高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

鏡の場所

2022-03-17 23:22:51 | 社会科学・哲学

スミスとマルクス



  マルクスが『資本論』の冒頭の「価値形態論」の議論で「価値鏡」という言葉を使っている。物々交換で一つの商品がもう一つの商品と交換されるときに、まったく素材としては違う物同士が等価として交換される、そういう場面での議論でこの言葉が現われる。私はここではむしろ、恋愛を想起した方がわかりやすいと思っている。一見まったく、主観にすぎない恋愛だが、実は自分の申し出を受け入れられる可能性を(ダメもとといいながらも)信じて相手の異性は選ばれるものだ。いわば、自分と等身大を恋愛の対象とするのが普通である。彼女と彼のどこがどう、等価なのかはなかなか論証できない、しかし、私たちは身の程をわきまえ、のぼせるものだ。この私がたとえば、伊東美咲と等価とはどうみてもみえまい。そう、人はどこかで自分の鏡をもつものだ。マルクスもこうした文脈で〈価値〉としての〈鏡〉に論及している。ほとんど知られていないが、アダム・スミスが『道徳情操論』でこのマルクスと極めて近似した議論をもっとナマナマしく展開している。まさか、マルクスがそれをぱくったとは思えないが、そう見まがうほどの類似の議論をスミスが展開している。私はむしろ、このスミスの記述から再度、マルクスの議論を学び直したところがある。

ドリフの鏡のギャグ

 その昔、ドリフターズが鏡のコントをやっていた。小生、おもしろがってみていた。鏡の枠を挟んで、二人がまったく同じコントをおこなう。もちろん、どちらかが鏡である。現物の役の方のマネを鏡の方の役者が行っていく。おもしろいのは、マネしきれないところだ。私がみて記憶に残っているのは、一方の現物が志村けんで他方の鏡の中の役がゲストの沢田研二だった。バナナを現物の志村が食べるマネをして、実は食べない。ところが、鏡の沢田は食べてしまう。どうしようか!困った挙句の沢田が口の中のバナナを吐き出して、食いちぎられたバナナを本体のバナナにつなぐ。まあ、そういうところが笑いのつかみだ。
 このコントを見るかぎり、どうみても、鏡の方が現物のあとに行為される。もちろん、それを同時のように見せるから〈鏡〉であり、同時になどできないから〈コント〉が成立する。これが本当の鏡ならコントは成立しない。そうである。鏡は同時に発生する。何がか?もちろん、投射されるのと投射するのが。この二つが同時に発生する。
 私たちは鏡については何の迷いもなく、この同時性に気がつく。マルクスもスミスもこの同時性のなかに私たちの〈関係〉の謎をみるのである。

自分を見る

 こういうことを考えてみたい。私たちは鏡の前に立ちそこに自分を見ることは可能である。しかし、私たちは鏡ではない。正確に言えば鏡の私は、あくまで鏡のなかに映った私である。鏡の素材が映し出した私たちである。だから、鏡がタテ長に映し出せば、私たちは通常の鏡に映した私たちとは異なった(?)ものに映る。ここで考えたい。では、鏡に映っている私たちは本当の〈私〉なのだろうか?それとも鏡の素材、というか鏡なのだろうか?私たちはヒュームではないが、習慣によって錯覚をする。厳密に見ればすべて、鏡の私は鏡の素材にあくまで映った私であるはずである。だから、本当に厳密に、本当に素材にこだわる人ならば、自分とは何かがわからなくなるはずである。それは素材によって全部違うから。もちろん、私たちはそんなに鏡にこだわらない。全部、まあ、近似において同じであり、私だと見ている。これがヒュームが、『人性論』でくりかえし論及することである。
 そして、マルクスはこの議論を踏まえて、私たちが私たち自身を見ることの不可能を指摘するのである。私たちは、私たちの外部に私たち自身を映すことでしか、私たち自身を確認はできない。私たちは私たちの身体から外へ出ることはできない。だから、私たち自身の顔を私たちは直には見ることはできない。私は見たくはないが、瓜二つの双子の特権はそこかもしれない。私はどうみても、写真の自分が自分に見えない。しかし、私は自分を直に見たことはないのだ。

あの人は変わった?

 結婚してあの人は変わった、とか、セックスをしてから、あの人は変わったとか、私は何度も相談を受けてきた。私自身はどうなのだろうなあ。本人は変わってないつもりだが。 しかし、これがなかなか難しい難題なのである。『資本論』のすごいところは、こういう身の上相談にも応じてしまうところなのだ。マルクスは何と言っているのか?マルクスの答えは一言。「関係」である。この〈関係〉という幽霊が徘徊していることをマルクスは指摘する。もうひとつ、では、はたしてそれは本人たちでどうこうなることか、というと、これにはマルクスは極めて悲観的である。
 整理して書いてみよう。 結婚後、あの人は変わってしまった。暴力をふるい、浮気をするようになった。言葉づかいもぞんざいになった。変わったのはあの人だ。これは正しい。あの人は確かに変わった。
 しかし、あの人の変化は何を意味するのだろうか。あの人は、あなたに対して変わったのではないだろうか。それも徐々に変わり、ある日それは白日のもとに晒されたのである。それ以来、あの人は結婚前の、あるいはセックス前のあの人ではなくなったのだ。そして、変えたのはあなただ。これがマルクスの回答である。あの人はあなたの鏡である。あなたが徐々に彼を変えさせたのだ。徐々に暴力を許し、徐々にぞんざいな言葉づかいを許した。いや、あの人にさせたのだ。態度およびその変化は同時に共同でできあがってゆくものなのだ。一人でできあがるわけではない。しかし、私たちは、自分を見ることはできない。だから、勝手にあの人がかわったのだ、とみえてしまうのである。
 いや、それはあまりに酷か。百歩譲るなら、あの人を変えさせたのは〈関係〉である。二人の間の〈関係〉というものがそうさせたのだ。関係とは同時に形成される。そして、私は私自身では確認できない。それは、ある日、あの人の態度となって現われるのである。

江川の引退

 野球解説者の江川がピッチャーとしての引退を決意したのは、当時広島カープの主軸打者だった小早川に渾身のストレートをまるでピンポン玉のように外野スタンドへと運ばれたからだ、というのは有名な話しである。そのホームランされたボールはまさに鏡である。それは江川なのだ。私たちはだから、うなだれるのである。飛んでいくボールは単なる物ではない。そこには、小早川に写る江川の投手としての自分が映し出されているのである。それは、厳密には同時とはいえない。投げるのと、打つのとのあいだにはボールが飛んでいく空間が存在するから。そして、ボールは小早川に届く。小早川は打つ。その飛んでいくボールのどこからが江川でどこからが小早川なのか、私にはわからない。囲碁の棋士たちはだから、対局は二人で作るものだ、とよくいう。彼らは美を棋譜にみ、勝負とは違った意味の、芸術としての意味をそこにみるのである。それを、究極までいえば、勝負は無限に相対化されてしまう。だから、私の敬愛する囲碁棋士の藤沢秀行は碁は無限だ、というのである。

鏡の事前性

 西洋の思考には〈事前性〉とでも呼ぶしかない思考が脈打っている。ものごとの事前に立つ。事前の反対は事後だが、それを交えていえば、事前には事後の見通しが全く利かない、という事態を敬虔な思いをもって臨むところがある。
 鏡についていえばこうである。私たちはたとえば自分がこの洋服を着たらどう鏡に写るかを予め見ることはできない。着る前には予測はできるだろうが、着た姿を、着てもいない〈事前〉に見ることはできない。厳密に言うなら、すべて着た、その着終わった瞬間にようやく私たちは〈着た自分〉を確認できるのである。それを事後とよぶなら、事後においてのみ私たちは鏡の自分をみることができるのだ。江川もそうだったに違いない。彼は投げる前に、投げ終わった自分の姿を知りたかったに違いない。しかし、そんなことはできない。不可能である。江川自身の能力という立ち姿は、ボールを投げ終わったその瞬間からあとになって、自分ではどうにもならない空間を通過し、これまた予測などまったくできない小早川のスウィングをとおして、ボールの行方という形で判明する。その事後を事前に予測はできるだろうが、見ることなどできるわけもない。江川はコントロールのきわめて良いピッチャーであった、しかし、これがノーコンのピッチャーだったら、まさしくボールにきいてくれ、の世界になる。

鏡の恐怖

 どうも、日本社会はこの鏡の事前性を回避するところがある。例を恋愛に戻す。私たちは、相手をゲットする前、相手に写る自分にきわめて敏感ではないだろうか。会う前に、今日はこれを着て、こういう化粧で、と女性は何時間もかけることもある、というではないか。しかし、私たちは相手という鏡の反応をついに、会うまでは確認できない。会ったそのとき、今日の努力の意味が判明する。いや、今日までのすべてが判明する。まさにその瞬間が鏡のときなのだ。よく妻がいうが、女性は分娩台ですべての恥をすててしまう、という。分娩台で大股をひろげたそのとき、他者からの視線をすべて遮断できる便利なメガネをいながらにして身につけてしまうというのである。ここからあと、彼女には他者という鏡は喪失される。
 いやいや、それはともあれ、私たちはこの他者に写る私の事後を事前に知ることはできない。ゆえに、俗っぽくいえば、ワクワク、ドキドキするのである。この見通しの利かなさ、他者の他者としての不確定さが、私たちに程よい緊張をもたらすのである。しかし、鏡はいつのまにか、喪失させられる。結婚という儀式は、一般的にはこの〈鏡割り〉の儀式になりかねない。
 われわれ教員は生徒が鏡である。そこには、すべての自分が写っているはずである。私の知人は生徒をまともに見れない、といっていた。実際その姿をみたこともある。これはこれで真摯としかいいえない。それに対して、自分の能力が写っている生徒の姿を見て、生徒の無反応を怒り、生徒に写る自分を確認することを直視できない〈ヒステリー〉がある。フロイトはヒステリーを病気の解消だと書いている。自らの病をともかく、溜め込まないための人類が考え出した知恵なのだ、と。

遠ざかる鏡

 私は70年代フォークを生きた世代である。私はそれほど熱心な〈信者〉ではなく、友人たちが聞いているのを遅れ馳せながら、おこぼれを頂戴していた口である。その象徴的シンガーソングライターである、吉田拓郎や、井上陽水、泉谷しげるたちが年長の小室等とフォーライフというレコード会社を立ち上げた。彼らはおそらくみずからが売り上げたレコードとみずからの実入りのギャップをじかに感じていたのだ。彼らはそういう意味ではじかにみずからの歌という行為の鏡として、観客やレコードが購買される手応えをリアルに感じていたのだ。歌うという行為の鏡はもちろん、ライブへと客がくること、そこで感動して客が帰っていくこと、リピーターや追っかけが続々連なること、そして、そしてそれは何より客たちがゼニをおとしていくこと、に現われる。ゼニはいわば最高の〈鏡〉なのだ。彼らは自らの行為の鏡をじかに感覚できる、羨ましくも、むごい世界に住んでいる。私は井上陽水のコンサートはまめに行く。一度、横浜パシフィコ国際会議場大ホールの3階の末席でコンサートをきいた。3階というのだが、1階が通常の2階分だから、通常のビルディングの6階の奥の方からみるのである。まあ、井上陽水の顔が見えなくったっていいといえばいいのだが、まるで井上陽水がアリンコのようであった。その井上陽水が数曲歌ったあとでひとこと「3階の奥のみなさん、お気の毒、何か希望の大学を落ちて、しょうがなしにすべり止めの大学にいく大学生みたいですねえ」などとぬかしていた。それでもと、この席へカネを払って来させたのは井上陽水なのだ。これもまた、鏡である。 しかし、この鏡は私たちの社会ではことごとく、みえにくくなる。学校の先生もそうである。カネを払う人間と、それを受け取る人間のあいだに「ブローカー」がはいる。われわれのばあいは県教育委員会である。じかにカネを払っている人間と受け取る人間のあいだに媒介する存在がある。すると、この鏡はみえなくなっていく。(それはこの関係がみえなくさせるのだが)
 考えてみれば、工場でパンを作った人間と食べる人間はめぐり合うことはまずできない。工場の人間から鏡は剥奪されている。工場の人間は鏡をとおして自分を確認するチャンスを失う。そこには抽象的な売り上げという形でしか自分を確認できないシステムがある。一見、客がみえると思われる流通業にしても、私たちは客を特定できない。あっ、と思うとそこに客はいる。誰がくるのか、どこから来るのか、どういう事情の人なのか、私たちは知ることができない(田舎はべつですよ)。突然、鏡が現われるのである。この、自分が鏡に写る瞬間は多分〈瞬間〉でしかないだろう。だから、正確な自分をみることはできない。なぜ、あの人は買っていったのか、どういう生活をあの人はしているのだろう、この品物をどう思っているのだろう…そこに多分私たちが写っているはずである。アダム・スミスはこういう不透明な客である人間を〈公平無私の傍観人〉と表現している。
 僕はながらく教員の傲慢を苦々しく見つめてきた。「だったら自立して自営で学校を開いてみろや」とこういいたくなってしまうのだ。もちろん、そういう僕にはそんな力は到底ない。客というみえない、遠い、どこからか突然やってくる鏡との対面の緊張に僕などは耐えられないだろう。 西洋人たちにはどうも、この突然やってくる遠くにある鏡と自虐的に直面したがっているフシがある。だから、彼らの究極は独立なのである。独立して自分の鏡をもつことなのだ。労働者ではしょせんじかに自分を自分で見ることができない。因みに、マルクスは共同生産組合つまり、株式会社にきわめて近い形に労働する側のあるべき姿を求めていたフシがある。当然、鏡は厳然とそこにはあるはずなのだ。
 みずからの鏡をもつこと。鏡に写る自分との究極の事後としての一致のための準備を事前に重ねること。そして突然の瞬間的な鏡との対面を通して、そのズレを確認し、みずから自身を確認しつづけること、ここに西洋は自律の根源をみるのである。カントの、まず理性による認識が先行する、そして、対象それ自体はついに認識されることはあり得ない、という理性批判もこうした構造をとらえて議論しているのである。


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