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『物語』の“かたち”、心の“かたち”

2011年08月09日 | 物語愉楽論
▼SomethingOrange:『3月のライオン』の差別構造と物語の限界。

  録音データ:http://dl.dropbox.com/u/12044930/kande-takuma-20110731203043.wav

ちょっと前に、海燕さん、かんでさんと、(↑)SomethingOrangeの記事にある内容の事を話していました。その後、ラジオもしましたので、そちらも張っておきます。
事の起こりは、かんでさんの『3月のライオン』の最新刊であった、ひなちゃんのいじめ問題の描きについての指摘です。要点はやはり海燕さんのまとめ方がわかりやすいですね。
ぼくが考えるにその批判の要点は以下の二点、

1.作中のいじめの描写が甘い。ひなたはいじめにあいながら「壊れて」いない。これはいじめの実相を表現しきれていないのではないか。

2.作中では作劇の都合上、いじめっこ側の権利が狭められている。本来、いじめっこ側にも相応の権利があるはずなのだが、それが描写されていない。

 であったと思います。

 これに対して、ぼくは作品を擁護する立場から、以下のように反論しました。

 たしかに『3月のライオン』は現実を「狭めて」描いているけれど、そもそも物語とはすべて現実を「狭めて」描くものだということがいえるわけです。そこに物語の限界を見ることは正しい。正しいけれど、それが物語の力の源泉でもある。なぜなら、ある人物をほかの人物から切り離し、フォーカスし、その人物の人生があたかも特別に重要なものであるかのように錯覚させることがすなわち物語の力だからです。だから作家が物語を語るとき、どこまで語るかという問題は常に付きまとう。

 つまり、ぼくはかんでさんが指摘する『3月のライオン』の問題点は、ひとつ『3月のライオン』だけの問題点ではなく、「物語」というものすべてに共通する問題点だといいたかったわけです。

『3月のライオン』という非常に評価された物語の1エピソードで、ある人は反発心を覚えた、納得いかない気持ちになった。もう一人は、その描きに納得してはいて、その上で「あなたの意見も分かるが、物語とはそういうものなのだ」と。「ある納得を描くために、あなたの納得を切り捨ててそれを成り立たせている場合もあるのだ」と。(そんな感じでしょうか?)
僕は、この話について『物語』の根源な議論を見出していて、いろいろ話したくなって、無理やりラジオに飛び入りました(汗)いろいろ話したかったのですよね。人は『物語』の「何に感動し」、「何に反発し」、「何に安心する」か?と言うような………これ、ラジオではなかなか言いたい事がまとめきれていませんでしたので、ここでもう一度、意見をまとめ直しておきたいです。

僕が話したかったのは『物語』の“かたち”と心の“かたち”の話と言えそうです。物語に接する時に「好き」「嫌い」とも違う「良し」「悪し」とも違う「その『物語』は、どういう形をしているのか?」という考え方です。
『物語』は、ある“かたち”をしている。その“かたち”はある人には優しかったり、ある人には痛みになったりする。納得を呼んだり、反発心を起されたりする。でも、『物語』はそういう“かたち”をしているだけで、そこに善悪があるワケではない。ただ、そういう“かたち”というだけ。そう考えると「好き」「嫌い」や「良し」「悪し」ではなく、二元論と違う所で『物語』に接する事ができるんじゃないかと思うんですよね。自分の「好き」「嫌い」という感情も座標に直して……単純に言えば嫌いと思った『物語』も興味の対象~愉楽の対象~に変えて行けるんじゃないかと。

ただし『物語』は人造物であり、ただ無秩序な“かたち”をしているわけではありません。かならず『作り手』の目的を持った“かたち”が取られ、『作り手』の意思を反映しています。それは(定義によって違ってくる話ではありますが)最終的には多くの人に「好き」と感じてもらう事を目的としているようです。『物語』は基本的に、そういう“かたち”をしている。
しかし、『作り手』の意思を反映してはいますが、意思が具現化したわけではない、必ず『作り手』との意識のズレがある。そして意識しない所で、意識しない“かたち”をしている。その“かたち”はどこかで『受け手』に対して、意識しない「好き」「嫌い」の影響を与えている。
そしてどのように「好き」になってもらうのか?その行程の精度高く、多くの『受け手』をそこに辿り着かせると「良し」と、精度低く「好き」に辿り着ける者が少ないと「悪し」と評価される、らしい。これも「良し」「悪し」の定義によって違ってくる話なんですけどね。

そうして『物語』は精度の高い「良し」を目指す“かたち”を取る。この時、その『物語』がどうして、そういう“かたち”なのか?(どうしてそういう表現をしているのか?)を見極めて行くと、すごくシンプルに人の心の“かたち”に合わせて形成されている事がわかってきます。それは時に、すごく怖い事で、すごく残酷な事でもあるんですよね。僕がこの話題で使っている“残酷さ”とはここの事です。…実は、僕は特に残酷とも思っていないのですけどね。世間の感覚に合わせると、そう評するのが適切なように思えるので、そう言っています。(`・ω・´)
しかし、それは『物語』は人の心を映し出しているって事なんですよね。多くの人に接する、多くの人の「好き」を引き出す事を目的とした『物語』ほど、人の心の“かたち”に最適化され、磨かれた鏡のようになっている。そしてそれは「多くの人」などという対象ではなく、自分という者の心の“かたち”を映し出す。自分の心は「何に感動し」、「何に反発し」、「何に安心する」か?
ちなみに、それらの感情が、相当いい加減な要素で左右されてしまう事も分かってきますw『言葉』に囲われたり、縛られたり。

僕が人(自分)の心の“かたち”の何を残酷と評しているかは、ラジオの中でもかなり語りましたし、海燕さんの記事で取り上げている事もそうそう外していないので、ここではそう繰り返す事は避けますが……ちょっとだけ。
…たとえば『天空の城ラピュタ』(監督・宮崎駿)で、ロボット兵がシータを抱えて要塞を砲撃し、壊滅たらしめるシーンがありますよね?あそこロボット兵カッコいいですよね?でも、あのシーン、相当人が死んでいると思うんですよね?…砲台から何人か逃げ出すシーンがありますね?あのシーンを見たら“安心”ですか?あなたの心の“かたち”は?……でも、確かにあのシーンは『受け手』の安心を引き出すためにある。「まあ、助かってる人もいるじゃん?」くらいで適当に無視出来るように“軽く”兵士たちに触れ、後はロボット兵のカッコ良さに集中できるようにしている、直後のシータのロボット兵への感情移入を観てもそれは確かな演出意図と観る事ができる。

…いや、こんな書き方すると名作の重箱の隅をつついてdisっているように見えるかもしれませんが、僕の結論は全く別で、それでも僕は「ロボット兵かっけぇぇええ!!!」と声を大にして叫び、その破壊力に打ち震えたいんですよ。「ロボット兵かっけぇぇええ!!!なんか死人や負傷者が出ているかもしれないけど、人がゴミのように描かれてるわけでもなし、上手くスルーできて、全然心が痛まねーや!」……とか言ったら言い過ぎかもしれませんが…。

最初に『物語』の“かたち”で語ったように、心の“かたち”も「好き」「嫌い」、「良し」「悪し」などと評する事はできるでしょうけど、それよりもまず心の“かたち”は善悪もなく、その“かたち”が在るだけなんですよね。僕は、何よりもまず、その心の“かたち”に対して素直で在りたいと思っているんですよ。
このブログでは『物語愉楽論』と題して、『物語』を愉楽しむ事を語って様々に語って行く項を設けていますが……更新遅れてますが(汗)…これはその大前提の話です。


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