神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

明石・熊野皇大神社。

2006年09月25日 | □兵庫県 -播磨(姫路以外)
国土安穏・延命長寿・無病息災



(くまのこうだいじんじゃ)
兵庫県明石市東人丸町6-6



稲爪神社の北、明石市立天文科学館の東に位置する小さな神社です。


〔御祭神〕
伊邪那岐命
(いざなぎのみこと)
伊邪那美命
(いざなみのみこと)



 室町時代には「将軍弑殺」という大事件が2回起こりました。そのうち、松永久秀公によって行われた第13代将軍・足利義輝公の暗殺は、戦国時代を題材にした様々な小説や文献などでよく知られています。実はこれ以外にも将軍家の暗殺という悲劇が起きています。それが1441(嘉吉元)年に起きた、赤松満祐公による第6代将軍・足利義教公の暗殺事件です。

 足利義教公は、第5代将軍・足利義量公が急逝したのを受け、混沌とした後継者選びを解決すべく行われた石清水八幡宮でのくじ引き(!)の結果選ばれた将軍です。有力大名である斯波氏畠山氏細川氏に対し将軍家への忠誠の証文を取ったうえで将軍職に就任した足利義教公は「くじ引き=神に選ばれし将軍」という認識から、強権的な政治を行うようになります。




小さな社殿。境内はあまり手入れがされておらず、少し荒れた感じに見えました。
 


 「神に選ばれし者足利義教公による専制政治は次第に各守護の怖れるところとなり、看過できない脅威へと成長していきます。赤松満祐公にとっても、同族である赤松貞村公を寵愛して不当な裁定ばかりを下す足利義教公への不満は爆発寸前で、疑心暗鬼も募るばかり。それがエスカレートした結果「将軍家が赤松を討伐しようとしている」という風聞が流れたことから、身の危険を感じた赤松満祐公は「殺られる前に殺るべし」と戦勝祝いの宴にかこつけて将軍を自邸に招き、祝宴の最中に押し包んで暗殺してしまいます。

 この暗殺事件のあと赤松満祐公は領国・播磨国に戻り、足利直冬(足利尊氏公の息子)の孫で播磨に身を隠していた足利義尊公を将軍として擁立し室町幕府に対抗、明石においては弟の赤松祐尚公を大将として大蔵谷城に陣取らせて守りを固めます。これに対して幕府側は、讃岐守・細川持常公たちが兵を率いて赤松討伐に攻め寄せますが、そのときに幕府軍が本陣を置いたのが熊野皇大神社が鎮座している北山だったといわれています。




社殿の左手にある荒熊稲荷神社。このほか、白竜神社も祀られています。



 時代は下って戦国時代。織田信長軍による播磨攻略の一環として、1578(天正6)年に羽柴秀吉旗下の武将・高山右近が別所勢が守る大蔵谷城に攻め寄せます。このときの兵火によって稲爪神社が焼失、一時的に仮社殿を移したのが前述した「嘉吉の乱」ゆかりの北山でした。

 その後、稲爪神社は1637(寛永14)年に元あった境内に再建されましたが、当時の明石城主・松平丹波守光重公は稲爪神社の仮社殿がおかれていた北山の地に熊野坐神社熊野那智神社熊野速玉神社三社権現を勧請しました。これが熊野皇大神社の起こりで、これ以降北山は「権現山」と呼ばれるようになったそうです。


アクセス
・山陽電車「人丸前駅」下車、北東へ徒歩5分
・山陽電車「大蔵谷駅」下車、北西へ徒歩3分
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


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