神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

西宮・喜多向稲荷神社(漢織・呉織伝承の旧蹟)。

2006年06月29日 | □兵庫県 -阪神
技能向上・商売繁盛

喜多向稲荷神社

(きたむきいなりじんじゃ)
西宮市松原町11

漢織・呉織伝承の旧蹟



菅原道真公が大宰府への旅の途中に立ち寄ったともいわれています。


〔御祭神〕
織姫大明神



 昨日ご紹介した松原天満宮のすぐ南に、小さなお社があります。マンションや公園の狭間にポツンと佇んでいるため、うっかり見落としたり松原天満宮の飛び地境内かと勘違いする方もいらっしゃるかもしれませんが、喜多向稲荷神社という名を持つお社にも様々なストーリーが残されているのです。小社といって侮るなかれ、ですね。





俳人・小沢種春が詠んだ「千代もなを 残すみどりの色深く 綾はの松に染殿の池」の句碑(左)は、
朱鳥居が数多く立ち並ぶ参道の脇にあります。



 松原天満宮の記事でも述べましたが、このあたりは「都努の松原」と呼ばれる白砂青松の海岸で、入り込んだ入江によって天然の良港「務古水門」として栄えた土地です。大和朝廷は、大陸から様々な技術者を積極的に日本に招き、先進の技術を取り入れようと活発に交流を重ねていました。その中には、今回ご紹介する「漢織・呉織」という機織の技術者たちもいました。日本書紀には、漢織(あやはとり)呉織(くれはとり)について、「武庫の水門に着き池田の里に至る」と記されており、務古水門が古くから大陸との交流のある港であったことがわかります。





短いながらも朱鳥居に彩られた参道の先に、社名の通り北向きに建てられた社殿があります。



 ここの言い伝えでは、漢織呉織は、応神天皇の勅命を受けて大陸に渡っていた阿知使主(猪名津彦命ともいわれる)に連れられて日本に渡ってきた工女だといわれています。このとき渡ってきたのは兄媛(えひめ)弟媛(おとひめ)呉織漢織とよばれる4名の工女で、一行のうち兄媛胸形明神(むなかたみょうじん)の要請によって九州・筑紫潟の地に留まります。そのほかの工女たちは、長い航海の末に務古水門に到着しました。そのとき船を繋いだ松を「漢織呉織の松」といい、その木の下の池の清水を汲んで糸を染め、機を織ったためこの池のことを染殿池と呼ぶようになりました。これらの言い伝えは「染殿町」「津門綾羽町」「津門呉羽町」などの地名に残され、古代の薫りを今に伝えています。喜多向稲荷神社自体、いつ頃から祀られているのかは明確には分かりませんが、地名にまで残すほど漢織呉織への思いを持つこの地域の人々が、その遺徳を偲ぶために祭祀を始めたのが起源だと考えると、なかなか長い歴史を持つ神社ではないかと思われます。
(※個人的には、こういう由緒ある地名を大切にする自治体は大好きです)




境内の南側にある松原公園に、小さくなった染殿池(左)が残されています。



 阿知使主は応神天皇20年に日本に渡来、帰化人となった人物で、倭漢直の祖先といわれています。漢織呉織に関する伝説には、「」「」という字から中国大陸の呉国から来たという話が多いのですが、実際のところ、倭漢直は朝鮮半島の帯方郡から渡来した一族であるとの説が強いことから、やはり阿知使主が自分の出身地である朝鮮半島から連れてきた機織技術者だったと見るのが正しいのではないでしょうか。帯方郡漢帝国の影響が強かったことから「」の字が使われたのかもしれません。


アクセス
・阪神電車「西宮駅」下車、東へ徒歩10分
 喜多向稲荷神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


兵庫県の歴史散歩〈上〉神戸・阪神・淡路
兵庫県の歴史散歩編集委員会
山川出版社

西宮・松原天満宮。

2006年06月26日 | □兵庫県 -阪神
学業成就・芸能上達・平和守護

松原天満宮

(まつばらてんまんぐう)
兵庫県西宮市松原町2-26



市役所やJR西ノ宮駅など、市の主要施設に近い立地ながら、豊かな緑に包まれた静かな神社です。



〔御祭神〕
菅原道真公
(すがわらのみちざね)
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)



 現在、阪神電車は各地で線路の高架化を進めています。これが進められる中で、姿を消した駅があります。その駅の名は西宮東口駅。この駅は1905(明治38)年に阪神電車が開業した当初から開設されていた駅で、長らく市民の足として親しまれていましたが、今回の高架化工事の際に阪神西宮駅と統合される形で1世紀あまりの歴史に幕を下ろすこととなりました。その西宮東口駅の跡に程近い西宮東口商店街に隣接するように鎮座しているのが、今回御紹介する松原天満宮です。万葉の昔、この一帯は立派な松の木が立ち並ぶ「白砂青松」の風光明媚な海岸で、中でもひときわ高くそびえる古松は海上からの目印として重宝されていました。「都努の松原(つぬのまつばら)」と万葉集にも詠まれた美しい海岸は、その名の通り入江がツノ状に内陸に入りこむ天然の良港で「務古水門(むこのみなと)」と呼ばれ、大陸からの渡来人などを迎える港として栄えました。松原天満宮の南にある喜田向稲荷神社には、それにまつわる伝説が残されていますので、一度そちらのご紹介記事もご覧いただけたらと思います。ちなみにこの入江は廣田神社がある辺りまで伸びていたといわれています。





社殿の西側に鎮座する福部社と老松社(左)。社殿脇には「縁の榎」が緑の枝を生い茂らせています。



 務古水門を抱え、古来より海上交通の要衝であったこの地には、津門首(つとのおびと)と呼ばれる豪族が勢力を伸ばし統治を行っていました。大陸との交易で栄えていたであろうその威勢は、西宮市内で銅鐸が出土したのが唯一この地域であるという事、そして大塚古墳(現在のアサヒビール西宮工場の敷地内)稲荷山古墳(現在の西宮市津門稲荷町辺り)などの古墳を築いていたという事からも大きいものであった事が推察できます。大和朝廷との繋がりも深く、さらには近隣に鎮座していた廣田神社西宮神社との縁も深かったようで、神社で祭礼を行った後、この松原の地で直会(なおらい)を行っていたという事も伝えられています。





緑に包まれた社殿。中には神輿も収められています。



 松原天満宮の創建時期は定かではありませんが、社伝では延喜年間(901~923年)に無実の罪によって都を追われ、流罪の地である筑紫国の太宰府を目指して失意の旅を続けていた菅原道真公が、「都努の松原」の光景に心を惹かれて休息をとられたという故事にちなみ、非業の死を遂げた菅原道真公の御霊を慰め御威徳を偲ぶために祠を建てて祀ったのが創祀だといわれています。このため、御祭神である菅原道真公の神威にあやかろうと合格祈願のために参拝される方も多いそうですが、実は菅原道真公以外にも主祭神として祀られている神様がいるのです。その神様は、皇祖神であり、全国の神社の総本社ともいうべき伊勢神宮にも祀られている御祭神・天照大御神です。





社殿の右脇には夫婦和合の「夫婦久寿(クス)」が枝を茂らせ(左)、その脇には筆塚があります(右)。



 「天神さま」というと、どうしても菅原道真公を御祭神とする「学問の神様」というイメージをお持ちの方が多いと思います。しかしながら、天照大御神素盞鳴尊など、高天原から姿を顕された天津神(あまつかみ)も「天神さま」という名で呼ばれ崇敬されてきました。もともと、この一帯を治めていた津門首の一族が古来より氏神として代々この松原で祀ってきたのは、天津神としての「天神さま」だったといわれています。古い文献には、松原天満宮を指して「松原如来」「松原大日」と呼んでいるものもあり、本地垂迹説や神本仏迹説において大日如来尊天照大御神が同一だとされている事からも、松原天満宮に祀られているもう1柱の「天神さま」は天照大御神だと考えられます。推察するに、氏神として天照大御神を御祭神として祭祀を続けてきた津門首が、土砂の堆積などによる津門の港の衰退とともに勢力を失っていき、それに伴って「天津神」を祀っていたお社が、いつしか大宰府への失意の旅の途中に風光明媚な松原の地に立ち寄ったとされる菅原道真公ゆかりの「天神さま」である、というイメージが強くなっていったのではないでしょうか。

 菅原道真公と天照大御神という、2柱の「天神さま」を御祭神として祀っているという事で、今の宮司さんのお父さんにあたる先代は、この神社のことを「松原天神宮」と称していたそうですが、戦後GHQによって出された神道指令によって宗教法人となる際、「松原神社」として法人登録を行ったということです。ただ、今も人々からは「松原天満宮」の呼び名で愛され、崇敬を集めています。





社殿奥の古札納所と火之御子社・白太夫社(左)。参道脇には皇太神宮社・ゑびす福神社が鎮座(右)。



アクセス 
・阪神電車「西宮駅」下車、東へ徒歩10分
・JR「西ノ宮駅」下車、南へ徒歩5分
松原天満宮地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放



京都・晴明神社。

2006年06月17日 | ◇京都府 -洛中
方除け・災難除け・病気平癒

晴明神社

(せいめいじんじゃ)
京都市上京区堀川通一条上ル806



堀川通に面して立つ大きな鳥居。「陰陽師」安部晴明公を祀る神社です。


〔御祭神〕
晴明御霊神
(安倍晴明公)



 白峯神社で日本代表の必勝祈願をした帰り道、晴明神社に立ち寄りました。堀川通に面したこの神社は陰陽師として有名な安倍晴明公を御祭神に祀る神社で、その屋敷があったとされる場所に建てられています。しかし、その屋敷は陰陽寮があった現在の二条城の近く、当時の京都御所の土御門の傍にあったともいわれていますので、若干場所が異なる感じもします。





復元された旧一条戻橋(左)と、二の鳥居(右)。境内が拡張される前は一の鳥居でした。



 晴明神社は1007(寛弘4)年に建てられたといわれています。陰陽師として朱雀天皇から一条天皇までの6代の帝に仕え、朝廷から篤い信頼を受けていた安倍晴明公が1005(寛弘2)年9月26日に85歳という長寿を全うした翌々年、その遺業を讃えた一条天皇が「稲荷大神の生まれ変わり」といわれた彼の御霊を鎮めるために創建したといわれています。墓所は、嵯峨野の渡月橋の近くの右京区嵯峨天竜寺角倉町にあって天龍寺が管理していましたが、1972(昭和47)年に晴明神社が飛び地境内として購入し、管理を行うようになりました。

 創建当初は現在の数倍の広さの社域を持っていましたが、応仁の乱から安土桃山時代を経て徐々に規模が縮小され、社殿も長らく荒れた状態が続いたそうです。この状況を憂慮した氏子の方々が1853(嘉永6)年、1878(明治11)年、1903(明治36)年、1928(昭和3)年の式年祭ごとに社殿・境内の整備を進め、1950(昭和25)年には堀川通に面した土地を境内に組み入れ、大通りから拝殿への参道が完成しました。2003(平成15)年には御鎮座壱千年祭を斎行し、社殿の修復や境内の整備が行われ、社務所も新築されました。





手水舎(左)とその脇にある晴明井(右)。千利休が茶の湯に使ったといわれています。



 御祭神の安倍晴明公は平安時代に活躍した陰陽師で、現在も高い人気を誇っています。しかし眉目秀麗な美男子で、呪術や妖術を自由自在に駆使して魔界の者と戦うというドラマや映画でのイメージが強くなっていますが、実際の安倍晴明公は、40歳を過ぎてようやく歴史の表舞台に登場した「遅咲きの陰陽師」といった方が良いのかもしれません。

 安倍晴明公は、921(延喜21)年に大膳大夫安倍益材安倍保名という説も)の子として生まれたと伝えられています。その出生については大阪の阿倍野で生まれたという説や讃岐国(香川県)で生まれたという説など諸説があり、しかも「安倍保名が狩りで追われてきた白狐を匿ったところ、その狐が女性となって現われ、結ばれて夫婦となった2人の間に生まれたのが安倍晴明公」だという伝説も残されています。幼い頃から修験道の開祖・役小角の末裔といわれる賀茂忠行賀茂保憲親子に素質を見込まれて天文道・陰陽道を学び、村上天皇に仕えていた頃には唐へ渡って伯道仙人から教えを授かり、ここで学んだ暦学や天文学を体系的にまとめて「陰陽道」という学問を確立させました。優秀な学者であり実務家、というのが等身大の安倍晴明公だったのではないでしょうか。





至るところに安部晴明公の象徴ともいうべき五芒星が散りばめられている拝殿。



 「陰陽道」を確立した安倍晴明公は、京都御所の土御門の近くに住んでいたことにちなんで「土御門家」を興し、師匠筋にあたる賀茂家とともに天文道・暦道を受け継いでいきます。天文道を伝承した土御門家は、応仁の乱の戦火を避けて若狭国に移り、そこを中心に陰陽道を統括していきます。現在も福井県には天社土御門神道本庁があり、安部家の子孫が土御門神道司官として陰陽道を受け継いでいるそうです。

 江戸時代に入ると賀茂家が受け継いでいた歴道に関しても土御門家が統括、暦の発行権も賀茂家から土御門家に移るなど、陰陽道の実権を一手に握ることになります。しかし明治維新の結果、陰陽道は廃止されたうえ暦の発行権も新政府に移り、陰陽頭土御門晴栄を最後に安倍晴明公の血筋は歴史の表舞台から姿を消すことになりました。





五芒星が描かれた御神燈(左)と、本殿の隣にある地主社・斎稲荷社・天満社(右)。



 晴明神社から南へ100mほどのところにある一条戻橋は、現世と来世を結ぶ橋といわれていました。この橋は菅原道真公との因縁浅からぬ三善清行公が没した時、急報を聞いて熊野から駆け付けた息子・浄蔵が父の葬列に追い着いた場所で、浄蔵がその死を悲しんで一心に祈ると奇跡的に父三好清行公が一時蘇生したという伝説に因んでその名が付けられたそうです。

 ここは酒呑童子の鬼退治伝説で有名な源頼光公の四天王の一人・渡辺綱が鬼女の腕を切り落とした場所とも伝えられています。また、安部晴明公がこの橋のたもとに式神を封じて都の守りに充てたという伝説も残っています。「戻る」ということに縁起を担いで、先の大戦で前線へと出征する日本兵たちは必ずこの橋を渡ったといい、逆に今でも「戻る」のを嫌って婚礼や葬儀の列はこの橋を避けるという風習が残っているそうです。





拝殿前の安部晴明公像(左)と厄除桃(右)。桃は魔除けの力を持つといわれています。


アクセス
・京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」下車、南西へ徒歩10分
・JR「京都駅」より京都市バス⑨番、「一条戻り橋」下車、北へ徒歩2分
晴明神社地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・9時~18時(年中無休)

公式サイト



京都・白峯神宮(球技の神様)。

2006年06月12日 | ◇京都府 -洛中
球技上達・諸芸上達

白峯神宮

(しらみねじんぐう)
京都市上京区今出川通堀川東入ル飛鳥井町261




球技上達の神として厚い崇敬を集める白峯神宮。今出川通に面して鎮座しています。


〔御祭神〕
崇徳天皇
(すとくてんのう)
淳仁天皇
(じゅんにんてんのう)



 京都市営地下鉄烏丸線の今出川駅を出て西に5分ほど歩くと、崇徳天皇淳仁天皇を主祭神に祀る白峯神宮に辿り着きます。崇徳天皇は1119(元永2)年に鳥羽天皇の皇子として産まれ、わずか5歳で第75代天皇に即位されました。幼い頃から文化に優れ、小倉百人一首にも撰ばれている「瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」という歌は大変有名です。





神門の先に立つ舞殿(左)と、蹴鞠保存会の結成100周年を記念する蹴鞠碑(右)。



 崇徳天皇は幼帝であったがために実権は常に父・鳥羽上皇が握り、しかも24歳の若さで天皇を退位させられてしまいます。その後も鳥羽法皇後白河天皇に政治の主導権を握り続けられていた崇徳天皇は、この状況を打開すべく鳥羽法皇崩御を契機に左大臣・藤原頼長卿をはじめ平忠正公や源為義公といった武士を味方に付けて挙兵します(保元の乱)。しかし後白河天皇側に付いた平清盛公や源義朝公たちに敗れ、讃岐国への流罪に処されることとなりました。讃岐国での崇徳上皇は仏教を厚く信仰し、極楽往生を願って五部大乗経の写経に専念。出来上がった写本を朝廷に奉納しますが、「呪詛が込められているのではないか」との疑いを持った後白河法皇に受け取りを拒否されてしまいます。当然激しく怒った崇徳上皇は自らの血で写経に呪詛の言葉を書き込み、夜叉のような姿となって1164(長寛2)年に無念の最期を遂げました。





飛鳥井家の邸内社だった地主社。サッカーW杯の使用球などが供えられています。
※御祭神は、精大明神・柊大明神・今宮大神・白峯天神・糸元大明神。



 もう1柱の御祭神・淳仁天皇は、藤原仲麻呂卿の強い推挙もあって孝謙天皇から譲位を受け、758(天平宝字2)年に第47代天皇に即位。しかし藤原仲麻呂卿の後見人である光明皇太后の強い影響力や、弓削道鏡を重用した孝謙上皇との不和などもあり、政治の実権を奪われてしまいます。その後起こった「藤原仲麻呂の乱」をきっかけに皇位を追われ淡路島に配流。その翌年には配流先からの脱出を試みるも失敗、翌日には急死してしまいます。公式には病死とされていますが、他殺という疑惑の残る無念の最期を遂げられています。このような崇徳天皇淳仁天皇の無念が怨霊化するのを防ぎ、遺徳を偲ぶことで御霊を慰め奉るために1868(慶応4)年に創建されたのが白峯神宮です。





悲劇の帝・崇徳天皇と淳仁天皇を御祭神として祀っている社殿。



 元々この場所には平安時代から和歌や蹴鞠の宗家として代々朝廷に仕えてきた飛鳥井家の邸宅がありました。白峯神宮が創建された際には、邸内で祀られていた神々も引き続き境内に設けられた地主社の社殿で祭祀が続けられる事となりました。この中でも特に広く知られているのが、「鞠の神様」といわれる精大明神です。古くから蹴鞠宗家の守護神として崇敬されてきた精大明神は、スポーツ(特に球技)の神様として多くの選手たちの崇敬を集めています。





拝殿前にある鞠庭。この日は茶席が設けられていました。



 蹴鞠は7世紀頃に仏教などとともに中国大陸から伝来したのではないかといわれています。権禰宜さんも強調されていましたが、とにかく勝敗を決めるものではなく、優雅な作法にのっとってリフティングとアシストの技術を用い、優れた技量を持つ者ほど相手が受け易く次に蹴り易いように鞠を蹴るという「無勝負」と「相互扶助」の球戯です。蹴鞠を行う「鞠庭」は15m四方の平坦な地を使い、四隅には式木と呼ばれる4mほどの高さの4種類の木を植えます。通常は松・桜・柳・楓を用いますが、皇族や将軍家、蹴鞠宗家の飛鳥井家などには4本とも松を用いた最上級の鞠庭が作られたそうです。この中で8人もしくは6人の「鞠足」(蹴鞠をするプレーヤーのこと)が蹴鞠を繰り広げます。鞠庭に入るにも作法があり、鞠を蹴るフォームにも優雅さが求められます。

 鞠庭は平安時代中頃から宮中や公家の間で大流行し、伝説の名手たちも現れました。平安末期に現れた藤原成通卿は、清水寺の舞台の欄干の上をリフティングしながら何度も往復したといわれ、同じ頃に現れた藤原頼輔卿も関白・九条兼実卿から「無双達者」と絶賛された名手で、その孫に当たる飛鳥井雅経卿と難波宗長卿は、それぞれ飛鳥井流難波流という流派を打ち立てて「蹴鞠道」を確立しました。現在でも毎年4月14日と7月7日には鞠庭奉納神事が行われています。





昭和に入って祭祀が始められた潜龍社(左)。右は源為義公と源為朝公を祀る伴緒社。


アクセス
・京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」下車、西へ徒歩5分
白峯神宮地図  Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト


神戸・熊野神社(山手)。

2006年06月10日 | ■神戸市中央区
家内安全・夫婦円満

山手熊野神社

(くまのじんじゃ)
神戸市中央区中山手通7-28-30






〔御祭神〕
伊弉諾命
(いざなぎのみこと)
伊弉冉命
(いざなみのみこと)



 神戸で熊野神社といえば、平清盛公が福原遷都の際に創建した神社の中でも厳島神社とともに厚く信仰したという「夢野の権現さま」、“夢野”熊野神社が有名ですが、こちらの“山手”熊野神社も古い歴史を持つ神社です。兵庫県庁の脇を東西に横切る山手幹線沿いに、歩道橋が目印の「下山手7丁目」の交差点があります。その交差点を北に進むと鳥居が見えてきます。ここが熊野神社です。





交差点の脇にある「山手熊野神社」の石碑が出迎えてくれます。



 このあたりは八部郡宇治郷と呼ばれた地域で、8世紀中頃の書物にも地名が記されているなど古くから人々が生活を営んでいました。そんな宇治に住んでいた「宇治物部族の創建」によって宇治野山と呼ばれていた丘に祀られたのが熊野神社です。ここにも物部の一族が住み着いていたのでしょうか。そういえば、神戸には物部氏の氏神の石上神社(いそがみじんじゃ)と同じ読みの「磯上」という地名があります。浜辺に近かったために付いた地名ですが、偶然とはいえ因縁を感じます。





鳥居は阪神・淡路大震災で倒壊、再建されました。


 
 熊野神社は、福原遷都が行われた1180(治承4)年あたりに大納言・藤原邦綱によって再建されたといわれています。このとき邦綱卿は「宇治新亭」とよばれる屋敷を構え、安徳天皇も一泊されたことがあるそうです。





拝殿の右手には「熊高稲荷神社」が建っています。



アクセス
・神戸市営地下鉄「大倉山駅」下車、北東へ徒歩8分
・神戸高速鉄道「花隈駅」下車、北西へ徒歩10分

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

このアイテムの詳細を見る

神戸・日下部天満神社。

2006年06月05日 | ■神戸市北区
家内安全・厄除け・交通安全・学業成就

日下部天満神社

(くさかべてんまんじんじゃ)
神戸市北区道場町日下部字宮後905



真新しい石垣、真新しい鳥居。


〔御祭神〕
菅原道真公
(すがわらのみちざね)
天之水分神
(あめのみくまりのかみ)
火産霊神
(ほむすびのかみ)
愛鬘尾命
(うけのりかみのみこと)



 神戸市を南北に走る神戸電鉄。新開地駅から三田行きの快速で45分ほどのところにある道場南口駅で下車し、八多川を越えて北へ3分ほど行った住宅街の中に、真新しい鳥居を見つけました。この近辺に来る用事があり、どうせ行くなら何か面白そうなものはないかと眺めた地図上に見つけた「天満宮」の文字。それを頼りにたどり着いたのが日下部天満神社でした。




石の白さが眩しい一の鳥居。平成12年4月に建てられました。



 道場町は、水などの自然環境に恵まれ、古代から多くの人々が暮らしていた古い歴史をもつ町です。そんな町に鎮座する日下部天満神社は、まっさらな外観からは想像できないくらい長い歴史を持つ神社で、社伝では鎌倉幕府成立直後の1200(正治2)年にこの地域の地頭・日下部則康によって建てられたとあります。

 隣の大沢町などにも天満宮がありますが、田園が広がるこの近辺においては、「学問の神様」としてではなく雨をもたらす雷神としての意味合いで菅原道真公を祀っていたように思います。源頼朝公によって1185(文治元)年に設置された地頭が、農業振興のために農民のこころの拠り所としての天満宮を築くことによって領地経営をスムーズに行おうとしたのではないでしょうか(あくまで私見ですが)。




一の鳥居を抜けると二の鳥居越しに拝殿が見えます。



 16世紀半ば頃には、この地域を治めていた松原越前守貞時によって松原城が築かれ、領地内の総鎮守とされた日下部天満神社は手厚い庇護を受けることになります。しかし別所長治方についた松原氏は、勢力を拡大してきた織田信長公の勢力と衝突。松原義富公が守る松原城羽柴秀吉公旗下の中川清秀公 ・ 塩川国満公 ・ 山崎家盛公 ・ 池田輝政公に包囲され、一斉攻撃によってあえなく落城の憂き目に会いました。総鎮守だった日下部天満神社にも累はおよび、新たにこの地域の領主となった荒木村重公によって山林以外の神領は没収されてしまいます。1871(明治4)年にはその山林も国に上地されました。




現在の鳥居や拝殿・本殿などは平成12年1月に竣工したものです。



 安土桃山時代、豊臣秀吉公が有馬温泉を大変気に入り、温泉街を復興してたびたび湯治に訪れたことは有名な話です。有馬を訪れた太閤豊臣秀吉公は、しばしば日下部天満神社に参拝し、多くの宝物を寄進をしていったといいます。残念ながら、これらの宝物は1841(天保12)年に起きた火災によって大部分が焼失してしまったそうですが、一見それほど歴史を感じさせない神社にも、想像以上の背景があることに、いつもながら驚きを感じます。



アクセス
・神戸電鉄「道場南口」駅下車、北へ徒歩3分

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

このアイテムの詳細を見る

神戸・小野八幡神社。

2006年06月02日 | ■神戸市中央区
厄除け・交通安全

小野八幡神社

(おのはちまんじんじゃ)
神戸市中央区八幡通4-1-37




社域のすぐ背後に神戸市役所が見えます。まさに神戸の中心に鎮座する神社です。


〔御祭神〕
応神天皇
(おうじんてんのう)



 神戸市役所から少し東にいくと、オフィスビルに囲まれて鎮座する神社があります。そこが小野八幡神社です。社務所に掲げられた表札には「新渡戸」とありました。小野八幡神社の宮司さんは、前の五千円札に描かれていた新渡戸稲造氏の御親戚にあたるのだそうです。宮司の娘さんも小野八幡神社の権禰宜で、日本の神道を世界に広めるべくアメリカの地で活躍されています。鳥居の脇には宮司のお子さんの活躍ぶりが載った記事が誇らしげに掲示してあり、微笑ましいものを感じました。オフィス街という立地、娘さんたちの若い感性もあるのでしょうか、近隣の企業の協力を受けて秋祭に「ギャルみこし」を企画するなど、なかなか面白い神社だという印象を受けます。





交通安全厄除け祈願でも有名な小野八幡神社の社殿。



 小野八幡神社は887(仁和3)年に創建されたと伝えられており、9世紀末の寛平年間(889~898年)には神前の七草を宮中に献上したという記録が残されています。それから時代は下って平安末期の源平争乱期のこと。平知盛公率いる平家軍は、神戸を拠点に守りを固めて源範頼公を総大将とする源氏軍を迎え討ちます。平家軍は西は須磨・一の谷の守りを固め、北は夢野に防衛線を張り、そして東から攻め寄る源氏軍に対しては生田川を防衛ラインとして生田の森に拠って堅い守りを固めていました。両軍が対峙する中、武蔵国から参陣した河原太郎高直公と河原次郎盛直公という兄弟が、勇敢にも平家の大軍の中に先陣を切って斬りこみます。これがきっかけで両軍は激突、連動するように各地で戦端が開かれ、有名な「鵯越の逆落とし」によって総崩れになった平家軍は海へと敗走していきます。

 平家の滅亡後、勝利のきっかけを作るも敢え無く敵の矢に射られて戦死した河原兄弟の功績を称えた源頼朝公が、2人の菩提を弔うために現在の大丸元町店の北に報恩寺を建立します。そのときに報恩寺の鎮守の神とされたのが小野八幡神社です。「小野八幡神社を報恩寺の鎮守にした」という話と「報恩寺の鎮守とするために小野八幡神社を建てた」という話があるので創建の時期はどれが正しいのか分かりませんが、少なくとも800年以上の歴史を持つ由緒ある神社であることは間違いありません。(大丸北側の地から現在地に遷ったのは戦後になってからです)




 
社殿左には白玉國高稲荷と巳神社(左)、右には金刀比羅社が鎮座しています(右)。



 拝殿の左に建つ白玉國高稲荷の鳥居の傍らに、小さな慰霊碑が建てられています。この慰霊碑は、1945(昭和20)年3月の神戸大空襲で宿直勤務中に殉職した7名の電話交換手の慰霊のために建てられたものです。御幸通にあった神戸中央電話局葺合分局に勤務していた皆さんは、「通信を確保せよ」という軍令を受け、何があっても職務から離れないよう義務付けられていたため、空襲の爆音が鳴り響いて周囲が火の海と化していたにも関わらず、必死に電話を繋ぎ続けて犠牲になったといいます。交換手たちが犠牲になった地に新しいビルが建てられた際に慰霊碑が建立されましたが、阪神淡路大震災のためにそのビルが全壊したために小野八幡神社の境内に移されたそうです。こんな町なかにも、戦争の傷跡はひっそりと残されています。




 
大空襲で殉職された電話局員の方々の慰霊碑(左)。右は震災で折れた鳥居。



アクセス
・JR「三ノ宮駅」下車、南へ徒歩7分
・阪急電車「三宮駅」下車、南へ徒歩8分
・阪神電車「三宮駅」下車、南へ徒歩7分
・神戸市営地下鉄「三宮・花時計前」下車、南へ徒歩3分

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

このアイテムの詳細を見る