるなら「それでも納得できない」事はそれでいい事。この世界は『分かったフリは最悪』なんだ。


ちょっと前にTwitterでのGiGiさんのツイートに反応して一方的にレス打っていた内容なんですけど、けっこう僕がこのブログでぼちぼちと書いている『物語愉楽論』の基礎にあたる部分の要点をまとめているなあと思ったのでこっちにも書き出しておきます。
「嫌い」と発っしない事、あるいは性急に嫌いな理由を貼らない事は、その行為によって自分が縛られる事(人間、誰しもそういう性質はあると思うんですよね)の“損”を示していると思いますので、今回、そのタイトルで行きたいと思います。(いささか強引ですが)

さて、ここで語っているのは、ある事象について“嫌いなもの(?)”→“楽しめないもの”となった場合の処し方の話なんですが、そんなものに何で理由付け、説明付け、理屈付けが必要かと言うと『物語愉楽論』から言うと、なるべく手際よく“楽しめるもの”に変化させるためなんですよね。僕はそうするために一番効率いいのは“楽しんでいる”人の話を『受信』する事だと思っています。
だから、ほとんど唯一の伝達手段である『言葉』の使い方を磨く必要があって、そのため『言葉』という“ツール”の説明を『物語愉楽論』の最初の基礎段階の話として書き綴っているのだけど、そこから、なかなか先のフェーズに進めずに今日まで来ています(汗)…まあ、いいんですよ。ぼちぼち書いて行きます(´・ω・`)(←)

ただ、まあ、ちょっと『言葉』というツールの扱いの話は本当に重要なんで、繰り返しですが、以前の記事をいくらか引用します。

【言葉はツール】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/338f2a8d55210bab964216e766e26e9f
元々、僕は「言葉」というものに対して、これはもの「凄い力」だなあと思っています。そもそも今、こうやって文章を書いていること自体で僕は「言葉」を駆使しているわけですが、これで僕の思考が読んだ人に伝わってしまうんですね。……なんで伝わっちゃうんでしょうね??wこれはもう単純に凄い事だと思うんです。そして「言葉」は内的な思考をする際にも駆使されます。多分「言葉」がないと人間ってまともな思考できないですよね?これも凄い……っていうか不思議な事ですw
この「言葉」を上手く使う事を心がけて磨いて行くと、他者に自分の思考が伝わる率が格段に上がって行くはずです。また、他者の言わんとするところを効率よく理解したり、場合によっては他者の言の1から10の事を得られるようになっていったりするはずです。ネット界隈、おたく界隈には、こういう“魔法使い”ならぬ“言葉使い”が多いと思いますのでwwwその「愉しさ」ってのは説明するまでもないかと思います。

ただ、そういう理屈屋にも気をつけなければならない落とし穴があります。それは意志伝達のツールであるはずの構築論理に、自分が逆に使役されてしまうという事です。(というか元々「理に屈する」というのはそういう意味なんですけどね)
たとえば自分が「面白さとは展開の意外性だ」という理屈を構築したとします。そうすると作品を「意外性があるか?ないか?」で区分けし意外性がなければ「つまらない」と断じる事になります。
まあ「自分の意図を披露することと、自分の視界の狭さを披露する事はコミ」なんで、ここまでは仕様がないんですが。問題は構築したこの論理に使役されて、ここから出れなくなってしまう時がある事です。「歴史考証が正しくないと面白くない」「科学考証が正しくないと面白くない」冷静に考えれば、そんな事はないのはすぐに分かるんですが、面白い事に、人間ってのは自分でそう考えると、本当に「面白く」感じないんですね。何でって「人間の心は外界の作品の真偽よりも自分の構築した論理が正しい事の方が大切」なように出来ているので(笑)
心象はいつもニュートラルな必要があります。そこらへん理屈が“どういうツール”であるかを認識していれば、そんなに踏み外す事はないと思います。まあ、実はそこを越えると今度は自分の“視界の広さ”に価値基準を置いて、無理に己の心象を騙そうとする「何でも面白い病(あるいは何でもアリ病)」が待っているのですけどね。長くなったので、それはまた別の機会としておきます。


今、『言葉』を人間の持つ唯一の伝達手段…として語っているのですが、考えてみると、人間にはまだ画とか、音楽とか、料理とか、伝達手段はありますねwしかし、形而上的な事象も含めて己の意図を(他の手段に比して)ブレを少なく情報量多く伝える手段はやはり『言葉』なのだと思います。

さて、今、『物語愉楽論』的には“楽しめるもの”に変えるための目的として『言葉』を使うという姿勢をとりましたが、これを別の目的で使うと、その運用方法はかなり違うものになってきます。
たとえば、この“嫌いなもの”(楽しめないもの)を“嫌い”である事は“正しい事”であると“説明”しよう……という目的とか。あるいは“正しい事”かどうかは言及しないとしても、“嫌い”である事を自ら肯定するために自分のその嫌いの形を“説明”しよう……という目的とか。

いや、どういう姿勢(目的)を良いとか悪いとか言うつもりもないんですけどね。ただ『物語愉楽論』的には“楽しめるもの”に変えたい。少なくとも他に“楽しんでいる”人がいるのに、その感覚が共有できないままである事を変えて行きたいと、そういう目的で『言葉』を紡ぐので、その場合の『言葉』の紡ぎ方~姿勢は自ずと決まってくるだろうと考えています。

GiGiさんなんかは長年のつきあいで、こういった目標、目的自体は意志を同じくしているはずです。だから~何故か受け付けられないものというのはどうしてもあるので、そういうものは性急に理由を貼らずにとりあえず「よくわからないもの」フォルダに放り込むようにはしている。~こういった『言葉』は、自ずと決まるその姿勢を“正しく”示しているし、その目的に沿う意味で、とても知恵ある姿勢だと思うんです。

「それでも説明をつけろよ」と言い添えようとしている僕の方が半ばイチャモンです(汗)しかし、まあ、ちょっと詰めた話をすると、こういった事は正に中庸(バランス)を尊ぶもので「よくわからないもの」という場所にいつまでも居るのは、やはり(目的に対して)“毒”というべきでもあります。理由、理屈をつけてそこに縛られてしまう事を回避はしましたが(他にも色々回避しています)、今度はそこを回避した安心に“縛られて”「よくわからないもの」に留まってしまう。「嫌い」に縛られないために「よくわからないもの」に入れたけど、そこに留まるなら「嫌い」という箱のタイトルを、「よくわからないもの」というタイトルに差し替えたのと大差なくなるんですよね。(変えるだけでも意味はありますが)
同じように“楽しめるもの”を目的としていると、楽しめたら安心してしまって、そこに“縛られ”やすくなってしまうんですが、それも詰めて行けば“毒”と言えます。……まあ、ここまで根詰めなくてもいいっちゃいいんですけどね(汗)しかし楽しむ……『物語愉楽論』では“愉楽する事”としていますが、これは元々ゴールがある話ではないという意識が必要です。

理由/説明を紡げば(自己肯定の理論武装を目的とせず、変わろうという意図に正しく沿えば)自分の『無様』は自ずと晒されると思います。『無様』が見えればそれを少しずつでも修正して行く事ができます。『物語愉楽論』では『言葉』をそういう目的で紡いで行きます。
まあ、そうやって『言葉』の加工をする事によって、本来の自分の心象そのものまで加工されて“形を変えて”しまう恐れもありますねwそれも『言葉に縛られる』というもので、人間の依存度が高い分、何かと『言葉』というのは恐ろしいツールなんですが、その特性を理解して上手く使って行きたいと思います。

また、この話、現実世界ではそうも言ってられない所もあるんですけどね。「現実は、がむしゃらに来るし」なんて歌詞がありますが、現実はすぐに“答え合わせ”を要求するので、縛るとか縛られるとか以前に、これが正しいと決めつけて行動しなくてはならない時があります。…というか、そんなんばっか。(´・ω・`)
でも、今話している“ここ”は『物語を愉楽する世界』の話ですからね。一ところに留まるのは“毒”とは言え、それは“やがて”でも構わない。ゆっくり落ち着いて、じっくりと“答え”を探って行けばいい場所だし、まず、そこを愉楽するのがいいんじゃないかと思います。

『言葉に縛られる』というのは、自分の目的と意味を正しく理解する事によって、一時的に縛られても、また目的の道へ立ち返る事ができるはずです。今の自分の言動は自分の目的に沿ったものであったかチェックをするんです。

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