高校公民Blog

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永遠の0 1 作為と自然

2015-08-09 18:43:25 | 映画・演劇・ドラマ

臆病者としての祖父

 この映画の主人公宮部久蔵(岡田准一、上写真中央)は最後は特攻隊に志願し、妻子(井上真央、上写真左)を残しこの世を去るのです。宮部は大変優れたパイロットでした。その技術が神業であることが、映像に示されます。その宮部は、ゼロ戦の整備に慎重であり、機能に熟知しているのです。そして、戦争で勝つこと、それも自分がゼロ戦に乗って勝つ技術については、だれよりも熟知していたのです。
  その宮部は死についてきわめて〈警戒を怠らない〉人間なのです。簡単に死ぬことを極端に恐れ、どうすれば死なないか、死なないための訓練を日々、普通の人には信じられないくらいに自らに課していたのです。周囲はその宮部を

「臆病者」

と呼ぶのです。映像は、その孫である佐伯健太郎(三浦春馬、上写真右)が祖父の宮部を調べていく中で、はじめ臆病者としての宮部しか見出すことができず失望する姿を私たちに示すのです。「私の本当のおじいさんは単なる臆病者だったのか?」と。
 その宮部は、なぜか最後に特攻という戦法にみずから参加してゆくのでした。宮部は、こう口癖のようにいっていたのです。自分が死んだところで、日本の軍隊にはどうということはない。何の痛手でもない。しかし、自分が死ぬことは、自分の家族にとっては悲しく、取り返しのつかないことなのだ。だから、自分は死ぬわけにはいかないのだ、と。なぜ、宮部がその特攻に自ら参加したのか、については私は書きません。ご自分で確認してください。

作為と自然



 それにしても、この宮部の思考の驚くべきこと=斬新なことに気付いた人は当時、ほとんどいなかったのです。そして、この映画のすごさはここを示すところにあります。だから、私たちもここをみないといけないのです。この宮部の生き方の持つ意味を考えなければいけない、と私は思います。
 かつて政治学者の丸山眞男(上写真)は「作為と自然」というキイワードを引っさげて江戸儒教を分析しました。丸山は農業を基本とした自然を基盤とする社会から、手工業者を中心とした社会への移行に近代化の基本的な構造を見るのです。職人は素材を眺め、自分の手で理念としての完成形態を絶えず目的として持ちながらもの作りをします。そのような生活を基本的形態として持つ階層が社会の中心となることによって、社会を自らの手で設計していこうとする政治社会が出現する、と考えたのです。西洋で言えば、プラトン、アリストテレスが出現した古典古代こそ、はじめの時代であり、近代にはいってホッブスがやはり国家を作為する契機に着目し、自らの政治理論を展開しますが、それは、時代が物づくりをする主体、マニュファクチュアから機械制大工場へと至る産業資本主義の主体によって担われていったからだ、と考えるわけです。
 宮部が基本的な動機としてもっているのは、個人主義です。自分が闘うのは家族のためだ。戦争が仕方がないとしても、自分が死んでよかった、よかったなどという物語は絶対ない。自分の目的は家族を守ることであり、勝つことだ、勝って家族の元へ戻ることこそが至上の目的だ。勝たない戦争、自分が死んでしまう戦争は意味が無いのだ。
 しかし、それにしてもどうしてこのように明確な目的意識を持った人格が出現することができたのか、ということが重要な問題です。そして、時代はどうしてそういう宮部をたんなる〈臆病者〉としてしか理解できなかったのかということ、ここを理解しないといけないのだ、ここがこの映画を読み解くカギだ、と私は思うのです。
 私は、彼が優れた〈パイロット=職人〉であったことに注目します。〈真なる職人〉としての、自立した職人としての人格というものがこのような生き方を紡ぎだすことができるのだ、と。真なる職人は自分が定立した目的を実現しようとするのです。自分の目的を達成し、自分やそれを購入する顧客が幸せになることこそ第一なのだ。そういう思考の人間に、たとえ勝とうが自分が絶対生きて帰らない戦法など、平気でどうしてできるのだ!顧客が喜び、顧客が幸せになることが自分の幸せ、こういう思考こそが宮部を支えていたのです。この命題をどうして当時の人間たちは自分たちの中心に置かなかったのか、いえ置けなかったのか?
 この問いは今なお有効なのです。最近の新国立競技場であれ、安保法制であれ、私は例外なくこの角度から眺めてみればいいと思います。
 就職でなく、就社を基本とする私たちは、帰属する組織を運命共同体として考え、その場の空気によって支配、決定され、自分の意志を持てないのです。そして、命までも投げ出すのです。
 下の写真は鎌倉時代の元寇のときの、武士、竹崎季長が残した竹崎季長絵詞とよばれるものです。竹崎は何も絵画としてこのようなものを残したのではないのです。自分の手柄を鎌倉幕府に認めさせて、奉公の代償をもらうためなのです。本当の武士とはこういうものなのです。




映画 『永遠の0』 予告編 90秒

永遠の0 2 比較としての武装する市民
永遠の0 3 事後の宮部久蔵


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1 コメント

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加筆訂正しました (Kimura Masaji)
2015-08-10 08:39:11
加筆訂正しました。

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