サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

mini review 07268「しゃべれどもしゃべれども」★★★★★★☆☆☆☆

2007年12月14日 | 座布団シネマ:さ行

1997年度“「本の雑誌」ベスト10”の第1位に輝いた佐藤多佳子の長編小説を映画化。情緒あふれる東京の下町を舞台に、1人の落語家のもとに集った口下手な美女、同級生に馴染めない関西弁の少年、毒舌の元野球選手らの人間模様が描かれる。監督は『愛を乞うひと』で日本アカデミー賞を受賞した平山秀幸。主人公の落語家をTOKIOの国分太一が演じる。温かい涙がこぼれるハートウォーミングでさわやかなストーリーが堪能できる。[もっと詳しく]

「吃音」であった僕には、不器用な登場人物たちの気持が、よくわかるような気がする。


佐藤多佳子の原作を、僕は読んではいない。
だから「1人の落語家のもとに集った口下手な美女、同級生に馴染めない関西弁の少年、毒舌の元野球選手」といった登場人物が、なぜ、「しゃべること」に対する苦手意識や、演技過剰や、躊躇といったような感覚をもつにいたったのかが、あまりよくわからない。
仕方がないから、原作をまったく無視する形で、自分の体験だけに引き寄せて、そのことを想像してみる。

僕は、学生時代のほとんどを、ひどい吃音を引き摺りながら過ごした。
たとえば、先生たちは、クラスの誰かを指名したり、席順にしたがって順番に答えを求めたり、本を朗読させたりする。
僕はいつでも、ほとんどの質問に対して、誰よりも早く正解を答えたり、流暢に朗読したりする自信があった。
けれども、吃音という症状のなかで、最初の一言がまったくといっていいほど、出ないのだ。
「えーと、えーと、あの、あの・・・」
ほとんどは、ドラマによく出てくるような、音を慌てて繰り返すような吃音症状ではなく、ひたすら最初の一言が発せられないのだ。
発語しようとすると、急に身が固まって、身体に力みが出る。
息を吐くところが、逆に吸い込むことになる。息を吸い込んで苦しくなって、撥音を勢いよく吐き出すとともに、不器用に、最初の音を飛び出させようとする。



朗読などでは、繰り返し繰り返し、最初の言葉を心の中で準備する。
鼓動が高まる。息苦しくなる。
自分の順番で、立ち上がり発語しようとするが、いつも出来ない。答えようとしても、出来ない。そのまま、突っ立っているだけだ。
悔しくて、情けなくて、涙が滲みそうになる。
心配した母は、小学校4年生の夏休みに、合宿形式の、とある「吃音矯正学校」に僕をひとりで預けようとした。僕は、たぶん生まれて初めて人前で泣きながら、母親に激しく抗議した。
「絶対、行かない。自分で治すから・・・」

そして僕は、幼いなりにいろいろ考えた。いったん話し始めると、嘘のように饒舌になる自分。幼稚園の時から、いつもお遊戯の舞台では主役をはっていたではないか・・・。
そして、僕はいきなり生徒会(児童会)の会長に立候補したのだ。あるいは、放送部に入ったのだ。人前で、喋るのに慣れればいい、と幼心に思ったのだろう。



でも、本質的なところでは、依然として吃音は克服されていないままであった。
中学校の時は、吃音だけでなく、精神的ストレスによるものなのだが、あらゆる疾患が身体に次々と現れることになった。
チック症、目の引き攣り、ものもらい、中耳炎、十円ハゲ、顔面の痣、貧乏揺すり・・・・誰もが普通に起こる思春期の症状のようではあるが、半端ではないのだ。
たとえば、両目にものもらいが5個出来ていたこともある。
医者に行っても、すべて、「心因性のものですね」といわれるのだ。
そうした目に見える疾患だけではない。
毎夜、金縛りに合い、日中の教室でも白昼夢のような入眠現象に突然陥り、周囲の声も聴こえるし姿も見えるのに、身体をピクリとも動かすことが出来ないというジレンマに何度となく見舞われた。

高校生になり、大学生になり、社会人になりという行程を経て、いつも饒舌な僕を見て、周囲の友人たちは、「嘘でしょ、あんたが吃音だったなんて・・・」と何度も訝しがられた。
だけど、いまでも、本当は内在的には吃音状態は継続しているのだ、と僕は思っている。
たとえば、駅の窓口で「○○行きの切符を1枚ください」というような指示言語に対して、一瞬、必要以上に息を吸い込む自分に気付いている。
あるいは、「○○と申しますが、○○さんはいらっしゃいますか?」というような電話口でのこちらからのリクエストでも、1、2秒のことにしても、発語を躊躇する自分がいることを否定することはできない。



すべては「関係意識」なのだ。
人と人との距離において、相手を了解しないままに、なんらかのコミュニケーションを交わすということが、どうにもしっくりこないのだ。
だから、逆に、その場の空気を瞬時に察知するということに関しては、とても上達した。
たぶん僕は、誰よりも器用に、初対面の人であったとしても、一瞬でなごやかな場を作り出せることが出来る。嫌らしい言葉だが、人をたらしこむことが得意なのだ。
視線や、声色や、仕種を一瞬で読み取って、相手の警戒心を解くことが出来る。
口がうまいとか、媚びるとか、いうことではない。
たぶん、とっても深く、自分の途方もなく長期間の吃音体験に根ざしてのことなのだ。

二つ目をうろうろしながら、なかなか師匠からも客からも、もうひとつ認められない落語家である今昔亭三つ葉(国分太一)。
古典一筋にこだわりながら、なんとか師匠である今昔亭小三文(伊藤四朗)の芸を盗もうとするがうまくいかない。
そんな三つ葉のところに、「落語を教わりたい」と三人が集まる。
ひとりは美人ではあるが、ぶっきらぼうでなかなか思ったことを素直に口に出せない十河五月(香里奈)。
ひとりは転校してきて、関西弁を級友から揶揄されることが我慢ならず、意地っぱりになっている小学生の村林優(森永悠希)。
もうひとりは元プロ野球選手で毒舌は流暢なのに、アナウンサー席で解説役をしたりすると急にたどたどしくなってしまう湯河原太一(松重豊)。



この三人は、別に本気で「落語」を勉強したかったわけではない。あくまでも「話し方」教室のように、軽い気持ちで、三つ葉に縋っているだけだ。
ひたすら、「空気が読めず」、人と言葉を交わすことに不器用であり、そのことに対して何とかしたいという無意識があり、それが偶然の連鎖のように、三つ葉の元に集まってくることになった。
なぜ、三つ葉なのか。
それは、三つ葉も本質的にはこの三人と同類だからだ。
一見すると、喋りのプロのように見える落語家。けれど、三つ葉は、あまり自分ではわかっていないのだが、どこかで、力の抜き方と入れ方のリズムがずれているようなところがある。
そのことを、三つ葉の母親である春子(八千草薫)や師匠は、直感的に見抜いている。
三人の弟子は、どこかで、人の良さでは誰にも負けないだろう三つ葉に対しては、物怖じせずつきあえるのではないかと感覚している。
だから、本当は「落語」でなくったって、よかったのかもしれない。

三つ葉も含んでこの4人に共通する資質というものがあるとすれば、たぶん、自分というものを防御することに懸命になり過ぎて、相手の懐に入り込んでいけないことだ。
こう、言い換えてもいい。
自分と対なる相手との間にいつも警戒心が蔓延している。
不信感や嫌悪感ということとは、少し異なる。
お互いの気持を、無防備に曝け出したり、相手の心の隙を計ることが不器用なのだ、というように。
「吃音」という現象に、ずっと付き合い続けてきた僕にとって、彼らの困難がどこから生じるのか、手に取るように理解することができる。
彼らは、発語することに、障害をもっているわけではない。
それは、「発表会」での五月や優の流暢な素人落語を聞いてみればわかることだ。
あるいは、居酒屋のような雰囲気で、毒舌を披露する湯河原をみればわかることだ。



発語障害を持っていた僕は、たぶん人と人との関係を、ひたすら微細化し観察することで、場の親和性に必要なものを瞬時に察知するように、自分を訓練していったのだろうと、総括できる。
発語障害とは無縁であるにかかわらず会話に不器用なこの登場人物たちは、たぶん人と人との関係を、必要以上に突き詰めず、鷹揚に振舞うこと、自分から自然に声をかけること、あるいは他人を気にしすぎないことで、気楽な距離をとれることになる。
たまたま、僕と彼らとは、異なるベクトルから、同じような「緊張の緩和」を、不可避的に志向する事になっているのかもしれない。

平山秀幸監督の「愛を乞うひと」はとても優れた作品であった。また、ほとんどの人は馬鹿にするだろうが、「学校の怪談」シリーズは、ホラー描写そのものよりも、普通の子どもたちに潜む不安心理や結びつきを、うまく演出しているなあ、と感心もした。
けれど、「OUT」(02)、「魔界転生」(03)、「レディー・ジョーカー」(04)といった一連のエンタテイメントには、作品として消化不足だけが目立った。
この人の本領は、こういう原作ものにはないのになあ、と寂しい思いを抑えられなかった。



「しゃべれどもしゃべれども」は、当たり前の人たちの、別に劇的でもなんでもない日常の一齣を掬い取っただけのような、背伸びをしていない作品である。
けれども、結局のところ、病理にもならないようなちょっとした「うまくいかなさ」こそが、おおよその人たちの人生の最大ごとであり、屈託であることは、間違いない。
押しなべて僕たちは、そんなにしゃあしゃあとは生きられないものであり、そういうことを小声で改めて気づかせてくれるような小品の世界に、平山秀幸監督が戻ってきてくれたことは、僕にとってはとても嬉しいことである。


 



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27 コメント

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Unknown (Unknown)
2007-12-18 20:02:00
「吃音」ですか?
若いときは精神的なもの大きいでしょうね。
韓国語を習い始めて10ヶ月、最近自分の滑舌の悪さに恥ずかしさでいっぱいです。
振り仮名つけても思うように発音できなくて、一言目が出てしまえば少しはいけるけど、んん、これはまずいって本気で思っています。
歳を取ったとは余り言いたくないですが、やっぱり脳の指令とは大分違うんでしょうね。
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My name is… (chikat)
2007-12-18 20:04:50
↑   ↑
chikatでした。
ごめんなさい。
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chikatさん (kimion20002000)
2007-12-18 20:33:49
こんにちは。
吃音体験というのは、逆に言葉をとても大切に扱うことを学ぶようになります。
きつかったですが、そのことがあって、今の自分(らしさ)があるんだろうなあ、と。
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こんばんは。 (ジョー)
2007-12-18 21:38:27
ほんとうに「学校の怪談」はもっと評価されていい映画だと思います。「ちょっとしたうまくいかなさ」がおおよその人にとって人生の最大ごと、というのもその通りだと思います。人々の日常とつながった部分の描写では、平山監督はいまの日本映画では1、2を争う監督だと思います。目が離せません。
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ジョーさん (kimion20002000)
2007-12-18 21:48:07
こんにちは。
ああ、よかった、「学校の怪談」シリーズの支持者がひとり(笑)
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TBありがとうございました (sakurai)
2007-12-18 22:35:13
言葉の大事さを身にしみて感じるようになったのは、ここ10年くらいでしょうか。
それまでの自分はしゃべることが仕事でありながら、しゃべれる自分を過信していた、紡ぎだす言葉を大事にしていなかったような気がします。
文章も同じですが、結局言葉というものは、自分と他人を結び付けるものなのですね。

いい映画でした。あたし的には「OUT]も好きでしたが。
佐藤多佳子の本は、最近「一瞬の風になれ」・・・だったかな。全三巻を一気に読んでしまいました。昂揚感が素晴らしかった。読んでよかった本でした。
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sakuraiさん (kimion20002000)
2007-12-18 23:12:13
こんにちは。
佐藤多佳子さんは、評判がとても高いですね。
たまたま今回は読んでいませんでしたので、本のほうも楽しみにしています。
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TBありがとうございました。 (じゃすみん)
2007-12-19 02:07:06
好意を持って近づいているのに、会話が弾まないことがあります。
忙しかったのかな、内気な人なのかな、という推測で
『嫌われてる?』
『何か気に障った?』
という怖い考えを無理に押さえて、鈍感に徹することで対処しておりますが。結果として空気を読む能力は衰退する一方なのかもしれません……。

この機会に自分の感想を久しぶりに読み直し、kimion2000200さんの文章との違いにそんなことを思いました。

多岐にわたる記事をさかのぼって興味深く読ませていただいています。TBこちらからも送りました。
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じゃすみんさん (kimion20002000)
2007-12-19 02:30:55
こんにちは。
関係というのは本当に微妙なものです。
どこかで「対人恐怖症」かなと思うこともありますし、それを隠すために、わざと無口になったり、饒舌になったり、笑いで誤魔化したり・・・。
どこかで、自然体で話せる関係をつくりたいなあ、とみんな、思っているんでしょうね。
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Unknown (Ageha)
2007-12-20 01:39:32
ブログではぺらぺらしゃべるのに
人前では言いたいことなかなか言えないひとです。
頭の中に言いたいことがいっぱいあるのに
いつもまとめられなくて
朝礼とか会議の進行なんてとんでもないってひとです。

寂しがりなくせに誰といても妙に疲れてしまいます。
一方的にまず自分から発信するブログは楽なのかもしれません。
興味をもったひとだけが見てくれるということは
「少なくともわずかでも好意をもってくれた」と
自分が安心してコメントが書けるから。

・・・対人恐怖とは言いませんが
自分を思うように伝えられないもどかしさと
いい人に思われたい、誰からも受け入れられたいという
欲だけは人一倍強かったりします。
そんなどうしようもないジレンマや劣等感が
この映画を見たくなったきっかけかもしれません。

それでも人は人とかかわっていくことで
傷ついても傷つけてもそこから何かを
学んでいくしかないわけで
文字通りしゃべり続けていくなかから
自分で見つけていかなきゃいけないのかもしれません。
他人と向き合うことも自分と向き合う方法も。
・・・長々と自分の話で失礼しました。
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