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「物語」を愛する者 [2]

2010年01月06日 | 物語愉楽論


去年の暮れに本の整理をしていたらこんな本が出てきました。1990年代前半に、マンガの主に性表現に対する有害指定条例が全国的に施行され、さらに国会での法整備の検討にまで到った、その表現側と規制側の攻防というか…交渉の経緯を、規制反対側からの意見(賛成、中立の意見なども見られるが大部分は反対側)でまとめた本です。
当時、少年マンガが突然、自治体から“有害”指定を受けて、少年向けなのに少年に販売できなくなってしまうという“恐い”事態に、各少年誌は大あわてになって半ばヒステリックに自主規制をかけるようになりました。
いや、そもそも規制側がヒステリックだったんですけどね。これはちょっとおかしいんじゃない?と首を傾げたくなるようなものまで槍玉にあげていたし、またこの頃の出版側は非常に戦う姿勢が希薄で……これの少し前に「黒人差別をなくす会問題」というのがあるのですが…ここで詳しい経緯を語るのは避けますが、ともすると手塚治虫先生の作品でさえ発禁・修正対象となろうとしていたのに、まともに戦わず譲歩や自粛を繰り返し、当時、僕は非常に憤りの感情を禁じ得なかった。ああ…そういえば筒井康隆先生の「断筆宣言」もこの頃(1993年)ですね。今、また同じような問題が起こったら、出版社は今度は多少まともに戦ってくれるのでしょうかねえ…(遠い目)

まあ、そんなワケで、ちばてつや先生、石ノ森章太郎先生、さいとうたかを先生、藤子不二雄A先生、里中満智子先生、永井豪先生という錚々たるメンツを筆頭に多数のマンガ家(とマンガ編集者)が集まってそれぞれの意見を述べているいのが、この「誌外戦」です。ちょっと長々と前振りしてしまいましたが、何がしたいのかというと、この本の中で非常に僕の胸を打った文章が2本あるので、それを紹介したかったんです。(←そ、そうだったのか…!)

オバさんたちへの恋唄     村生ミオ

ほんとうに“有害”な漫画が描けたら、死んでもいいと思っている。

読んだ人の一生を狂わせるような、そんな凄まじい影響力を持つ超有害な作品が描けるなら。しかし、僕には見果てぬ夢に終わりそうだが…。

それにしても、日本はいつからこんなすごい漫画家だらけになったのだろう!?書店に行って本棚を見れば、有害指定の漫画だらけだ。

冗談じゃないぜ、オバさん達。いくら推理小説を読み過ぎたからって、殺人者になれないように、スケベ漫画を1万冊読んだって性犯罪者なんかになれないぜ。

推理小説なんか読まなくたって、殺人をやる奴はやる。

もし、スケベ本を読んだ奴が性犯罪者になるんだったら、日本の人口の半分は性犯罪者と、その予備軍だ。

この世の中に有害な作品なんてないんだぜ、オバさん達。

もし、あるといしたら素晴らし作品と、くだらない作品の二種類だけだ。

そして、真に有害な作品は、おそらくきっと素晴らしい作品群の中にある。

僕の作品“1分16秒08”が有害指定を受けた。何という光栄だろう。

だけど残念ながら、この作品は有害指定を受けるほど素晴らしい作品じゃない。描いている僕が言っているんだから、これは確かだ。残念だけど、今この場を借りて、この作品の有害指定は返上しよう。

だけど、待っていてくれオバさん達。ボクは頑張り続け、いつかきっと人の一生を狂わせるような、素晴らしく有害な作品を描いてみせる。

その時こど、僕の作品に自信をもって“有害”のレッテルを貼ってくれ、オバさん達。

この村生ミオ先生という人…あるいは「1分16秒08」という作品を知っている人なら分ると思いますが、この方、そんなに、いやかなり(汗)いやいやいやさほど?(汗)大したマンガ家さんではありませんw(失礼!)でも、そんなマンガ家さんだからこそ「ほんとうに“有害”な漫画が描けたら、死んでもいいと思っている」という有害な、人生を狂わせてしまうマンガ(物語)に対する渇望は、胸を打つものがあります。いい文章、今でも心に残っている文章です。……マンガ家なのにマンガじゃなくて文章で感動させちゃうのはどうなんだろう?とか冗談は言わないでおきますが…(´・ω・`)(←)それともう一本。

ジョージ秋山

表現の自由不自由は たとえば水車の如し

その形 半分は水流に従い 半分は水流に逆らって廻る

その形 全部水中に入れば廻らずして流れる

又 水を離れれば廻ることなし

自由とは水車が水を離れたるが如し

不自由とは水車を水中に沈めたるが如し

世間は中庸を尊む

水車の中庸は よろしき程に水中に入れて廻るにあり

不自由がなければ自由もなしと知り

いたずらに表現の自由を主張するは足るを知らん

増上漫と知るべし

ジョージ秋山先生は、マンガ史にその名を残す“有害な”マンガ家と言えると思います。先ほどの“人生を狂わせる”マンガを描く人です。「銭ゲバ」なんて(代表作ですが“有害さ”(?)としては)まだ序の口で、産んだ赤ん坊を母親が焼いて食おうとするという超問題作「アシュラ」や、擬人化された動物にかこつけて殺戮と強姦をし尽くしその地獄の中から愛を見出そうとする「ラブリン・モンロー」など、様々な問題作、一度読んだら逃れられないような衝撃を与える作品を世に送り出して来た人です。

この時の騒動でも「ラブリン・モンロー」が“有害指定”を受けています。ちょっと面白い事にこの「誌外戦」の中で、いしかわじゅん先生と村上知彦さんの対談があって。これは実際に有害指定を受けた作品に対して「これは別にエロくないだろ」とか、「これは内容的にエロは避けられないだろうに(なのに表現の自由を縛るのは如何なものか?)」なんて逆品評するような対談だったのですが、その中でほとんど唯一「これは言葉の意味本来の“有害”に当たるかもしれない」と言われていた作品が「ラブリン・モンロー」ですw…ちょっと、すげえよねw



しかし、この時の煽りをくらってというか「ラブリン・モンロー」は現在、絶版状態、伝説的な人気を持っていると思うのですが、今日まで復刻もされていません。(僕、一応1~10巻までは手に入れたんですけどね…)第一部完で全13巻だそうで……う~ん、多分、もう見つからんだろうなあ…って感じです。
しかし、そのジョージ秋山先生だからこそ「いたずらに表現の自由を主張するは足るを知らん」と言ってのけるのはシビれましたね。「誌外戦」は基本的には「表現の自由を守れ!!」の大合唱の本なのですが、いや、その戦い方が決して間違っているとは僕は思わないのですが、正面切って疑問を投げかけたのは、ざっと観て、大きくはこのジョージ秋山先生と、それと中島梓先生でした。それは「表現の自由っていうのは、そんなに大事なものなのか?」という疑問とも言えます。一連の抵抗や戦いの中で、こういう疑問を持つというのは、非常にヤバい…単純に言えば敗因に成りかねないんですが、しかし、こういう疑問を失ってしまったらそもそもの表現者としての翼を一つ失ってしまったようなものなんですよね。
実は僕も「表現の自由」という言葉があまり好きではありません。好きではないというか…あまり使いたくない言葉なんですよね。この言葉は少なくとも現状は妙な“力”を持っていて相手を思考停止させる言葉だからです。「言葉狩り」なんかも力を持ってきて、いわゆるレッテル効果が期待できる言葉になっていますね。まあ、結局のところ、思考停止する方が悪い…ってワケでもないですが、必要とあれば使うんですけどね(汗)

しかし、このエントリーは、これまで述べてきた「誌外戦」に記録されたような事が起こった時に「あなたは、何で「物語」を守りたいのか?」という問いに答えるような意味があって。それは畢竟「物語が好きだから」であって、決して「表現の自由を守りたいから」ではないんですよね。この本の論者の何人かは「言論の自由がない社会になる」とか「戦前のようになる」とか言葉巧みに“正義”を持ち込んで来て論陣を張っています。
戦い方として間違いではないのでしょう。僕も何事にも話し合いが通じるワケではない…いや、話し合っているように見えて、その実話し合ってなどいない状態などいくらでもあると思うから「言論の自由を守れ!」とかww「憲法で保証されているぞ!」とかねww(´・ω・`)それが有効なら使った方がいいのだろうと、そう思います。(´・ω・`)……しかし、ここだけの話、それは僕にしてみれば、どうにも胡散臭い事です。何というか話の通じないドブに自分も手を突っ込んだような、あるいは「物語を守りたい」だけなのに話をすり替えたような気分の悪さを感じます。

だから、そんな打算などお構いなしに「俺は本当の意味で有害なものを描きたい!」とマンガ(物語)への愛を隠さずに吐露している村生ミオ先生の言葉に感動し、「表現の自由とか、それは驕りだ!」と言い放つジョージ秋山先生にシビれたんでしょう。
僕も「物語」を愛する者はやはりその姿勢だと思う。「物語」の楽しさを語り、「物語」の豊かさを語り、その豊かさは一つの価値観などで縛られるものではない事を語る。それらを語らう事によって、物語を愛する人を増やし、物語を守る事を助け、かつて別の価値観の力によってこの世から観られなくなった「物語」が再び日の目を見るような、そういう世界になればなあ~と思いながら、今日も「物語」に接しています。


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1 コメント

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うーん (ルイ)
2010-01-07 19:16:58
かなり感動しました。
抑圧と解放の関係性の如しですね。

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