神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

和歌山・紀三井寺。

2012年01月04日 | ◆和歌山県


紀三井山 金剛宝寺 護国院

(きみいさん こんごうほうじ ごこくいん)
和歌山県和歌山市紀三井寺1201


西国三十三箇所観音霊場・第2番札所

通 称
紀三井寺
(きみいでら)



国の重要文化財に指定されている楼門。1509(永正6)年に建立されたと伝えられています。



〔宗派〕
救世観音宗 総本山

〔御本尊〕
十一面観世音菩薩像



 和歌山県を代表する名刹として知られる紀三井寺は、今を遡ること1200年以上前の奈良時代、光仁天皇の御世の770(宝亀元)年に唐の高僧・為光上人(いこうしょうにん)の手によって開かれたといわれています。熱い志を持って厳しい航海を耐え、我が国へと渡ってきた為光上人は、仏教によって民衆を救済すべく諸国を巡礼し、熱心に布教活動を進めていました。その行脚の途中、紀伊国のこの地を訪れた為光上人は、現在紀三井寺が立つ名草山の山頂から一筋の光が発せられているのを見て霊威を感じ、夜が明けてから山を登って霊光のもとを辿ったところ、大きな松の根元に光り輝く千手観音の御姿を御感得されたといわれています。

 「この地こそ観音慈悲の霊場、仏法弘通の勝地なり」と喜んだ為光上人は、さっそく千手観音の親仏とされる十一面観世音菩薩像を彫り上げ、一宇の御堂を建立して尊像を安置されました。これが紀三井寺の起こりだといわれています。この名草山には「吉祥水」「清浄水」「楊柳水」と呼ばれる霊泉があった事から“紀伊国にある、3つの井戸が湧く山”という意味で「紀三井山」の山号がつけられました。





231段ある急峻な「結縁坂」(左)と、その中ほどにある七鈴観音(右)。



 和歌の浦を見渡す美しい眺望にも恵まれた紀三井寺は、古より地元の方々だけでなく全国各地からの崇敬を集め、歴代の天皇も度々御幸されています。平安時代末期に後白河法皇紀三井寺を勅願所と定められた事もあって益々隆盛を誇るようになります。江戸時代には、和歌山城から近い名刹とあって歴代の紀州徳川家藩主が繁栄祈願のために頻繁に来山するようになり、「紀州祈祷大道場」と位置づけられて厚い庇護を受けるようになりました。紀三井寺はもともと真言宗山階派の勧修寺に属していましたが、1948(昭和23)年3月20日に16ヶ寺の末寺を擁する救世観音宗の総本山として独立を果たし現在に至ります。





紀三井寺の名の元となった3つの湧水のひとつ「清浄水」(左)は「名水百選」にも選ばれています。
右は、明かりに照らされて夜空に浮かび上がる仏殿。2002年に完成しました。



 「紀三井寺」と呼ばれるもととなった3つの湧き水。結縁坂の中段にあるのが「清浄水」、その南数十mのところに湧いているのが「楊柳水」。残るひとつ「吉祥水」は、かなり北に離れた場所にあります。このうち「楊柳水」と「吉祥水」は長く荒れ果てていましたが、近年になって整備され、往時を偲ばせる清水を湛える名水として復活しました。3つの井戸に現在の名前が付けられたのは、江戸時代に入ってから。徳川家康公の10男で初代紀州藩主となった徳川頼宣公の命によって儒学者・李梅渓がその名を付けたのが最初といわれています。

 この3つの名水の水質を守るため、「紀三井寺三井水保存会」や「吉祥水保存会」の皆さんが日頃から周辺の清掃を行うなど尽力されており、年2回環境省が行っている水質検査でも良好な水質状態である事が証明されています。ただ、飲用する場合には念のためいったん煮沸してから飲んだほうが良いという事です。





1588年建立と伝わる鐘楼(左)と、拝めば三十三霊場巡礼と同等の功徳があるという六角堂(右)。


 
 室町時代の1509(永正6)年に建立されたと伝えられる楼門をくぐると、急峻な長い石段が参拝者を待ち受けています。この坂は231段あり、「結縁坂(けちえんざか)」と呼ばれていますが、この坂には江戸時代を代表する豪商・紀伊国屋文左衛門にまつわるエピソードが残されています。紀伊国の湯浅(現在の和歌山県有田郡湯浅町)出身の紀伊国屋文左衛門は、紀州で産出される蜜柑や材木などの交易を通じて一代で巨万の富を築いた豪商として知られていますが、彼にまつわる話には伝説化されたものも多く、実際にどのような人物だったのかを詳細に語るものはありません。この紀三井寺結縁坂にまつわる話もそんな伝説を形作っている逸話のひとつですが、紀伊国屋文左衛門が豪商となる原点のエピソードとなっています。

 若い頃の紀伊国屋文左衛門は、貧しいけれども親孝行で信心深い青年でした。その日も老いた母親を背負いながら、紀三井寺の長い石段を登って観音様にお参りしていた紀伊国屋文左衛門でしたが、途中で草履の鼻緒が切れてしまい、困り果ててしまいます。その姿を見かねて鼻緒を直してくれたのが、紀三井寺の向かいに鎮座する玉津島神社の宮司の娘・おかよでした。この事がきっかけとなって恋仲となった2人は夫婦となります。紀伊国屋文左衛門は「紀州の蜜柑を江戸に運び、返し船で江戸の塩鮭を積み帰って売りさばき、大儲けをした」事がきっかけで江戸時代を代表する豪商へと成長したといわれていますが、この時に荷を積み込む船を仕立てる資金を出資したのがおかよの父である玉津島神社の宮司だったといわれています。この故事に因んで、紀三井寺の石段は良縁成就と立身出世、商売繁盛にご利益がある坂だとして「結縁坂」と呼ばれるようになりました。現在も、結ばれたいと思う人と一緒に結縁坂を登り、御本尊に一心に祈りを捧げると恋が成就するといわれ、多くのカップルがこの長い石段を支え合いながら登っていく姿が見られます。





江戸時代の1759(宝暦9)年に建立された本堂。「観音堂」とも呼ばれています。



 紀三井寺は、関西で最も早咲きの桜が見られる名所として「日本さくら名所100選」にも選ばれています。例年3月末頃から咲き始め、4月下旬にかけて約3,000本の桜で彩られる紀三井寺は、境内から一望できる和歌の浦の風景も相俟って、古来より多くの文人墨客や花見客が足を運ぶ名所として賑わいを見せていました。晩年に紀州を訪れた俳聖・松尾芭蕉が、桜の名所として名高い紀三井寺に心躍らせながら足を運んだものの、残念ながら既に桜は散ってしまっており非常に落胆した、という逸話も残されています。その時に詠んだ句が「見あぐれば さくらしまふて 紀三井寺」。せっかく喜び勇んで紀三井寺に来たものの、もう桜は散ってしまっていた…という物悲しい気持ちを表したこの句を刻んだ碑は、結縁坂の中腹にある「清浄水」の脇に建てられています。





1449(文安6)年の建立といわれる多宝塔(左)と、境内にある塔頭・善寿院(右)。



アクセス
・JR紀勢本線「紀三井寺駅」下車、南へ徒歩10分。

紀三井寺地図 Copyright:(C) 2012 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・大人:200円、小人:100円 ※仏殿拝観にはさらに200円が必要、参拝・仏殿拝観の合同券は300円。

拝観時間
・8時~17時

公式サイト