神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

明石・青龍神社。

2009年06月27日 | □兵庫県 -播磨(姫路以外)
豊作豊漁、安産守護、海上安全

青龍神社

(せいりゅうじんじゃ)
明石市藤江字出ノ上



県道718号線沿いに立つ鳥居。青龍神社はこの小高い丘の上にあります。


〔御祭神〕
葺不合命
(ふきあえずのみこと)
神武天皇
(じんむてんのう)
玉依姫
(たまよりひめ)
允恭天皇
(いんぎょうてんのう)
少童海神
(わたつみのかみ)


 県道718号線、通称「旧浜国道」と藤江川が交差する地点に、緑に包まれた小高い杜があります。道路沿いに立つ大きな明神鳥居がひときわ目を引くこの神社は青龍神社。鎌倉時代に創建されたといわれている古社です。もともとこの地には既に厳島神社が祀られており、藤江村が発展するにつれて新しく青龍神社をお祀りしたために厳島神社は末社として祀られるようになったという伝承も残されていることから、人々の信仰の場としての歴史はさらに長いものだと考えられます。

 また、青龍神社があるこの丘は、縄文時代の土器や石器などが発見された藤江出ノ上遺跡としても知られています。国立歴史民俗博物館の教授も務められた春成秀爾氏がまだ学生だった1959(昭和34)年に確認した遺跡で、藤江川周辺には藤江別所遺跡藤江川添遺跡など縄文時代や旧石器時代の遺跡が点在していることから、この流域を中心に古くから栄えていた土地であることが分かります。



 
石段を登ると広がる境内(左)と、参道の右手に建てられている石碑(右)。


 近隣の林神社に伝わる話によると、1254(建長6)年9月に上宮青龍五社大明神を勧請し、社殿を建てて祀ったのが青龍神社の始まりとされています。高台の「上野」と呼ばれていた地に少童海神(わたつみのかみ)を祀って鎮座し、かつて「上野宮」や「上の宮明神」という別称で呼ばれていた林神社は、1005(寛弘2)年に彦火々出見尊豊玉媛命葺不合尊玉依媛命の4柱を合祀したことから上宮五社大明神と呼ばれるようになっていましたので、青龍神社の御祭神である「上宮青龍五社大明神」というのは、林神社の「上宮五社大明神」のことだと考えられます。

 青龍神社林神社の両方に共通する御祭神として葺不合命(鸕鶿草葺不合尊)玉依姫少童海神が祀られていますが、林神社に祀られている彦火々出見命(神武天皇の祖父と言われている)青龍神社では神武天皇へと変化している点や、林神社には祀られていない允恭天皇がどのような経緯で青龍神社に祀られるようになったかは残念ながらはっきりしていません。




青龍神社の社殿。毎年10月第2週の土日には秋季大祭が行われます。


アクセス
・山陽電鉄本線「藤江駅」下車、南東へ徒歩5分
 青龍神社地図 Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放





三重・日永の追分。

2009年06月19日 | ▽東海地方


日永の追分

(ひながのおいわけ)
三重県四日市市追分3-3013-1




東海道は、ここ「日永の追分」の地において、伊勢神宮へと至る左側の伊勢街道と
京・大阪に至る東海道に分岐します(現在は左・国道1号線、右・県道407号線)。



東海道と伊勢街道の分岐点



 関ヶ原の戦いに勝利し、天下人としての地位を確立した徳川家康公は1601(慶長6)年、全国支配事業の一環として江戸と各地を結ぶ街道の整備を開始しました。江戸の日本橋を基点に、太平洋沿いを経由して大阪へと至る東海道、内陸を経由して近江国(滋賀県)の草津へと至る中山道、甲府を経由して信濃国(長野県)の下諏訪へと至る甲州街道、陸奥白川(福島県白河市)へと至る奥州街道日光東照宮へと伸びる日光街道が次々に整備され、「五街道」と呼ばれて江戸幕府の基幹街道に定められました。

 行政の中心地である江戸から朝廷の存在する古都・京都、そして「天下の台所」と呼ばれ流通の中心地であった商都・大坂を結ぶ大動脈として、多くの物資や旅人が往来する最重要街道として栄えていた東海道は「お伊勢参り」に向かう参拝客たちの主要街道として賑わい、東国から訪れた人々はここ日永の追分から伊勢街道へと歩みを進めていきました。



 
1975(昭和50)年に建てられた9代目の鳥居。もともとは伊勢街道をまたぐように
建てられていました(左)。右は、今も多くの人が水を汲みに訪れる手水場です。



 日永の追分には、伊勢国出身の商人・渡辺六兵衛の手によって1774(安永3)年に鳥居が建てられました。江戸に進出して橘屋という店を構え、紙や酒などを扱う商人として活躍していた渡辺六兵衛は、東海道を旅する人々が伊勢へと向かう分岐点である日永の追分に神宮を遥拝する鳥居がないのは残念だということで、橘屋で支配人を務めていた伊勢屋七右衛門を責任者として鳥居の建設を命じました。

 伊勢街道をまたぐように建てられたこの鳥居は1809(文化6)年に建て替えられ、以来伊勢神宮の式年遷宮に合わせて建て替えが行われています。現在の鳥居は1973(昭和48)年に行われた式年遷宮の際、三重県志摩郡磯辺町に鎮座する内宮の別宮・伊雑宮(いざわのみや)の鳥居を下賜されて1975(昭和50)年に移設したもので、渡辺六兵衛寄進の鳥居から数えて9代目にあたります。1940(昭和15)年に道路が鳥居の東に移されたことで、参拝客が鳥居をくぐって伊勢へと向かう光景はなくなりましたが、9代目の鳥居が建てられた際に現在のような公園として整備された日永の追分は、今も地域の人々のオアシスとして愛され続けています。



 
1849(嘉永2)年建立の道標には「左いせ参宮道・右京大坂道」と刻まれています(左)。
緑に包まれた日永の追分は、地元の人々のひと休みのオアシスとなっています(右)。


アクセス
・近畿日本鉄道内部線「追分駅」下車、北東へ徒歩5分
 日永の追分地図 Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時解放






京都・松尾大社。

2009年06月11日 | ◇京都府 -洛西
諸産業振興・酒業繁栄・健康長寿

松尾大社

(まつおたいしゃ)
京都市西京区嵐山宮町3





〔御祭神〕
大山咋神
(おおやまくいのかみ)
中津島姫命
(なかつひめのみこと)


 阪急電車京都線に揺られながら、桂駅で嵐山線に乗り換えて2駅目の松尾駅に差し掛かると、大きな鳥居が車窓の向こうに見えてきます。ここが、延喜式名神大社としてのちに二十二社のひとつにも選ばれた古社・松尾大社です。松尾山の緑に包まれ、荘厳な雰囲気の松尾大社は「賀茂の厳神、松尾の猛神」と並び称され、皇城鎮護の神として朝廷より厚く崇敬されました。




 
大鳥居から境内へと続く参道(左)と、脇勧請と呼ばれる榊の小枝を下げた注連縄が
張られた朱鳥居(右)。脇勧請は平年は12本、閏年には13本下げられています。


 松尾大社の歴史は古く、5世紀頃に朝鮮半島の百済(近年の研究では新羅という説が有力)から渡来し、山城国一帯で勢力を伸ばしていた秦氏は、桂川に大堰を完成させるなど大規模な開発を進めて財力を蓄えていった頃には既に松尾山の神である大山咋神を一族の総氏神として祀っていたようで、松尾山の山頂近くにある磐座がその原点の地だといわれています。

 その後、701(大宝元)年に文武天皇の勅命を受けた秦忌寸都理(はたのいみきとり)が現在の場所に社殿を造営。松尾山頂の磐座で祀っていた大山咋神を遷座して、娘である知満留女(ちまるめ)を斎女として奉仕させました。それ以来、明治時代に神職の世襲が禁止されるまで、代々その子孫が松尾大社の神職を務めていました。




 
江戸時代初期に建てられたといわれる楼門(左)と拝殿(右)



 桓武天皇が平安京を築いた際には賀茂社と共に松尾大社を「皇城鎮護の神」として厚く崇敬し、730(天平2)年には朝廷より「大社」の称号を贈られました。承和年間(834-847年)には仁明天皇より従三位の神階に叙せられ、852(仁寿2)年には正二位、859(貞観元)年には正一位が贈られるなど神階が進められ、醍醐天皇の治世の927(延長5)年に編纂された延喜式では、特に霊験が著しいとされる名神大社に列せられました。

 さらに1039(長暦3)年には後朱雀天皇によって制定された二十二社の制(重大な国難の際、朝廷より勅使が遣わされて国家安泰の祈願の奉幣が立てる神社を定めたもの)の第4位に列せられるなど高い格式を与えられ、それに伴って多くの荘園を授与された松尾大社は大いに栄えていきました。




 
「松尾造」と呼ばれる社殿は1397(応永4)年に建立され、1542(天文11)年には
大修理が施されました(左)。「酒造の神様」らしく、各地の酒樽が並んでいます(右)。


 その後、武家の世となった鎌倉時代に入っても源頼朝公が参拝して黄金100両、神馬10頭を献上するなど時の権力による庇護は続き、室町幕府第8代将軍・足利義政公や豊臣秀吉公からも神馬が贈られています。

 江戸時代に入っても1333石の社領が朱印状によって保障され、嵐山一帯の山林も社有するなど手厚い保護が続き、明治維新ののちの1871(明治4)年には日本にある全ての神社の中でも第4位に社格を認められて「松尾神社」の名で官幣大社に列せられました。戦後の1950(昭和25)年には「松尾大社」と改称されて現在に至ります。




 
重森美玲氏によって作庭された名園「松風苑」は、3つの庭で構成されています。
雅な雰囲気を湛える「曲水の庭」(左)と磐座をイメージした「上古の庭」(右)。


 松尾大社は「日本第一酒造神」とされ、「酒造の神」としても崇敬を集めています。もともとは酒造とは関係がありませんでしたが、秦氏の氏寺である広隆寺の境内に祀られていた大酒神社の酒造の神が合祀されて「酒造の神」としての神格も備えられていったと考えられます。また、秦氏はこの一帯を大規模に開拓して農業を進め、そこから収穫される農作物をもとに酒造も盛んに行われたことから、農業の神である大山咋神が同時に酒造の神として信仰されるようになったといわれています。松尾大社の境内に湧く「亀の井」は延命長寿の水と言われ、ここから湧く水を混ぜると酒が腐らないと言われたことから、酒造家が「酒の元水」として醸造の際にはこぞって用いたそうです。



 
「上古の庭」の中にある枯山水(左)と、豊かな水を湛える「蓬莱の庭」(右)。


アクセス
・阪急電車嵐山線「松尾駅」下車、西へ徒歩4分
松尾大社地図  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料 (※庭園「松風苑」拝観料=大人:500円、学生:400円、小人:300円)

拝観時間
・9時~16時 (日曜日・祝日は9時~16時30分)

公式サイト


松尾大社

学生社

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京都・阿弥陀寺(織田信長公ゆかりの寺)。

2009年06月02日 | ◇京都府 -洛中


蓮台山 阿弥陀寺

(れんだいさん あみだじ)
京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14



阿弥陀寺の山門。その前には「織田信長公本廟」の石碑が建てられています。


〔宗派〕
浄土宗 鎮西派

〔御本尊〕
阿弥陀如来像
(あみだにょらいぞう)


 京都を手中に収め、天下統一の夢半ばにして「本能寺の変」に斃れた織田信長公。その京都には、織田信長公ゆかりの寺社や史跡が多く遺されています。今回ご紹介する阿弥陀寺にも、織田信長公を祀る墓が遺されています。

 阿弥陀寺は、1555(天文24)年、織田家に縁のある人物だったといわれる清玉上人によって近江国坂本に創建されました。織田信長公の帰依を受けた阿弥陀寺は、織田信長公が入洛を果たした際に今出川大宮に移転されました。この地は今も上京区上立売通大宮東入阿弥陀寺町と呼ばれ、当時の名残りが残されています。移転当時の阿弥陀寺は、八町四方の規模(約900m四方)もの広大な寺域の中に13もの塔頭を持つ大寺院だったと伝えられています。




 
山門の正面に建つ本堂(左)と、本堂の右手にある鐘楼(右)。



 「本能寺の変」が起きた1582(天正10)年6月2日払暁、変事の報に接した清玉上人は、20名ほどの僧侶を引き連れて本能寺へと駆けつけました。しかし、時すでに遅く、到着した頃には本能寺は炎上、織田信長公も紅蓮の炎の中で自刃して果てていました。一説によると、この時清玉上人は、明智勢が固める表門を避けて裏の生垣より境内に潜入。織田信長公の遺骸をいち早く発見し、堂宇を包む炎で火葬に臥したのち遺骨を阿弥陀寺へと持ち帰って供養したといわれています。ただ、寺院内は攻め寄せた13,000名あまりの明智勢で充満しており、血眼になって織田信長公の遺骸を捜索する彼らを出し抜くのは非常に困難だったと考えられるため、実際に織田信長公の遺骸と二条御所で自刃した織田信忠公の遺骸を発見出来たかどうかは定かではありません。




 
織田信長公と嫡男・信忠公の墓所(左)と、森蘭丸・坊丸・力丸兄弟の墓所(右)。



 その後、織田信長公の遺骨が阿弥陀寺に存在するという話を耳にした羽柴秀吉公が、再三に渡って遺骨を引き渡すよう申し入れて来ましたが、遺骨を利用して後継者争いで有利な立場に立とうとする羽柴秀吉公の思惑を嫌った清玉上人は、主家を乗っ取ることは「人の道にあらず」と、この申し出を一貫して拒絶し続けました。遺骨を手に入れることで追悼供養の主導権を握り、跡目を継ぐに足る者は自分であると天下に知らしめようとした羽柴秀吉公の当初の目論みは外れ、結局大徳寺で行った追善供養の際には、遺骨の代わりに織田信長公の木像を作って棺に納めるという演出で乗り切りはしましたが、羽柴秀吉公の心中穏やかならざる事は容易に想像できます。その証拠に、天下人となった豊臣秀吉公は、寺領の大半を没収するという処分を下し、さらには1587(天正15)年、都市計画に沿って「寺町」と呼ばれる現在の地に強制的に移転させるなど、阿弥陀寺に対して牙を剥き続けました。

 阿弥陀寺では、毎年「本能寺の変」の起きた6月2日に「信長忌」として追善供養が行われています。普段は非公開となっている堂内も、この日には特別に公開されますので、ぜひこの日に合わせて足を運ばれることをお勧めします。




 
織田家ゆかりの寺院らしく手水鉢にも織田家の家紋「木瓜」が刻まれています(左)。
境内には俳人・松尾芭蕉や蝶夢の句碑があります。画像は松尾芭蕉の句碑(右)。



アクセス
・京阪電車本線「出町柳駅」下車、北西へ徒歩10分
・京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」下車、北東へ徒歩10分
 阿弥陀寺地図 Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料 (6月2日のみ堂内開放、志納:1,000円程度を目安に)

拝観時間
・9時~16時

「本能寺の変」はなぜ起こったか―信長暗殺の真実 (角川oneテーマ21)
著者・津本 陽
角川書店