日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

『JR福知山線脱線事故』に思う

2005-04-29 08:50:03 | 社会・政治
4月25日朝JR福知山線で起きた脱線事故で、106人の方が亡くなった。ご家族の心中察するにあまりある。また負傷者は重傷150人、軽傷311人で、28日現在100人以上が入院中とのことである。安全を自明のものとして日頃気軽に利用していたJRのこの大惨事、起こるはずのないことが起こってしまったとの思いがある。

原因については専門家の報告を待ちたいが、今回の事故で私はJRの管理体制の不備を直感した。

私は『毎日が日曜日』の身分であるが、それでも週に一回は京都に地下鉄と阪急で、また一回は地下鉄とJRで大阪方面に定期的に通っている。それ以外にも不定期て週に二三回、ということは週の半分以上は電車を利用していることになる。

電車が入ってくるのを車両の停車位置を示す足元の印で待っている。少々のズレはあるが入ってくる電車はすべてと云っていいほど、その定位置で停車する。ズレがあったとしてもほとんどの場合数十センチ程度である。1メートルも離れたら「新米か」と心の中で呟くが、そのようなケースは年に1回もあるかどうか、といった感じである。それぐらい運転士の運転技量は素晴らしい、というのが私の実感である。

ところがこの事故を起こした電車は、事故直前の伊丹駅で40メートルほど停車位置を通り過ごしたという。私の日常感覚ではこれは極めて異常事態であるのに、JR側にはその認識がないようで、それが不思議で仕方がない。

運転士になるためにはさだめし厳しい訓練で技量を磨き、ある一定のレベルに達してはじめてその資格が与えられるのであろう。とすれば、私が日常経験しているように定位置に停車させることは運転士にとって『お茶の子さいさい』であろう。だからこそ40メートルも停車位置を通り過ぎることが極めて異常な事態と私は見るのである。

JRにも『異常事態』との認識があれば、当然それ相応の対策があっただろう。

車両に異常が生じたのか、運転士に異常があったのか、それを異常事態発生現場でチェックすべきなのである。そのために少々時間がかかるとしても、これはダイヤに乱れが生じても仕方がないほどの事態なのだから。事後報告で済ませていい問題ではない。何メートル以上のオーバーランを異常とするかは専門家の判断にまかせるとして、異常事態であるとの認識の上で、車両に異常が無いとしたら運転士に問題があったのであり、その時点で直ちに乗務を停止させるぐらいの用心深さが必要である。現時点ではどのようなマニュアルで事態が処理されるようになっているのか、知りたいものである。

事故を起こした電車は、脱線直前の速度が時速100キロを超していたそうである。現場のカーブは70キロに制限されていたというから、自家用車の運転なら免許停止ものである。下り勾配で電車が運転士の意思に反して加速していたのなら問題は別であるが、運転士が自分の意思でこの速度を出したのであれば言語道断、そもそも運転士の資質の無いものを運転士に仕立てたJR側の体制に欠陥があったことになる。

事故に巻き込まれた乗客の一人がテレビのインタビューに答えて「2車両分ほど行き過ぎた」と述べていたのに対して、JR側は車掌の報告に基づいたのであろうかオーバーランは8メートルと発表していた。蓋をあけてみれば、またもや『制服組』が嘘をついていた。この虚偽の報告もさることながら、この車掌は伊丹駅でのオーバーランの際、その異常さに「あれ、おかしいぞ」と思うことがなかったのだろうか。

仮に車掌が異常さを感じていたとしても、その場合に車掌の取るべき処置が運行マニュアルに定められていなかったら、異常と感じながらも辻褄合わせの対応しか取れなかったのかもしれない。現場の乗務員の『常識的な判断』を『安全運転』に生かせるような運行管理がなされていなかったのではないか、と私は思う。

今月の8日から1週間、尼崎駅では朝夕のラッシュ時に発着する列車の運転士が出発時間を1秒単位で自主報告した、との報道があった。確かに世界が認める日本の運転ダイヤの正確さが、このような厳しい訓練によって培われた面のあることは否定出来ない。しかしそのデータをどのように活用するつもりであったのだろうか。私には単なる『締め付け』のようにしか思えないのであるが、いかがであろう。

私の『常識』では考えられないような『運行状況』が現実であるとするなら、仮にJR側がいかに細緻にみえる『運行マニュアル』を作っていたとしてもたんなるお題目でしか過ぎない。現場の乗務員も納得する血の通った管理体制の確立こそ、事故再発防止にもっとも肝要であろう。

「憲法の常識 常識の憲法」での常識『A級戦犯は存在しない』

2005-04-27 14:08:55 | 読書
昔々、大学の教養科目で『憲法』なるものの講義を聞いて以来、この年になって始めから終わりまで読み通した『憲法』に関する本が現れた。百地章著「憲法の常識 常識の憲法」(文春新書438)である。

何故この本を手に取ったか、・・・最近『憲法改正論議』が目立つようになり、『憲法』に関心が向いたから。

何故この本を読み通したのか、・・・この著者の根底にある『常識』が私の『常識』と極めて似通っており、「なるほど、なるほど」と相づちを打っている間に終わりまで来てしまったのである。

私が現行の「日本国憲法」の有様で一番ひっかかるのが前文と第九条、そして自衛隊をめぐる『侃々諤々論議』である。

自衛隊合憲説の代表は政府見解であるのに対して、憲法学者の大多数は自衛隊を違憲としているそうである。そして国民は無関心層を除いてはそのいずれかに与している。ここにその第九条を掲げる。

《日本国憲法第九条
 一、日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 二、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。》

著者は述べる。
《憲法第九条の主要な争点は、次の三点である。すなわち、(一)「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれ(戦争)を放棄する」(一項)の意味、(二)「前項の目的を達するため」(二項)というのは何をさすのか、(三)「交戦権」とは何か、である》

さらに著者は述べる。
《・・・少なくとも自衛隊違憲論者は憲法典至上主義に立ち、あくまでも条文の厳格な文理解釈に固執する。つまり「国家不在」の憲法論である。それとともに、よく云えば理想主義、悪く云えば現実無視の観念論をふりかざす。したがって、現実的妥当性を重視するなどといった大人の常識は通用しない。》

まったくその通りだと思う。

しかし著者はこうも述べる。
《・・・、政府見解も極めて柔軟である。しかし集団的自衛権の解釈を除けば融通無碍すぎて、憲法第九条の規範性まで疑わせかねない。》

そして続ける。
《・・・、憲法の条文そのものに欠陥がある以上、我が国の防衛のためにはこのような解釈もやむを得なかったかもしれない。しかしながら、このような苦し紛れの解釈は、もはや限界に達していることも事実である。否、それどころか、このような第九条の規範性そのものを疑わせるような解釈は、かえって内外の不信を招くことになろう。

この引用だけでは著者の論旨を忠実に再現しているとは云いかねるが、要旨は伝えたつもりである。

そこで著者は主張する。
《第九条二項の改正と自衛軍保持の明記を》

そして次の記述から今の自衛隊が軍隊とは明らかに異なるものであることを知らされる。
《・・・、軍隊の権限は「ネガチブ・リスト」方式で規定される。つまり行使することの出来ない事柄を、法に列挙するわけである。だから国際法(および補完的に国内法)によって禁止されていない限り、軍隊の権限行使は原則として無制限である。》

《それゆえ、もし自衛隊が法制度上軍隊であれば、領海を侵犯した軍艦や潜水艦に対しては国際法規および国際慣例に従って警告を発し、もし相手側がその警告に従わなければ、警告射撃等の武力行使を行うことが可能である。(中略)さらに領土主権を侵犯した武装ゲリラに対しても、国際法に従って武力行使を行い、相手方を殲滅することも許される。》

これに照らすと現在の自衛隊が『軍隊』扱いされていないことは一目瞭然であろう。

《自衛隊を自衛のための軍隊と認め、有事はもちろん平時から、我が国の主権と独立がしっかりと守られるような防衛体制を整備しておく必要がある。そのためにはまず憲法第九条二項をすみやかに改正し、自衛隊の法的地位を明確にしなければならない。それによって、第九条をめぐる長年の不毛な論争に終止符をうつことができるし、集団的自衛権の行使なども当然可能となる。》

《ただし、憲法第九条の改正はあくまでも二項のみにとどね、一項の平和主義つまり侵略戦争の放棄はそのまま維持すべきであろう。》

「うん、うん」と頷けるところを引用すると、ほとんど本を丸写しになるので適当に端折ったが、最後にこの引用で締めくくろう。

《この第九条二項の改正は、「普通の国」にふさわしい国民の国家意識や国防意識の涵養のためにも、はかりしれない影響を与えていくことになろう。》

章をあらためて、今近隣諸国とのギクシャクした関係の原因の一つとされている小泉首相の靖国参拝に関連して、私のてんで知らないことが指摘されていた。《いわゆる「A級先般」合祀問題は解決ずみ》と言うのである。

江藤淳・小堀桂一郎編「新版靖国論集」を引用する形で、《それによれば、まず、いわゆるA級戦犯なるものは、あくまでも占領行政の一環として行われた東京裁判での呼称にすぎず、刑死者たちは国内法上は他の戦没者と同様「法務死」とされ、遺族年金等もすべて平等の扱いを受けている。このような取り扱いは、講和独立後、昭和二十八年の遺族援護法(正式には戦傷病者戦没者遺族等援護法)の改正、翌二十九年の恩給法の改正によって実現したものであり、遺族援護法の改正は、国会において左、右社会党をふくむ全会一致で承認されたものであった。従って国内法上、わが国にはA級戦犯など存在しない。》

きわめて明瞭に事態を説明している。

昭和二十九年、恩給法の改正の時点で、中国、韓国などからさぞかし大ブーイングが起こったのであろうが、どの程度のものであったのか当時の朝日新聞の報道などから知りたいものである。

国を守ることについてまともな学校教育を受けたかっての『軍国少年』、その私が素直に頷くことの出来る見解が、昭和21年出生という戦後生まれの著者によって展開されている意義は極めて大きい。私は「憲法の常識 常識の憲法」の出現を大いに歓迎する。

さくら丸船上の『奇蹟』

2005-04-24 11:54:26 | 音楽・美術
「Fenesta che lucive」というナポリ民謡がある。「光さす窓辺」とも訳されている。

♪明るい窓の灯は消えてしまった
 私のネンナは病んでいる
 彼女の妹が顔を出して言う
 あなたのネンネッラは死んでしまった。
 彼女はいつも泣いていた。一人ぼっちで眠ることに
 今は死人たちと共に眠っている

 教会へ行き、彼女の棺を開き
 あなたのネンネッラの姿をごらんなさい。
 花を咲かせた口びるから、
 今はみみずがはい出している
 神父様、お願いします、ああ、
 彼女に永遠に灯を照らして下さい。♪

(イタリア近代歌曲集1 全音楽譜出版社より 細川正直 訳)

歌詞に少々おぞましさがなきにしもあらずだが、恋人を亡くした男の追憶といえようか、やや異色のナポリ民謡である。曲もノスタルジックでメランコリック、古賀メロディー世代にはすんなりと染みとおるであろう。

手元のCDで聴いてみると、カルーソーは切々とそして声を思いっきり引っ張って感情を乗せているし、コレルリも思い入れたっぷりと歌っている。パヴァロッティは体躯に似合わず端正にそしてスマートに歌っている。そして、私はかって遭遇したさくら丸船上の『奇蹟』を懐かしみ心豊かに歌う。実は歌詞はどうでもいいのである。

アメリカに向かうさくら丸には、その当時すでに日本を代表するバリトン歌手として盛名を馳せる栗林義信氏が乗船しておられた。新婚旅行とか伺った。私も弟が音大で声楽を学んでいたこともあり、この機会にとばかり船中で時々お話をさせていただいた。歌手として成功するには、努力もさることながら『もって生まれたもの』の大切なことを強調されたのが記憶に残っている。

乗客の間からぜひリサイタルを、との声が湧き上がってくるのは当然の成りゆきで、私もそれに加わった。ところが氏は「妻は伴奏ができませんので」と固辞されたのである。それではというわけで、半ばは諦めながらも船内にピアノ伴奏者を募ることになった。するとなんと嬉しいことに一人の女性が名のりを上げてくださったのである。レハーサルが始まりその様子が伝わってくるにつれて、リサイタルへの期待に胸が大きく膨らんだ。

さくら丸の最上階であるプロムナード・デッキの船首側には一等船客の食堂があり、船尾に向けてその続き右舷側には図書室、左舷側には育児室があり、さらにその船尾側にサロン・ルームがあった。船客が思い思いに談話を楽しむところであるが、そこにグランドピアノが置かれている。ここがリサイタル会場になった。陽も暮れ落ちて乗船客が三々五々集まってきたが、人数が多くなったので育児室、図書室に通じるドアも開け放たれた。

リサイタルの演奏曲目などはあらかじめ印刷物で配られていた。私も大切に保存していたが震災がもとで家を取り壊すことになり、そのどさくさで見当たらなくなってしまった。オペラのアリアもあったから、多分「闘牛士の歌」は含まれていただろうと思うし、「椿姫」からの「プロヴァンスの海と陸」もあったのではなかろうか。歌曲もいくつか、もちろん日本歌曲も歌われた。白い航跡を残しながら太平洋を東に進むさくら丸から洩れる歌声は、静寂の洋上にひろく広がったことであろう。

夢見心地でいた。太平洋上を行くさくら丸の船上で、当代きっての名バリトン栗林義信氏の歌声をこれだけ身近に聴けるのも船旅ならではの醍醐味であった。しみじみとした日本歌曲に、異国で待ち受けているであろう新しい生活を前にしての緊張感も一挙に癒される一方、早くも望郷の念にもおそわれた。

演奏に酔っているうちにふと意識を取り戻した。プロである栗林義信氏の歌唱を支えている伴奏の素晴らしさを思いが向いた瞬間に、である。南米に向かわれる女性で学校の先生をされていた方と伺ったように思う。しかしちょっと考えれば分かることであるが、少々ピアノが弾けると言うだけで、オペラアリアの伴奏を、それも限られたレハーサル時間でプロの栗林氏と合わせることが出来るなんて只者ではないと思った。

こういうことでもなければ表に現れることもない隠された才能の持ち主が、一私人としてさりげなく南米に渡る乗客のなかにまぎれ込んでおられたということに、私の心がうち震えた。日本人の、そして『大和撫子』の普段の研鑽に築かれた底力に打たれたのである。日本人一人一人のあるべき姿の体現をみたのである。そして私も新生活を前にして大いに勇気づけられた。

アンコールに応えて栗林氏の歌われたのが冒頭の「Fenesta che lucive」であった。日常ではあり得ないし考えられもしない、プロの歌い手とアマのピアニストとのアンサンブルは、まさにこの世の『奇蹟』であった。私がこの歌を歌うときは、だから歌詞を離れて日本人であることの幸せを歌っているのである。

在朝日本人の回想 敗戦後ソウルでの三ヶ月

2005-04-20 13:49:44 | 在朝日本人
私は韓国の反日デモをテレビニュースを観ても、また中国の排日デモを観ても、ヤラセのような気がついしてしまう。子供の頃の体験が効いているのかもしれない。

敗戦により江原道鉄原から京城に逃げ帰り、日本に引き揚げるまでのほぼ三ヶ月間、私たち一家6人は明治町にある『鐘紡』の寮に寝泊まりした。かっては単身赴任者が居住していたのであろうか2階建ての日本家屋で、畳部屋が何部屋か連なっており各部屋に一家族ずつ入っていた。子供の目には10畳以上もある広い部屋に映ったが、8畳かそれ以下であったかも知れない。押し入れがついていて、『全財産』が納められていた。

鉄原に疎開したのが昭和20年3月末で、8月末にはまた京城に舞い戻ったのである。主な家財は鉄原に疎開させたが、三坂通りの旧居にも父の蔵書をはじめ不要不急のものを残していた。家族は疎開しても父は依然としてその家から通勤することになっていたのだろう。しかし現実には父が4月に応召したので旧居は無人で残されていた。『寮』に居住している間に、その残された家財の整理に父と何回か旧居に通った。どうして日本に持ち帰るか当てのないままに、執着の残るものを『押し入れ』に移したのであろう。

『寮』でどのように食事を摂ったが記憶が定かではない。押し入れの中にお米を入れた布の米袋があったのは覚えている。玄米ご飯に醤油をタラッとこぼして食べたこともあるし、玄米を一升瓶に入れて口から丸棒を差し込み、搗いて精白したこともある。しかし食事を自分の部屋で摂ったのか、食堂に出向いたのか、それが分からない。

丸い薄型の缶詰の空き缶で遊んだことを覚えているから、缶詰を副食にしたことは間違いない。大和煮のようなものだったのだろうか。楕円形の鰯の缶詰もあった。ご飯やお菜の煮炊きに湯沸かしなど、母が一切を行っていたはずであるが、もしかすると共同炊事だったかも知れない。

私はどうしていたかと云うと、まさに自由を謳歌していた。学校は行かなくていいのである。そして『寮』は街を探検して廻るのに屈強の位置を占めていた。

ちょっと奥まったところにある『寮』から表通りに出ると、目の前に中央郵便局があり、すぐ左手に中華民国の領事館があった。戦後間もなくのことだから、もともと南京の『国民政府』のもでであったのだろうが、双十節を賑々しく祝った頃は中華民国が入っていたのであろう。門の脇にはアメリカのMPが立哨警備にあたっていた。

どういういきさつでそうなったのか、『押し入れ』に入っていた雛人形を一体ずつそのMP達にプレゼントしたことがある。父に口上を教え込まれたまま、ギフトとか何とか喋ったのであろう。MPがとても嬉しげに受け取ったことを覚えている。『鬼畜米英』の一文字も私の頭には浮かび上がってはこなかった。日本軍の憲兵を真似てか、『憲軍』という腕章を捲いた朝鮮人が通りかかったのを見つけて、MPには漢字が分からないだろうからと、”Korean MP"と誇らしげに教えたこともあった。

1997年にソウルを旧居探訪のために訪れた際に、自然とこの場所を見つけてしまった。南大門あたりを歩いているうちに、足が私をこの場所まで運んでくれたのである。以前と同じ場所に中国大使館があった。しかし昔の素朴な鉄格子の門構えが、写真のように変貌していた。この門を背にして立つと右前方に中国書籍を扱う書店が軒を並べている。



角の書店の向かって左隣あたりに、かっての『寮』に通じる小路が口を開いていた。『寮』に住んでいた朝鮮人の男性従業員が、この角の建物をバーのようなものに改造して開店し評判になったりした。この前で缶詰の空き缶の底に釘で穴を明けて蒸籠をつくり、蝋燭の火で湯を沸かして妹たちとままごと遊びをしていると、通りすがりの朝鮮の男の子がそれを蹴り飛ばして走り去ったことがあった。このような仕打ちを受けたのは後にも先にもこれっきりであったが、戦争に負けていなかったら追っかけていって仕返しをしたことだろう。

前の通りを領事館と反対側に少し行くと、『寮』と同じ並びに小川医院という医院があった。そこに私と同じ年頃の女の子がいていつの間にか口をきくようになり、その女の子の自転車を借りて乗り回すようになった。そのお陰で行動半径が一挙に拡大して、子守というか、昭和18年生まれの弟を負んぶして知らない遠いところまで大胆に遠征していた。京城駅には毎日のように通っていて、貨車に乗った北朝鮮からの避難民を見かけたのもその頃である。

秦郁彦著「慰安婦と戦場の性」の105ページに次のような記述がある。
《鉄原(京城の北80キロ)から脱出した日本人の報告によると、進駐してきたソ連軍は略奪ののち9月1日に広島屋(遊郭街)に24人の邦人婦女を閉じこめ、連日のレイプで6人が死亡、他は10日頃にウラジオへ連行したらしい》
これは9月27日に大田の朝鮮軍司令部から東京の参謀次長宛に発信された電文の要旨とのことである。私たちが鉄原を逃げ出して間もなくソ連軍が入ってきたことがこれで分かった。また邦人が辛酸をなめながら北朝鮮から脱出しつつある状況に私が接したことも分かる。

南大門広場は巨大マーケットと化していた。ありとあらゆる食べ物が氾濫しているのである。その時はじめて、朝鮮人が何をどのように口にするのかを目の当たりにしたのである。大きな丼鉢から真鍮のスプーンで汁物を美味しそうに食べていた光景は覚えているが、具体的にどのような料理であったのかは記憶に残っていない。漬け物とか海苔巻き、そして魚の乾物などが多かったようだ。物珍しくて立ち止まって様子を眺めていると、朝鮮餅のような食べ物を時には呉れるオモニもいた。背負っている弟が可愛かったせいなのかもしれない。

ある日、その南大門広場が最大の人出で埋まった。その時も弟を背負って群衆の中にいたが立錐の余地もない、人と人が押し合いへし合いするなかに閉じこめられてしまった。朝鮮の偉い人が帰ってきたので、帰国を歓迎するために人が集まったそうである。そのようなことが漏れ聞こえてくる話から分かってきた。大極旗があちらこちらで翻っている。そのうちに歌声が聞こえてきだした。大群衆に歌が広がってきて皆が声を合わせて歌い出したのである。言葉は朝鮮語であったが、「蛍の光」の節なのである。私も嬉しくなって日本語で大きな声で歌っていた。すると「こら、日本人、歌うな」と誰かに怒鳴られて歌うのを止めてしまった。

アメリカに亡命していた李承晩氏の帰国を歓迎しての集まりだったのである。帰国が10月16日であったので、当日かその翌日であったのだろう。私は怒鳴られはしたが、朝鮮人の大群衆の中に入り込んでいて違和感とか恐怖感は一度たりとも感じたことはなかった。だからこそ毎日毎日あちらこちらを探検して廻ることが出来たのである。親の口からも出歩くなとか、そのような注意めいた言葉を聞いたことはなかった。

足かけ6年間、在朝日本人として暮らしていた間に、子供であった私が朝鮮人から『敵意』とおぼしき仕打ちを受けたのはただの二件に止まる。その頃はまだ生まれてもいなかった若い韓国人が示す反日感情が、韓国における戦後の『愛国教育』に根ざしているのではないかと思うのは、元在朝日本人の邪推なのであろうか

『歴史問題』の怪

2005-04-18 09:43:48 | 社会・政治
テレビで見る限り、今、中国で流行っている『排日』デモはどうも迫力に乏しい。『旗』にカラーペイントを吹き付け、ライターで燃やすシーンは毎度のもの、もう新鮮みがない。ものを投げている人物にしても顔にしまりがない。テレビカメラを意識して主役に躍り出たのだろうが、笑い顔では様にならない。『デモ隊』と『警官隊』の血を血で洗うような激突があれば少しは引き締まるのであるが、それも期待すべくもない。あれではテレビカメラの送る映像がマンネリに陥るのも致し方ない。もうそろそろ『放映』の納め時であろう。

報道によると『歴史問題』がデモの背景にあるとか、『歴史を歪曲』しているとのことである。まさか、と思い、あの扶桑社の市販本「新しい歴史教科書」をあらためて調べてみたが、そのどこにも『日本がさる大戦で中国に勝利をおさめた』なんて記述は見あたらなかった。やっぱり日本が間違いなく『敗戦国』であった。

そうだとすると、実は『歴史の歪曲』は中国側にあるのではないかと思った。中国は確かに戦勝国であるはずだ。しかし『復讐』と叫びながらものを投げるシーンもあったし、ひょっとしたら中国の歴史教科書では、『日本がさる大戦で中国を屈服させた』ことになっているのかも知れない。日本が『戦勝国』で中国が『敗戦国』なら、彼らの『復讐』の意味もそれなりに分かるというものだ。どう考えても、今の中国の態度は『戦勝国』としての矜持を欠いているとしか云いようがない。

私は中国の歴史教科書そのものに当たる必要を感じたので、昨日、Amazon.com にその翻訳本を注文した。ついでに韓国の教科書も。以下の二点である。

「入門韓国の歴史―国定韓国中学校国史教科書」石渡 延男; 単行本; ¥2,940
「入門 中国の歴史―中国中学校歴史教科書」小島 晋治; 単行本; ¥4,095

『精査』の結果はまたあらためて。

『歌声喫茶』でなぜか『老人問題』をおもう

2005-04-16 12:04:38 | 音楽・美術
街を歩いていたらとある喫茶店の入り口の張り紙が目に止まった。日を決めて午後6時から9時まで『歌声喫茶』に変身するのだそうだ。それで覗いてみることにした。

私の学生時代はもう半世紀も前になるが、その頃歌声喫茶がボチボチ出来かかってきた。しかし私自身あまり出入りした記憶はない。歌う仲間に事欠かなかったので、数人でも集まれば気持ちよく『ハモった』ものだ。若さというのか、何かの会の流れであったのだろうか、仲間と三人で元町の端から端まで歌を歌いながら行進したこともある。名曲喫茶に入るお金も気にしないといけない時代でもあった。

歌声喫茶になじみの深いのは、私より少し下がった世代だと思うが、この『歌声喫茶』でそれを思い知らされたのである。一人の男性がリクエストした「花とおじさん」という曲は、少々歌を知っているつもりの私がこれまで聞いたことのないものだった。

♪小さな花に 口づけしたら
 小さな声で 僕に言ったよ
 おじさん あなたは 優しい人ね
 私を摘んで つれてって
 私はあなたの お部屋の中で 
 一杯咲いて 慰めてあげる
 どうせ短い 私の命 
 おじさん見てて 終わるまで♪

その男性に聞くと浜口庫之助の作詞作曲だとのこと。『援助交際』の到来を予言したかのような歌詞に違和感を感じたのは、私に潜む『いやらしさ』のなせる技か。いずれにしてもロシア民謡を主体に「若者よ」や「国際学生連盟の歌」などを歌った世代からみると、軟弱に流れてしまったように思った。

リーダーがへんに遊ぶのも馴染めなかった。

♪幸せなら手をたたこ・・

の歌詞で「手をたたこ」の部分を突然指さされた人が、たとえば「鼻ならそ」というように作り直して歌うのである。幼稚園の子でもあるまいし、還暦を過ぎた男が何故こんな真似をさせられるのか、と空しくなった。だから指さされた私ではない別の男性の一言「幸せじゃないからなぁ」で、リーダーの戸惑ったのがちょっとよかった。つむじ曲がりが私一人ではなかったようである。

終わり頃になって参加者全員が立ち上がり、隣同士互いに手を繋いで輪を作り歌うことになった。ところが私の手が素直に伸びないのである。女性なら何の抵抗もなしに手を繋いだであろうに、両隣が男性。なんだか抵抗があるのだ。でも考えてみたら抵抗があるのは当然のこと、握手は別として、成人男性と手を握りあったことなんて記憶にないのである。『背徳の儀式』に強制的に引きずり込まれる心地がした。

93歳で他界した私の母を亡くなる2年前に『デイサービス』に、どちらかと言えば無理強いするような形で参加させたことがある。帰ってきてどうもご機嫌がよくない。付き添いで行った妻に様子を聞いてみると、なにかお遊戯のようなことをさせられたり、風船をついたり、要するに幼児扱いをされたことで自尊心の高い母の心が傷ついたのでは、とのことであった。事実、たった一度『デイサービス』に行ったことが引き金になって、母の体調が釣瓶落としに衰えてしまった。

隣同士で手を握らされて思い出したのはその母のことである。お遊戯めいたことをさせられて、はやばやと老人ホームに彷徨い込んだようなやるせない心地になった。リーダーは参加者に連帯感を持って貰って、と云うことなのだろうが、私は連帯感を求めて出かけたのでも何でもなく、ただ歌うことを楽しみたかっただけなのである。「また会う日まで」と歌わされたが、私は遠慮させていただき今度会うのなら天国で、と思いながら会場を後にした。

在朝日本人の回想 『鐘紡永登浦工場』跡

2005-04-15 15:52:07 | 在朝日本人
私は『鐘紡』のおかげで大きくなった。父が鐘紡に勤務していたからである。高砂の鐘紡社宅で生まれ、神戸の兵庫工場の社宅から幼稚園に通い、京城永登浦の社員アパートに住んでいる間に永登浦国民学校に入学した。昭和16年の4月である。

この社員アパートは煉瓦造り三階建ての堂々たる建物であった。それが工場敷地内に何棟もあり、また似たような作りの工員アパートも棟を連ねていた。冒頭の写真は前の建物が私が半年間通った幼稚園で、後ろの建物群が工員アパートであったと思う。



この写真は幼稚園の手前にある道で、奥の方に見える建物が社員アパート、女の子は幼いころの亡妹である。またアパートのベランダに座っているのは妹、そして屋上でにこやかに突っ立っているのが私である。





このアパートに入っている間に私は『はしか』に罹った。両親の気遣いを一身に浴びていることをなんだか誇らしく感じたのが、熱のある身体で水洗便所にしゃがみ込んでいた時のことである。何故かその時の状況が今も記憶に新しい。

このアパートはなかなかモダンな造りであった。水洗便所に加えて台所にはダストシュートがあり、暖房はスティーマー(と家ではカタカナ名で呼んでいた)であった。建物の地階は通路になっていて外気に曝されることなく浴場に歩いていけた。売店もあったように思う。

吉田裕著「日本の軍隊」(岩波新書816)に興味を引く記述があった。
《軍近代化の問題として、建造物の面でも、この時期にきわめて現代的な様式のものが登場していることを指摘しておこう。1928年に竣工した歩兵第三連隊の兵舎が代表的なものだが、この新兵舎は鉄筋コンクリート四階建て、「当時としては、最新式エレベーター四、リフト二を設備し、便所は全て水洗式、採暖はすべて蒸気暖房を採用し」ていた》(143-144ページ)

この兵舎の内容と比較すると、当時の『鐘紡』にどのような将来への展望があったのか、中途半端ではない本格的な建物を真面目に建てていたことがよく分かる。

幼稚園ではおやつの時間があった。大きな丸いビスケットに熱々のミルク。容器の表面に膜が張っていたのを思い出す。園長さんは工場長であったのだろうか、修了書に「片岡勉」と名前が記載されていたように思うが、記憶はもはや定かではない。

わが家に3人ほど兵隊さんが分宿したことがあった。母が張り切ってご馳走を作っていた。演習か何かの折で、民宿するようなシステムでもあったのだろうか。軍用犬係の兵隊さんで、何かの知らせで慌ただしく飛び出していったので後を追っかけて行った。すると犬同士が喧嘩をしたのであろう、一匹の頬肉がダラリと垂れ下がっているのを目にした。

敷地のはずれには広い畠があって、そこで採れたトマトを食べたことがある。鮮やかなピンク色で種がプチプチしてとても香ばしい味がした。その味を今でも時々思い出して、美味しそうなトマトを見つけては味わうが、その頃の味に優ったものにはまだ残念ながらお目にかかれないでいる。

入学した永登浦国民学校は木造の建物で、簀の子の板を踏んで下駄箱から校舎に上がったように思う。担当の先生は山田先生、丸顔の年配の男性教師でオルガンを上手に弾きこなされたのが印象に残っている。一学期間在籍しただけで一年生の夏休みに三坂国民学校に転校した。永登浦の滞在は一年未満だったことになる。

ソウルオリンピックの前年だったか、ソウル駅から地下鉄に乗って永登浦を訪れたことがある。しかし下調べをしていなかったこともあって、以前住んでいた場所を見つけることはできなかった。京城のわが家の旧跡探しに本格的に取り組んだのは、私が仕事を辞めた1997年夏のことである。通訳をお願いして永登浦では元鐘紡の工場跡ということで探して貰った。お年寄りを見つけて尋ねたのが功を奏して、あっけないほど簡単に工場跡が見つかった。それが思いがけなく昔の面影をかなり残していたのである。

門衛所で私が訪ねてきたわけを説明して、もし建物が残っていたらぜひこの目で眺めさせて欲しい旨を申し入れた。現在は軍需産業の工場になっていて、部外者が簡単に入れるところではなかったようであるが、何人もの方とあれやこれや話している間に、私の思い出話にも興味を持っていただいたようである。そして決め手になったのはアパートにあった『ダストシュート』で、私がその話をすると、確かに『ダストシュート』のある建物を知っていると一人が言い出したのである。そこだけなら見せてあげようということになって車で案内された。実はそれぐらい構内が広いのである。工場を囲む昔からある煉瓦塀をお目にかけよう。ほんの一部なのである。



何カ所か煉瓦造りの建物に連れていかれ、遂に、私が住んでいたのとまったく同じ棟なのかどうなのかは分からないが、明らかにそれとおぼしき建物に行き当たった。



建物全体の形は歩行姿の妹の背景のと同じ、また窓の下にある張り出しは間違いなく妹が腰を下ろしていたところであろう。そして屋上の柵は私の背景に写っているものに似ている。ただ上屋の位置関係からすると現形の裏側になるのであろうか。間違いなくかって住んでいたアパート群が残っていたのである。それも手入れがよく行き届いた形で。50数年ぶりの再会であった。

ほかにもはっきりと存在が確認できたのは、昔の幼稚園の写真で右端、アパートの上に抜き出た屋根の形の建造物である。煉瓦塀の遙か彼方の外れにある門から撮ったのが下の写真で、同一であることが分かる。



戦後50年を経て、そして過酷な朝鮮戦争を生き抜いて、かって『鐘紡』が築き上げた建造物が依然として使用されていたのである。後で工場の方に話を伺った。あのアパートも壊そうとする動きがあったそうである。ところが余りにも頑丈に出来ているので、壊すのに費用がかかりすぎる。それなら、と言うわけで一部の社員アパートを改装してゲストハウスとして活用することにしたそうである。

武藤山治、津田信吾といった骨太の経営者が築き上げた世界に冠たる『鐘紡王国』の覇気、使命感、そして現場の職人魂。その一つの結実としての『永登浦工場』が、時代もまた持ち主も変わっても、半世紀にわたり、韓国に人達に使われ来た現実は、政治の世界とは異なる、人々の『本音』を素直に映し出したものと私は受け取るのである。

一方、粉飾決算を繰り返していたとして最近報じられた『カネボウ』の責任あるべき経営陣のモラルの崩壊は、惨めとしかいいようがない

年寄りの『童心』を刺激する『西遊記』

2005-04-13 20:14:30 | 読書
いうまでもなく西遊記は孫悟空の物語である。子供の頃から絵本に始まり数々の翻案もの、そして福音館古典童話シリーズの「西遊記」上下(君島久子 訳)と読み継ぎ物語を楽しんできた。その間気になっていたシリーズが岩波文庫版である。

1977年に第一巻が出版された「西遊記」は第三巻までが小野忍訳で、訳者の急逝の後を受けて第四巻からは中野美代子訳となり、1998年に最終の第十巻が刊行されている。その間私の読書に充てる時間も限られていたり、訳者が途中で交代したことへの引っかかりもあり手を出すのを控えていた。ところが今年に入り第一巻から中野美代子新訳で新シリーズが刊行されることになったので否応なくさっそく飛びついた。そして結果は大正解であった。

《第一回
霊根を孕み源流が出ずること
心性を持し大道が生じること

先ずは詩を一首

混沌はまだ分かれておらぬゆえ
天と地は渺茫なんにも見えず
盤古が卵を破ったその時から
天地はひらき清濁の別も生ず
・・・・》

と始まるが、霊根を孕み??でもう最初から意味がさっぱり分からない。親しみの薄い言葉がボンボンと飛び出る。そして、ゾクッと来るのである。未知のものに対面したときの高揚感が沸々と湧き上がってくるのである。

国民学校(今の小学校)の低学年の頃、父の書棚にある本でもでも、知らない漢字のかなりにふりがなさえあれば、取り出しては読みふけった記憶がある。本当の意味は分からなくても、感じで自分勝手な推測をし、また想像を楽しみ、そしていずれはちゃんと読んで本当の意味が分かるようになるんだという期待感で、心を膨ませていた。

この「西遊記」に取りかかって、その子供の頃を思い出したのである。
そして嬉しいことに『子供の心』に戻れるのである。

とにかくこの「西遊記」には日常は触れることがなく意味も分からない言葉が目白押しに出てくる。ただ字面に目を走らせているとなんとなく中身が伝わってくるような気はするのであるが。

孫悟空は武器好きなのである。だから武器の名前にしても刀、槍、剣、戟、斧、鉞、毛、鎌、鞭、簡、弓、弩、叉、矛に加えて、普通のワープロでは出しようのない漢字の名前もいくつか出てくる。けだものの名前にしても当用漢字ではとうてい追っつかない漢字で次から次へと出てくる。昔なら活字の鋳造が大変だっただろうな、とか、それにしてもこの難しい漢字をどのように印刷まで持ってきたのだろう、と余計なことまで考えてしまう

武器については図入りの懇切丁寧な注があるのでそれを見ればいいのだか、漢和辞典で調べるのも楽しい。『鞭』なんて、むちでいいじゃないのか、と思うのに、全訳漢辞海(三省堂刊)では「武器の一つ。鉄製で節はあるが、刃や槍先はない」と出てくる。『簡』も「むちに似た兵器の一種」と説明があり、これだけでは分かるようで分からない。金偏に巴と書く『は』と言う武器は、文字自体がこの辞典には出てこない。わが家の最大の漢和辞典である大修館書店の広漢和辞典にもこの文字が出てこないのでもうお手上げ。ところが注には「まぐわ」(農具のまぐわを原型とする)と説明されて図まで出ている。すなわち「西遊記」は元来学者・研究者でないと読みこなせない玄妙の物語なのである。

子供向きの本ではほとんど省略されているが、物語に頻々と『詩』が出てくるのがこの「西遊記」の特徴の一つであろうか。「千夜一夜物語」と格好の対になっている。その『詩』にも辞書にも見あたらない漢字が続々と出てくる。それだけに元異国の書である「西遊記」のエキゾチシズムがいや増すのである。そのうえ中野美代子氏による訳詞を音読するとなんと調子のいいこと、齋藤孝氏の日本語音読読本をわざわざ購入するまでもないのである。

分からないところだらけであるが、不思議とこの本はするすると読み進んでいける。
「すごーい!かっこいーい!・・・」と猿どもがはやし立てたり、武器好きの孫悟空がお隣さんへ「定めし余分の秘密兵器がおありでしょうな」なんておねだりに行くところ、このような引用で察せられるように、意訳がなかなか現代風で、だからこそ気軽に読み飛ばして行けそうな気になるのである。そして訳者の中野美代子氏、詳しい注からも窺われるように深い学識を秘めておられる偉い方だろうに、とても親近感を覚えてしまったりする。

《第二回
妙利を悟り菩提を得たること
妖魔を断ち元神に合すること》

に次のようなくだりがある。

《相手が手強いと見た悟空、身外身(しんがいしん)の法てえのを使うことにいたします。からだからにこ毛をひとつまみ抜き、口にほうり込んで噛みくだくと、そいつを空めがけてプッと吹きざま、「変われっ!」と叫びました。するとどうでしょう、たちまち三百匹ほどの小ザルに変じ、魔王のまわりをとり囲んだものです》

なんと、これは体細胞由来のクローン孫悟空ではないか。『ドーリー』ちゃん遡ること遙か400年の昔に、はやくも『生き物複製』のアイディアが芽生えていたのである。そういう目で見ると斛斗雲はもちろん音速ジェット。『予言書』「西遊記」の中にこれからの新しいビジネスの種を探しながら読む楽しみもあるだろう。

読む人によってそれぞれの多様な楽しみ方が出来ようが、私にとっては圧倒的な未知を前にした『童心』を呼び戻してくれるところが最大の魅力である。そして分からないことが多過ぎるだけに自然と謙虚になってしまうのである。

4月13日現在、第四巻まで刊行

ストリート・ミュージシャンとしてデビュー

2005-04-11 10:31:16 | 音楽・美術
昨日、遂にわれわれ男声5人グループが街角での演奏デビューを果たした。阪急岡本駅南のとある銀行の前で。詳細が決まれば大々的に宣伝をして、と意気込んではいたが、日が迫ってくるにつれてだんだんと弱気になり、期待してくれていた家族、友人にも顔出しをお断りしてのデビューになった。

グループの名称はMonStar Dust、どうとでも解釈していただける名前である。演奏曲目は「見上げてごらん夜の星を」、「いい日旅立ち」、「ふるさとの四季」(源田俊一郎編曲)にカンツォーネの「マンマ」。「ふるさとの四季」は11曲からなる唱歌メドレーなので計14曲、演奏時間も30分かかる。昨日は午後1時と2時の2回のステージ、それにレハーサルを2回したので4回演奏したことになり終わったらグッタリした。

お花見日和だったので皆さんそちらの方に流れたと思うが、足を止めて聴き入ってくださる方のおられたのは嬉しかった。唱歌に耳を傾けてくださったのはやはり年配の方、そしてそのお孫さんとおぼしき子供たち、といったところ。

それにしても街角で好きな歌を歌うのは実に楽しい。はじめてのことだから緊張するかと思ったら全然しない。通りがかりの人に万遍なく微笑みかけたくなるのがまた不思議、歌は人の心を繋ぐというのは本当だと思う。レパートリーを広げてあちらこちらに出かけて、と夢が広がっていく。

教科書から『慰安婦』が消えた怪?

2005-04-09 19:23:20 | 読書
4月5日、文部科学省は来春から使われる中学校用教科書の検定結果を発表した。それによると、歴史教科書を発行している7社の本のすべてから『慰安婦』の記述がなくなり(1社のみ『慰安施設』として残す)、『強制連行』の記述が2社に減少したとのことである。95年度の申請時には7社すべてが『慰安婦』『従軍慰安婦』もしくは『慰安施設』と『強制連行』を記載していたのに比べるとまさに様変わりである。

秦郁彦著「慰安婦と戦場の性」(新潮選書)によると、1992年1月11日の朝日新聞朝刊第一面トップに『慰安婦』のキャンペーン記事が躍り、《今にして思えば(注 1999年)、この「スクープ報道」こそ、それから数年わが国ばかりでなくアジア諸国まで巻き込む一大協奏曲の発火点となるものだった》のである。

その結果どのようなことが起こったか。

当時の宮沢首相は《早々と14日の記者会見で、「軍の関与を認め、お詫びしたい」と述べ、16日に「抗議のデモ相次ぐ」(16日付毎日新聞)ソウルへ向かったが、滞在中も天皇の人形が焼かれたり、名乗り出た元慰安婦が坐りこむなど、反日デモが荒れ狂った》のである。そうして《1時間25分の首脳会談で、宮沢首相は8回も謝罪と反省を繰り返した》とのことである。

それからいろいろありまして・・・

国連の人権委員会が1994年4月にクマラスワミ女史を「女性に対する暴力に関する特別報告者」に任じ、その本報告書が1996年2月5日付で人権委員会へ提出公表された。日本の従軍慰安婦問題を扱った付属文書Iが「クマラスワミ報告書」として知られるもので、《実質的には第二次大戦期に日本の植民地(外地)だった朝鮮半島出身の朝鮮人慰安婦だけが対象》とされ、その標題は「戦時の軍事的性的奴隷制問題に関する報告書」であった。そして日本政府に対して6項目の勧告がなされた。

秦氏は朝日新聞からの引用で勧告の要点を以下のように紹介している。

1.日本帝国陸軍が作った慰安諸制度は国際法に違反する。政府はその責任を認めよ。
2.日本の性奴隷にされた被害者個々人に補償金を支払う。
3.略
4.略
5.教育の場でこの問題の理解を深める。
6.略

1997年4月から中学校教科書がそろって慰安婦問題を掲載したのは、この五番目の項目に沿ったものであろうか。しかしその取り上げ方は「この問題の理解を深める」にはほど遠い内容であった。例えば一教科書では《また、朝鮮などの若い女性たちを慰安婦として戦場に連行していました》と素っ気なく書かれているが、この内容から中学生が何をどのように理解できるのだろう。

教師がここで慰安婦と云うのは実は売春婦、売春婦と云うのかくかくしかじかで・・・、と説明を加えるのなら、頭のいい中学生ならこの記述が何を意味するのかを理解するだろう。しかし、教師の説明がないとしたら、まさか『慰安婦』を『漫才師』もどきとは受け取ることはないにしても、この記述から中学生が学び取ることは限りなくゼロに等しいと云わざるを得ない。

三木睦子氏は《教科書に2、3行書いたぐらいでは足りない》と批評している。まさにその通りである。この表現を私流に換骨奪胎をするのであるが、何故兵士の性欲処理が必要なのかから始まって、『慰安婦』がその当時の公娼制度の軍隊版であること、従って女性にとって金儲けのビジネスであったことなどを背景としてまず説明しなければなるまい。中学生相手に・・・、である。

教科書ではないが、岩波ジュニア新書「きみたちと朝鮮」(尹 健次著)にはこのような記述がある。《・・・朝鮮人女性も「女子挺身隊」の名の下に労務動員されますが、日本軍はそのうち8-10万人を騙して「従軍慰安婦」として各地の戦場に送りました。異境の地で、日本軍兵士の性の奴隷として提供されたのですが、千田夏光の『従軍慰安婦』『続・従軍慰安婦』はその経緯を克明に迫っています》。これだと確かに日本軍が組織的に朝鮮人女性の人権侵害を行ったことがよくわかる記述にはなっている。内容の真偽は別にして・・・。

ところがところが、である。教科書の記述がもっと深められるべきであるのに、『慰安婦』自体が教科書から姿を消すのである。

そして不思議なのは、『竹島』を日本固有の領土であると記述した社会科教科書を文部科学省が検定を通したことから、『竹島』=『独島(韓国名)』領有を主張している韓国政府が日本政府を激しく非難しているが、『慰安婦』記述を引っ込めた歴史教科書についてはそれを顕示的に抗議をしていないのである。かっては教科書問題の大きな争点であったのにも拘わらず、である。さらに『従軍慰安婦』問題の火付け役を果たした朝日新聞も4月6日朝刊社説で「こんな教科書でいいのか」と教科書問題を論じているが、『慰安婦』の記述がなくなることについては一言も触れていない。

なぜ『従軍看護婦』の影が薄くなったのか

『官憲による朝鮮人女性の組織的強制連行』が問題提起から長時間たっているのにもかかわらず、そして立場の異なる関係者の多大の努力にも拘わらず、未だに証明されていないからなのである。もちろん上に引用した岩波ジュニア新書の内容も、である。となると、戦場の『慰安婦』=『売春婦』はその当時、日本でも朝鮮でも存在していた公娼制度の延長線上の存在に過ぎないのであって、ことさら教科書で取り上げなければならない必然性は極めて低いのである。

一方、日本軍による占領地で女性の連行、拉致事件が少なからず報告されているが、これは軍律に違反した個人ないし少数グループの性犯罪、すなわち強姦事件のカテゴリーに入るものがほとんどである。国家による組織的犯罪の範疇には入らない。

従って『官憲による朝鮮人女性の組織的強制連行』はイラク戦争の『大量破壊兵器』に準えることが出来そうなのである。教科書から消えて当然のことといえよう。

正しい歴史認識は情緒論で作られるものでもなければ、政治的思惑で左右されるものであったはならない。またお座なりの言い訳的記述のテキストは百害あって一利なしである。私はその意味で『慰安婦』『従軍慰安婦』が教科書から欠落することを大いに歓迎する。

以上私の述べたことは、秦郁彦著「慰安婦と戦場の性」(新潮選書)から得られた知識に全面的に依存するものである。秦氏は《慰安婦と周辺事情の歴史を学術的観点から掘りおこして一冊にまとめよう》と試みたのであって、文書資料に加えて、当事者としてその事情にもっとも精通する元憲兵からのヒアリングをこの著書の重要な根底としている。ご本人は一切の情緒論や政策論を排し、個人的な感慨や提言を加えなかったと強調されている。その意図が『慰安婦百科全書』的な性格を持ったこの本書に結実していることは、一読すれば直ちに明らかになる。この実証的態度を貫く著者の努力を多とするだけに、私は多くの人にこの書を薦めたくなるのである。