唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(1.デカルト的自己知としての対自存在)

2017-05-01 23:36:10 | ヘーゲル精神現象学

1)デカルト的自己知としての対自存在

1a)ヘーゲルにおける意識の自己の成立

 世界と意識への現存在の分裂に始まり、各種思想と宗教の発生、最後に絶対知の実現を著した哲学の史的奇書、それが「精神現象学」である。「精神現象学」が描く運動の基本構図は、即自存在が自らと対峙し、その対自存在が再び即自存在となる円環である。そしてこの円環の反復と深化が、精神の弁証法的進展を実現する。ここでの即自から対自、およびそれらの包括的即自への回帰の運動は、デカルトのコギトをモデルにしていると見て良い。ただしヘーゲルは、コギトの各分節で自明のものと了解され、曖昧になっていた自我、意識、実在の各語の概念的発生を先行させ、それにおいて自己意識について語る。それだからこそ「精神現象学」は、物や意識としてのコギトから始まるのではなく、直接知から始まる。またその始まりの直接知も、すぐにデカルト的自己知に達するわけではない。直接知は汎化において「これ」の知覚となる。この代名詞への汎化は、後から現れる意識からすれば意識作用である。しかしまだここでの直接知は意識ではない。したがって対象限定代名詞「これ」は、意識のアプリオリな直観形式ではない。それは、対象自体が現わすアプリオリな対象限定形式である。同様に「いま」はアプリオリな時間限定形式であり、「ここ」はアプリオリな空間限定形式である。その各々は、アプリオリな直観形式としての対象・時間・空間の原初的な発現形態である。ただしそれらは形式でありながら、直接知に貼り付いている。それどころかむしろそれらは、直接知において発現する形式である。ただしそれらが自らの限定を明らかにするのは、連続においてである。すなわち複数の「これ」「いま」「ここ」が現れるからこそ、それらの限定性が露呈する。したがって同時にその同じ連続は「これ」「いま」「ここ」を一般化し、対象・時間・空間の各形式として現す。それだからこそ直接知から離れた表象では、常に対象・時間・空間が意識のアプリオリな直観形式として現れる。もちろんこのことが表すのは、対象と時空間が意識のアプリオリな直観形式ではなく、世界のアプリオリな発現形式だと言うことである。そしてさらにこれらと並んで現れるもう一つの代名詞に「我」がある。ただしこの自己把握は、意識の自己把握ではない。それはまだ「これ」「いま」「ここ」と同様の感覚的直接知の延長上にある知覚であり、せいぜい「これ」「いま」「ここ」の結合態である。すなわちこの「我」は、常に今ここにある対象としての自らの肉体である。しかし「これ」「いま」「ここ」の限定が、その対極となる限定不能な対象と時空間の形式として現れたように、「我」の限定は、その対極となる限定不能な肉体の形式を暗示し、意識の自己把握を呼び起こすことになる。ただしその前に意識は、あらかじめ自らを肉体と区別しなければならない。すなわち直接知として可能な肉体的自己把握と違い、意識の自己把握はあらかじめ現存在における物と意識の区別を必要とする。ところが直接知ではまだ意識が現れていないので、物と意識の区別も無い。始まりの現存在からこれまでに現れた区別は、せいぜい感覚的直接知とその代名詞的知覚の間での区別だけである。直接知において物と意識の区別が現れるためには、実在と非実在、および真理と虚偽について区別がさらに必要である。なぜなら直接知における真理とは実在するものであり、実在するものとは物だからである。目の前の石を物にするのは、その石で自らを殴って得られる痛みである。もしその石で自らを殴って痛みが無いのなら、その石は単なる思い込みの虚像であり、物ではなく意識である。このような錯覚とは直接知に現れた虚偽あり、この虚偽の登場においてようやくその対極、すなわち真理も世界に現れる。この直接知における真は、対象の実在性に裏打ちされる。したがって偽とは、実在性の無い対象を指す。それゆえに直接知で実在する対象は、「物」として現れる。そして実在しない対象は、物ではない存在者すなわち「意識」として現れる。直接知において物とは外化した真理であり、真理でなければ物と呼ばれない。つまり物だから真理なのではなく、逆に真理の方が自らよそよそしく意識の外に「物」として現れる。同時に物の登場においてその対極、すなわち「意識」も初めて世界に現れる。意識とは、一般化した「これ」「いま」「ここ」が対象・時間・空間として現れたように、一般化した「我」である。この意識の自覚は、既に対自存在である。ところが一方で意識が自らの対自存在を起点にして自らの即自存在を探すと、意識は肉体としての「我」に行き着くしかない。しかし肉体は意識にとってよそよそしい物にすぎない。意識は生まれついての対自存在であるゆえに、この懸隔は意識を戸惑わせる。ここで意識における一種非合理な結論が宿命づけられる。それは、実在するのは肉体ではなく、意識が実在であると言う肯定型無限判断である。ヘーゲルはこの無限判断を、意識による物の支配において理解する。すなわち意識の支配する物の実在が、意識の実在を根拠づけると言う理屈である。これにより支配を受ける物は逆に偶有へと格落ちし、実在するのは意識だけとなる。同様に肉体は偶有となり、実在するのは意識だけとなる。このようにして意識は、自己知を通じて自らを意識として知り、自らを自己意識に昇格させる。

1b)個人意識と共同体的精神

 意識論においてヘーゲルが描いた始まりの現存在の世界と意識への分裂、そして自己知を通じた自己意識の発生は、意識存在を物的世界に先行させる観念論の在り方と異なる。そのためこの意識論は、一見すると唯物論であるかのように見える。しかしヘーゲルは、物質に対する意識の規定的優位を随所で述べている。したがって意識論の始まりの現存在として現れる直接知は、物的世界なのではなく、やはり原初的な意識である。またそもそも「精神現象学」は、精神が概念として自己を外化する自己展開の現象記述の試みである。しかし直接知を意識として扱うのであれば、なぜヘーゲルは始まりの現存在をフッサール式に先験的自己として扱わなかったのかと言う次の疑問がわいてくる。おそらくそこには、やはり唯物論式の理由が控えているように見える。その理由とは、すなわち独我論の回避である。もともとカント以来のドイツ観念論の伝統は、独我論を回避するために現象の自体存在を個人的意識とは別の意識として、すなわち理念または精神として扱ってきた。そこでドイツ観念論は、物的世界であるはずの超越的世界を、例えばカント式の物自体やフィヒテ式の自我として言い換えてきた。それらはいずれもヒューム式独我論を回避し、なおかつ唯物論を回避するドイツ観念論得有のバランス感覚の上に構築された超越者である。それらの概念的必要と内容は、フッサールの考えた相互主観性のそれと同じである。両者の間には、ドイツ観念論の伝統がプラトン式の宗教的観念論であるのに対し、フッサールは自らの独我に苦しむ独我観念論であると言う違いがあるだけである。しかしそうであるにしてもヘーゲルの意識論は、自己意識を語る前に自我、意識、実在の各語の概念的発生を先行させている点で他の観念論に比して優れている。例えばフッサールは、無前提な論理を目指すとしながら、独我論こそが前提を持たない論理であると言う前提を立てる。そして独我ではない論理とは、他者の実在を前提にした論理だとして独我論以外の理屈を罵倒する。しかしそこには独我論特有の思い込みがある。すなわちそれは、自己の実在に前提が不要だと考える思い込みである。この思い込みは、自己観念ならぬ超越的他者の不在を前提にしている。ところがこの思い込みは、自律する他者が常に既に眼前に在り、それとの対立が自己の自律を有意にすること、すなわち他者が自己の前提として現れるのを全く配慮していない。もちろんそれは、物が無くても意識が自らを意識だと知り得るとの思い込みと連携している。それに対してヘーゲルの論理の出発点は、自己や他者、または意識や物の区別の無い現存在であり、そこからそれらの区別の発生を語る。それと言うのもヘーゲルは、それらの区別が直接知の実在性を前提にしていると考えたからである。当然ながらそのような出発点にフッサール式の自己への執着、または意識への執着を見い出すことはできない。言い換えるなら、フッサールは始まりに自己を前提するのに対し、ヘーゲルは始まりに自己を前提しない。なぜなら自己は対象を前提にするが、対象は自己を前提しないからである。フッサールにとってヘーゲルの理屈は、主観を離れて客観を装う虚偽認識と映るかもしれない。しかしそのような虚偽判定そのものが、既に主観と客観の区別、すなわち自我と他者、または意識と物の区別を前提にしている。つまり先に分断の前提を立ててから分断の結論を導いている。フッサールは、判断停止による思い込み的前提の排除を訴える。ところがヘーゲルの意識論は、フッサール以上に思い込み的前提を排除しているように見える。もちろんその意識論における直接知の真は、自己知を哲学の第一原理の地位から引き摺り下ろす威力を持つ。ただしそのようなデカルト的自己知の地位低下は、カントが先験性を哲学の第一原理の地位に据えたときから既に始まっていたものである。ヘーゲルの意識論は、そのカント先験主義の徹底に過ぎない。カントが自己知の真を先験的な意識形式の真として読み替えたのに対し、ヘーゲルの意識論はその意識形式の由来を解き明かしたものだからである。

1c)自己知の真の成立

 とは言えヘーゲルも、観念論である限り、独我論から自由になることができない。ヘーゲルはドイツ観念論の伝統に則り、表象の実体に意識ならぬ精神を据え、その現れを物や個別意識として捉えることにより、独我論を脱する。しかしその内実は、フィヒテの場合と同様に、個別意識の独我論を集合的精神の独我論に変えただけである。ところが精神の単一性が個別意識の紐帯になるのを期待するのであれば、その役割は精神である必要はない。唯物論から見ると、物理世界の単一性が個別意識の紐帯として現れれば、独我論は自ずと解体する。時空間や物理などの自然の諸形式や法則の居場所も意識の内にある必要はない。それらは自然世界に内にあり、意識はそれらを自然世界から読み出すだけである。そして意識がそれらを捏造するのは許されない。実はこのことは、自己知において初めて意識が自らを意識だと自覚し、自己意識となるヘーゲルの一連の論理の中でも示されている。自己知に達する以前の意識は、誤認識された自然、または単なる誤情報として現れており、その最初の姿は虚偽の直接知だからである。しかしここでの意識の非実在性は、デカルト的自己知における自己意識の実在確信と相反するかのように見える。また実際にそこには、虚偽情報としての意識、および「我」の形式としての意識の二つの相反する姿がある。一方でヘーゲルは意識を、直接知に続く精神の現象形態として扱う。したがって前者の虚偽情報としての意識も、後者の「我」の形式としての意識も、共に精神の現象形態である。ただし前者は物との区別により純化した意識の個別態であるのに対し、後者は肉体として外化した意識の一般態である。それが言わんとするのは、肉体とは外化した虚偽だと言うことである。このようにして真理であったはずの物は、肉体において虚偽に転落し、虚偽であったはずの意識は、その形式性において真理となる。つまりヘーゲルにおいて自己知とは、自己否定と同義である。意識は自らを虚偽と知ることにおいて、初めて自らを物と異なる意識として知り、そのような虚偽的自己の知において真理に達し、自己知の真に至る。すぐ判るようにこの構図は、「精神現象学」で描かれる自己否定において真理に達する理性の構図と同じである。それゆえにその構図は、デカルトにおける自己知よりむしろ、ソクラテスにおける無知の知に近い。もともとデカルトの自己知は、肉体と意識の二通りの自己について区別の欠けた二元論の自己知であった。そのデカルトにおいて曖昧になっていた肉体と意識の繋がりを現存在の直接知に求めたのはフィヒテである。しかしヘーゲルにとってフィヒテにおける現存在の直接知は、意識としての自己を自己ならぬ物と区別する契機を忘却した自己意識に過ぎない。そこでヘーゲルが腐心したのが、物と意識の二極対立の発生とその自己意識への一極化において自己知の真が発現する理屈である。そしてヘーゲルが示したのは、直接知の真が物の実在性を規定し、物の実在性が意識の虚実性を規定し、意識の虚実性が虚実の自覚の真を規定し、虚実の自覚の真が自己知の真を規定する論理である。つまり自己知の真は、物の実在性に基礎づけられている。ただしそのこと自体は、ヘーゲルの観念論としての自覚と矛盾していない。それと言うのも、ヘーゲルが観念論であるのは、彼が直接知の真を精神により基礎づけるからである。

1d)低次的真理としての自己知

 直接知の真は物の実在性として現れ、物の実在性は巡り巡って自己知の真として現れる。先行規定者の優位を考える場合、これらの現象の実体は直接知である。しかしヘーゲルにとって直接知も物も、低次の真であり、いずれも実体の局部に過ぎない。端的に言えばそれらは既に偽である。ヘーゲル弁証法では、低次の真理は廃棄されて高次の真理に移るからである。ヘーゲルにおいて自己知の真は、この弁証法を前提にして成立している。当然ながらこの運動からの推理では、自己知の真もさらに高次の真と入れ替わるだけの低次の真に過ぎない。「精神現象学」が示すのは、そのような自己意識が理性に至り、理性が人倫および国家そして宗教として現れ、最終的に絶対知に至る精神の進化である。したがってヘーゲルから見れば、自己知に執着するフッサールは、恒星の進化で例えると、ブラックホールになり切れない白色矮星のような思想かもしれない。同様にヘーゲルから見れば、物理的真に執着する唯物論は、動物の進化で例えると、人間になり切れない野生動物のような思想なのであろう。しかし直接知の真に規定的優位を認めたヘーゲルがそれを切り捨てる姿に対し、唯物論も実存主義もその思想的危うさを見る。もともとヘーゲルの思想は、現実世界を排除して天上を目指すカントに反発した経験回帰の思想運動の端緒であった。しかしヘーゲルは、経験回帰の先にある現象および直接知への回帰を考えていない。そのようなヘーゲルに対し、さらなる回帰の進行を求める思想運動、すなわち共産主義と実存主義が登場するのは当然の成り行きである。ただし残念ながら共産主義のヘーゲルに対する哲学的成長は、僅かに留まっている。その背景には、共産主義運動の実質的低迷と歴史的敗退に加えて、出鱈目な伝奇的要素を含めてさえも十分に高いヘーゲル思想の完成度がある。しかしそうであるとしても、唯物論の圧倒的優位は、哲学は唯物論たるべきと言うその哲学的役割にこそある。またヘーゲル思想の持つ優位と問題も、その唯物論的立脚点においてより明瞭に見えてくるものである。(2017/05/01)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化
  5)物質の外化
  6)善の外化
  7)事自体の外化
  8)観念の外化
  9)国家の外化
  10)宗教と絶対知
  11)ヘーゲルの認識論
  12)ヘーゲルの存在論
  13)ヘーゲル以後の認識論
  14)ヘーゲル以後の存在論
  15a)マルクスの存在論(1)
  15b)マルクスの存在論(2)
  15c)マルクスの存在論(3)
  15d)マルクスの存在論(4)
  16a)幸福の哲学(1)
  16b)幸福の哲学(2)
  17)絶対知と矛盾集合

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項   ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項  ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項  ・・・ 良心
  E章 A/B節    ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

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