神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・弓場八幡神社。

2007年05月29日 | ■神戸市須磨区
厄除・学業成就・家内安全・交通安全

弓場八幡神社

(ゆみばはちまんじんじゃ)
神戸市須磨区南町3-2-11




赤鳥居は1995(平成7)年12月、玉垣は2003(平成15)年に再建されました。


〔御祭神〕
誉田別尊
(ほんだわけのみこと)
五十猛命
(いそたけるのみこと)
菅原道真公
(すがわらのみちざね)



 阿保親王の次男で「伊勢物語」を書いた事でも有名な在原業平卿の兄である平安時代の歌人・在原行平卿は、光孝天皇の怒りに触れたために須磨での蟄居を余儀なくされますが、その際に山から登る月を眺めて須磨での暮らしの寂しさを紛らわせたといわれています。この故事にちなんで「月見山」という風雅な名前が生まれ、旧東須磨村では「月見ノ下」や「月見口」という字名が残されていました。山陽電車が1910(明治43)年3月に設置した新駅に「月見山駅」という名前を採用して以来「月見山」という名前が市民に定着していた事から、1930(昭和5)年に正式に町名として採用される事となりました。





1954(昭和29)年に建て替えられた社殿。



 山陽電車の月見山駅から南東へ5分ほど歩いた住宅街の中に鎮座している弓場八幡神社の創建時期については確かな記録は残されていませんが、1000年以上も前の永延年間(987~989)に建てられたという言い伝えが残されています。旧東須磨村の氏神として村人の崇敬を集めていた弓場八幡神社には、その名の通り三十三間の長さを持つ射場があり、毎年旧暦の2月1日には「御弓の当(おゆみのとう)」と呼ばれる儀式が行われていましたが、残念ながら明治に入って途絶えてしまいました。





社殿の左奥には弓瀧稲荷神社が鎮座しています。



 誉田別命(=応神天皇)を主祭神として祀る弓場八幡神社には、明治時代に入って五十猛命(いそたけるのみこと)を祀る権現社菅原道真公を祀る天満宮が祀られるようになり、1954(昭和29)年の社殿建て替えを契機に合祀されるようになりました。1995(平成7)年1月17日に起こった阪神・淡路大震災の際には、社務所が全壊するなど弓場八幡神社も少なからずダメージを受けますが、不思議なことに神輿だけは全くの無傷で被害を免れています。





社殿手前には地蔵尊も祀られています。


アクセス
・山陽電車「月見山駅」下車、南へ徒歩5分
弓場八幡神社地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放
 

神戸の神社
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神戸・平重衡とらわれの松跡。

2007年05月20日 | ■神戸市須磨区


平重衡とらわれの松跡

(たいらのしげひらとらわれのまつあと)
神戸市須磨区須磨寺町1-13-1


源平ゆかりの史跡



須磨寺駅のすぐ隣にひっそりとたたずんでいます。


平重衡公
(たいらのしげひら)



 腕塚胴塚で祀られている平忠度公は西の要衝である一の谷の守将でしたが、今回ご紹介する平重衡公は、東の前線基地であった生田の森の守りを固める平家方の副大将でした。平清盛公の五男に生まれた平重衡公は平家の公達として若い頃から順調に位階を重ねます。また平家を支える武将として反平家の動きを封じるために各地を転戦、以仁王源頼政公の叛乱を早々に制圧したり、興福寺宗徒の抵抗を抑えるために奈良に進攻して東大寺の大仏を焼き払ったりしたことでも知られています。









 源義仲公の進撃によって都落ちした平家は、再び軍勢を整えて盛り返し、平家追討のために西へと進撃してきた源範頼軍と源義経軍を迎え撃つために西は一の谷、東は生田の森に前線を構築して守りを固めました。平知盛公を総大将とする平家軍と源範頼公率いる源氏軍は、源氏方の河原太郎高直河原次郎盛直兄弟が先陣を切ったことで戦闘状態に入り、源氏方の激しい攻勢を支えきれなくなった平家方は総崩れ。副大将だった平重衡公も再起を期するために馬に飛び乗って西へと落ち延びます。山陽道沿いに西へと駆けた平重衡公は板宿を抜け、須磨寺近くへとたどり着きます。一心に駆けてきた平重衡公は、須磨寺の手前のこの地まで来て一息つこうとした時に源氏方に追いつかれ、馬を射られて生け捕りにあってしまいます。捕らえられた平重衡公は、松の根に腰を下ろして悔し涙に暮れたと言われています。その様子に同情した村人が一杯の濁酒を献上したところ、平重衡公は村人の心遣いにとても喜び、その心情を歌にして残されたといわれています。


「ささほろや 波ここもとを 打ちすぎて 須磨で飲むこそ 濁酒なれ」


 その後捕虜として鎌倉に護送されますが、その器量に感服した源頼朝公は平重衡公を丁重に扱ったといいます。しかし、南都焼討ちを恨みに思う宗徒たちから執拗に身柄引き渡し要求があったこともあって東大寺の使者に引き渡され、木津川のほとりで斬首されて最期を遂げました。それを聞いた人々は平重衡公の死を悼み、生け取りにされたときに腰掛けた松の脇に祠を建てて遺徳を偲んだと言われています。



アクセス
・山陽電車「須磨寺駅」下車すぐ
 平重衡とらわれの跡地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


決定版 図説・源平合戦人物伝 (歴史群像シリーズ)
左方 郁子
学習研究社

明石・腕塚神社

2007年05月18日 | □兵庫県 -播磨(姫路以外)


腕塚神社

(うでつかじんじゃ)
明石市天文町1-1



天文科学館のすぐ近くにある腕塚神社。


源平ゆかりの史跡
平忠度公



 一の谷の戦いに敗れた平薩摩守忠度公は、再起を期して戦場を離脱し、海からの脱出を目指します。しかし、神戸市長田区駒ヶ林町のあたりで源氏方の武将・岡部六弥太忠澄公の追撃を受け、一時は逆に岡部忠澄公を組み敷きますが、主君の危機を救おうとその郎党が振り下ろした刀に腕を切り落とされたことから、死期を悟り潔く最期を迎えたという話は腕塚堂の記事で掲載させていただきました。

 しかしこの伝説には別の説があり、一の谷の戦場を脱出した平忠度公は海岸沿いに陸路で西への脱出を図り、明石の人丸山の付近まで逃げ延びてきたという説も残されています。そして両馬川あたりで、追撃を続けてきた岡部忠澄公たちに追いつかれて刃を合わせたといわれています。






 その両馬川の流れも現在では暗渠化されてしまい、平忠度公の故事を偲ぶ手段は山陽電車人丸駅脇の高架橋脚のところに建てられた石碑や腕塚神社忠度塚くらいになってしまいました。







 山陽電車人丸前駅の南にある住宅街のなかに鎮座している小さな神社が、平忠度公の腕を祀っているといわれる腕塚神社です。胴塚や首塚はよくききますが、腕だけを祀っている神社はあまり聞いたことがありません。この腕塚神社は、腕に関する病気にたいそう良く効くといわれ、昔から参拝する人々が絶えなかったそうです。また、境内には地元の彫刻家の方が彫って奉納したという木製の右腕が祀られていて、その腕でケガをした部分を撫でれば傷が癒えるといわれています。

 もともと腕塚神社は、今より西に30メートルほどの場所にあったのですが、1984(昭和59)年の山陽電車の高架化工事によって現在地に移転されました。祠が祀られていた土地は、平忠度公の故事にならって「右手塚町(うでづかちょう)」と呼ばれていましたが、明石市立天文科学館が建てられ、「子午線のまち明石」というイメージをアピールする目的もあってか「天文町」という町名に変えられてしまいました。

 今でも地元自治会の方々の手によって守られている腕塚神社。昔も平忠度公の霊を慰める祭事はおこなわれていましたが、現在地に遷座されてからは、毎年3月の第1日曜日に謡曲「忠度」を連吟奉納して御霊を慰める祭礼が行われているそうです。




アクセス
山陽電車「人丸前駅」下車、西へ徒歩2分
腕塚神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
無料

拝観時間
常時開放


決定版 図説・源平合戦人物伝 (歴史群像シリーズ)
左方 郁子
学習研究社

神戸・平忠度公 腕塚堂。

2007年05月13日 | ■神戸市長田区


平忠度公・腕塚堂

(うでつかどう)
神戸市長田区駒ヶ林町4-5-8



この路地を入った中に腕塚堂があります。


源平ゆかりの史跡
平忠度公



 平薩摩守忠度公の胴塚の南東の住宅街の中に腕塚堂があります。住宅街の北側の道路沿いには看板と石碑が立てられていますが、細い路地の入り組んだ先にある腕塚堂にたどり着くには地図を片手に行くほうが無難です。




住宅地の中にある腕塚堂。地図必携です。



 源氏方の攻勢に押され、木曽義仲公の京都進攻によって都落ちを余儀なくされた平氏。安徳天皇と三種の神器を奉じながらの退却戦の混乱のさ中、文武両道に優れ「平氏一門の花」と称された平薩摩守忠度公は、いったん京に立ち戻って和歌の師・藤原俊成卿に歌集を託し、西へと撤退していきます。

 都落ちした平氏は軍勢を建て直して摂津国福原まで盛り返し、改めて生田の森と須磨・一の谷に拠点を築いて源氏の軍勢を迎え撃ちます。しかしながら、平氏側の予想を覆す「鵯越の逆落とし」と呼ばれる奇襲によって一の谷の防衛線は崩壊、平経俊公、平知章公、平業盛公、平敦盛公など多数が討死してしまいます。ここでの惨敗と一門の多くの有力武将の喪失が、その後の急速な平家滅亡の流れを決定付ける結果となりました。





腕塚堂。



 多くの武将が討ち取られていく中、平忠度公は捲土重来を期して海への脱出を図りますが、源氏方の武将・岡部六弥太忠澄公の追撃を受けてしまいます。無益な戦いを避けようと、味方であるという芝居を打った平忠度公の仇となったのが、公家文化の習いの「お歯黒」だったといわれています。お歯黒に気付いた岡部忠澄公は「これは平家の公達に違いなし」と確信し、平忠度公に組み付きます。

 組み付いて攻めてくる岡部忠澄公を剛力でねじ伏せて返り討ちにしようとした平忠度公ですが、駆け付けた郎党に右腕を斬り落とされたことで死期を悟り、念仏を唱えた後「ただ首を取れ」と潔い最期を遂げます。

 首を取ったのちに箙から「ゆきくれて 木の下かげを 宿とせば 花や今宵の 主ならまし」としたためられた紙を見つけた岡部忠澄公は、そこに「平忠度」と記されているのを見て「ああ、風雅に長じた名将であった」と嘆き、敵・味方の別なく多くの人々がその死を悼んだといわれています。




お堂の脇に立つ供養塔。



 ※平忠度公終焉の場所に関しては、ここ長田の地であるという説以外にも明石であるという説があり、山陽電車「人丸前駅」付近に腕塚神社が、そしてその南に忠度塚などがあります。



アクセス
・JR神戸線「鷹取駅」下車、南東へ徒歩12分
・神戸市営地下鉄「駒ヶ林駅」下車、南西へ徒歩5分
 平忠度公・腕塚堂地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


決定版 図説・源平合戦人物伝 (歴史群像シリーズ)
左方 郁子
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神戸・平忠度公 胴塚。

2007年05月12日 | ■神戸市長田区


平忠度公・胴塚

(どうづか)
神戸市長田区野田町8丁目





源平ゆかりの史跡
平忠度公



 幸殿社から南東に歩みを進めてすぐのところ、民家が立ち並ぶ一角に「平家一門の花」と呼ばれた平薩摩守忠度公の胴塚が静かにたたずんでいます。付近にある腕塚堂などと並び、源平の激戦の名残りを今に伝える史跡として地域の方々に守られています。






 平忠度公は、平家で初めて昇殿を許され、日宋貿易で富をなして平家政権の基礎を作った平忠盛公の六男。平清盛公の末弟にあたる平安時代末期の武将です。京都育ちの兄たちとは違って熊野で育った平忠度公は、武勇に優れるとともに歌の道にも長じ、文武両道に優れた名将へと成長します。富士川の戦い倶利伽羅峠の戦いなどで奮戦しますが、源氏の攻勢に押され、平氏は京都からの撤退を余儀なくされます。

 都落ちの際、山崎あたりまで逃れたところで京へと引き返し、和歌の師匠である藤原俊成卿のもとへと向かいます。平家の落人が来たことに屋敷内が騒然となりますが、朝敵となった自分を屋敷に入れるわけには行かない藤原俊成卿の立場を慮った平忠度公は、閉じた門越しに自作の和歌をまとめた巻物を託し「今は浮き世に思い残すことなし」と西へ落ちていきました。

 愛弟子との辛い別れに心を痛めた藤原俊成卿はのちに自ら撰した「千載集」の中に、平忠度公の託した歌集から「さざ波や志賀の都はあれにしを 昔ながらの山ざくらかな」という一句を選んでいます。朝敵となってしまったために名前を明記することが出来ませんでしたが、才能溢れた優れた弟子であった平忠度公の残した歌を「詠み人知らず」として掲載し、その死を悼んでいます。都落ちのあと、源氏方の武将・岡部六弥太忠澄公に討たれて41歳で落命するくだりは、腕塚堂の記事の際に掲載します。






 胴塚の石碑は、1917(大正6)年に地元の自治会が中心となって建立したものです。阪神・淡路大震災では倒壊し、2メートルほどの高さの碑は割れてしまったままでしたが、神戸市教育委員会地域史跡に認定したことで再建の機運が高まり、地元の方々や企業の協力によって修復が進められ、2003(平成15)年7月8日に除幕式が行われました。



アクセス
・JR神戸線「鷹取駅」下車、南東へ徒歩10分
 平忠度公・胴塚地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


決定版 図説・源平合戦人物伝 (歴史群像シリーズ)
左方 郁子
学習研究社

神戸・幸殿社。

2007年05月09日 | ■神戸市長田区
疫病・災難除け

幸殿社

(こうでんしゃ)
神戸市長田区野田町7-7-1



すぐ近くには平忠度公の胴塚があります。


〔御祭神〕
素盞雄尊
(すさのおのみこと)



 JR鷹取駅から国道2号線を越えて南に進むと、神戸野田高校のすぐ南東に、石垣に囲まれた神社を見つけることが出来ます。ここは素盞雄尊を御祭神とする幸殿社。この地域の氏神として250年ほどの歴史を持つ神社で、緑鮮やかな大きなクスノキが目印となっています。 




向かって南側の石垣の切れ間に建つ明神鳥居。



 幸殿社は1752(宝暦2)年7月に旧野田村の鎮守として創建されたと伝えられています。もともと幸殿社の境内には、名前の由来にもなった「幸殿松」と呼ばれる立派な松が生えており、地域の産土神として崇敬を集めていました。幸殿松は残念ながら明治時代には枯れてしまったそうですが、幸神すなわち荒神賽の神が宿る霊木として、古くから祭祀が行われていたと考えられています。

 現在は駒林神社の管理下にある幸殿社ですが、以前は須磨区大手町あたりから長田区駒ヶ林町までの広大な範囲の氏神として崇敬を集めていた證誠神社の流れを汲む神社でした。




木陰で涼やかな空気に包まれた社殿。



 野田地区の浜にあたる長楽浜には神功皇后が上陸されたという伝説が残されています。三韓征伐の帰途、白砂青松の美しい浜に上陸した神功皇后は、この美しい景色をいつまでも長い間楽しむことが出来るようにと「長楽浜」と名付けたと言われています。

 長楽浜にあった盗人松といわれる松は長田神社の御旅所とされていて、春の大祭の時には祭礼の行列とともに長田神社から3,333体の藁人形を運び、長楽浜のこの御旅所で切り刻むという神事が行われていました。以前、須磨区の元宮長田神社のところでもご紹介しましたが、これは三韓征伐での凄惨な光景を再現したものだといわれており、元宮長田神社を祀った前田家の手で行われていたそうです。




社殿の左脇に並ぶ摂社です。



 幸殿社の周囲をぐるっと囲んでいる石垣には亀甲型の石が使われています。この石は、岐阜県の木曽川上流までわざわざ買い付けにいったものだそうで、柔らかい印象を与えてくれています。



アクセス
・JR神戸線「鷹取駅」下車、南東へ徒歩10分
 幸殿社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

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神戸・東尻池長田神社。

2007年05月08日 | ■神戸市長田区
家内安全

東尻池長田神社

(ひがししりいけながたじんじゃ)
神戸市長田区東尻池町2-5-9



民家脇の砂利道の奥に祠が鎮座しています。


〔御祭神〕
事代主命
(ことしろぬしのみこと)



 国道2号線の東尻池交差点の北西の住宅街の中に、長田神社と同じ事代主命を祀る小さな祠があります。ここ東尻池長田神社は民家の敷地の中にあり、普通に歩いているだけではついつい見過ごしてしまうほどの小さなお社ですが、「チリンさん」という呼び名で地域の人々の崇敬を集めています。




閉じられた木戸の向こうに社殿が鎮座しています。
14坪ほどの小さなお社です。



 東尻池長田神社は、はっきりとした創建時期は不明ですが、400年以上の歴史を持つと考えられています。その昔、旧東尻池村には長田神社の御旅所があったそうで、その関係から村の名家であった宗國家長田神社より事代主命を勧請して自らの屋敷の中に祀ったのが始まりとされています。明治の頃には26坪の敷地を持っていたとの記録が残されており、1915(大正4)年の大正天皇の御即位の御大典の際には、これを記念して石灯篭が建立されました。




阪神淡路大震災で被害を受けましたが、無事修復されました。




アクセス
・JR神戸線「新長田駅」下車、南東へ徒歩15分
・神戸市バス3・81・85系統「東尻池2丁目」バス停下車、西へ徒歩2分
 東尻池長田神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放(民家の奥ですので夜はご遠慮ください)

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神戸・住吉神社(長田)。

2007年05月06日 | ■神戸市長田区
西尻池地域の家内安全・商売繁盛

住吉神社

(すみよしじんじゃ)
神戸市長田区西尻池町2-5-1




国道2号線を北へ入った、工場や民家に囲まれた中に鎮座する住吉神社。


〔御祭神〕
住吉大神
(すみよしたいしん)



 住吉大神は、底筒男命中筒男命表筒男命住吉三神のことで、黄泉国から帰ってきた伊邪那岐命(いざなぎのみこと)日向国・橘之小門安波岐原で禊をした際に海の中で誕生した神さまです。神功皇后に神懸りして「西方に豊かな国があるので、それを与えて服属させよう」という天つ神の御心を託宣し、三韓征伐を促し導いたとされ、航海の安全を護る力を持つといわれています。西尻池に祀られているこの住吉神社は、それとは少し異なり、住吉大神の荒魂としてのバイタリティの部分から、産業開運・事業繁栄と旧西尻池村の人々の家内安全をもたらす神さまとして崇敬を集めています。





阪神・淡路大震災で被害を受けた後に再建された社殿。



 いつ頃からこの地に住吉神社が祀られていたかは不明ですが、境内に「元西尻池村村社」と記されているように、この地域の守り神として長く村人たちの崇敬を集めていたと思われます。先の大戦ののち、いったん御祭神を長田神社に遷していましたが、1947(昭和22)年に仮本殿が再建され、再び西尻池に戻されました。その後、「住吉神社御造営奉賛会」が結成されて本格的な再建が検討されましたが、氏子たちが疎開したまま戻らなかったりするなど計画はなかなか前に進められないまま月日が経っていきました。再建が大きく進むきっかけとなったのが、1968(昭和43)年に始められた阪神高速道路の建設です。これに伴う都市計画によって住吉神社は移転されることになり、ようやく社殿の本格的な造営が行われて1969(昭和44)年3月に遷座祭が行われました。阪神淡路大震災で社殿が倒壊する被害を受けましたが、1997(平成9)年に再興されています。




 
社殿の左手に建てられた社務所(左)と、社殿へ続く石畳の脇にある手水鉢(右)。


アクセス
・JR神戸線「新長田駅」下車、西へ徒歩10分
住吉神社地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放 (※入口が施錠されている可能性あり)

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神戸・射場八幡神社。

2007年05月05日 | ■神戸市長田区
開運・厄除

射場八幡神社

(いばはちまんじんじゃ)
神戸市長田区東尻池町1-14-4



神戸市立長田中学校のすぐ南側に鎮座しています。


〔御祭神〕
誉田別命
(ほんだわけのみこと=応神天皇)



 神戸市長田区には、長田神社をはじめ、神功皇后ゆかりの神社がいくつか存在しています。阪神高速3号線・湊川ランプの北東、新湊川の東側の住宅街の一角に鎮座している射場八幡神社もそんな神功皇后ゆかりの神社の一つです。




射場八幡神社の社殿。残念ながら、境内に入って撮る事は出来ませんでした。



 この辺りは、200(仲哀天皇9)年に行われたと言われている神功皇后三韓征伐へと向かう折、弓初めの儀式が行われたといわれる場所です。その伝説にちなみ、807(大同2)年に豊前国の宇佐八幡宮を勧請して祠を建てて祀ったのが射場八幡神社の始まりだと言われています。

 本格的な社殿は1850(嘉永3)年に建立され、1907(明治40)年には社殿や社務所・練塀など境内の整備が行われました。神戸大空襲などの被害は免れましたが、阪神淡路大震災では大きな被害を受けたそうです。

 境内には、射場八幡神社の社殿以外に天照皇大神社愛宕神社春日神社八坂神社の4社が祀られています。かつてこの地域は、旧八部郡尻池村があったエリアで、新湊川(苅藻川)をはさんで東村と西村に分けられていました。東村は1903(明治36)年に東尻池町となりましたが、その東尻池町の各地に祀られていた神社が、1951(昭和26)年に行われた神戸市の都市計画事業などのために遷座され、射場八幡神社の境内に並んで祀られています。




境内には天照皇大神社・愛宕神社・春日神社・八坂神社が祀られています。




アクセス
・JR神戸線「新長田駅」下車、東へ徒歩10分
・神戸市バス「東尻池町2丁目」下車、北東へ徒歩3分
 射場八幡神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・普段は開放していないようです。

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神戸・稗田水神社。

2007年05月03日 | ■神戸市灘区
水難守護・商売繁盛

稗田水神社

(すいじんじゃ)
神戸市灘区灘北通5-6-6




JRの車内からも見える大きなクスノキが目印です。


〔御祭神〕
罔象女神
(みずはのめのかみ)
倉稲魂神
(うかのみたまのかみ)



 JR灘駅から大阪行きの電車に乗ると、北側の住宅街の中にひときわ高く伸びるクスノキの緑を見つけることが出来ます。このクスノキは、水難守護と商売繁盛の神さまとしてこの地域の崇敬を集める稗田水神社の目印として、厳しい陽射しをさえぎり憩いの境内を演出しています。昔から水害が多く、稗しか作る事ができないということから「稗田」と呼ばれていたこの地域。そんな稗田の地で、村人たちが農作物の無事を祈念するために水の神様である罔象女神を祀る神社を設けたのは、17世紀半ば頃の承応年間(1171~1175年)の事だといわれています。





路地に入ったところに立っている鳥居。震災の被害を受けたのか、笠木はありません。


 
 豊臣秀吉公によって行われた太閤検地でも、村域の大小はありますが旧都賀荘の村の中では八幡村が360石、都賀村が330石の石高があるのに対し、稗田村はわずかに81石と、やはり稲作にとって厳しい土地であったようです。そのような土地であるが故に一層厚い崇敬を集めていた稗田水神社は、地域の厄災守護の神社として長く継承され、1873(明治6)年8月には村社に指定されました。その後、1909(明治42)年2月には稲荷神社が合祀されました。その稲荷神社では、毎年2月に初午祭が行われています。祭りといえば、1902(明治35年)までは「ふとんだんじり」が例大祭を盛り上げ、1910(明治43)年から昭和初期までは3基の神輿が出されて祭礼を盛り上げていたようです。戦後は一時期中断されていましたが、30年ほど前から神輿が復活しているそうです。





水の神・罔象女神を祀っている社殿。


社殿の右に建つのが稲荷神社です。


アクセス
・JR神戸線「灘駅」下車、北東へ徒歩5分
・阪急電車「王子公園駅」下車、南東へ徒歩3分
・阪神電車「西灘駅」下車、北へ徒歩3分
稗田水神社地図 Copyright:(C) 2014 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
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神戸・神戸水天宮。

2007年05月01日 | ■神戸市長田区
安産・水難守護・疫病除け・火除け・航海安全・子ども守護

神戸水天宮

(こうべすいてんぐう)
神戸市長田区長田天神町5-5-1







〔御祭神〕
天御中主神
(あめのみなかぬしのかみ)
安徳天皇
(あんとくてんのう)
建礼門院
(けんれいもんいん)
二位の尼・平時子
(にいのあま)



 神戸電鉄長田駅の西に位置する長田天神町。ここは、その昔天神山と呼ばれた場所で、長田神社の神さまが最初に降り立った地だといわれています。伝説では、神聖な清浄の地であった天神山に降臨された事代主命は、麓の賑やかさに惹かれ、人里を離れ寂しい場所であった天神山を下りられて現在の長田神社の地に遷座されたといわれています。





白い鳥居の奥には朱塗り鮮やかな社殿が鎮座しています。



 平安時代末期、神戸に都を築いた平清盛公。そのとき神戸・福原京の主として入京されたのが、まだ2歳の幼き帝・安徳天皇でした。平家と皇室との結びつきの象徴だった安徳天皇は、1185(元暦2)年の壇ノ浦の戦いで大敗を喫した平家と運命をともにし、祖母であり平清盛公の正室であった二位の尼に抱かれて入水。わずか8歳で崩御されるという悲劇的な最期を遂げました。この時建礼門院に仕えていた官女の按察使局伊勢壇ノ浦を脱出し、久留米の鷺野ヶ原安徳天皇と平家一門を祀る祠を建てて菩提を弔い水天宮総本宮のもとを築いたという話は、日本橋水天宮の記事で掲載させていただいた通りです。





1997(平成9)年に鮮やかに塗り直された美しい社殿。



 1914(大正3)年、神戸にゆかりの深い悲劇の幼帝・安徳天皇の御魂を慰霊するため、西学治氏が中心となって久留米の水天宮総本宮に請願を行い、水天宮講社神戸支部を結成します。水天宮総本宮より勧請された御分霊は当初楠町に祀られ、その後熊野神社の境内に遷されます。そして1923(大正12)年4月、現在の天神山の地に社殿を築き神戸水天宮として祀られるようになりました。戦後、1973(昭和48)年には幣殿と拝殿を造営、宗教法人神戸水天宮して再スタートを切りました。




 
白長社(左)と末社長田社(右)。境内には水天宮を開いた西家を祀るお社もあります。



 その後、境内の整備が進められ、1974(昭和49)年には社殿の右側に末社長田社が建立され、鳥居や手水舎、末社白長社などの社殿が次々に建てられました。1997(平成9)年10月には社殿と境内の柵や手すりなどが鮮やかな朱色に塗り直され、現在の美しい姿にリニューアルされました。神戸水天宮の御祭神である天御中主神高天原に最初に現れた神で、宇宙の根源神として万物創造の神として信仰され、子育てと安産の神さまとして崇敬を集めています。また、安徳天皇は水難・病気・火災・航海などの厄除け招福、さらには子どもの守護神として崇敬を集めています。





樹齢96年になるクスノキ。雨上がりには良い香りが
すると神職の方が教えてくれました。


アクセス
・神戸電鉄「長田駅」下車、西へ徒歩10分
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

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