ばーばのケベック日記

ケベック在住、ばーばの気まぐれ日記、日常に関する雑文が主です。

のけ者なの

2015年05月19日 | 暮らし

昨夜、日本の老人社会についてのルポルタージュがあった。4人に1人が65才以上という高齢化社会に突入した日本で、孤独な老人がどのような晩年を送ってるかのルポルタージュ。真面目に一生懸命働いた老夫婦の人生を追った。晩年、奥様に先立たれ、頼るべく息子さんも病に倒れ、家を売り、少ない年金を頼りに、あちこちの老人ホームをたらいまわしにされた老人は家族に看取られることなく死亡。それは個人の責任なんだろうか。

ルポルタージュのタイトルは、「日本 漂流する(途方にくれたという意味もある)老人」

よぼよぼになり、杖や車椅子で暮らす老人の映像に自分の未来をみる。夫が「君の将来の姿だね、僕は君より長生きして君の面倒をみたい」ともらした。というのも私は5歳の時、大怪我をしていて、そのために、まるで建て付けの悪い家のような欠陥ある自分の骨格と、そこに鎮座する変形した内臓器官をもち、小さい頃からできそこないの身体と折り合いをつけ、なんとか今までよろよろ生きてきた。だから健康そのものに見える人も「傍目には見えない病気を抱えてるかも」と思うようにしている。大腸がんで亡くなった親友は死の直前まで明るく朗らかでカナダまで遊びに来た。その時すでに癌は全身に拡がっていた。2ヵ月後、買って数年もしないマンションで孤独死を迎えた。彼女をみたら、なんて幸せな人にしか見えなかったと思う。又最大限に人生を楽しもうとした人だった。

数週間前、突然右腿に激痛が走り歩行困難で病院に行くと、やはり小さいときの怪我の後遺症が年とともに硬化してきた故という。日本のお医者様にも言われたが、治すことは出来ないが痛みを和らげることは出来ると。たぶん持病もちの人は誰でも「この病気さえなければどんなに楽しい人生を送れただろう」と思うことがあると思う。私も長きに渡りそうだった。でも最近、この病気のお陰で、この世を観る目が人と違っていても、それはものの見方の多様性の一つじゃないかと受け入れるようになった。心身ともに健康な人とは違う見方。人は自分が置かれた場所から世界を観る。その場所は一人ひとり違う。私は子供がいないが、周囲のお母さん達が子育てのなかからいろんな事を観ている事に感嘆するときがある。

毎日寝太郎さんがブログで、1億も人間がいるんだからBライフ的小屋暮らしする自分達のような人間がいてもいいじゃないか、超微々たるもんだというようなことを言っており、そう思う。均質化された価値観を理想とし発奮する人間もいれば、受け付けない人間だっている。現代社会が流す、あるパターン化したイメージ、ただ一つの価値観への収斂。まるで、私のような羽のない野良猫に、あの高い空を飛べと叱咤激励してるようなもの。がんばれば成功するというポジチヴシンキングで、逆にどれだけの人間がうちのめされていることだろう。自己責任という風潮。

わりと優秀といわれる甥姪たちの中に落ちこぼれの姪がいて義妹にこう言ったという。「ママ、どうして私だけポケ(できそこない)なの」。家庭教師をつけたり、刺激を与えようと外国旅行に連れていったり、あれこれ手を尽くし、せめて高校を卒業させたかった姪が授業についてゆけず退学する事になった。これから土日アルバイトしているスーパーで毎日働く。母の日に、休憩時間に抜け出て義妹に「ママ大好き、母の日おめでとう」とお花を届けた。落ちこぼれを狙うドラッグの売人が近寄ってきたり、悪い仲間に引きずれ込まこまれそうになったり、義妹の心労は絶えなかった。義妹の「思い切って中退してみなさい」という言葉に姪は泣き感謝したという。ケベックはこういった若者の再起を図るシステムが整っており、いつか姪が学業に戻りたいと思う日がくるかもしれない。また、何か別の道をみつけるかもしれない。私達はただ見守るだけ。

さて、家庭菜園の楽しみを知り嬉しい。毎日少しでも働かないと身体がむずむず。3つのタイプのささやかなお子ちゃま実験農地は、甥と夫の手伝いの申し出を断り一人でする、というのもガタがきているおばちゃんがどこまでできるのか実験したいから。

一つ目は 市販の土を買い、野菜をまともに植える義母と夫スタイル

二つ目は 今ある土に栄養分を混ぜ野菜を植える甥スタイル

三つ目は 一切手を加えず、野菜や花も混ぜた粘土団子をばらまく自然農法タイプ

夫のレタスが芽をいっぱい出し「おかしいな、きちんと並べて種蒔いたのに、ばらばらに芽が出てる」と不思議がってる。

 

 


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