瀬戸際の暇人

今年も偶に更新します(汗)

異界百物語 ―第56話―

2008年08月15日 21時22分36秒 | 百物語
やあ、いらっしゃい。
今夜はカルピスにしようと思ってね、丁度用意をしている所さ。
こいつを濃過ぎず、薄過ぎず、好い塩梅に拵えるのは中々難しい…。
済まないが味を見てくれるかい?

丁度好い?――そいつは良かった。

さて飲物が用意出来た所で…今夜の話を紹介しようか。
これもやはり岡本綺堂が書いた代物で、綺堂曰く「実際に有った」と云う噂を聞き、記したものらしい。




安政三年の初夏である。

江戸番町の御厩谷に屋敷を持っている二百石の旗本、根津民次郎は箱根へ湯治に行った。
根津はその前年10月2日の夜、本所の知人の屋敷を訪問している際に、彼の怖ろしい(安政の江戸)大地震に出逢って、幸いに一命に別条は無かったが、左の背から右の腰へかけて打撲傷を負った。
その当時はさしたる事でも無いように思っていたが、翌年の春になっても痛みが本当に去らない。
それが打ち身の様になって、暑さ寒さに祟られては困るというので、支配頭の許可を得て、箱根の温泉で1ヵ月ばかり療養する事になったのである。
旗本と云っても小身であるから、伊助という中間1人を連れて出た。

道中は別に変った事も無く、根津の主従は箱根の湯本、塔の沢を通り過ぎて、山の中の或る温泉宿に草鞋を脱いだ。
その宿の名は判っているが、今も引き続いて立派に営業を継続しているから、此処には秘して置く。
宿は大きい家で、他にも5、6組の逗留客が在った。
根津は身体に痛み所が有るので下座敷の一間を借りていた。

着いて4日目の晩である。
入梅に近いこの頃の空は曇り勝ちで、きょうも宵から細雨が降っていた。
夜も四つ(午後10時)に近くなって、根津もそろそろ寝床に入ろうかと思っていると、何か奥の方が騒がしいので、伊助に様子を見せにやると、やがて彼は帰って来て、こんな事を報告した。

「便所に化け物が出たそうです。」
「化け物が出た……。」

根津は笑って訊いた。

「どんな物が出た?」
「その姿は見えないのですが……。」
「一体どうしたというのだ?」

その頃の宿屋には2階の便所は無いので、逗留客は皆下の奥の便所へ行く事になっている。
今夜も2階の女の客がその便所へ通って、外から第1の便所の戸を開けようとしたが、開かない。
更に第2の便所の戸を開けようとしたが、これも開かない。
そればかりでなく、内からは戸をコツコツと軽く叩いて、内には人が居ると知らせるのである。
そこで、暫く待っている内に、他の客も2、3人来合せた。
何時まで待っても出て来ないので、その1人が待ちかねて戸を開けようとすると、やはり開かない。
前と同じ様に、内からは戸を軽く叩くのである。
しかも2つの便所とも同様であるので、人々は少しく不思議を感じて来た。
構わないから開けてみろと云うので、男2、3人が協力して無理に第1の戸を抉じ開けると、内には誰も居なかった。
第2の戸を開けた結果も同様であった。
その騒ぎを聞き付けて、他の客も集まって来た。
宿の者も出て来た。

「何分山の中で御座いますから、折々にこんな事が御座います。」

宿の者はこう云っただけで、それ以上の説明を加えなかった。
伊助の報告もそれで終った。

それ以来、逗留客は奥の客便所へ行く事を嫌って、宿の者の便所へ通う事にしたが、根津は血気盛りといい、且つは武士という身分の手前、自分だけは相変らず奥の便所へ通っていると、それから2日目の晩にまたもやその戸が開かなくなった。

「畜生、待って居やがれ!」

根津は自分の座敷から脇差を持ち出して再び便所へ行った。
戸の板越しに突き透してやろうと思ったのである。
彼は片手に脇差を抜き持って、片手で戸を引き開けると、第1の戸も第2の戸も仔細無しにするりと開いた。

「やれやれ…臆病な奴だ!」と根津は笑った。

根津が箱根における化け物話は、それからそれへと伝わった。
本人も自慢らしく吹聴していたので、友達らは皆その話を知っていた。


それから12年の後である。
明治元年の7月、越後の長岡城が西軍の為に落された時、根津も江戸を脱走して城方に加わっていた。
落城の前日、彼は一緒に脱走して来た友達に語った。

「昨夜は不思議な夢を見たよ。君達も知っている通り、大地震の翌年に僕は箱根へ湯治に行って宿屋で怪しい事に出逢ったが、昨夜はそれと同じ夢を見た。場所も同じく、全てがその通りであったが、ただ変っているのは……僕が思い切ってその便所の戸を開けると、中には人間の首が転がっていた。首は1つで、男の首であった。」

「その首はどんな顔をしていた?」と、友達の1人が訊いた。

根津は黙って答えなかった。

その翌日、彼は城外で戦死した。



この時期、長い休暇を取って、自然の息吹溢れる場所へ出掛ける人も多いだろう。
しかし海や山や川、それに森には、人の目には見えず…正体の知れない何かが居るものだ。
テリトリーをずかずかと荒して、奴等の機嫌を損ねぬよう、用心した方が良いだろう。


今夜の話は、これでお終い。
さあ、蝋燭を1本、吹消して貰おうか。

……有難う。

グラスは何時もの様にそのまま置きっ放しで……おやおや、また何時の間にか人が消えているね…。

まぁ、いいさ。
今夜は旧盆…おかしな事が起きても不思議は無い。

それじゃあ、気を付けて帰ってくれたまえ。

夜道の途中、背後は絶対に振返らないように。
夜中に鏡を覗かないように。
そして、風呂に入ってる時には、足下を見ないように…。

では御機嫌よう。
次の夜も、楽しみに待っているよ…。




参考、『江戸の思い出―岡本綺堂随筆― (河出文庫、刊 「温泉雑記」の章より)』。

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