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NPC劇場とメアリー・スー

2010年02月03日 | 物語愉楽論
【NPC劇場】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/8a5bb4f5fb35e2603c7d8588edfa13ca

先日、上記の「NPC劇場」についての記事を書いたところ、いずみのさんから、僕が述懐している昔から考えると、TRPGの様相は大分変ってきているという説明のうえ、「NPC劇場」はTRPGの俗語として時代遅れなところがあるし、それだけでなく物語全般の話に「NPC」というゲーム的な概念が当てはめられるわけでもないので、物語の用語として使うにはそぐわないと思います。という指摘を受けました。
…確かに僕がTRPGをやっていたのは昔なんで(汗)、今だとそこらへん大分違って来ているんだろうなあ…と思います。しかし、まあ僕もこの言葉を10数年来使ってきたものなんで、そうそう変えられるもんでもないですしね(汗)この言葉で通じる人もいますし、「漫研」では上記リンクの記事にある意味合いでこの言葉を使って行こうと思います。

それとは別に、真上さんの方からは今川監督の“あれ”はむしろメアリー・スーじゃないか?と言った指摘がありました。メアリー・スーは、まあ一般に有る言葉と言っていいでしょうね。意味は(↓)こんな感じです。

【メアリー・スー@Wikipedia】
http://ja.wikipedia.org/wiki/Mary_Sue
メアリー・スーは、簡素にいえば、二次創作の作者が描く、作者の分身であるオリジナルキャラクターを指す。作者の「目立ちたい、ちやほやされたい」という願望が露骨に表れた、原作のストーリー・世界観やキャラクターの性格設定を根本的に破綻させるキャラクターのことである[要出典]。しかし、単なるトラブルメイカー的な場を乱す情けないキャラクター(トリックスター)とは違う。他のキャラクターよりも英雄的な活躍をし、自分ひとりであらゆることをやってのけ、なんでも解決する。その万能性は、物語の終盤でデウス・エクス・マキナとしても機能し得るが、その段階にすら至らず、物語が未完のまま放置されることも少なくない。



…真上さんの指摘は狭義においては違う気がするんですけどねwなかなか「面白い」指摘だなあ…と思いまして。僕の感覚で言えば“メアリー・スー”ってのはある完成された作品世界に入り込んだ一点異分子的なものであって、最近だとTVアニメ「みなみけ おかわり」で登場したオリジナルキャラ・冬木くんなんかが、ネットではそのキャラ配置の意味を測りかねてメアリー・スーの批判を受けていたというのが記憶に新しいです。あの作品内の冬木くんをどう評価するか?という問題で、彼をメアリー・スーに位置づけるのはその是非はともかくとして視点として面白い。非常に遠慮がちなキャラなんで(それこそ作品を壊さぬようにビクついている感さえある)それをメアリー・スーってのもどうか?wと思う半面、視聴者にそのキャラの意図が伝わらないという意味においては妥当なものにも思えます。

しかし「ジャイアント・ロボ」はメアリー・スーとしてはどうか?と言うと。横山光輝作品世界から観た今川翻案というか永井豪作品世界から観た今川翻案というか、そこらへんの評価の話をすると今川監督の“あれ”は物語世界自体をリイマジネーションしているんで、何かメアリー・スーなキャラクターがいるとは言えないように思います。仮にアルベルトがメアリー・スーだとして、今川監督は彼が居てもいい世界、違和感のない世界まで再構築しなおしてしまっているんですよね。……だから、その作品世界全部がメアリー・スーなんだよおおおおおおお!!!…っていう「広義」の指摘は面白いとは思いますw結局の所、メアリー・スーの由来は「受け手」が信じる作品世界~これは信じているからと言って必ずしも正しい事を意味しないのですが本人としてはそうイメージするという意味~を穿たれた憤りから用意された「言葉」なので、その由来に「乗る」限り、この広義の運用は無いとは言い切れないものがあります。

ちょっと、ここで、前の記事の論点を片付けますが…。僕の「Gロボ」のアルベルトの指摘は、横山光輝世界に対する違和感を述べているわけではなくって、今川作品としての「Gロボ」の違和感を指しています。ストーリー面オンリーから考えてもクライマックスでのアルベルトの活躍っていうのは、Gロボの主役ロボットの面目や、大作少年の主人公としての成長に対して未昇華な部分を残してしまうのではないか?という指摘なんで、この場合、今川監督が今川作品に対して違和感を生み出しても、まあメアリー・スーとは言わないかな?とw
ただ、今川監督の場合…いや、大体において名を成している多くの作品の場合、その“芸風”を楽しむんだよ!って逆説が常にあるワケで、ここらへんの違和感を単純にネガティブ評価だけで片付けるわけには行かないでしょうね。ここらへんの議論はまた難しい所なんですが、物語構造の組み方に対する“ズレ”……のようなものは、それを「楽しむ」にしろ、そうでないにしろ意識して押えておいた方がいいかなと思っています。

さて、今回俎上に上げた「NPC劇場」と「メアリー・スー」ですが、いずれも「作り手」と「受け手」の間にあるギャップから出てきている言葉で、かつ「受け手」側からの作品世界に対する“逆襲”の意味を持つ言葉でもあります。
どういう事かと言うと、まず「NPC劇場」をやっている「作り手」も、「メアリー・スー」を出している「作り手」も、多くの場合その意識はないんですよね。確信犯的な事もあるでしょうが一応、それは希という事にできると思います。上述のWikiの記述の中でもメアリー・スーを規定する事の難しさが語られていますが、二次創作でオリジナル・キャラクターを出せば即ちメアリー・スーではない。詰らなくって、作品世界にヒビを入れていないとメアリー・スーと言うのは難しい。「NPC劇場」もそれは同じで主人公軸(「受け手」の視点がある軸)を外れて別のキャラの展開が起これば即「NPC劇場」と言うワケではないんですよね。では、本当に詰らないのか?本当に作品世界にヒビが入ったのか?本当に物語/テーマが淀んだか?というとそれは個々の事例に合わせて都度都度の長い議論が必要でしょう。

しかし、同時に「受け手」側に何らかの物語作法として信じるもの、作品世界として信じるもの、が在るであろう事。あるいは物語に接するうちにそういった物が自然発生してくるうであろう事も事実なんですよね。だから、本来的には「作り手」側がそうするならは是非も無い事であるはずの物語に対して、「受け手」側からの“逆襲”が起こる。「この作品はそうではない」と。「この物語はそうではない」と。それが作品全体を覆う「何か違う?」という雰囲気みたいな漠然としたものだと、指摘するポイントも個々の事例や演出の言及になったりするのですが、これが任意のキャラクターへの偏愛(と、そのキャラクターに与えられる主力な展開)という形で顕われると指摘としては、かなり分りやすい…というか文字通り“体現化”された対象になっていると言う事ですw

「物語愉楽論」的に言えば自分の信じる(イメージする)作品世界なるものが、作品を「愉楽する」事を阻害するなら、それは一度忘れて崩し、もう一度「作り手」の作品世界、または作品世界の実相そのものに「乗る」事を正道としているのですけどね。だからと言って“個人感覚”に拠り、“普通感覚”に拠り、そうやって形成される作品イメージというものが、また、そこで「作り手」(個人感覚)と「受け手」(普通感覚)から生じているギャップを、無かったものとして別の「愉しめる道」が見つかればそちら一遍に拠ってしまうというのは、作品の実相から遠ざかる行為でしょう。ここらへんは難しい。都度、考えながら進む感じです。


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