「輪廻転生」は、地球人類にとって決して耳に新しい話ではない。古代インドでは、とっくに研究されている。現代人には想像を絶する情熱を持って、深く深く研究していた。現代ならノーベル賞級の科学者になるような人だって、この分野の研究に集中していた。
新興宗教の教祖は、よく「古い教えは、もはや死にました。現代において、この私が語る新しい教えこそ、究極の真理なのです」というような言い方をする。確かに、そうでも言わなきゃ教祖になれないだろうから、当たり前といえば当たり前なんだが。
でも、信者が「この教えを誰もが信じるようになれば、世界は変わります。地球人類は、一段階上のステージに上がるのです」とかなんとか言ってるのを聞くと、異和感をおさえきれないものがある。でもって、その「真理」の内容を聞くと、「霊界は実在します。人は生まれ変わっているのです」というのだから、「それのどこが、究極の真理なんだよ?」と思わずにいられない。
もしも本当に、「人は生まれ変わる」という信念が、世間の人々に広まることが人類の意識進化だというのなら、古代インド人は、とっくに集団でアセンションしているはずだ。むしろ、インドでは、それが常識であり、「人は生まれ変わらない」というほうが非常識だったのだ。こういうのを、「ところ変われば、しな変わる」というんだろう。
実際のところ、自分自身を振り返ってみても、幼少の頃から、「人は生まれ変わる」というのを当たり前のように考えていた。あらゆることを、それを前提にして考えていた。「一度きりの人生を、悔いのないように生きよう」と言ってる人を見ると、「この人にとって、人生とは『一度きり』なのか?」とカルチャーショックを受けたものだ。「それは自分自身の考えではなく、どこかの本にそう書いてあるのを読んで、信じ込んじゃったんだろうな」という感じ。このように、世の中にはいろんな人がいて、見る角度がまるきり逆だったりすることも多い。
それはともかく、「死後世界や輪廻転生に関心を持つ」というのは、精神世界をやる上で、スタートラインとなるところ。それをキッカケに関心を持ち、そこから意識探求が始まる。とても、「地球人類に開示された究極の真理」なんていうようなものではない。それは、あくまでもスタートにすぎず、ゴールにはなり得ないのである。テニスでいえば、「まず、ボールとラケットを手に持ってみた」といったところ。ラケットを振ってボールを打つのは、それからということになる。
あらゆることを輪廻転生を前提にして考えるようになると、この世界が、まるで違ったものに見えてくる。「ボクは、こういう人間なのだ」と考えることから、「ボクは、ここではたまたま、こういう人間をやってるのだ」と考えることへのシフト。この違いは、かなり大きい。
古代インド人のように、輪廻転生を当たり前だと思っている人々にとって、「それじゃあ、輪廻転生のメカニズムを徹底的に解き明かそうじゃないか」ということになるのは、必然の流れ。
現代なら、「人は生まれ変わるのか、それとも死ねばオシマイなのか、議論しようじゃないか」ということになり、そこで議論が大荒れに荒れることだろう。でも、古代インドでは、そこのところを省略していい。というより、それについては、とっくに結論が出ていた。「人は生まれ変わっている」に決まってるんで、最初から、それを前提にして話をスタートさせてよいのである。地球人類の中でも最優秀な人々が、「輪廻転生」にものすごい情熱を傾けて、壮大な研究を繰り広げた。当然のことながら、現代の新興宗教を遥かに超えるような、深遠な研究成果が続々と出ることになったのだ。
そういうと、「地球人類は、古代から進歩するどころか、むしろ後退したんじゃないか?」ということになるかもしれない。確かに、輪廻転生の研究に関しては、現代人は古代インドのレベルから後退している。神の研究に関しては、中世のアラビアよりも後退している。でも、その代わり、それ以外のあらゆる局面において圧倒的に進歩しているから、総合力では現代人のほうが遥かに上を行っているのは間違いない。ただし、部分的には後退したというのも事実。精神世界の探求者たちは、そこをなんとかしようとしている。
話を戻すと、あらゆることを輪廻転生を前提にして考えるようになると、この人生の位置づけが、まるっきり変わってくる。「悔いのないように完全燃焼すべき、かけがえのないもの」から、「ハテしなく続く、長い道のりの途中」へと劇的に変化する。そうすると、今までは自分の全存在を揺るがすほどの深刻な悩みだったことが、「たまたま、この人生において抱えている問題」にすぎなくなる。「この人生では、問題点はココなんだな。生きてる間に解決できるかな?」という風に、すべてが途中経過になってしまう。
そうやって、「この人生」から、「輪廻転生」へと、関心の軸足がだんだん移っていく。
現代人が「この人生を、より良い人生にするには、いかにすべきか」と頭を悩ませるのと同じように、「この輪廻転生を、より良い輪廻転生にするには、いかにすべきか」と、頭を悩ませるようになる。
さらに進むと、「こんな人生は、もう嫌だなあ。ボクは、もう死んでしまいたいよ」という考えから、「こんな輪廻転生は、もう嫌だなあ。ボクは、もう生まれ変わりたくないよ」という考えへとシフトすることになる。前者は、ウツ病になって自殺につながりかねない、危険な考えだ。それに比べて後者は、別に危険ではない。このように考えている人は、ウツ病になどならない。せいぜい、奇人変人になるくらいですむ(笑)。
現代では、輪廻転生について語ると、「夢のあるロマンティックな話」と受け取られることが多い。それは、現代人が本気で考えていないからだ。古代インド人のように、本当に真剣に「輪廻転生」を考えている人々にとって、これほど恐ろしいものは他にない。次はどこに生まれて、どんな目に合わされるか。予想もつかないだけに、これは怖い。
そもそも、人にもよるけど、まず、たいていの場合、地球での人生は苦しい。だいたい、苦しいものと相場が決まっている。たとえ今は楽しく暮らしていても、最終的には、人は老いて死ぬ。でもって、たいていの場合、死ぬのは苦しいことや痛いことが多い。それが果てしなく、無数に繰り返されるのだから、ゾッとするほどの恐ろしさだ。
とても、「夢があっていいね」などというような、生易しい話ではない。 本気なら、頭を抱えてしまう問題だ。ここから、「輪廻転生のメカニズム」の研究が始まる。
「より良い輪廻転生にするには、どうすべきなのか」ということや、「輪廻転生は、どうすれば終わらせられるのか」ということ。人類の英知を集めて、それを研究する。
自動車が走るのは、ガソリンのおかげ。電車が走るのは、電気のおかげだ。それと同じように、人が輪廻転生を走り続けるのも、何かが動力源になっているはず。それが何なのかを、古代インド人は研究した。
(つづく)
>人が輪廻転生を走り続けるのも、何かが動力源になっているはず。それが何なのかを、古代インド人は研究した。
これ。何が動力源だろうか。
やっぱ輪廻転生説て暗いなあ。。
そら人は他のスピに行きたくなるわな。
ぼくは輪廻転生を信じることができていません。かといって否定論者でもなく、死後の世界を知りたいため興味はあります。
古代インドで長く研究されてきたことなんですよね。そういえば。
多くの人たちが多大な時間をかけて、沈思黙考したり、変性意識で見いだしたりと。
ただ、他人の体験はどうしても自分のものとして消化できません。こんな自分は、スタートラインにすら立てていませんね・・・。
真剣に知りたいです。
死んだら生まれ変わりはないとする説もあるし、この話題は永遠に続くかな
これからお風呂
本当は温泉に入りたいが
まあいい
海を眺めながら汗をながそう
自分へのご褒美だ