ロバート・レッドフォードが7年振りにメガホンをとり、レッドフォード、メリル・ストリープ、トム・クルーズとオールスターキャストが勢ぞろいし、アメリカの対テロ政策の裏を描く感動的な群像ドラマ。政治家とジャーナリストの間で繰り広げられるサスペンスフルな展開に、戦場でのドラマ、大学教授と無気力な生徒のやりとりが複雑に絡み合う。戦争や生死の意味という根源的な問題への、レッドフォードのアプローチに注目したい。[もっと詳しく]
もうすっかり年をとった。私たちに、まだ出来ることはあるのだろうか?
前回のレヴューでは、アフガニスタン戦争の端緒の時期に、CIAを通じてアフガニスタンのゲリラたちに武器を用意するための予算獲得に動いた実在の下院議員を、コメディタッチも含めて描いた「チャーリー・ウィルソンズ・ウォーズ」を取り上げた。
引き続きアフガニスタンに関連する映画だ。
「チャーリー・ウィルソン・ウォーズ」がソ連のアフガン侵攻の真っ只中の1980年代半ばを描いた作品だとすれば、「大いなる陰謀」は、まさにここ半年ほどのアフガンとアメリカの状況を、予言したようにも思える作品だといえる。
この作品は、野心を持つ上院議員アーヴィングにトム・クルーズ。
信念を持って生徒に世界に参画することを考えさせる講義を持ちながら結果として優秀な学生を戦場(アフガニスタン)に送り込んでしまうことになるマレー教授にロバートレッドフォード。
そして、ジャーナリストの正義ということを模索し貫こうとするニュースジャーナリストにメリル・ストリープ。
豪華な布陣である。
監督は、ロバート・レッドフォードが自らメガフォンを持っている。
ロバート・レッドフォードは第1回の監督作品である「普通の人々」(80年)でアカデミー監督賞、作品賞に輝き、並々ならぬ才能を見せた。
その後も、いくつかの監督作品があるが、ブラッド・ピットが若手俳優としての地位を確立し、その美しい川釣りの映像でアカデミー作品賞にも輝いた「リバーランド・スルー・イット」(92年)は、特に心に沁みる映画だった。
81年には若手映画人の育成のためにサンダンス・インスティテュートを設立、若手の登竜門たるサンダース映画祭はその後毎年、多くの関係者を惹きつけている。
もちろん、なかなか製作機会がなく予算が確保できない才能のある人間には、自らがプロデューサーとして資金を集め、世に送り出している。
そこからマイケル・カラスニコ監督の劇作家の心温まるお話である「舞台よりすてきな生活」(00年)や、ウォルター・サレス監督の若き日のチェ・ゲバラを瑞々しく描いた「モーターサイクル・ダイアリーズ」(04年)などを、僕たちにプレゼントしてくれたのだ。
いつまでも2枚目俳優のイメージがあるレッドフォードだが、1936年生まれだからもう72歳になる。
マレー教授は、青春時代にベトナム戦争を抱え込み、その矛盾に苦しんだ経験から、若い学生たちに、人の受け売りではなく自分自身で考えること、自分の意見を持つこと、社会や他者に関与する想像力を持つことを、信念を持って指導している。
しかし、ゼミの生徒の多くは、どうやって有利で高級な稼ぎが出来る職業につけるかといった、刹那的な関心しかもっていないように見える。
最初はユニークな発言をして見所があった一人の青年が、授業にあまり出てこなくなった。
その学生との面接で、辛抱強くマレー教授は、この矛盾に満ちた世の中で、しかし考えることを止めては駄目だと忠告する。
しかし、学生はどこか斜めに構えながら、馬鹿げた世の中を皮肉ることばかりで、その矛先は大学教授におさまっているマレーへのあてこすりのような対話になっていく。
マレーは、生徒の中で優秀だと思った二人の生徒のエピソードを語り出す。
シーンは、ゼミでのディベート討論会シーンに移る。
ひとりは、貧しい黒人学生。学問を続けたいが、もう学費を払える環境にない。
もうひとりも、中近東出身の学生。彼も貧しく、しかし「自由の国」アメリカで自分が学んだものをどう社会で実践するか、考えている。
テーマはアメリカの高校生。まったく社会に関心を示さないし、世界でなにがおこっているかも、ひとごとだ。驚くべき無知と無関心の高校生の実態データを二人は次々と発表する。
では、どういう処方箋があるのか?
二人は、「社会参画」を高校生たちに義務付けることを提案する。
徴兵制ということより、強制的に国内外の社会に参画し、社会活動なりボランティアなりをさせるということだ。
居並ぶゼミの生徒たちは、どこかでせせら笑っているようだ。
一方で、野心を持つ上院議員のアーヴィングは、大統領の椅子をも狙う愛国者である。
泥沼に入り込んだ膠着したイラク派兵問題に関して、アーヴィングは焦っている。
「9.11のあのテロへの恐怖を忘れたのか」「アメリカのみが世界を安心に導ける」「愛国心は直接的な行動によって鼓舞されるのだ」・・・。
いわば、新保守主義の思想を極端化したような役割に設定されている。
アーヴィングは忙しくあちこちに電話で指示をしながら、かつては自分が政界に登場したときに、好意的な記事を書いてくれたジャーナリストのロスを執務室に招く。
自説を改めて展開しながら、「特ダネ」を提供しようと匂わして来る。
もちろん、マスコミ政策の一環であり、自らの野心が含まれている。
「特ダネ」は、アフガニスタンへの再びの極秘戦闘作戦であった。
隠密に、いまや手のつけられなくなったタリバン勢力の拠点を、急襲するというものだ。
そして、もうすでに十分前にその極秘作戦は、開始されている・・・。
ロスも当然のことながら、ジャーナリストとしての野心がある。
だけど・・・・と、ロスは相手の腹のうちを探りながら、威勢のいい「正論」を吐くアーヴィングにどこかで異和感を抱かざるを得ない。
若い時は、自らの信念から、あるいは若者特有の世界への異議申し立てから、ベトナム戦争を焦点とした反戦運動の取材などで、トップジャーナリストに躍り出た自分。
いろんな政治家や時の人に、畏れられたり歓迎されたりしながら、自分の力で獲得してきたこのポジション。
しかし・・・9.11のあのヒステリーじみたマスコミの挙国体制化のなかで、自分もまたその一人となったのではなかったか。
イランで無駄死にする若者たちに、いま自分は何が出来るのだろう。
もう、私も、すっかり年をとってしまった・・・。
けれど、この目を輝かせながらブリーフィングする議員は、ベトナム戦争も体験したことはないし、もちろんアメリカの光と闇の長い歴史を、学んでいるかどうかは疑わしい。
私は、このすごいネタを結局どう扱ったら、いいのだろうか。
私を利用しようとする議員との黙契のなかで、この大スクープをものにすれば、また私には日があたる、けれど・・・。
舞台は、アフガニスタンの秘密作戦の高原に。
その作戦機に乗っていたのは、ミレーが教えた例の二人の青年である。
自ら、社会参画と学費稼ぎのために、兵役志願したらしい。
その新米兵士たちは、情報が漏れたのか、民兵の急襲を受け、高原に取り残される。
助けは来ない。「敵」は迫ってくる。応酬した銃の弾も尽き果てた。
いつもいっしょだった二人は、お互いに傷ついた身を抱えあって、胸を張って、「敵」に向かって歩き出す。
この作品は、ある意味真面目すぎるようなつくりであり、娯楽性にも欠けるため、おおかたの評判は、あまりかんばしいものではないことが予想される。
ラストの描き方も、なんの救いもないものである。
にもかかわらず、もしハリウッドの良心があるとしたら、しかもそれを、メジャーな商業作品の枠内で表現するとしたら、こういう「苦渋」を演じることしかできないのではないか、と思わせるほどの良質な作品だと僕は思う。
反戦を大声で説くわけではない。
わかりやすい善悪で、為政者をのみ裁くのではない。
あるいは戦争につきもののスペクタクルで観客を酔わせるのではない。
また、ことさら被害者に感傷的に寄り添うのでもない。
いってみれば、私たちは、すべて当事者であるのだ、と。
すべての人間が過ちを持っている。絵に描いたような正解はない世界だ。
しかし、どのように世界に対する無関心に苛まれ、無力さに絶望し、あるいは自分が迎える「老い」に不安を感じながらも、私はまだこの世界と全面的に和解するわけにはいかない。
たとえ、それが、暗闇の中のたった一筋の光であっても、私たちは希望を探さなければならない。
そのために、いまのこの「老いた」私にも、なにか出来ることがある、ある筈だと信じたい・・・。
そういう、苦渋のようなものかもしれないな、と僕は思う。
身も蓋もないような邦題とは異なり、原題は「Lions for Lambs」。
第一次戦争当時、次々と命を賭けて勇敢にも突き進み死者の山を築く英国軍に、ドイツ兵が畏敬の念をこめて吐いた言葉から採られている。
しかし、本当は、「このような(愚鈍な)羊たちに率いられたこのような(勇敢な)ライオンを、私はほかに見たことがない」という、皮肉とも揶揄ともとれる意味を内包している言葉だ。
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「舞台よりすてきな生活」
「モーターサイクル・ダイアリーズ」
「チャーリー・ウィルソン・ウォーズ」
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私的には、この作品はドキュメンタリー映画にしたほうがしっくりきたような気はするのですが、
シビアな題材を商業映画で大スターを起用して作る事に何かの意義を見出そうとしていたのかな。
まあ、トム・クルーズもメリルも安い出演料で参加したんじゃないかと、僕は勝手に推測してますけどね。
どう考えても、大衆受けする映画じゃないし・・・。
そうですよね~。
レッドフォードらしい、ヒットしなくても
作らなくちゃならないって思いで作った映画ですね。
彼だから撮れる映画だと思います。
「苦渋」を感じられたことが、意味のある作品なのだって事ですね・・・。
72歳でも、やっぱりジーンズも似合いますけどね。
苦渋が似合う、知性派です。
もう一度DVDを借りようと思いながらなかなか手が伸びません
そういうことであるかもしれませんね。
まあ、なんとなく、あの役者たちがなんか言ってたなあ、という感じでいいんじゃないかと思います。
>私たちは希望を探さなければならない。
そのために、いまのこの「老いた」私にも、なにか出来ることがある、ある筈だと信じたい・・・。
そうですね、希望は自分で探さなくてはいけないとは思いつつ、その「導き」は必要だと思います。
それは人生を少しだけ長く生きてきた人間の役割だと思います。
今、私は中間にいて、そのことを真剣に考えなくてはいけない状況に身をおき、もがいています。
ですが答えは自分の中にあるのかも?と過去を振り返ったりしつつ、先輩に相談する…そんな日々です。
役割があるのだと信じているのですが…なかなか答えが見い出せないでいます。
まだまだ考えが足りないのかも?しれませんね。
現在の世界をとってみれば、消費国家となっていますから、民主主義的な数ということではなく、ふたりにひとりの認識が変われば、事実上国家はそれを無視できないという構図になっています。
そういう意味では、やはり、認識こそが必要なことだと思います。
そういう人に限って具体的に「何が悪いのか」一言も書かないので、困るんですよねえ。
ちょっと映画が解ったつもりの映画マニアの中には
「台詞で説明してはダメ、映像で語れ」などと語る人がいます。
一般論としては極めて正論ですが、台詞でしか説明できないことについてはそうするのが正しいのであって、そんな固定観念だけで映画を語られても・・・。
映画を測る定規はタイプによって実際に即して使い分けないと。
と、内容に関係のないことばかりになりましたが、最後に一言。
僕は編集が気に入りました。^^
>「こんな映画はゴミだ、0点だ」と僕の記事にコメントが残されていました。
はは。評価は自由ですからね。ゴミでもいいんですけど、わざわざそういうコメントを残すのなら、その理由を一言でもあげるべきですよね。
僕も、この作品の編集は優れていると思います。