高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

いじめ自殺の構造 4 〈身分〉の出現

2006-11-20 21:08:58 | 教育時事

治外法権

 いじめをみていくと、いくつもの不可解がありますが、そのうちのひとつが次のものです。いじめられる側は刑事事件相当の行為をされていても、いじめを刑事事件や民事事件にしようとはしません。いじめる側はむしろ、その行為を〈不正〉という形で弾劾し、それが支配として正当化されるのです。生徒はこう言うのです。
「へたにチクれば仕返しが怖い。警察は自分たちの言うように動かない。先生は力にならない。」
こうした言説の意味を考えなければいけません。つまり、いじめられる側からすれば学校には近代法のシステムがすっぽり抜けていると見られているということなのです。刑法も民法も及ばない空間の存在、それが、いじめが開示して見せるものです。それを私は「治外法権」と呼ぶよりないのではないか、と生徒に問題提起したのです。

身分の存在

 この治外法権的事実と表裏をなしているのが次の事実です。それは、いじめの世界には、刑事事件相当の行為をしても、刑事事件にも民事事件にも問われないことを当然とする人間がいるということです。そして、それと対になって、刑事事件相当の行為を受けても、刑事事件にも民事事件にもできない(「しない」ではない!)階層が存在するということです。
 私は、この〈事件にされない階層/事件にしえない階層〉という構造を「身分による不平等」という仮説を立てて生徒に提起しています。一方は人権侵害をしても、それを侵害とはされることのない特権的支配者であり、他方は一切の抗弁と一切の法的手続きを剥奪された隷属民なのです。こう想定したときにこの問題は説明可能になるのではないでしょうか。いじめの理由に「なまいき」という理由があったことを思い出しましょう。同級生に「なまいき」とはどういうことでしょうか?「なまいき」は通常上下関係を想定しています。同級生の中にも一方が「なまいき」と認定され、「そっちこそなまいき」と返すことができない層が存在するのです。私たち現代社会には、存在するはずもなく、存在してはならない奴隷階層が「いじめられる側」として存在するのです。
 さらに、いじめ問題は不平等が問題になるべきところに〈不平等問題〉が消えているという深刻な現実をも同時に提起するのです。平等という問題は近代社会の産物です。私たちは近代の入り口に立つことを強いられているのです。いかにしてこの身分問題を消去するか、これが問題として私たちの前に立ちはだかっているのです。

友だちという従属的人間関係と鉄鎖の1人枠

 私は先に自分がやられてでも、いじめを止める人間がなぜいないのか?と問いました。この問いが開示してみせる隠された事実も注目すべきものです。傍観者は、自分がへたに「やめろ」といったとき、まちがいなく「4人以上が1人をいじめる」の「1人枠」が自分に向かってくると思っているのです。自分がどうこうしたところで、この「1人枠」は壊れない、そういじめの住人たちは〈信じている〉のです。さらに、その「1人枠」が自分になったとき、もはや逃れられないと堅く〈信じて〉いるのです。それは、こうもいえましょう。傍観者の彼・彼女が「かわいそうだからやめろ」といじめの現場で発言し、介入して支配者のターゲットになったとき、自分がどんなに親しいと思っている人間でも〈だれも自分を助けない〉と傍観者は堅く〈信じて〉いるのだ。そのあまりの厳然たる厳然性のゆえに、いじめの傍観者は口を拭うのだ。つまり、彼・彼女らのまわりにいる「友人」は、自分が「1人枠」の人間ではないと立証してもらうための〈鑑定人/監視人〉でしかないのだ。
「私は「1人枠」の人間じゃないよね」
「ないよ」
この相互確認、これが彼らの日常行為の中心にあるのです。事実、「1人枠」だと判明したとき、彼らは自分のまわりから去り、彼・彼女を「支配者」に引き渡すのです。いや、引き渡すと信じていると想定すると符合する事実がここにあるということなのです。こうして、生徒社会の特権的支配者に従属し、その意でしか動けないと観念した、従属的人間関係としての友人関係がそこに露出するのです。

 さて、最後に問題の「1人枠」についてのこのような現実を指摘したいと思います。私は今しがた「支配者」という言葉を使用しました。生徒の世界には「支配者」と呼ぶよりない特権層が存在する、と。そして、一見、その特権層こそがこの「1人枠」を適用していくように見えるのです。もちろん、彼らが実際問題として適用していることはまちがいがありません。しかし、この「1人枠」それ自体は彼らをもってしても恣意的に創造したり破壊したりはできないのです。彼らさえこの「1人枠」に抗すれば、「1人枠」へと落とされていくのです。そうした意味において、この「1人枠」は〈超越的な存在〉、〈絶対的存在〉なのです。欧米ならば神を持ち出すのが適当かも知れない存在なのです。

身分制社会解体

 いじめ自殺の問題をたんなる家庭のしつけや、教師の個々の指導やいじめた個人の犯人探しというレベルの問題だけに終始したのではこの問題は解けません。そこには、社会構造がそうならしめるというレベルの社会の設計に関する問題が存在するということなのです。そういう意味においていじめは必然的に起きているのです。
 いじめ問題ははからずも〈身分制社会〉の存在という問題を私たちに突きつけるのです。この〈身分制社会〉をどのように解体するか、ということが私たちがいじめをみるなかで生徒から問いかけられ、彼らに問いかける最終問題なのです。


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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
~超越的な存在~ (カーヤ)
2006-11-21 01:53:41
木村先生
空気の読めない起源論での返事ありがとうございました。


(身分制社会解体)、あまりにも自分には難しい問題だと思いました。

以前も書きましたが、自分はいじめた事もあるし、いじめれれた事もあります。
でもいじめられた時の『きもい』とか『死ね』とかより、自分が人をいじめた事の方が辛くて今でも苦しんでいます。
特につい最近はテレビで『いじめ特集』ばかりやっていてなおさらです。
今でも担任に『お前があいつの人生を壊した』の言葉は一生忘れられないですね。

いじめをしてしまったあと自分は反省し相手にも謝りました。
その後(1人の枠)になった自分は今までの仲間からいじめられました。

自分が思うのは今の学校では誰でもいじめ側、いじめられる側になってしまうと感じます。
でも自分が見てきた殆んどの人はそう感じないらしいです。いじめる側が悪い、いじめられる側が悪い、先生が悪い、親が悪い、の一点張りです。
社会全体に一人一人に問題があると自分はきずいてもらいたいし考えてもらいたいです。

自分も自分なりに超越的な存在を考えた時。
ズバリ分からない。
格差社会、裕福な国、メディア社会、
富が欲望を生み、欲望が格差を生み、格差が憎悪を生み、憎悪によって人の弱い心が前にでる、まるで轢かれたレールで崖に向かっているように思えます。

自分は皮肉にもいじめを経験する事で思考や視野が広がり自分が生きる意味を考えるようになりました。
そして木村先生に出会う事により、さらに視野が広がりました。

自分は考える力(人を納得させる)がないので理論的に答えを出せないですので自分の弱さに負けないように、相手の考えを理解する努力、些細な事や少しでも周りの人に(奇跡は起こせる)!!という事をつたえられるような生き方をしようと思います。
多分これ以降自分はブログの拝見(勉強)のみさせてもらいますね。

木村先生これからもブログ応援しています。






Unknown (ノムラ)
2006-11-21 22:57:55
自分が一人枠の人間であると知ったとき
このクラスに味方してくれる人は誰もいないし、
この状態はどうやっても改善することはないと
絶望した記憶があります。

実際学校にいじめがあって仕方ないことだと思います。
なくすなんて無理です。
でも、生徒には学校、家庭の二つしか世界がありません。
一人枠の人間であることに絶望している子供には
もっと他の世界を見てほしい。
学校の人に傷つけられても、世の中には
いろんな人がいると知ってほしい。
他の世界で「一人枠」ではない自分を見つけてほしい。

話は違うけど
テレビでえらそうに語ってるコメンテーターは
子供がいつ自分がいじめられるかコワくて緊張してるか
心が壊れそうかわかってないと思う。

内容がめちゃくちゃでした。
乱文すいませんでした。
絶対的存在 (たかにし)
2006-11-22 19:27:05
神は、最も高い位置づけにある絶対的な存在です。

いじめられる人は、身分でいう最も低い位置付けとしての絶対的な存在であると解釈してよいのでしょうか。


一人枠への依存 (takanishi)
2006-11-25 20:16:01
いつも一人枠に落とされる者からの発言


一人枠に落とされると、落とした周囲の人たちの人間関係が強まっているように感じる。結束力が強まるというか、会話がはずむというか・・・。
それは、必ずといっていいほど、誰かが一人の枠に納まっているときにそうなる。落とされた人間を基点にしてなされる人間関係は、刹那的で、不安定で、信頼できなくて、無理を強いられているのにもかかわらず、表向きは楽しそうで、おもしろおかしく装っている。そうしないと、明日にはまた違う人(今度は自分?)を一人枠に落として人間関係の基点とする。

いつも自分を落とす支配者の特徴は、声が大きい、人のことをよく話題に上げ、さげすみ、笑い、周りの人間にその話題をふり、反応を楽しむ。意外に正直で、人を納得させるのがうまい。
よく遅刻し、派手な人もいるが、休まないで、常にいろんなところにアンテナを張り巡らせている人もいる。
こんな感じが特徴だろうか。

それにしても、こちらのことを、こういう人間だと決め付けるようなお決まりの態度を見せる。この態度に接すると、自分はさも劣っていて、能力がなく、ダメな人間だと思い込まざるを得ないような気持ちに陥る。だから、この態度に接すると自尊心が傷つけられ、痛ましい思いを経験する。

この支配者(達)は何ゆえに、その一人枠におとしめるのか。こちらがどんなに努力をしても、態度は変わらない。だから、そうした態度の中で自尊心を保つのはとても大変なことだ。こういうときに、助け手がほしい。自分を背中からバックアップしてくれる手(君はちゃんとした人間だといってくれる)を差し伸べてください。自分ひとりでは無理です。とても弱いから・・・

木村先生の言っているいじめの構造シリーズは全くその通りです。一人枠の人間とそれに依存する支配者とギャラリー。この仕組みをもっと公にしてほしいです。そして、いじめられても自殺に追い込まれないように自分ひとりとしては何ができるのか、先生アドバイスをください。
対処療法と根治療法のプログラム (Kimura Masaji)
2006-11-26 13:40:11
カーヤさんへ
■コメントと応援ありがとうございます。さて、カーヤさんが
「自分も自分なりに超越的な存在を考えた時。
ズバリ分からない。」
とお書きになられたけれど、この重みを私は考えたいと思っています。私にも根治的な治療を議論としては行えるけれど、いざ、いじめが発生したときには、対処療法として
「逃げろ!」
としかいいようがありません。静岡中央高校という単位制高校にいてつくづく思うのは、中学はおろか、小学校の中学年くらいから学校へ行っていなかったという人がいて、いきなり高校へ来て、十分学習に追いついていける方はいるんです、けっこう。中学って意味ねえなあって(笑)思うのです。だから、というのではないけど、とにかく
「学校はそれまでして耐える場所じゃない!逃げろ!」
そういうしかないですね。ボクはできもしない「英雄主義」と「自虐的なガマン主義」はキライです。だから、「逃げろ!」なんだね。■さて、それはともかく、この「1人枠」(このことばをボクは流行(はや)らせたいんですけどね)については、こういうことを確認したいのです。これは、存在としては存在しません。純粋に人間の脳味噌のなかにあるということです。しかし、それを私たちは
「思いこみ」
ともいえないんですね。ここを考えたいのです。じゃあ、考え方とか心がけでこの問題が解決するのか?

ノムラさんへ
■「一人枠の人間であることに絶望している子供には
もっと他の世界を見てほしい。
学校の人に傷つけられても、世の中には
いろんな人がいると知ってほしい。」
というご指摘はまさにツボですね。学校が重いんです。学校がなくなると人生が終わるという幻想がどうして誕生するのか、ここです。学校は人生のほんの一部、こういう形に持ち込めればいいんですね。それにしてもですよ。
■「学校のクラスは君たちが選択したわけではない。にもかかわらず、その人間関係が終わったら死であるという、なんと人生を自分で決めていないことか!」なぜ、この問いが発生しないのか、ということです。ボクはちなみに、職場の人間関係は人生ではほとんど意味がありません。四捨五入しなくてもゼロになりそうです(笑)。
「え?妻はどうか?ですって?」
「弱ったなあ(笑)」

takanishiさんへ
■コメントありがとうございます。なかなか重いコメントです。
「神は、最も高い位置づけにある絶対的な存在です。
いじめられる人は、身分でいう最も低い位置付けとしての絶対的な存在であると解釈してよいのでしょうか。」
とのお尋ねですが、もちろん、そういう意味はあります。それは差別の最下層、インドのカーストでいう「シュードラ」とか日本の社会でいう「(えた)・」(どうでもいいですけど、この二つの単語は変換で出てこない!?)という最下層であるという意味ですね。私が書いたのは、それとはちょっと違う意味です。この「1人枠」は地上の世俗のだれをもってしても「枠」そのものを自由にできないということです。だから、takanishiさんがお書きになられている「1人枠」の人間の発生によって活発に集団が動いているようにみえても、それは彼らの本来の意志ではないとボクは考えています。彼らにしてみれば単なる不安です。どんなに楽しそうにしていても、「楽しそう/不安」という同居があるのです。自分は、自分たちは「1人枠」ではない、という確認を「1人枠」にさせられているのです。この枠を命令しているのはだれか?「枠」だ!それ以外に答えはないのです。にもかかわらず、枠そのものは観念(!)、つまり個々人の脳味噌のなかにしか存在しないのです。私たちはまさにいじめは「宗教的な問題」というところへと連れて行かれます。上でも書きましたが、根治療法は少し長い目で探らなければいけません。ガンは大変な病気です。そして、現在根治療法はそんざいしません。多くの人間達がこの病とたたかい敗れていっているのです。それと同じなのです。私たちはそういう意味で闘わねばなりません。それはけっして戦前の「特攻隊」的精神ではなくですよ。
Unknown (ザ・中学教師)
2006-11-30 20:40:47
>いじめが発生したときには、対処療法として「逃げろ!」としかいいようがありません。

木村先生に同感です。
しかし政府の教育再生会議が発表した緊急提言は、「加害者の隔離」なんですね。
「被害者は逃げる必要ない」ということらしい。
さらにバックアップ体制(?)として、教職員の「懲戒処分」を脅しに使う。

ムチャクチャな(現実的でない)議論がまかり通っている。
これでは、「いじめ対策」というよりも「いじめ促進」になりかねない。

ただいえることは、社会正義の美名のもとに、やれ「出席停止処分」だの「社会奉仕労働」だの「教師の懲戒処分」だのと、現場になじまないことを政府がカッコつけていってるだけだ。

最近思うに、多重人格的な生徒が増え始めた。
対教師には、対親友には、対塾の先生には、対いじめっ子には、対親には、といったぐわいに、自分の対処の仕方が変わっていくのである。簡単に言えば、本音がわからない生徒達だ。

これも、いじめを回避していく適応能力のひとつだろう。
教育再生会議の結論 (Kimura Masaji)
2006-12-03 19:35:43
ザ・中学教師様
■ご指摘の教育再生会議の「緊急提言」については別途取りあげたいと考えてますが、なんか、イメージとしては加害生徒およびみてみぬフリをした教員の処分という提案を最終的にしていますね。■私の直感はイラクの内戦ってかんじですね。アメリカがいくら正義と民主主義の大義をもってイラクを統治しようが、イラクにはイラクの内的な支配の形式がある。それにたいしてどんなにきれいなことをいっても、異質な支配は受け付けられず混乱する。そういう絵が見えてならないのです。いじめる側はじつは支配の正統性を保持している、そこを「御公儀様」はみていません。内戦とゲリラが支配し、さらにみて見ぬふりがはじまるような危惧がぬぐえません。

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