小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

「小梅日記」概略

2015-11-10 | 嘉永二年

  
川合小梅は和歌山で生まれ育ち、生涯をこの地で過ごしました。

☆川合小梅
文化元年(1804年)十二月二十二日誕生。一人娘。
第十代藩主徳川治宝公の時世でありました。
父は川合鼎が早世(小梅五歳の時)したので母の辰子と祖父に薫育された。

★川合 鼎(子長、大壑の号)
喜多村家から迎えられた養子で紀州藩の藩校の「学習館」の助教だった。
小梅が五歳の時に三十二歳で没
☆川合辰子
 日記では「母上」で登場。和歌に優れている。
★川合 衡(丈平、春川の号)
 美濃の医師の長男だったが京都に遊学した後、紀州藩主の治宝公に儒者として召し抱えられ、後に藩校校長となった。
小梅が二十一歳の時に七十四歳で没した。
★川合 修(豹蔵、梅所)
 小梅の夫。梅本家からの婿養子。学習館の講師で後に校長となった。
 嘉永の頃は奥詰となり二十五石を給っていた。

★川合雄輔(幼名 岩一郎)
 小梅の長男。

☆ 梅本家(小梅の夫の実家)の人々
 梅本藤四郎(豹蔵の弟)
   息子 千太郎、万次郎
 梅本浅之助(山本寛蔵・豹蔵の従兄)
   浅橘(豹蔵の従兄)息子浅助
☆ 保田良蔵
  住み込みの書生。豹蔵の弟子。
☆ 権七
  住み込みの下男。武家は必ず一人以上の下男を置くことになっていた。

 女中も二人くらい置いていたらしい。
 川合家は学習館の教授なので家老から弟子や塾生ら他、親戚も多く幅広い多数の出入りがあった。
 二十五万石では下級武士で主婦として小梅さんはやりくりに苦労しながら日記を見る限りではおおらかに人生を楽しんでいたようだ。しかし、事実や数字は詳しいが感情的なことはあまり書かれていないので困惑もさせられる。
  
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