K.テツのひとりごと

行動記録、趣味の話などを書いてゆきます

4月度 信長公記を読む会

2015年04月10日 | 講座・会合

4月6日(火) 10時から長公記を読む会がありました。出席者は23名でした。

元亀三年の浅井・朝倉攻めの続きを読み進める。

虎御前山(信長方)から横山城の間は3里と遠かったので、信長は間の八相山と宮部郷に砦を築かせるとともに、虎御前山から宮部まで約5kmの幅6.3m長さ5km以上の道を普請させた。

膠着状態に陥ったので、信長は日時を決めて決戦をしようと申し入れたのだが、浅井朝倉勢は乗ってこなかった。これは軍勢で劣る浅井・朝倉軍が、本願寺や武田軍が動くのを待っていたのだろう。実際武田軍は10月3日に府中を発ったのだが、その情報もあったのかもしれない。武田軍は①農閑期にならないと動けない(兵農分離が信長軍ほど進んでいなかった)というのは誤りで、②雪が(上杉が動けなくなる)降らないと動けない というのが正解なのだろう。

11月3日に浅井・朝倉軍が動き、それを羽柴藤吉郎が迎え撃った場面が書かれているが、砂川先生は「信長公記には武勇のエピソードはあるが、戦局とどう関わったかの記述がないのが欠点だ。そこが平家物語との違い。太田牛一が武勇に長けていたのがそうさせたのか」と仰る。

いよいよ三方原の戦いに入るが、その前に先生は地図、信玄関連の年表を用いて天下の情勢を整理された。

①領国の石高 信長:400万石  武田:120万石  徳川:40万石

②天文23年の甲駿相の三国同盟から三国同盟が崩れ、武田信玄は南下を始める。そこは家康の領土・・・・。

 

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