昨年11月から始まった町道岡の川線改良工事が、本日終了したようだ。
白線も引かれた。
当初は3月中に完了する予定だったが、
地盤状況が思わしくなく、工事途中で設計変更となったため、工期延長となった。
工事中は時間帯通行止めとなったため、柑橘類の収穫・出荷と重なった工事期間中は、農家の方々は不便だったことと思う。
工事の最後は梅雨に入り、工事も思うように進まなかっただろう。
これまでの道路は幅員が狭く、見通しも悪く、この区間は車の離合などできなかった。
しかも、排水用側溝がなかったため、大雨が降った時は、路面を大量の雨水が流れる始末だった。
これでやっと、いっちょ前の町道と言えるだろう。
かつての名取の玄関口
それでは 全貌をご覧いただきましょう!
(なんとか番組風)
いやあ~ 見通し良くなった
勾配もスムーズになり、広くなったぁ~
ご訪問ありがとうございます。
「プチッ」と応援 感謝
白線も引かれた。
当初は3月中に完了する予定だったが、
地盤状況が思わしくなく、工事途中で設計変更となったため、工期延長となった。
工事中は時間帯通行止めとなったため、柑橘類の収穫・出荷と重なった工事期間中は、農家の方々は不便だったことと思う。
工事の最後は梅雨に入り、工事も思うように進まなかっただろう。
これまでの道路は幅員が狭く、見通しも悪く、この区間は車の離合などできなかった。
しかも、排水用側溝がなかったため、大雨が降った時は、路面を大量の雨水が流れる始末だった。
これでやっと、いっちょ前の町道と言えるだろう。
かつての名取の玄関口
それでは 全貌をご覧いただきましょう!
(なんとか番組風)
いやあ~ 見通し良くなった
勾配もスムーズになり、広くなったぁ~
ご訪問ありがとうございます。
「プチッ」と応援 感謝
16日午後、町の生涯学習センターで“ふるさと愛媛学”の調査報告会があったので、出かけてみた。
“ふるさと愛媛学”とは、
県民一人一人が、自ら暮らす地域の生活や文化、産業等を見つめ直して「ふるさとらしさ」を発見、再確認し、愛媛を総合的、体系的にとらえながら「愛媛らしさ」を探究するための地域学
とのことだそうだ。
どうやら、昭和時代の地域の暮らしぶりに焦点があてられているようで、
大正・昭和初期に生まれた方々に聞き取り調査を行い、その当時の生活・原風景を記憶でたどってもらい、それらをまとめていくということらしい。
そうして、今後の愛媛の歩むべき方向を探ろうとするもののようだが、
そこんところは、私にはちと理解しにくい。
要するに、かつての生活から愛媛の良さを再発見・再確認して、地域文化を次世代に引き継いでいこう、ということらしい。
発表会では、高度経済成長期以前の昭和半ばころの半島各地の町並みの様子、
海や山での働きぶり、三崎牛、三崎夏柑、
そして、当時の衣食住や出稼ぎの話があった。
まだ、総合的、体系的という段階にはとても至っていないと感じたが、
これを契機に、この半島でこのような調査・学習の機会が継続的に増えていけば、住民の意識も変わってくるのかもしれない。
ご訪問ありがとうございます。
「プチッ」と応援 感謝
“ふるさと愛媛学”とは、
県民一人一人が、自ら暮らす地域の生活や文化、産業等を見つめ直して「ふるさとらしさ」を発見、再確認し、愛媛を総合的、体系的にとらえながら「愛媛らしさ」を探究するための地域学
とのことだそうだ。
どうやら、昭和時代の地域の暮らしぶりに焦点があてられているようで、
大正・昭和初期に生まれた方々に聞き取り調査を行い、その当時の生活・原風景を記憶でたどってもらい、それらをまとめていくということらしい。
そうして、今後の愛媛の歩むべき方向を探ろうとするもののようだが、
そこんところは、私にはちと理解しにくい。
要するに、かつての生活から愛媛の良さを再発見・再確認して、地域文化を次世代に引き継いでいこう、ということらしい。
発表会では、高度経済成長期以前の昭和半ばころの半島各地の町並みの様子、
海や山での働きぶり、三崎牛、三崎夏柑、
そして、当時の衣食住や出稼ぎの話があった。
まだ、総合的、体系的という段階にはとても至っていないと感じたが、
これを契機に、この半島でこのような調査・学習の機会が継続的に増えていけば、住民の意識も変わってくるのかもしれない。
ご訪問ありがとうございます。
「プチッ」と応援 感謝
DVDを買おうか買うまいか、私の躊躇はつづきながら、県外の図書館に勤めている親戚に連絡してみた。
そして、先日封書が届いた。
残念ながら、DVDは図書館に所蔵していないが、佐久間達夫氏が清書本測量日記の全文を校定収録した本(昭和63年発行)は所蔵しているということで、私が見たい箇所のコピーを送ってくれた。
ありがたや ありがたや
で、最も興味ある箇所を読んでみた。
「同十三日 朝曇晴。七ツ半前後三崎浦枝大久浦出立。乗船後手我等、下川辺、青木、稲生、佐助、三崎浦名取浦字屋敷浦より初、名取浦(人家山上にあり。海辺に人家なし)下を歴て三崎浦枝井野浦字長浜迄測、先手へ合測、・・(後略)」
記述は極めて短いが、
文化5年(1808)7月13日(旧暦)に名取の海岸沿いを船で移動しながら、伊能忠敬自身が測量していった様子がうかがえる。
七ツ半(午前5時頃)に、下川辺他3名と共に大久を船で出発し、名取の屋敷浦(=屋敷浜の間違いであろう。現在地元で“ウマノセ”と呼んでいるあたり)から測量を開始し、海岸沿いを西へ進み、井野浦の長浜まで測量している(長浜からは別の班が測量)。
約8キロの距離である。
切り立った岩場の多い海岸沿い、特に梶谷鼻などの難所をどうやって測量していったのだろうとの興味があったが、その記述がないのは残念だった。
とはいえ、「人家山上にあり。海辺に人家なし」という書き込みがいかにもリアルで、その光景は今も変わらない。
【伊能大図(赤文字地名は当方加筆)】
基本的に測量は2班に分かれて行ったようで、伊能忠敬とは別の班はこの日、井野浦の長浜から測量を始めて、井野浦、大佐田~三崎本浦までを担当している。
で、この別の班は、前日に川之浜~大久~名取浦の屋敷浜まで測量している。
【大久地区と屋敷浜(左下).今や半島の尾根には風車が林立する】
驚くのは、こういう具合に2手に分かれて効率よく測量していることだ。
日記には、彼らの宿舎に、ちょくちょく地元近傍の庄屋が訪ねてきている記述があるので、おそらく彼らから情報を得て、綿密な測量計画を練りながら行動して行ったのであろう。
ところで、7月13日と言えばお盆である(私が小さい頃まではこの地は旧暦でお盆をやっていた)。
13日から盆踊りが行われていたと思われるが、それは夜である。
でも昼間、新仏を弔う“もうりょう”行事が行われていたのではなかろうか。
忠敬一行は、“もうりょう”の鐘や太鼓の音を耳にしなかったのだろうか?
それとも、200年前はまだそのような行事はなかったということだろうか?
日記の後半に、「後手は八ツ頃に三崎本浦着」とあるから、午後2時頃には三崎に到着したようで、“もうりょう”が始まる前にこの日の測量を終えているようだ。
【「人家山上にあり。海辺に人家なし」 忠敬一行はこういう光景を眺めたのだろうか】
ご訪問ありがとうございます。
「プチッ」と応援 感謝
そして、先日封書が届いた。
残念ながら、DVDは図書館に所蔵していないが、佐久間達夫氏が清書本測量日記の全文を校定収録した本(昭和63年発行)は所蔵しているということで、私が見たい箇所のコピーを送ってくれた。
ありがたや ありがたや
で、最も興味ある箇所を読んでみた。
「同十三日 朝曇晴。七ツ半前後三崎浦枝大久浦出立。乗船後手我等、下川辺、青木、稲生、佐助、三崎浦名取浦字屋敷浦より初、名取浦(人家山上にあり。海辺に人家なし)下を歴て三崎浦枝井野浦字長浜迄測、先手へ合測、・・(後略)」
記述は極めて短いが、
文化5年(1808)7月13日(旧暦)に名取の海岸沿いを船で移動しながら、伊能忠敬自身が測量していった様子がうかがえる。
七ツ半(午前5時頃)に、下川辺他3名と共に大久を船で出発し、名取の屋敷浦(=屋敷浜の間違いであろう。現在地元で“ウマノセ”と呼んでいるあたり)から測量を開始し、海岸沿いを西へ進み、井野浦の長浜まで測量している(長浜からは別の班が測量)。
約8キロの距離である。
切り立った岩場の多い海岸沿い、特に梶谷鼻などの難所をどうやって測量していったのだろうとの興味があったが、その記述がないのは残念だった。
とはいえ、「人家山上にあり。海辺に人家なし」という書き込みがいかにもリアルで、その光景は今も変わらない。
【伊能大図(赤文字地名は当方加筆)】
基本的に測量は2班に分かれて行ったようで、伊能忠敬とは別の班はこの日、井野浦の長浜から測量を始めて、井野浦、大佐田~三崎本浦までを担当している。
で、この別の班は、前日に川之浜~大久~名取浦の屋敷浜まで測量している。
【大久地区と屋敷浜(左下).今や半島の尾根には風車が林立する】
驚くのは、こういう具合に2手に分かれて効率よく測量していることだ。
日記には、彼らの宿舎に、ちょくちょく地元近傍の庄屋が訪ねてきている記述があるので、おそらく彼らから情報を得て、綿密な測量計画を練りながら行動して行ったのであろう。
ところで、7月13日と言えばお盆である(私が小さい頃まではこの地は旧暦でお盆をやっていた)。
13日から盆踊りが行われていたと思われるが、それは夜である。
でも昼間、新仏を弔う“もうりょう”行事が行われていたのではなかろうか。
忠敬一行は、“もうりょう”の鐘や太鼓の音を耳にしなかったのだろうか?
それとも、200年前はまだそのような行事はなかったということだろうか?
日記の後半に、「後手は八ツ頃に三崎本浦着」とあるから、午後2時頃には三崎に到着したようで、“もうりょう”が始まる前にこの日の測量を終えているようだ。
【「人家山上にあり。海辺に人家なし」 忠敬一行はこういう光景を眺めたのだろうか】
ご訪問ありがとうございます。
「プチッ」と応援 感謝
55歳になってからの大事業である。
寛政12年(1800)閏4月、伊能忠敬が江戸・深川から奥州街道と蝦夷地へ向け測量の旅に出発した。
これが日本全土測量の始まりであり、この後17年間かけて日本全土を測量することになる。
なんというバイタリティー・好奇心だろうか。
こうして、8年後の文化5年(1808)第6次測量では、淡路島を経て徳島県に入り四国の測量を行っている。
四国に上陸してからは、東側沿岸を南下し、高知、愛媛と至り、7月8日から21日(旧暦)にかけて佐田岬半島の測量を行っている。
この地・佐田岬を測量するときの彼らの見たものは、経験したことは何だったのだろうか?
“その時何が”的な 200年前の偉人の経験に興味がわく。
彼は、測量の日々を毎日克明に日記にしたためたそうだ。
測量日記は、測量しながら現場で書いた伊能忠敬先生日記51冊と、のちに清書した伊能忠敬測量日記28冊の2種類の日記があるそうだ。
その測量日記が千葉県香取市の伊能忠敬記念館に保管されているという。
そして、2010年国宝に指定された。
その国宝の清書本測量日記が、イノペディアをつくる会の方々のご尽力によって、昨年9月にDVD化されたことを知った。
約3000頁に及ぶ膨大な日記らしい。
手に入らないものかと思い、ネットを探ったら、定価2万円。
刊行にこぎつけた方々のご苦労、資料的価値からいえば安いものだと思う。
ただ私の場合は、とりあえず佐田岬半島を測量した2週間分が見たい というみみっちい了見である。
しかも、日記は江戸時代のものだから、私に文章が解読できるかどうか、という不安もある。
うーん・・・
とりあえず、町の図書館が所蔵しているかどうか検索してみた。
が、見事に空振り。
やはりだめか・・。
≪つづく≫
ご訪問ありがとうございます。
「プチッ」と応援 感謝
寛政12年(1800)閏4月、伊能忠敬が江戸・深川から奥州街道と蝦夷地へ向け測量の旅に出発した。
これが日本全土測量の始まりであり、この後17年間かけて日本全土を測量することになる。
なんというバイタリティー・好奇心だろうか。
こうして、8年後の文化5年(1808)第6次測量では、淡路島を経て徳島県に入り四国の測量を行っている。
四国に上陸してからは、東側沿岸を南下し、高知、愛媛と至り、7月8日から21日(旧暦)にかけて佐田岬半島の測量を行っている。
この地・佐田岬を測量するときの彼らの見たものは、経験したことは何だったのだろうか?
“その時何が”的な 200年前の偉人の経験に興味がわく。
彼は、測量の日々を毎日克明に日記にしたためたそうだ。
測量日記は、測量しながら現場で書いた伊能忠敬先生日記51冊と、のちに清書した伊能忠敬測量日記28冊の2種類の日記があるそうだ。
その測量日記が千葉県香取市の伊能忠敬記念館に保管されているという。
そして、2010年国宝に指定された。
その国宝の清書本測量日記が、イノペディアをつくる会の方々のご尽力によって、昨年9月にDVD化されたことを知った。
約3000頁に及ぶ膨大な日記らしい。
手に入らないものかと思い、ネットを探ったら、定価2万円。
刊行にこぎつけた方々のご苦労、資料的価値からいえば安いものだと思う。
ただ私の場合は、とりあえず佐田岬半島を測量した2週間分が見たい というみみっちい了見である。
しかも、日記は江戸時代のものだから、私に文章が解読できるかどうか、という不安もある。
うーん・・・
とりあえず、町の図書館が所蔵しているかどうか検索してみた。
が、見事に空振り。
やはりだめか・・。
≪つづく≫
ご訪問ありがとうございます。
「プチッ」と応援 感謝
本田 僕らの方がいいサッカー/W杯予選(日刊スポーツ) - goo ニュース
前半の立ち上がりは、厳しい時間帯が続いたなあ。
川島のファインセーブもあり、ここを何とかしのいだ。
シンプルに縦にロングパスを続けるオーストラリア。
対する日本は細かくパスをつなげようとするのだが、あまりうまく機能しない。
45分、オーストラリアのPエリア内のプレーはハンドに見えたが・・・
結局、前半は両チーム無得点のまま終わる。
後半19分、本田がコーナーキックから、自分のドリブルでゴール前に切り込み、絶妙のタイミングでパスして、栗原が合わして・・ゴール!・・・・・。
ヤッタ ヤッタァ
が、その5分後Pエリア内で内田に突如のイエローカード。
何が何だかわからん判定じゃ!
そして、PKを決められ、同点・ふりだし。
後半43分、栗原が2枚目のイエローカードで退場。
これも相手選手がぶつかってきたように見えたが・・・
極めつけは48分、本田へのファウルでFKを得て、さあ最後のチャンスだと、本田がボールをセットして、味方の位置取りを指示している時、
突然終了のホイッスル。
アジアにはいろんな笛があるなぁ。
この試合、主審のガムディは、イエローカードを連発した。
この審判、過去にもいろいろやってくれているようだ。
勝てずに残念だった。 とも
苦しんだが、アウェーで負けなかった。 とも
しばらく間をおくが、負けられない戦いはまだまだ続く。
ガンバレ ニッポン!
ガンバレ ザック・ジャパン!
ご訪問ありがとうございます。
「プチッ」と応援 感謝
前半の立ち上がりは、厳しい時間帯が続いたなあ。
川島のファインセーブもあり、ここを何とかしのいだ。
シンプルに縦にロングパスを続けるオーストラリア。
対する日本は細かくパスをつなげようとするのだが、あまりうまく機能しない。
45分、オーストラリアのPエリア内のプレーはハンドに見えたが・・・
結局、前半は両チーム無得点のまま終わる。
後半19分、本田がコーナーキックから、自分のドリブルでゴール前に切り込み、絶妙のタイミングでパスして、栗原が合わして・・ゴール!・・・・・。
ヤッタ ヤッタァ
が、その5分後Pエリア内で内田に突如のイエローカード。
何が何だかわからん判定じゃ!
そして、PKを決められ、同点・ふりだし。
後半43分、栗原が2枚目のイエローカードで退場。
これも相手選手がぶつかってきたように見えたが・・・
極めつけは48分、本田へのファウルでFKを得て、さあ最後のチャンスだと、本田がボールをセットして、味方の位置取りを指示している時、
突然終了のホイッスル。
アジアにはいろんな笛があるなぁ。
この試合、主審のガムディは、イエローカードを連発した。
この審判、過去にもいろいろやってくれているようだ。
勝てずに残念だった。 とも
苦しんだが、アウェーで負けなかった。 とも
しばらく間をおくが、負けられない戦いはまだまだ続く。
ガンバレ ニッポン!
ガンバレ ザック・ジャパン!
ご訪問ありがとうございます。
「プチッ」と応援 感謝