担当授業のこととか,なんかそういった話題。

主に自分の身の回りのことと担当講義に関する話題。時々,寒いギャグ。

<読書感想文1109>かけ算には順序があるのか

2011-08-31 20:43:15 | 
高橋誠,かけ算には順序があるのか,岩波科学ライブラリー180,2011.

※ 2011年9月5日に明らかな誤植を訂正し,積分定数さんからいただいたコメントをふまえた注などを追加した。


小学校に通う子供が,『6×4=24』という式を書いてバツをつけられている答案を持って帰る。
それを見た親は驚く。「えっ,何で正しい等式なのにバツがついているの?」

問題文を読み違えたせいなのか?
問題文は『6人のこどもにみかんを4個ずつ配ります。みかんはいくついるでしょう。』である。
親はますます首をかしげる。「これなら 6×4=24 でいいじゃないか。なぜ先生はバツをつけたのだろう?」

納得のいかない親は小学校に問い合わせる。
すると,先生から衝撃的な事実を知らされるのである。

掛け算には順序がある。この問題の場合は 4×6=24 と式を書くのが正しいのであって,6×4=24 は誤りである。

親は自分の子供時代にそんな風に教わった覚えはない。
そもそも掛け算には順序などないというのは常識ではないか?
少なくとも日常生活においてこれまで掛け算の順序に気をつけた覚えはないし,それで何か問題が起きたことはない。

だから,4×6 だろうが,6×4 だろうが,答えはどちらも正解の 24 に等しいのだから,4×6 はマルで 6×4 はバツなどと区別するのはおかしい。


このように,親の常識と小学校の常識とがぶつかり合って,掛け算の順序がネットで最近よく話題に上るらしい。


この話は一箇月ほど前に友人から聞かされていたので,先週,近所の図書館で本書を発見したときは驚いた。
こんな本が出ているのか。
なんとタイムリーな出会いであることか!
(その友人に本書のことを教えたのは言うまでもない。メールの返事は来なかったけど・・・。)

[注1.このブログを書いた後にその友人に会ったら,本書を買ったと言っていたような気がする。]

あとがきを読むと,ネットで話題になったことが書籍になるという,現代的な本の作られ方の典型的なコースのようで,友人が閲覧していたサイトは本書の著書が関わったサイトだったのかもしれない。

本書の第一章では,上に述べたような問題について,僕がほぼ無批判に心酔する遠山啓氏や森毅氏らの考えを批判的に検討しながら議論を進めていくので,感情的に抵抗があり,つい意地悪く批判的に読む姿勢をとってしまったが,そうやってじっくり読むと,ツッコミたいところもいくつかあるものの,全体的にいろいろなことに気づかせてくれ,教えてくれ,考えさせてくれる,最高に刺激的な本であることを素直に認める気持ちになった。
(どれくらい刺激的なのかは,本書のタイトルで検索してヒットする書評のブログの多さを見れば想像つくだろう。)

そういう意味で,人に薦めたい本である。
なんだか人に読むように本を薦めることは今までほとんどなかったが,本書は僕がおすすめする貴重な一冊となった。

というわけで,本書に刺激されていろいろなことを考えたのだが,とてもまとめきれないので,いつも通り,考えたことをだらだらと列挙しておく。


友人にこの問題を持ちかけられたとき,僕はほぼ反射的に「親」と同じ反応で,『6×4=24 にバツをつけるなんてナンセンス!それどころか子供を算数嫌いにするきっかけを作ったかもしれないから,むしろ害である』という意見を述べた。

しかし本書を読んで,これは反射的に回答を出すべき問題ではなく,いろいろなことを考え合わせてじっくり検討すべき問題だと,認識を改めた。


この子供が小学何年生なのか,ということがひとつの重要な鍵となる。

もし掛け算を習いたてなのであれば,考え方を固定するために便宜的に掛け算に順序があるという立場で教えるのはよいというのが僕の立場である。

小学校で掛け算はまず上に例としてあげたような日常的な具体的な状況設定の下で導入されるらしい。
つまり,掛け算に出てくる数字はただの数字なのではなくて,単位のついた「色付き(あるいはフダ付き)」の数字なのである。

そのことをふまえて,上の問題であれば,

4個/人×6人=24個

のように,記号 "×" の左側には「1あたりの量」を,右側には「いくつ分」を書くというように式の書式を固定してしまう。

そうすると教えやすく,学ぶ側も理解しやすいということなのであろうか?

この段階で不用意に

6人×4個/人=24個

と書いても同じことですよ,と言ってしまうのは教育的に危険なのだろうか。
それは僕自身に実践経験がなく,現場の先生方のレポートを読んだことがないため,現時点では僕には全く判断がつきかねることであるが,ここが問題の核心なのである。

思うに,まず,掛け算を導入したてのころはまだ掛け算の順序が入れ換えられるかどうかなどについて全く知識がないだろうから,じっくり例を積み重ねる前から順序交換が可能であるというドグマを子供たちに押し付けるのは教育上良くないだろう。

また,そのようなドグマを押し付けた場合に懸念される弊害は,将来的に子供が線形代数などで交換法則が成り立たない『積(もどき)』に出会ったときに,それらの概念を受け入れるのが非常に困難になるかもしれないことである。

後者のような心配は,そうした非可換な数学的対象をいやというほど知っている大学の先生が抱く一種の杞憂であろう。小学生の大半はそうした数学とは一生関わらないだろうから,心配を置くポイントが少しずれているように思えるのである。

しかも,僕などは,結局足し算も掛け算も計算順序は変わらないということしか覚えていない状態で行列の積等を習ったが,積が可換でないという事実を受け入れるのに困難を覚えたかというとあまりそういう気はしない。(靴下を履いてから靴を履くのと,靴を履いてから靴下を履くのとでは結果が違う,というよく知られたたとえを学んだとき,非可換性に対する違和感が当時僕にあったとしても吹き飛んでしまったと思われる。)

そして,ある程度精神が熟していれば,計算規則をきちんと覚えて正確に適用することは容易に習得できる技能だと思われるので,高校や大学でのことを心配する必要はないと思う。
むしろ中学校で習う文字式において ab と書こうが ba と書こうが同じこと習うが,このような文字式の段階での積の可換性の方が,文字式の計算が主となる高校や大学の数学においては影響力が強いと思う。
つい,ab+ba という式を見ると,a や b がどのような数学的な量を表しているのかにかかわらず(というかそのことをすっかり忘れて),ab と ba が『同類項』に思えて 2ab とまとめたくなってしまうのである。
つまり,小学校段階の数の掛け算の順序交換可能性より,中学校段階の文字式の掛け算の順序交換可能性の方があとあとまでたたるのではないか,というのが僕の見解である。

また,むしろ不思議なのはなぜ足し算や掛け算で計算に順序がないのか,ということであって,自然数同士の足し算や掛け算ではいくつかの例で具体的に確かめられたとしても,小数や分数まで扱う数を広げたときに,やはりまだ足し算や掛け算が可換であるということはどう説明されるのだろうか。そこが大いに気になるのである。
(森毅「数の現象学」(ちくま学芸文庫)所収の『次元を異にする3種の乗法』でも「なぜここで交換法則が成立するかが問題である」という注意を述べている。なお,このエッセイで取り上げられている新聞の投書は,本書の第一章でしっかりと出典も明らかにされた上で紹介されている。上に挙げた例はその投書の問題そのものである。)

本書では掛け算の可換性は「常識である」という立場であって,その成立する理由を掘り下げていないが,高学年で小数や分数の掛け算を導入するときに可換性をどう扱うのかについても視野に入れて論じる必要があるだろう。

p.44 では,(1あたり量)×(いくつ分)だろうが,(いくつ分)×(1あたり量)だろうが、同一の事態を同一に解釈して立てた式であるから,両者は等しい,というような主張が述べられているのだが,これは等式の意味の拡大解釈であって,よくない気がする。
つまり,これは積が可換であることは定理ではなくて定義であるとする立場ではないだろうか。
式の意味を考えると

(1あたり量)×(いくつ分)=(いくつ分)×(1あたり量)

と書いてもいいですよね,という取り決めを述べたものであって,1あたり量やいくつ分が具体的な数値として与えられたときに左辺と右辺の値が一致するかどうかは,このような考察からは何一つわからない。
このあたりの論理的な欠陥は見直す余地があると思われる。

なお,(1あたり量)×(いくつ分)に固定するか,逆にするかはどちらも正当な理由がつけがたく,実質的に好みの問題だと思うが,漢数字は(いくつ分)×(1あたり量)の順だという指摘にはなるほどと思った。
例えば三百五十二というのは,「三つの百と,五つの十と,二つの一」で,三×百+五×十+二×一という発想で出来た表現だというのである。確かにそうかもしれない。

さて,ここで論じている問題の最大の問題点は,親と学校の先生の間に挟まれて困惑する小学生の子供に対するケアであって,文部科学省だか教育委員会だかの回答のように,親と学校の間でよく話し合うということがやはり一番重要ではないかと思う。なぜバツをつけたのか,先生が理由をきちんと説明し,親の言い分にもちゃんと耳を傾け,先生の立場をしっかり説明して親に納得してもらう,というプロセスが当事者としてはもっとも大切であろう。

子供は大人の間でどちらが正しいか判断がつかずに揺れ動き,つらい思いをするかもしれない。それが一番気をつけるべきことである。

親も教育のプロとしての学校側の見解を尊重すべきだし,先生も家庭における教師としての親の意見をよく聞き入れるという姿勢が必要である。


さて,もう一度僕の立場を述べておくと,掛け算導入の初期段階であれば,6×4=24 はサンカクである。
なぜこのような式を書いたのか,子供に真意を聞かなければならない。
これは教育のチャンスであるととらえるべきである。
習った通りなら 4×6=24 と書くべきであったことを説明すればよい。
また,これは,6×4 でも答えが同じになること,つまり積の可換性について注意を促すよい機会である。
そして,最初に単位をつけて式を書くように指導しておき,
6人×4個/人=24個
ならマルで,
6個/人×4人=24個
ならバツにした,と説明すればよい。

ただ,単位という「色付き」の数字をいずれは単位なしの「色なし」の数字として扱えるようにしなければならないし,あまり単位を強調しすぎると,x2 と x は単位が異なる(例えば x が長さを表すなら,x2 は面積だから長さ x と足すことは意味がない)からという理由で生徒が中世以前の人類の数学レベルから進展できなくなる弊害が生じるかもしれない。

なお,先ほど中学校で習う文字式のことを話題に出したが,ついでに中学校で習う比例や一次関数のことを考えると,y=ax の右辺のように「変化の割合」という「1あたりの量」a を左に,「いくつ分」に相当する x を右側に書くという慣わしがある。
ただし,この順序は「数値を左に,文字を右に」という文字式の書き順より弱いようで,x=2 のとき y=4 だった,という条件を式で表すときは 4=2a のように書くようになってしまい,掛け算の順序に対するこだわりは文字式の書き順という別のこだわりの前になりをひそめてしまうのである。

それにしても,掛け算に順序があるという話は,小・中学校の各学年において,生徒がどれくらいの割合で覚えているのか,きちんとした統計データをとって検証すべきであろう。

また,人間は演算をつい可換だとしてしまうのか,それとも順序にあらかじめこだわる性癖があるのか,どちらなのかが非常に気になっている。
掛け算を習う前に,足し算の可換性は習っていることだろう。
そうすると,自然と(短絡的に,無批判に,自動的に)新しく習ったばかりの「新顔」である掛け算に対しても,数字を書く順番はどうでもよい,という風に「勝手に拡張」をしてしまうのかもしれない。
あるいは,単純に掛け算の式の書式にまだ慣れていない(覚えていない)せいで,習ったのとは違う順番で式を書いてしまうのかもしれない。順序を意識するなどという細かい区別を身につけるのはなかなか大変なものである。
(絶対値の場合分けが正しくできない学生がいかに多いことか!あらかじめ決められたルールをしっかり見につけて正しい式変形を行うという技術はなかなか習得できるものではない。)

いずれにせよ,掛け算の順序を守れるかどうかは,教わったことがきちんと身についているかどうかを見分ける指標となり得るはずなので,[教えた通りの順序で式を立てているかどうかを評価の対象とするのは妥当だと思う。]

[注2.ここは文を書き終わっていないという致命的なミスを犯していたので,[] 内に文章を補った。あのころの自分はたぶんこんなことを言いたかったのだと思う。書きっぱなしで推敲してないのがバレバレですな・・・。]

長くなったが,なぜ長くなったかというと,この問題は,掛け算の学習のどの段階における出来事なのか,などといった算数・数学教育全体の流れの中に位置づけて論じるべきことであって,親の立場だけから一方的に結論を出してよいものではないからである。
そして,この問題を議論する際に忘れてはならないのが,どのように掛け算を導入するのが子供にとって学びやすいのか,という点である。
6×4=24 をバツにされた子供が本当に算数嫌いになるのか。掛け算を習得できなくなるのか。
そういった実践的な効果もきちんと考え合わせた上で判断すべき問題だと思う。

もちろん,学校教育の内容と世間一般の常識に大きなズレがある場合は,家庭内で子と親のコミュニケーションに支障をきたすおそれがあるので,親に対する学校側からの十分な説明があるべきである。

掛け算という算数の単元にひそむ学校と世間の認識のギャップというのを浮き彫りにし,書籍という形で世間に問題を知らしめたのは本書が持つ大きな意義である。
同じようなギャップは,算数だけでなく,他の科目にもあるかもしれない。そうしたことはやはり公にして世間の目にさらすことによって議論を促し,よりよい教育のあり方の探求の糧としていかなければならないだろう。

そしてもっとも恐れるべきことは,積の順序を固定するという「教育上の便宜」が,その後の成長段階でいつまでも解除されずに「教条化」ないしは「絶対化」してしまうことであろう。
そういう凝り固まったルールを反省もしないで絶対化させてしまった子供が将来教師になったときに,自分が刷り込まれ,信奉してきた考え方以外を認めようとしない硬化現象を防止するような対策を講じる必要もある。

と,まとめめいたことを書いた後で言うのもなんだが,気になったところをいくつか指摘して第一章の感想文を締めよう。

まず,p.40 に『現在の数教協(の一部)の「式の順序へのこだわり」』という語句があるのだが,これは事実に基づくことなのだろうか?本書にはこの一文を裏付けるような記述や資料の提示がなかったので,非常に気になるところである。
もしかすると著者はネットで数教協(数学教育協議会)を名乗る人物の発言を見たり,そうした人物とやり取りをしたのかもしれないが,そういった本書外の経緯を知らない僕のような者にとっては信憑性に欠ける記述である。
それ以外の記述は必ず情報のソースを挙げているだけに目立つのである。

[注3.本記事への積分定数さんのコメント『カード式』(2011-09-05 15:03:46) に情報あり。
本屋で数教協などが出している月刊誌等を見かけたことがあったので,それらは授業の実践状況を教育関係者以外の者が知るための重要な情報源だと思っていた。
なので,本書もそうした機関誌の記事の分析もふまえて書かれるべきではないかと思っていたのだが,著者(ハンドルネーム「メタメタ」さん)はやはりきっちりチェックを入れておられたことがわかり,ほっとした。
ただ,それならそれで参考文献に挙げておいてくれればよいのだが・・・。それとも,単にこちらの見落としか・・・?]

あと,どんな掛け算も(1あたり量)×(いくつ分)という掛け算の順序とみなすことができる,という主張は,子供心を失っていないと自負する僕にはとうてい受け入れがたいヘリクツである。
「カード配り型」とかなんとかという遠山氏の説明は「わざわざ間接的にマワリミチした」(森,前掲書 p.68)もってまわった技巧的なものであって,アタマの硬い子供である僕には到底受け入れがたい。
また,p.43 で,ハンドルネーム「積分定数」さんが文科省[国立教育政策研究所]への電凸の際に

3時=3km/(km/時)

とみなせばよい,と思いつきで(?)言ったエピソードを取り上げて絶賛しているが,永遠の子供である僕にはこれも全く受け入れることはできない。
3km/(km/時) って何?
『1人あたり4個』という日本語は理解できるが,『1km/時あたり3km』とは一体なんのことなのか?
日本語として意味をなしていない。僕のように固い頭ではきわめて理解しづらい量である。
正直,ただの言葉遊びでしかないようにさえ思える。まさにヘリクツである。

[注4.ここで紹介した電話による問い合わせのエピソードは,正しくは相手が文科省の国立教育政策研究所だったとのことで,積分定数さんご本人からのご注意(本記事へのコメント『はじめまして』(2011-09-05 10:20:13))に従い修正した(修正箇所は赤字で示してある)。さらに,『思いつき』ではないかと憶測を述べたことと,『言葉遊び・ヘリクツ』呼ばわりに対する積分定数さんからの注意については,それに続く一連のコメントを参照のこと。]

そもそも「1あたり量」とは「外延量/外延量」というのが基本形ではなかろうか。
それを「外延量/内包量」とするのは極めて捕らえづらい。
小学校低学年の掛け算の授業が話題になっているということを忘れてしまってはいないだろうか?

あとは誤植について。

p.19 の第1行に書かれた式は,正しくは

7人×7匹/人×7匹/匹×7本/匹×7合/=16807合

である。

p.31 に『英和数学字彙』という辞書の "multiplicand" と "multiplier" の訳語を引用しているが,それにささいな間違いがある。

『英和数学字彙』の p.135 に,"multiplicand" の意味として

被乗数(或ハ実称スルコトアリ)

(漢字はほぼすべて旧字体なのだが,ここでは表現できなかった。)
とあるのだが,本書では「実ト」の「ト」がひらがなの「と」になっているという,実に些細なミスがある。同じことは "multiplier" の意味の引用でも見られる。コピペのせいだろうか。

なお,この辞書を探したときに近代デジタルライブラリーという便利なサービスがあるのを知ったのは大きな収穫であった。

"multiplier" の説明文もほとんど同じである。ただし文中に「事」というのを省略しているような字があり,たぶん「コト」の省略形だと思われるものの,正確な読みがわからず悩んでいた。
手元の『言海』という古い国語辞典でもしょっちゅう使用されているが,その文字の説明は見当たらない。

ネットで検索してみたが,参考になるのはYah○○!知恵袋のある質問のみであった。

余談だが,ベストアンサーでない回答者は参考になるサイトいくつか紹介してくれているので,僕としてはその人がベストアンサーである。


第二章・第三章についても感想を述べておこう。

第二章は日本の算数・数学教育における九九の歴史を論じたものである。
僕は九九の名の由来を知らなかったが,この章を読んで知った。
著者は和算の本も出しているためか,古代中国や平安時代から昭和初期に至るまでの数学書のみならず他ジャンルの書籍をも引用・分析しながら,昔の日本の九九がどういうものであったかをじっくりと解説する。
九九にこんなに種類があるとは知らなかった。
また,「乳母の草子」という面白そうな古典を知ることもできて有意義であった。

『算法全能集』という本にある九九の表の web プレビュー画面のURLが紹介してあったので,入力してみたら確かに閲覧できた。

archive.org にはホントお世話になってます。

ロドリゲスの「日本文典」という本もちょっと見てみたいなぁ。


第三章は,「なぜ2時から5時までは3時間で,2日から5日までは4日間なのか」という疑問について分析する。
鍵は離散量と連続量という量の区別にあるという。
僕は「そんなん,計算の仕方の決まりだからしゃーないやん」と思ったが,本書の解説を読んで目からうろこが落ちた。
合理的な説明が可能だとは。

著者は時間は午前0時から始まるが,日は1月1日からで,0月0日ではないということを指摘しているが,同じ話は森毅「指数・対数のはなし[新装版]」(東京図書)の p.29 にも見られる。

ちなみに,本章の冒頭で,「分離量(離散量)」と「連続量」という用語は世間にそれほど知られていないだろうから,算数・数学を教えている人でもこれらの用語を知らなくても恥ではない,という趣旨のことが述べられているのだが,このような気遣いは第一章 (p.5) で何の断りもなしにさらっとこれらの用語を登場させたときにすべきではなかったのだろうか?
あるいは第三章でこれらの用語について少し詳しく述べる旨を脚注ででも読者に案内すると親切だろう。
このような構成のちぐはぐさは,著者が書き溜めてきた文章の一部をまとめて本書が出来たという事情(「あとがき」参照)によるものかもしれない。

ぜひ本書が版を重ね,その過程で上に指摘した誤植や少々問題と思われる箇所を修正し,ロングセラーとなることを願ってやまない。
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14 コメント

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はじめまして (積分定数)
2011-09-05 10:20:13
>文科省への電凸の際に

 文科省国立教育政策研究所です。

 状況が分からなかったので、様々なところに電話して聞きました。文科省本省は「順序を教えろとか教えるなとか特に指示していない」ということで、順序が教条的に教えられている件に関しては、困惑しているような印象でした。はっきりは言いませんが。

文科省国立教育政策研究所の応対は↓です。
http://suugaku.at.webry.info/201102/article_19.html

 正方形は長方形か?に関しても、文科省は「小学校では児童が混乱するから棚上げ、敢えて触れる場合は正方形は特殊な長方形と教える」、教育政策研究所は「教師の指導の仕方として、正方形は長方形とは別物と教えるのもあり得る」という具合で、対応が異なります。
時間が「いくつ分」という解釈について (積分定数)
2011-09-05 10:39:04
>3時=3km/(km/時)とみなせばよい,と思いつきで(?)言ったエピソード

「かけ算には~」の文章ではわかりにくいのですが、その場で言ったのではなく後から考えたものです。

 私が電話で、4人に3個ずつ蜜柑を配る問題に関してカード式なら4のカタマリが3つと言えるのだから、バツにするのはおかしいというと、「蜜柑ならそうかも知れないが、速さではそうはいかない」と対応したわけです。

 「速さでそうはいかないから、蜜柑の場合も4×3でバツにする指導もありうる」というので、本当にそうなのかと考えました。もちろん、時間をいくつ分と捉える方が自然でわかりやすいですが、逆で考えることは不可能ではない、ということです。

>3km/(km/時) って何?

3時間移動する、ということは、時速1kmあたり3㎞移動することになる

ということです。

わかりにくいのは承知していますが、決して言葉遊びや屁理屈のつもりではありません。
時間が「いくつ分」という解釈について  その2 (積分定数)
2011-09-05 11:04:31
 底面積が8で高さが4の柱の体積は、底面積が8で高さが1の柱を4段重ねると考えても、底面積が1で高さが4の細長い柱を8本束ねると考えても構わないし、どちらも自然な解釈だと思います。

 面密度の関して、同様のアナロジーを思い浮かべることはさほど困難ではないと思います。私自身、そう解釈していました。以下、煩雑さを避けるために単位を省略します。

A 底面積が8の容器に水を注ぐ。深さ4センチになったときの容器を除いた質量(水の密度は1とする)

B 面積8・面密度4の板の質量

AとBは同じようなことであると考えることはさほど困難でないと思います。

またAを、柱の体積を求める問題と同様とみなすことも自然だと思います。

だから、面積8・面密度4の板の質量を、「8が4つ分」と捉えることも、極端に困難で無理矢理な解釈ではないと思います。

 体積密度の場合、密閉容器に気体を充填するとすればいい。

 線密度の場合、考えにくいが1㎝あたりの質量が徐々に増えていくというのを想像することは出来る。

 縦4横5の長方形も、実際に長方形を細長く切るわけではなく、面積を求める場合に、縦4横1の長方形の面積が5つ分、と数えるのだから、「1㎝あたりの質量が徐々に増える」もそう考えればいい。

 速さというのは、距離に関する時間密度と考えられる。だから、同様に考えることは不可能ではない。

 実際、横軸に時間・縦軸に速度のグラフで、グラフの面積が距離に相当すると言うことを利用して、等加速度運動の移動距離を求めることはよくありがちです。

 もちろん、小学校の段階でそこまで理解させる必要はないのは承知しています。

 ただ、かけ算を、格子状に並べた状態や長方形のイメージで捉えてしまった状態では、1あたりやいくつ分の区別、包含除・等分除の区別はなくなるわけで、「結局区別できない」という考えに至った子に無理に区別を強要することはないと思います。
カード式 (積分定数)
2011-09-05 15:03:46
>「カード配り型」とかなんとかという遠山氏の説明は「わざわざ間接的にマワリミチした」(森,前掲書 p.68)もってまわった技巧的なものであって,アタマの硬い子供である僕には到底受け入れがたい。

そもそも速さ以前に、カード配りの段階で「受け入れがたい」ということなんですね。

例えば、「箱が4つあり、それぞれの箱にクッキーが3つ入っている。クッキーの総数は?」ということであれば、


まず頭に4つの箱が思い浮かび、それぞれから1個ずつクッキーが飛び出して4個、2個目が飛び出して8個、3個目が飛び出して12個

というのも受け入れがたいでしょうか?

ただ、受け入れがたいとしても、「だから児童は全員そういう考えを受け入れてはならない」ということはないと思います。現状、それに近い状況になってしまっているのですが。

なお

>まず,p.40 に『現在の数教協(の一部)の「式の順序へのこだわり」』という語句があるのだが,これは事実に基づくことなのだろうか?

に関してですが、mixiコミュ算数「かけ算の順序」を考えるhttp://mixi.jp/view_community.pl?id=4341118
で著者は、数教協の出している「数学教室」の記事=小学校5年生に、「正しいかけ算の順序を指導する」という実践報告を紹介しています。

http://suugaku.at.webry.info/201102/article_12.html
積分定数2011/07/29 01:24

にコピペがあります。

なお、http://suugaku.at.webry.info/201107/article_1.htmlには、足し算の順序のことや、私の、内包量・外延量への疑念なども書かれています。よろしければご覧下さい。
ヘリクツについて (かつおぶし ねこきち)
2011-09-05 23:36:13
どうもはじめまして、書き込み、失礼いたします。


ブログ主様が「ヘリクツ」とされている件について、私は全く「ヘリクツ」とは感じませんでした。


> 3km/(km/時) って何?
> 『1km/時あたり3km』とは一体なんのことなのか?
> まさにヘリクツである。

 たとえば、 4km/時間 の速さで歩いたとすると、 3時間 で 何km 歩くことになるか? という問題を考えてみます。

 1km/時間 で歩いた場合には 3時間で 3km しか歩けないが、 4km/時間 で歩けば、その 4倍の 12km 歩くことができる。

 これは全然おかしな理屈ではありません。


> 「1あたり量」とは
> 「外延量/外延量」というのが基本形
> 「外延量/内包量」とするのは極めて捕らえづらい。


「速さが4倍になったんだから、同じ時間で歩く道のりも4倍になるだろう」というような考え方で問題を考えることって、実際にあるでしょう。

それに対して、外延量とか内包量とかいう分かりにくい理屈をつけて否定してしまうほうがむしろ「ヘリクツ」と言えるかも知れません。

小学校2年でそこまで考える子供はまずいないでしょうが、こういう考え方をまちがいであるとしてしまうと、子供にウソを教えることになってしまいます。
re: はじめまして (kei_matsuura2007)
2011-09-06 00:22:36
> 積分定数さん

こちらこそ,はじめまして。
ご覧の通りの過疎ブログですが,ようこそおいで下さいました。

ネット経由で訪ねて来られた方がこれまでほとんどいなかったので,この返信を書くのに大変緊張しています。

本記事で名指しで批判めいたことを書いてすみませんでした。
特に,電話での問い合わせ先の機関の名称はご指摘にしたがって本文を訂正しました。

また,苦し紛れの「思いつき」ではないかという憶測を述べたことについては邪推でした。失礼な表現をしたことをお詫びします。

コメントでご指摘いただいたことにつきましては,本文を訂正したり,本文中に注記を入れましたので,よろしかったらご確認下さい。
(その訂正がまたまた間違っていたり,他に過誤を発見された場合もご指摘いただければ幸いです。もちろん,お手すきのときに気がむいたらで結構です。)

また,『3時間=3km/(km/時)』という量のとらえ方の転換を『言葉遊び』や『ヘリクツ』だと,積分定数さんの言い分をまったく考慮せず,一方的に断定したのはきわめて乱暴な決め付けでした。そのような表現を用いたために不快な思いをさせてしまったのだとしたら,そのことにつきましても重ねてお詫びいたします。
(ただし,だからといって問題の箇所をきれいさっぱり削除するなどの処置をするのがこの場合適切なのかどうか判断つきかねますので,貴コメントを参照せよとの注をつけるだけにとどめ,本文は変更しておりません。もしこの処置に対して異議・ご不満がおありでしたら,遠慮なくおっしゃって下さい。)

なお,なぜこのように書いたかについて弁明を述べさせていただきます。

ここでは,教師が生徒に対して頭ごなしに「屁理屈」と言って生徒のアイデアを踏みにじるというのとは異なり,あくまでカード配り型の説明を聞いたときの子供の素直な反応のひとつとして,「なんだかややこしいヘリクツをこねているなぁ」という『拒絶』とでも呼ぶべき反応があり得ることを指摘したつもりでした。

教師がある一つの考え方だけを教え,他は邪道として排斥するというのは教育上非常に問題があると私も認識しています。
けれども,教えられる立場の子供たちの中に,「カード配り型」の発想の転換を受け入れられないものもいるかもしれないわけです。

そして,「頭のかたい子供」である私は,この配り型を人から教わったとしても,違和感が邪魔して受け入れられないだろう,と思ったのでした。

私はこれまでに出会ってきたものの考え方の中で,どうにもしっくりこないとか,自分にとっては難しくて理解できないのとで,まるで食わず嫌いのように会得することを拒んできたものがたくさんあります。
そういう了見の狭い偏屈な子供も皆無ではありません。

問題の箇所を自分で読み返してみても,大人である私がカード配り式や積分定数さんの考えを「言葉遊び」や「ヘリクツ」として拒絶しているだけのようにしか読み取れませんが,反省した今では,これらの考え方に初めて接したときの,子供としての自分の率直な感想はそういう拒絶ではなかろうか,ということを表明したかったのかもしれません。

まとめると,私の立場は,「いろいろな考え方があることに対し,教師は寛容でなければならない。また,いろいろな考え方があることを可能な限り生徒に示さなければならない(これは私の個人的な信条です)。一方,教わる側としての生徒は必ずしもすべての考え方を受け入れられるわけではない。生徒はいろいろな考え方に接したときに,好みのあったものを身につけるという選択の自由がある。ただし,この生徒の選択の自由が教師によって制限されるようなこと(例えば掛け算の順序を守るよう強要すること)が一切許されないというほどの強い立場を支持するわけではなく,生徒の成長段階に照らし合わせて適当だと判断されたときに限り,また,生徒が納得するまで十分な説明をするという約束の下で,そのような強要を認めることもある。」というようなものです。

子供を相手にするということは,現代の風潮からすると,おそらく子供の話にきちんと耳を傾けるということでしょうから,子供が自分の考えを表明したときに,それを頭ごなしに否定するのは教師の所業とは言えないでしょう。

長くなりましたので,とりあえずここまでとします。
re:ヘリクツについて (kei_matsuura2007)
2011-09-06 02:49:20
はじめまして,かつおぶし ねこきちさん。

書き込み順からいって,積分定数さんへの返信を完結させるべきとも思いますが,かつおぶし ねこきちさんのご意見は積分定数さんを支持するものとみて,まとめて返信することにします。
このような扱いが何かまずい点を含んでいましたら,ご指摘いただければ幸いです。

「一定の時間に進む道のりは速さに比例する」というのは一般に認められていることであり,その正しさに異論をさしはさむつもりは毛頭ありません。

おかげさまで,積分定数さんが言わんとしていたことがわかったように思います。その点につきましては,かつおぶし ねこきちさんにお礼を申し述べます。

けれども,「4km/時の速さで3時間歩く」という問題に対して,わざわざ「1km/時の速さで3時間歩いたとしてみよう」と切り出されるのは,やはり違和感をぬぐえません。

もちろん,違和感があるからといって,かつおぶし ねこきちさんのような解法が間違いだと否定するつもりはありません。
むしろ,なぜそのような解法でも同じ問題に対する正しい答え(12km)が得られるのか,という,検討に値する問題も誘発されて大変有益です。

「自分にはわからんからその考え方は間違い」という尊大かつ偏狭な態度は,こと教育者にとってはあるまじきものだと思います。
私が『言葉遊び』だの『ヘリクツ』だのという心無い言葉を使ったのは,大人としての立場というよりも,自分が小学生のときに積分定数さんのような考え方を初めて聞いたときに納得できなかっただろうな,という気持ちを言い表したかったからです。
そのことは本文からはとても汲み取れないとは思いますが,これが記事を書いた本人の弁明です。

ところで,屁理屈という言葉は,いま辞書で改めて調べたら,「道理にあわない議論」という意味だそうで,言い換えると間違った議論,あるいは不合理な議論という意味でしょうか。

となると,この言葉を用いたことが私のミスでした。

私は「理屈としては筋が通っているが,ややこしくて理解しづらい」というような意味を表すつもりで「ヘリクツ」という言葉を使いました。
「なんかややこしいことを言っているなぁ,自分にはすぐにはわかりそうもないや」というような感情的な判断に基づく言葉であり,理性的な判断に基づいた言葉ではありません。

というわけで,『言葉遊び』や『ヘリクツ』という不適切な言葉を用いて自分の感じた違和感を表現しようとしたことがそもそもの過ちでした。

なお,積分定数さんのコメントを初めて目にしてから少し考えたのですが,どうやら『1km/時あたりに3km』という表現が日本語として受け入れにくく感じられるだけかもしれないという気もしてきました。つまり,この語句の意味がさっぱりつかめなかったのです。
ところが,それを『1km/時のペースで3km進んだときにかかる時間』という表現に言い直すと,なんだか急にわかったように思えたのです。
(これはほとんどかつおぶし ねこきちさんが示された考え方と同じですが,自力でたどりつけたのはこのスタートラインまでであって,さらにこれを 4 倍するということまでには思い至りませんでした。)

なんだかよくわからない考え方だなぁ,という,非理性的な判断によって,正しい理屈に基づいた理論を退ける(否定するという意味ではありません。遠ざける・受け入れない・(積極的には)習得しないという意味です。)というのは,こと算数や数学の学習であってはならないことだと思いますが,学習者の立場においては,結構そういう「気分」に左右されることは事実としてあります。少なくとも私はそういう気分屋のまま,子供の頃から教育を受けてきました。

ただ,こういう偏狭な性癖を持った者は,自分のやり方が最良であって,他のやり方はダメだと否定するという考え方に陥りやすいのかもしれません。

というわけで,このコメントでかつおぶし ねこきちさん(と積分定数さん)にお伝えしたかったことは,『1km/時あたり3km』というとらえ方の妥当性を了解したこと,あと,やはり『言葉遊び』や『ヘリクツ』という言葉遣いは不適切だったと反省しているという私の気持ちです。

内包量やら外延量やらを持ち出して議論を煙に巻いたことの弁明につきましては,稿を改めます。
内包量だの外延量だのを持ち出したことに関する弁明。 (kei_matsuura2007)
2011-09-06 02:52:10
またちょっと無責任に好き勝手なことを書きましたので,看過できない箇所が多々あるかもしれませんが,その際は遠慮なくご指摘下さい。
(というか,長すぎて読む人のことを考えていなくてすみません。)

内包量やら外延量やらは,私は雰囲気だけでこれらの言葉を使っているため,私が述べていることが「分かりにくい」のは仕方がありません。ですから,そこの「ヘリクツ」は無意味な言明として無視して下さってかまいません。

うまく説明できませんが,そこで「1あたり量」とはいったいなんなのか,ということを分析しかけて,とりあえず思い付きを書き記したものの,かなり奥深い問題のように感じて,中途半端なまま考察を打ち切ったというのが実情です。

そもそも,私は「1あたり量」という概念自体に違和感を覚えています。そして,これをどのように小学生に教えるかは至難の技のように感じています。
日常生活でもよく利用しているし,人に算数や数学を教えるときにも当たり前として使っている考え方なのですが,使い方はわかるものの,なんとも説明しづらい概念に思えてなりません。

そもそも割り算よりも前の段階の掛け算の導入段階で,割り算的な数量のとらえ方である「1あたり量」というものをどう理解させるのか?
掛け算の際に単位を書かせてみてはと思っているのですが,km/時,個/人などのような記号自体に割り算の概念が入り込んでいるので,それを小学2年生の段階で身につけさせようというのは無理があるとも思えます。
このあたりになると,「1あたり量」という考え方を中心にする数教協の思想を徹底するならば,初めに「1あたり量」を求める「割り算」を先に導入すべきではないかとさえ思えてきます。

空腹感と眠気にまかせてさらに余計なことを書いてしまうと,数え主義を廃して量の復権を目論んだ数教協は,壮大かつ無謀な試みをしてきたのではないか,という気になってきました。
3 が 4 つで,全部で 12,
4 が 3 つでも,全部で 12。
タイルなりおはじきなりで無個性な「数」について,こういう話は簡単にできます。
積の可換性もすぐに理解できることでしょう。
ただ,今度は,量に関する掛け算をするときにうまく行くのかどうか,特に連続量の掛け算の導入がうまく行くのかどうか,です。

遠山啓氏が,確か娘さんが算数でつっかえているのを見て,どうしてだろうと教科書を手にして驚いたというようなことが,氏が算数・数学教育改革を志したきっかけだったと記憶していますが(ちゃんとした情報源で確認したわけではありません。うろ覚えです。),そもそも掛け算の教え方はどうすべきか,そこのところから考え直す(というか学ぶ)必要を強く感じています。
数え主義が実際に招いた弊害はいったい何か,そして量に基づく算数の指導はその弊害を本当に克服できたのか,また,その新しい指導法は何らかの弊害をもたらしたのか,そしてその弊害はいかに克服されるべきか。

素人の私にとっては,手に負えないほどの問題点が山積しています。
そして肝心なことは,大人がこうして一所懸命難しいことを考え抜いた成果を,初等教育としてどう実践していくか,ということでしょう。
これが一番の難問だと思います。
re: 時間が「いくつ分」という解釈について  その2 (kei_matsuura2007)
2011-09-06 03:10:11
> 積分定数さん

具体例をいろいろ挙げて下さってありがとうございます。
それらを参考にして,自分なりのイメージを築いてみようと思っています。

当該コメントの最後の言葉についてコメントします:

> ただ、かけ算を、格子状に並べた状態や長方形のイメージで捉えてしまった状態では、1あたりやいくつ分の区別、包含除・等分除の区別はなくなるわけで、「結局区別できない」という考えに至った子に無理に区別を強要することはないと思います。

先に積の可換性を身につけてしまった子供に対するケアについて述べられたと解してよろしいでしょうか?
そうであれば,全くその通りですね。

私の『内包量だの外延量だのを持ち出したことに関する弁明。』と題したコメントを書いていたときには,積分定数さんのコメントのことが頭から抜けていましたが,読み返してみて,私が気にしていることに対するひとつの回答だったのだなと思いました。

そういう子に対する掛け算道のルートはちゃんと用意されているのでしょうか?
今度はそういうことが気にかかります。
ありがとうございます (かつおぶし ねこきち)
2011-09-07 02:44:30
ていねいにご回答をいただき、まことにありがとうございます。

私は、 kei_matsuura2007 さんが 「速さを1あたり量とするのはだめだ。」 と主張されているように感じたので反論しましたが、


> 「理屈としては筋が通っているが,ややこしくて理解しづらい」というような意味を表すつもりで「ヘリクツ」という言葉を使いました。


というご回答をいただき、 kei_matsuura2007 さんのお考えが分かりました。

私も、理屈としては筋が通っているのは分かるが心理的に抵抗がある、ということはよくあります。


> なんだかよくわからない考え方だなぁ,という,非理性的な判断によって,正しい理屈に基づいた理論を退ける(否定するという意味ではありません。遠ざける・受け入れない・(積極的には)習得しないという意味です。)というのは,こと算数や数学の学習であってはならないことだと思いますが,学習者の立場においては,結構そういう「気分」に左右されることは事実としてあります。少なくとも私はそういう気分屋のまま,子供の頃から教育を受けてきました。


私は、まさにその「気分屋」です。

記憶する必要がないとか馬鹿馬鹿しいと判断したものは全く記憶してません。(あまりよろしくない態度なのでしょうが・・・)


> 私は「1あたり量」という概念自体に違和感を覚えています。そして,これをどのように小学生に教えるかは至難の技のように感じています。


これは、四則演算から比例までひととおりやって身につくものなんだろうと思っています。

かけ算の導入のところでこれを持ち出すのは、将来を見越した親切のつもりなのでしょうが、余計なお世話になりかねないと感じています。

1あたり量というのは、結局のところ、「きりのいい数を基準にして考えれば見通しが良くなる」という考え方だろうと思っています。

パーセントも、「割・分・厘」もラジアンも全てそうです。

1とか100とか10はきりのいい数だから、これを基準にすると話が見やすくなる。

ラジアンも「きりのいい数」を出すという考え方で決めたはずです。

直径と弧長の比とするよりは半径と弧長の比にしたほうが分かりやすい。

角度を 弧長/直径 にしてしまったら θ→0 のとき sinθ/θ → 2 になっちゃうから、 sinθ を微分すると 2cosθ になっちゃう。

微分するごとに2倍2倍になっちゃうんじゃやりにくくてしかたがない。

それで、 e^x を微分すると e^x になるような数 e を探し出してくれば、三角関数も指数関数もひとまとめにできる・・・

結局のところ、「きりのいい数」は分かりやすいという単純な考え方なんだろうと思っています。

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