中国の巨匠チャン・イーモウ監督と、監督が尊敬して止まない高倉健との夢のコラボレーションが実現した感動のヒューマンドラマ。1人の日本人が異国の地で体験する心の触れ合いを通して、人と人とのきずなの大切さを再認識していく物語。単身で中国の撮影隊に加わったという高倉健の現地の人々と素晴らしい交流が作品全体ににじみ出ている。中国の人と言葉が通じないことで生じるやりとりがなんともコミカルで笑いを誘う点にも注目。[もっと詳しく]
健さんを通じたチャン・イーモウの青春の原点。
高倉健。1931年生まれ。
銀幕デビューは1956年。すなわち、俳優歴50周年を迎えたことになる。出演した作品は200本を超える。
邦画がプログラムピクチャーとして、毎月のように各社が新作を送り出していた頃、高倉健は、少ない年でも年間8本、多い年は年間13本もの映画に出演している。とんでもない数である。
70年代初頭でも、僕は映画館から襟を立て肩をいからせて街にでてきて「ひとり健さん気分」を味わったものである。
それでも、75年ごろまでは、まだ年に数本は健さんの新作が出ていた。
1976年は「君よ憤怒の河を渉れ」(佐藤純哉監督)1本のみの出演であった。この映画が、たまたま文化大革命後の開放政策として施行された外国映画公開の第1号となり、文化的抑圧にうんざりしていた中国大衆が歓喜して迎え入れた映画となったのである。
観客動員数、実に10億人。健さんは一躍、中国でアイドルとなった。
そのうちの一人で健さんを「神様のような人」と崇め、自分も「健さんスタイル(モデル)」という演技法に興味を覚え、下方政策の苦渋をなめたあと、年齢制限にひっかかりながらも映画関係の学校を目指していた、無名の一青年がいた。
チェン・カイコーらとともに、中国映画界の「第五世代」の旗手とされるチャン・イーモウである。
健さんは、以降10年間はだいたい1年に1本のペースで、出演映画を選択するようになり、ここ20年で言えば、邦画としては、 1988年「海へ」(蔵原惟繕) 1989年「あ・うん」(降旗康男) 1994年「四十七人の刺客」(市川昆) 1999年「鉄道員」(降旗康男) 2001年「ホタル」(降旗康男)の5本に留まっている。
押し寄せる多くのオファーを押しのけて、初老となった高倉健が選択したのが、「単騎、千里を走る。」であったのだ。
「君よ憤怒の河を渉れ」の中国上映が1978年。それから27年、チャン・イーモウはようやく「憧れの人」とのコラボレーションを、自らの映画でワールドプレミアを東京国際映画祭オープニングに招待されるという最高の形で、果たしたことになる。感無量であろう。
「HERO](03年)「LOVERS」(04年)と2作続けて、国際的エンターテイメント大作をものにした監督が、「あの子を探して」(97年)「初恋のきた道」(99年)のようなこぶりな文芸路線に回帰したかのようにみえる。
しかし、チャン監督は、10年前から主演高倉健を前提にこの脚本を構想しだし、5年前から高倉健と打ち合わせをしつつ、脚本を仕上げた。つまり大作にエネルギーを注ぎながら、同時に執念のように「千里走単騎」の実現を進行させていたということになる。
日本撮影部分を、高倉健とのコンビが多い降旗康男に全面的に委託したこともそうだが、ほぼ単身で中国ロケに乗り込んだ高倉健を、きわめて大切にもてなしている様子が、メイキングVTRにも存分に現れている。(僕はNHKのドキュメントで見たのだが)。
あの、世界の、チャン・イーモウが、高倉健には、息子のように寄り添っている・・・。
死期の近い息子健一(声のみ中井貴一)と妻が死んで以来頑なに一人で生きる高田(高倉健)の間をとりもとうとする嫁(寺島しのぶ)だが、健一は父の面会を拒絶する。
高田は民俗学に関心をもっていた健一が、中国の京劇俳優リー・ジャーマンをビデオに記録する約束を果たしていないことを知り、一人で決心して、息子のかわりに、中国を訪ねる。
言葉の通じない苦労の連続、獄中にいるリー・ジャーマンに会い、撮影許可も得たが、息子と離れ離れになっている役者は、悲しくて泣き叫ぶばかり。
高田は、その息子ヤン・ヤン(ヤン・ジュンボー)が預けられている雲南省麗江の高地、ナシ族の村まで役者の代わりに、訪ねることになる。同行するガイドは、人はいいが、日本語はほとんど理解できないチュー・リンであった・・・。
互いに不器用さから顔をあわせての交感ができない高田親子、息子と離れ離れになっている京劇役者の親子。
ひとりは病院、ひとりは監獄、ひとりは高度2300メートルの少数民族に預けられ、ここで、行動できるのは、高田ただひとり。しかし、高田につくのは、日本語の覚束ないガイド、そして高田は必要以上のことを、いっさいしゃべらない。
苛苛するほど、状況説明をしない。ただただ、必死さ、生真面目さだけが、人々の怪訝さからくる警戒心を溶かしていくことになる。
終盤、理恵から健一の死が伝えられる。同時に、自分の代わりに中国に黙って旅立ったオヤジのことを嬉しそうに話していたとも。
息子は死んだ。もう自分が、中国にとどまる理由はない。役者の地方劇の記録を撮る必要もない。
しかし、高田はヤン・ヤンを獄中にいる父の代わりに抱き締める。そして自分が写したヤン・ヤンのポートレートを役者に見せるために戻る。
高田のおせっかいとも見える行為は、ついぞ息子に対して自分から入っていかなかった過去に対する悔悟であった。
「顔と顔をあわせて、人と人が交流すること」の代えがたさ。
チャン・イーモウは「人に想いを伝える」方法として、説明的言辞を弄することを極力、排除しようとしている。
その代わりに、どれほどの言葉の壁があろうが、健さんの愚直なまでの裏表のない感情(仕種)を対峙したのである。
また、客人を迎える際に、村が総出で道に長く長く机を並べ、その上にみんなが食事を持ち寄りもてなす「長卓宴」というナシ族の素朴な慣習を対応させたのである。
あるいは、チュー・リンのような中国人にさえも馬鹿にされるような交渉術しかもたないが、よかれと思い、全力を尽くす人間を配置したのである。
「単騎、千里を走る。」というタイトルのままに、高倉健は、単身、このロケに誠実に付き合った。
念願の健さんが立ち合うことによって、チャン・イーモウはようやく、文化大革命の悪夢、下放をめぐる喪われた日々、高倉健に吸引され映画の革命を成し遂げようとの夢を持つ青春時代つまり自分の原点に、もう一度、還ることができたのかもしれない。
いまや押しも押されもせぬ、中国の大御所となったチャン・イーモウだが、まるで、初恋の人に再会して恥じらう青年のように、高倉健と並んで面映そうに記念写真に収まっている。
チャン・イーモウにとって、どうしても、完成させなければならない、作品だったのであろう。
弊ブログへのトラックバック、ありがとうございました。
コメント&トラックバックのお返しを失礼致します。
この作品は、自然な物語展開が心に染みる、とても良い映画だったと思います。
そして、高倉健さんのイメージを上手に使った役柄と中国の方達の見せる自然な演技が組合わされた味わい深い作品でありました。
また遊びに来させて頂きます。
改めまして、今度共よろしくお願い致します。
ではまた。
なるほど、イーモウ監督は大作の後、以前の雰囲気に戻ったのではなく、大作を作りつつ大切にこの映画をあたためてきたのですね。
監督の思い入れに健さんが答え、素晴らしい作品になっていたと思います。
政治家が100人行くより、健さんの姿のほうが、ポイント高いですね。
>ミチさん
監督は、かなりの思いいれがありましたね。日本に対する戦略ということもあるでしょうけどね。
不思議な関係ですね。やっぱり、健さんの「人徳」なんでしょうね。
考えてみたら健さん映画はこの作品がお初の私でした。
おっしゃる通り「顔と顔をあわせて、人と人が交流すること」の代えがたさ。
これってやっぱり大切だなぁ、と。
だけど一方でデジカメや携帯を駆使する健さんに「ほぉ・・・」と思ったりしました。
さすがに、携帯メールはしていなかったかな。いや、受信はしていたなあ。デジタルカメラは、しっかり、固定して、ぶれないようにとっていましたね(笑)
健さん、イーモウ監督の良い所が随所に出ていた
映画でしたし、二人の映画に対する熱い思いが伝わって
きますね。
僕の母は健さんファンなので、DVDが発売の時は、プレゼントしたいと思っています。
お母さんに・・・それはいいことですね。
映画館も、かなり、年代の方が、おみえになっていましたしね。
で、もう一人私は、ヤン・ヤン少年の活躍をあげたい。 彼の存在がこの映画に リアルさを与えています。 演技ではないと思わせるものを伝えてくれました。 あと、この地方独特の自然の形・・・。 だからこそ、伝わるものがあったと思っています。 少年と主人公の心が触れ合うにぴったりの場所だったと思っています。
そして、仮面という手段。 仮面の下はどんな表情だろう・・・
なるほど、上手い設定でした。
こちらもTBさせていただきます。