今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)

マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。

「分らなくても楽しいよね」という話

2010年03月06日 | 物語愉楽論
【「オタク」も「一般人」も死んだあとに。】- Something Orange

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20100225/p1
先日の記事がGIGAZINEに取り上げられて、こんなコメントが付けられていた。

文化、オタクという枠組みでは定義しきれない「名前のない集団」が生まれつつあるのかもしれない

 「名前のない集団」、か。じっさいにそんなものが生まれつつあるのかどうか、それは疑問の多いところだが、少なくとも従来の「オタク」という概念では捉えきれない個人が存在するようになってきていることはたしかだと思う。

 ネットではしばしば「ライトオタク」という言葉が使用されているが、若い層の「オタク」の自意識はより年長の「オタク」たちとは相当異なったものになっているに違いない。

 もちろん、まだまだ偏見もあれば差別も、優越感も劣等感もあるにしろ、上の世代ほど過剰に「オタク」を意識しなくなっていることは事実なのではないか。

 結局、アニメにしろ、漫画にしろ、単なる趣味のひとつにしか過ぎないのである。それを意識しすぎず、素直に楽しむことは健全なことだと思う。その意味では、オタク文化に対して優越感を抱くことも劣等感を感じることも、同じひとつの価値観の鏡像に過ぎない。

 さて、ここでは仮にその「名前のない集団」が生まれつつあると仮定して、それに名前を付けてみることにしよう。「オタク」と「非オタク」の境界線を意識しないということから、「ノーボーダー」というのはどうだろう?

海燕さんの一連の「ノーボーダー」に関する提言に対して、何か自分の景観を述べたいな~と思っていたんですが、なかなか上手い言葉が思いつかなかったというか、ぼ~っと考えている間に随分時間が経ってしまった。ちょっと、何というか書き方に気をつけないと角が立つというか(汗)言いたいことと別の方向に話が行ってしまいそうな気がしていたんですよね。

たとえば既に海燕さんの記事にコメントしている人がいるように「それは、つまりオタクの事だろう」というか、ある程度のレベルに行ったオタクは当然、そこに到達している…って話があるんですよね。それはやっぱり「もっと楽しい物は無いか?」と探す/探求して行こうと考えた時に、ほぼ必然的に出てくる結論ではあると思います。これがどのレベルで実践できているか?って議論や検証(?)は当然あり、またこの話は看板を掲げるだけなら容易く、“実践”こそが重視されるべき問題であるんですが、ともかく指針や目標では一旦はそこに到達するハズです。

たとえば僕は「TANIZOKO」というコミュニティに参加していて(というか元から集まる仲間がいて、名称は後から付けたのですが)ここでは活動の一つとしてジャンルを超えた上映会を行っています。…といってもこの場合“上映できるもの”っていう縛りがありますがから、メディアは限定されてますけどね。それでも邦画、洋画、アニメ、特撮、実写ドラマ、など“上映できるもの”であるならその範囲を限定してはいません。たとえば毎回“お題”を設けていて、「カンフー・アクションもの」とその影響を受けた映像作品、「タイムトラベルもの」というかタイムパラドックスをネタにした映像作品、「怪獣対決もの」、「マカロニウェスタン」…と、その影響を受けた時代劇……なんていうw一風変ったネタにする事もありますね。このブログでも時々、そこで扱っているネタを記事にしていると思います。

境界を設けないといっても今の話だけだと映像作品に“限って”いるし、範囲的にはまだ“オタク”というレンジを出るものでなないよね(無論、このメンバーはマンガや小説にもボーダーは設けていないです。しかし、それもまだオタクのレンジ内と言えるかもしれない)…という指摘もあるでしょうけどね。また、この「ノーボーダー」の議論はこのレベルに留まらない、もっともっともっと広い範囲を指すものだと思われ“言葉尻”は同じでも、おそらく旧来のオタク層が到達する「境界を設けない話」とは違うものじゃないか…そういう直観があります。

…で、僕自身はもうどうにも“古いオタク”に過ぎない(「境界を持たない」といってもどうしてもオタク的な思考法になる)人間なんですが、それでもその“差”について語れる部分はあるんじゃないかと考えました。まあ、そこらへんの流れで本日のニコ生に参加させてもらう事になったんですが、こう文章で書くと世代分断(実際、世代差を語っているんですけどね。ここらへん難しい)みたいになるのを口で喋るともう少し緩和した言い方もできるかな?とか考えています。



…で、実はこの話。以前からGiGiさんがいろいろレスを打っていて、実はGiGiさんの話で「ああ、成る程。そういう事か」と思う事が沢山ありました。少なくともGiGiさんがこの「ノーボーダー」の議論を「それはニコ厨の事だ」と言う流れはよく分るんですよね。

【世界はそれをニコ厨と呼ぶんだぜ】-未来私考
http://d.hatena.ne.jp/GiGir/20100226/1267159138

【もうニコ厨でよいんじゃないだろうか】-未来私考
http://d.hatena.ne.jp/GiGir/20081228/1230456050

…というかおそらくGiGiさん自身がこの話の実情にマッチしている部分が大きい(本人も自覚的)。たとえば僕ら「漫研」が扱う話題に「情報圧縮論」というのがあるんですが、これ、ここで詳しく説明するのは止めておきますが、僕が「物語」の定型や習慣から来る…つまりある程度の経験なり知識なりを必要とする圧縮の話から始めようとする事に対して、GiGiさんは「そういうものを知らなくても解凍できる」という話に拘った事があるんですね。…で、僕は「確かにそういう技術もあるだろうけど、僕はそれだけに限定するつもりはないよ。あくまであらゆる手段を講じて圧縮して先を描くって話だからね」と答えていた。

それで僕は「情報圧縮論」のサンプルとなる話として「情報圧縮論:やる夫が徳川家康になるようです」という記事を書いた事があります。

【情報圧縮論:やる夫が徳川家康になるようです】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/135e913ad65b8e70a5107cd716652c2c

文字通り大河の如く現れ消える戦国武将たちを、マンガやゲームの登場人物達をそのまんま流用する事で、その人物の説明に要する時間を「圧縮」して大河ドラマを大河のままに描ききってしまった傑作だと思っているのですが。この時もGiGiさんは、

「(それが)分らなくても、楽しいよね」

…という話をしているんですよね。僕は戦国武将たちの生涯とそれに符合させる形であらゆるジャンルの登場人物たちを持ってくるキャスティングの妙などを語っていたのですけど、GiGiさんは「それらを知らなくてもこの話は楽しい」という話をしている。それで僕は“そういうオタク”だから、当然こう答えている。「それはそうだね。…でもね、分った方がより楽しよね?」とw

最近もすごく似たような事がありました。いや、ほぼ全く同じ話だったと言っていい。

【【第4回MMD杯本選】ミクトラ】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9689271



「らき☆すた」のOP「もってけセーラー服」に合わせてウルトラ怪獣(主に第一期)たちが踊るこの動画、僕は大好き…というか特撮オタクなんで当然出てくる怪獣は一通り分る。…で、その「らき☆すた」OPの絵コンテに対して、どの怪獣をチョイスして合わせるのか、そこらへんの妙を語っていたりしたんですけど、そこでもGiGiさん(特撮オタクではないよね?w)は、

「(それが)分らなくても、楽しいよね」

…という話をするワケですw本当に全く同じだw…そして当然、僕はこう答えるワケですw「それはそうだね。…でもね、分った方がより楽しよね?」とwこの考え方、僕自身は今も変らないし僕の「物語」を「愉楽する」事に対する姿勢を示しているつもりです。それ故、この時はGiGiさんの主張は文字通り歯牙にもかけず、ほとんどスルーだったのですが…今、この「ノーボーダー」の議論を眺めて(また、その話に熱心なGiGiさんお主張を読んで)いると色々分って来た事がある。

それは「分らなくても楽しい」も、また「楽しい」に違いない事なんだなあ…と言えばいいのか。僕は“そういうオタク”だから、一旦肯定した後、必ず「~でもね」と、その肯定を打ち消す「言葉」を発していました。分らなくても楽しい…それはその通りだろう。当然そうだろう。…でもね!と。それは肯定してしまっているが故に起こる見落としというか……最初に行った「楽しい」→「肯く」という認識をものすご~~~く、軽く観てしまったのではないかと思うんですよね。…いや、確かに“ここ”はもう少ししっかり考えるべき所だったかもしれないと今は思っているんです。(←考えるべき…とか言い出すあたりがオタク的)

繰り返しますが、多分、僕自身が上の姿勢を翻す事はないと思います。絶対に…とは言いません。しかし長年の習慣と経験則として僕は“ここ”が性に合っているし、最早そういう“形”の生き物(その思考法から逃れられない物)になってしまっているから。また「…でもね。分った方がより楽しいよね」これは理屈上は正しい「言葉」だと思っています。「境を作らずに楽しむ」とはつまりそういう事でしょう。

…でもねw   「分る」、「分るようになる」努力をするという事は長く“その場に留まる事”を意味するんですよね。そしてそれは選択にしろ決意にしろ、“そこに縛られる事”を意味します。

僕のさらせる「無様」、今さらしている「無様」はもうこれとしか言いようがないwでも多分、今の「ノーボーダー」の話はもっと軽やかなフットワークの軽いもの。あるいは上掲した「ミクトラ」動画でふっとマイケルのダンス(「Beat it」)を混ぜたりしていますが(ある意味脈絡はない)、そういう“遠くにとどくもの”。とにかく触れるだけでも“触れるもの”という気がしています。ここらへん海燕さんとスカイプで話した時は、僕の話は「楽しむ事に拘る話」、でもノーボーダーの話は「拘らずに楽しむ話」なんじゃないか?と言ったフレーズを上げていたりしたのですけどね。まあ、そこらへんの話を詰めて、様々な事を「愉楽して」行く下地にできるといいなあ~と考えています。

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