神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・駒竹稲荷神社。

2007年04月30日 | ■神戸市長田区
商売繁盛・五穀豊穣

駒竹稲荷神社

(こまたけいなりじんじゃ)
神戸市長田区駒ヶ林町1-9-16




市道高松線沿いに立つ駒竹稲荷神社。道路沿いにあるのでよく目立ちます。


〔御祭神〕
倉稲魂大神
(うかのみたまのおおかみ)



 長田港にほど近い、磯の香り漂う神戸市営地下鉄海岸線の駒ヶ林駅周辺には、意外と神社仏閣や旧跡が多く点在しています。その中のひとつ、駒ヶ林駅を出てすぐのところを東西に走る市道高松線沿いに、民家に並ぶように鎮座しているのが駒竹稲荷神社です。小さな神社ですが、鮮やかな緑の植栽と赤い玉垣が目印となっていて、意外と見つけやすい神社です。
 



 
市道高松線に面して立つ赤鳥居(左)と、その脇に立つ石灯篭(右)。



 駒竹稲荷神社のはっきりとした創建時期は不明ですが、19世紀初頭の文化・文政時代の創建といわれています。五穀豊穣・食べ物を司る神である倉稲魂大神を祀る駒竹稲荷神社は、ここでは商売繁盛の御利益をもたらす神様として崇敬を集めているようです。御祭神の倉稲魂大神は、高取山から勧請されたと伝えられています。高取山に鎮座する高取神社の御祭神の一柱である豊受大神高取稲荷大神ともいわれていますので、おそらくはこのお稲荷さまを勧請したのではないかと思われます。その名残りで、半世紀ほど前までは毎年冬の時期には氏子たちが列をなし、太鼓などの鳴り物を鳴らしながら高取山の本宮まで参拝する「野施行(のせぎょう)」と呼ばれる行事が行われていたそうです。




 
参道の脇には良く手入れされた花壇があります(左)。右は社殿前の手水鉢。



 野施行は、冬のあいだ獲物が減って飢えに苦しんでいるであろう狐や狸たちに食べ物を施す事が功徳となり、廻り回って御利益があるという考えから行われていました。こういった風習も、駒竹稲荷神社が神戸市の都市計画事業の影響で、1964(昭和39)年10月に創建当初の鎮座地だった駒ヶ林町1丁目3の地から北に位置する現在地へと移転された後には野施行は失われてしまいました。しかしながら、初午祭の時には油揚げと赤飯のおにぎりが供えられるなど、わずかながらその風習の名残りは残されているようです。





駒竹稲荷神社の本殿。


アクセス
・神戸市営地下鉄海岸線「駒ヶ林駅」下車、徒歩1分
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
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神戸・駒ヶ林蛭子神社。

2007年04月28日 | ■神戸市長田区
豊漁・航海安全・商売繁盛

駒ヶ林蛭子神社

(こまがばやしえびすじんじゃ)
神戸市長田区駒ヶ林町4-4-1




長田港のすぐ傍に鎮座する駒ヶ林蛭子神社。東隣には漁業会館が立っています。


〔御祭神〕
蛭子命
(えびすのみこと)
大己貴命
(おおなむじのみこと)
八重事代主命
(やえことしろぬしのみこと)


 先日ご紹介した駒林神社の参道を南に抜け、磯の香りに満ちた長田港沿いの道を西へ少し歩くと、真新しい真っ赤な鳥居が目に飛び込んできます。ここは、駒ヶ林浦で漁業を営む人々より厚く崇敬されてきた海の幸の守り神・駒ヶ林蛭子神社です。今でこそ兵庫にある柳原蛭子神社の「十日戎」が有名となっていますが、その昔はここ駒ヶ林蛭子神社で行われていた「十日戎」のほうが賑わいを見せていたそうです(※コメントで教えていただき、ありがとうございました)





阪神・淡路大震災で被災した赤鳥居は、1996(平成8)年4月に再建されました。



 いつ頃駒ヶ林蛭子神社が創建されたかは定かではありませんが、1690(元禄3)年の記録には「恵比須社」という記事があることから、江戸時代の始めごろには鎮座していたことがわかります。1752(宝暦2)年の「駒ヶ林村村法式」には毎年1月25日と2月2日に行われていた祭礼を、正式に毎年恒例の行事とするよう定められたことが記載されています。




 
漁港の神社らしく、海亀を供養する石碑(左)や、魚供養碑が建てられています(右)。



 駒ヶ林は古くから開けた港で、住民の多くが漁業に携わっていたことから、駒ヶ林蛭子神社は船の安全と豊漁を祈る神社として崇敬を集めていました。昭和初期に中央卸売市場が設けられた際にも駒ヶ林に西部配給所が置かれ、大量に獲れるイワシの即売が行われるなど賑わいを見せていたそうです。須磨の離宮公園に皇族がお見えになった時には駒ヶ林の港で水揚げされた魚が献上されたことから、宮内庁御用達の看板が置かれたりしていたそうです。現在でも神戸市の漁港の中で1・2を争う漁獲高を誇る長田港で漁業に従事している方々の崇敬は厚く、1968(昭和43)年には駒ヶ林浦漁業会によって社殿が改築され、阪神淡路大震災の被害を受けた後も翌年の4月には鳥居が新築されるなどいち早く復興され、長田の海を見守り続けています。




 
1968(昭和43)年に再建された社殿(左)と、隣接する末廣稲荷神社(右)。


アクセス
・神戸市営地下鉄海岸線「駒ヶ林駅」下車、徒歩5分
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

えびす信仰事典 (神仏信仰事典シリーズ)

戎光祥出版

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神戸・駒林神社。

2007年04月24日 | ■神戸市長田区
厄除招福・方除開運・安産・諸病平癒・交通安全

駒林神社

(こまがばやしじんじゃ)
神戸市長田区駒ケ林町3-7-3





市道・高松線沿い、長田港のすぐ北側に鎮座する駒林神社。


〔御祭神〕
応神天皇
(おうじんてんのう)
猿田彦大神
(さるたひこのおおかみ)
歳徳大神
(としとくおおかみ)


 J1有数の攻撃陣を中心に活躍を続けるヴィッセル神戸。そのホームスタジアムであるホームズスタジアム神戸(元神戸ウイングスタジアム)の南側を東西に走る市道・高松線を須磨へと抜けていく途中、「駒栄町4交差点」を西へ少し行ったところに駒林神社が鎮座しています。ここは、1000年以上もの長い歴史を持つ祭礼が行われていた、由緒ある神社です。




 
参道の入口にある震災で折れた鳥居の跡(左)。その先にある境内(右)。



 古代より、この地に東から流れ込む苅藻川と西から流れ込む妙法寺川の運ぶ土砂の堆積によって、天然の良港として発展していた駒ヶ林。そのため、古くから瀬戸内を抜け、明石大門を越えた船の寄港地として、畿内への出入り口としての役割を果たしてきました。特に、朝鮮半島から来日した使節団は、畿内へと向かうためにこの地に上陸していたため「高麗返し」と呼ばれ、それが訛って「駒ヶ林」という地名になったとも言われています。そんな駒ヶ林には、外国人の出入国を管理する役所である玄蕃寮の出先機関が置かれていました。その敷地内に祠を建てて応神天皇を祀ったのが駒林神社の始まりといわれています。

 古くより開けていた駒ヶ林には、歴史上の人物たちも足跡を残しています。福原京を開くなど神戸と縁の深かった平清盛公も、宮島へ参詣に向かう途中の1178(治承2)年6月9日、和田岬を経由して駒ヶ林から上陸したことが「山槐記」に記されています。1336(延元元)年には、建武の新政を行う後醍醐天皇と対立し、京都をめぐる争いで南朝側の北畠顕家公や楠木正成公・新田義貞公に敗れ、赤松円心公の進言を受けて西へと敗走する足利尊氏公がここを訪れ、参詣ののち九州に向けて出航したといわれています。そのときに詠んだといわれる歌が今に伝えられています。


「今向かふ方は明石の浦ながら、まだ晴れやらぬ我が思ひかな」





1989(平成11)年に再建された社殿。石川県の建設会社が手がけました。



 駒ヶ林は、須磨にある證誠神社を氏神としており、駒林神社證誠神社の御旅所とされていました。1690(元禄3)年の記録には八王子社と記されており、1772(明和9)年には八幡宮として記されています。1839(文政13)年には石原清左衛門によって社殿が改築され、狛犬が奉納されるなど境内の整備が進みました。明治維新後の1893(明治26)年には拝殿も新築されました。

 その後しばらくの間荒廃していた駒林神社は、1924(大正13)年に社殿の再建が行われ、八王子八幡神社と呼ばれていた神社は、村内にあった多くの小社を合祀して駒林神社と改称され、證誠神社からも独立して村社に格付けされました。先の大戦での被災は免れていましたが、1988(昭和63)年に起きた火事によって社殿が全焼してしまいます。翌年には再建されましたが、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災で被災。ダメージを受けましたがその年のうちに無事復旧されました。




 
戦死者を祀る靖国社(左)と、仏・法・僧の三宝を守る神を祀る三宝荒神社(右)。



 988(永延2)年1月15日に始められたといわれる駒ヶ林の左義長は、1000年もの長い歴史を持つお祭りで、最盛期には遠方からも見物客が訪れ、とても盛り上がっていたそうです。駒ヶ林では、大半が漁業に従事していましたが、そのほとんどが地引網漁であったため、限られた漁場を巡って毎年1月15日に左義長を行って網入れの優先権を争ったそうです。そういう性格の祭りだったため、漁業に従事している方以外は左義長に参加できなかったそうです。

 駒ヶ林の東西に分かれ、10mにも及ぶ高さの「お山」を100人ほどの漁師たちが担いで浜辺で倒し合いを行うこのお祭りは、その年の漁獲が懸かっているだけに壮絶を極め、流血の事態が起こることもしばしばであったために「駒ヶ林のけんか祭り」とも言われていたそうです。一時期はこの祭りを見物する客が各地から集まり、多くの人出で浜辺は賑わっていましたが、終戦後の復興のために始められた新湊川西部海面埋立事業が1957(昭和32)年に完成、西部第一工区の埋立も行われて長田港の整備が進むと共に砂浜が埋め立てられ、祭礼を行う場所がなくなったために1959(昭和34)年1月15日を最後に中止されることになりました。その後、1993(平成5)年に行われたアーバン・リゾートフェアの中で久々に復活されたり、小規模な左義長は何度か行われていますが、本格的な祭りは残念ながら途絶えたままです。




 
無声映画時代の日活の大スター・澤田清氏が奉納したといわれる玉勝・天光稲荷社。


アクセス
・神戸市営地下鉄海岸線「駒ヶ林駅」下車、徒歩3分
駒林神社地図   Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
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東京・水天宮。

2007年04月19日 | ▽関東・甲信越
安産・子授け

水天宮

(すいてんぐう)
東京都中央区日本橋蛎殻町2-4-1

日本橋七福神・弁財天さま
安産・子授けのお宮さん



高層ビルに囲まれたオフィス街に鎮座しています。


〔御祭神〕
天御中主大神
(あめのみなかぬしのおおかみ)

安徳天皇 (あんとくてんのう)
二位の尼 (にいのあま)
建礼門院 (けんれいもんいん)


 1878(明治11)年5月15日に設立され、その所在地から「兜町」と言われる日本の証券取引の中心地・東京証券取引所。そこからわずか1km東、高層ビルに囲まれたオフィス街の中に鎮座しているのが、安産・子授けで有名な水天宮です。高台にある境内へは21段の階段を登らなければいけませんが、社殿の脇にはエレベーターも設置されており、体の不自由な方でも負担を感じることなく参拝できるようになっています。そんなところにさりげない優しさ・配慮を感じました。




社殿。



 1185(元暦2・寿永4)年3月に行われた壇ノ浦の戦い。この戦いで平家は大敗北を喫して滅亡し、幼い安徳天皇をはじめ多くの貴族もまた平家と運命を共にしました。安徳天皇の祖母で平清盛公の正室だった二位の尼は共に入水して落命、高倉天皇の中宮で安徳天皇の母である建礼門院も入水しますが、源氏方に救出されて一命を取り留めます。建礼門院はのちに京都・長楽寺で出家して直如覚と号し、大原の寂光院で余生を送られました。

 このとき、建礼門院に仕えていた官女の按察使局伊勢も共に入水しようとしますが、二位の尼に「生き延びて我らの菩提を弔うように」と諭され、九州まで落ち延びます。筑後川のほとり、久留米の鷺野ヶ原に逃れた伊勢は、その地に安徳天皇と平家一門を祀る祠を建てて菩提を弔いました。これが水天宮総本宮の起源といわれています。




品川にあった有馬家の下屋敷に祀られていた辨財天像が安置されている中央弁財天神社。



 水天宮は、久留米藩主だった有馬家によって厚く崇敬されていましたが、参勤交代中の江戸の地でも参拝できるようにと第9代藩主有馬頼徳公が1818(文政元)年に久留米藩江戸屋敷に勧請して祀るようになったのが江戸水天宮の始まりです。本来ならば藩屋敷の中にある水天宮を一般の人々が参拝することは不可能だったのですが、あまりの人気ぶりに応えて毎月5日に一般開放が行われるようになりました。この温情に感謝した庶民は、水天宮有馬家をシャレて「情け有馬の水天宮」と囃し、このフレーズは流行語として江戸の町で大変はやったそうです。

 明治維新後、有馬家の上屋敷は明治新政府によって接収され、水天宮も1871(明治4)年の屋敷移転と共に赤坂に移転。翌年には有馬家の中屋敷があった日本橋蛎殻町に遷されて現在に至ります。




社殿の左奥にある紫灘神社。久留米の水天宮の第22代宮司で
尊王攘夷派の志士として名を馳せた真木和泉守を祀っています。



 社伝によると、水天宮鈴乃緒(鈴を鳴らす紐)のお下がりを譲り受けた妊婦が腹帯としてお腹に巻いたところ、とても安産だったということから、水天宮は安産の神さまとして庶民の間で大変な人気を博したそうです。こうして子授け・安産の神さまとして崇敬を集めた水天宮では、多産・安産の象徴として愛されてきた犬にちなみ、12日に一度巡ってくる戌の日に安産祈願を行うようになったそうです。




火風神社・秋葉神社・高尾神社が境内末社に祀られています。



アクセス
東京メトロ半蔵門線「水天宮前駅」下車すぐ
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拝観料
無料

拝観時間
8時~17時

公式サイト
  水天宮公式サイト

東京水天宮ものがたり
浜野 卓也
講談社

東京・今戸神社。

2007年04月13日 | ▽関東・甲信越
厄除・縁結び・学業成就・家内安全

今戸神社

(いまどじんじゃ)
東京都台東区今戸1-5-22


浅草名所七福神・福禄寿




招き猫発祥の地ともいわれる今戸神社の鳥居。


〔御祭神〕
應神天皇
(おうじんてんのう)
伊弉諾尊
(いざなぎのみこと)
伊弉冉尊
(いざなみのみこと)



 今戸神社の由緒は今より900年以上も前の11世紀中頃、平安時代末期まで遡ります。その頃の東国は、半独立的な勢力を持つ安倍頼時公・安倍貞任公の支配する奥州の平定を目指して奥羽鎮守府将軍に任ぜられた源頼家公とその子・源義家公が兵を率いて刃を交わすキナ臭い状況でした。1051(永承6)年に朝廷から陸奥守として派遣された源頼義公が安倍氏と対峙して以来、12年もの長きに渡って武力衝突が続いた前九年の役は、1062(康平5)年9月の厨川の戦いに敗れた安倍貞任公が処刑されて終結を迎えます。長かった戦いに勝利を収めた源頼家公・源義家公親子は、八幡大神の神威に感謝し、弥栄の武運を祈願する意味を込め、1063(康平6)年に鎌倉の鶴ヶ丘と浅草の今之津村を訪れ、京都・石清水八幡宮より八幡大神を勧請して祠を建てています。これが現在の鶴岡八幡宮今戸神社の源流となりました。この頃の今戸神社は「今戸八幡宮」と呼ばれて崇敬を集めていたそうです。1081(保元元)年に奥州で叛乱を起こした清原氏を制圧するために勃発した後三年の役でも、今戸八幡宮で戦勝祈願を行った源義家公は見事に勝利を収めることが出来たため、感謝の意味を込めて社殿の修復を行ったといわれています。





1971(昭和46)年に再建された社殿。



 兵火に巻き込まれて何度も焼失と再建が行われていた今戸八幡宮は、1636(寛永13)年、江戸幕府第3代将軍・徳川家光公の命を受けた船越伊豫守八木但馬守によって再建されました。江戸で一番の繁華街・浅草のすぐ北に位置する今戸は、花の名所として文化人たちから愛され、多くの料理屋が軒を連ねるなど賑わいを見せていたようです。近代に入っても様々な苦難が今戸八幡宮を襲います。1923(大正12)年には関東大震災で全壊。1937(昭和12)年7月には隣接して祀られていた白山神社を合祀して今戸神社と改称され、新しいスタートを切りますが、1945(昭和20)年3月の東京大空襲でも重ねて被災の憂き目に遭ってしまいます。現在の立派な社殿は、1971(昭和46)年11月に氏子崇敬者の皆さんの浄財によって造営されました。





毎年6月第1土・日曜日に行われる例大祭では、神輿が繰り出されて賑わいを見せます



 今戸神社の社殿には招き猫が2匹並んでいます。ここは世田谷の豪徳寺や新宿の自性院と並んで、諸説ある招き猫発祥の地の一つとして有名です。江戸時代後期のこと、浅草に住んでいたある老婆が、貧しさゆえに大変可愛がっていた愛猫を泣く泣く手放す事となりました。すると夢枕にその猫が立ち、「自分の姿を焼き物にして売り出せば必ずや福徳を授かる」とメッセージを残します。不思議に思った老婆は、この地で盛んだった今戸焼で愛猫をモデルにした人形を焼いたところ、慶事ばかりが続いたそうです。その後、浅草寺の脇の三社権現の傍らでこの猫の人形を売り、大いに富んだといわれています。招き猫のキャラクターは江戸時代に生まれたもので、おそらくは前述の豪徳寺自性院などで生まれたアイデアが、ここ今戸の地で16世紀から焼かれていた今戸焼によって人形として商品化されて人気を博したのではないでしょうか。

 また、ここは新撰組・一番隊組長の沖田総司が最期を迎えた場所といわれ、境内にも「沖田総司終焉之地」と刻まれた石碑が立っています。労咳>を患っていた沖田総司は、病の進行とともに第一線から身を引き、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂公の御典医で今戸八幡宮に寓居していた松本良順医師のもとで療養に努めていましたが、手当ての甲斐なく息を引き取ります。沖田総司の最期については、千駄ヶ谷・池尻橋の傍の植木屋平五郎のもとに匿われながら息を引き取ったという説もあり、没年齢についても24歳(『沖田家累代墓碑』)・25歳(『沖田家文書』)・27歳(小島鹿之助『両雄士伝』)など3つの説が存在します。時代も浅く、つとに有名な沖田総司の最期について、このように様々な説があるのは意外な気がします。





社殿に置かれている招き猫(左)と、境内に立つ「沖田総司終焉の地」の石碑(右)。


アクセス
・各線「浅草駅」より北へ徒歩15分
・都営バス:東42(甲)「浅草7丁目」下車、徒歩5分
・都営バス:東42(乙)「リバーサイドスポーツセンター」下車、徒歩2分
今戸神社地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト



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市野 恵子
日本地域社会研究所

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