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蚊焼です。日記です。
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【TR】「あんたの好きな子宮」と忘却せし尊厳の念

2010年08月29日 | テレビ

 昨日は久々に「トップランナー」(NHK)を観ました。
 久々に好きな若手画家が出ておりましたから。

 松井冬子さん。
 代表作は「浄相の持続」

 ところでなぜ自分はこの人の作品を
知っているのだろうかとふと思い返しました。
 おそらく、山口晃さんが好きで、その
関連書を買っているうちに、同じ若手画家の
括りで見たからかな、と思うのですが。
 また、同じ日本伝統描法でもって作品を
書いている括りだったやもしれません。

 その作品を最初に見たのは、
紙に印刷されたものかはたまた
ブラウン管に映し出されたものだったかは
今となっては知るすべもありませんが。

 しかし情報媒体はどうでもいい。
 いかなるメディアツールであろうとも。
 その絵のもつ不気味で空想的な世界ながら
身に摘まされるようなリアリティな描写は、
一度見ればそうそう簡単には網膜から残像を
削ぎ取ることは出来ますまい。


 * * *


 「浄相の持続」を前に作者は解説する。

 「この人は、男嫌いなのでしょうね。」

 腹を裂かれたというよりは自ら腹を裂いて、
すでに着床した胚が育ちつつある
子宮を見せびらかしている全裸の女性。
 その顔には自信と誇りに満ちている。
 しかしそれを不気味だととらえてしまうのは
見る人間が男であるが故か。

 さらに作者は解説する。

 「あんたが好きなのはこれでしょ。」と。

 あんたの好きな陰門はこれでしょ。
 あんたの好きな膣はこれでしょ。
 あんたが好きな子宮はこれでしょ。
 
 陰門の先には膣があり、そこを通って
子宮が存在している。

 一番見たいのは子宮じゃないの、と
臆することなく見せびらかしている
絵であるという。



 権現造りの神社に例えるならば、
普段賽銭を投げて拍手し礼をする
拝殿が陰門にあたり、その先の
渡り廊下みたいな相の間が膣ということか。
 さすれば子宮は本殿であり、
まさに神が鎮座するところ、ご本尊である。

 当然ながら神社で参拝をする人たちは、
ご本尊の坐(いま)す本殿に向かって、
崇敬の念をもって拝する。
 本殿に入ることが許されないが、
心は本殿の中の神に相見(まみ)え、
願い事なりを囁くのではないか。

 しかしながら男という参拝者は、
果たして本尊である子宮に対して
幾許の畏敬の念でも抱いていただろうか。



 一昨年から去年にかけて、
奈良の元興寺の阿修羅像が全国の博物館を
行脚したことで話題になった。

 阿修羅像は日本仏教の彫刻芸術の崇高傑作に
間違いないが、しかし同時にそれは崇敬の
対象でもあるはずだ。
 果たして阿修羅像を前にして、
どれだけの人が手を合わせたのだろうか?

 テレビで展覧会の様子が報じられるにつけ、
いつもそう疑問に思っていた。
 ひょっとしたら、手を合わせた人よりも
こっそりデジカメで盗撮する不届き者が
多かったりはしないか?
 さすがにそれは無いはずだ、と願わずには
いられないが、しかし疑わずにはいられない。



 だからと言って男は陰門を前に
二礼二拍手一礼せよというつもりではない。
 それはおいといて、しかし
その先に坐す子宮に対する畏敬や畏怖の念、
生命の神秘に対する尊厳ひいては
女性に対する尊敬の眼差しを、男は
すっかり手放してしまっていやしないか。

 だから男は、この絵を見ると
「グサッ」と来るのだ。
 かく言う自分だって最初のインパクトが
やはり「グサッ」だったのだから情けない。


 * * *


 それにしてもこの人は好く解説する。
 解説を通して鑑賞する人とコミュニケーションを
とるのも画家として大事な役割だという。

 絵画の意味は見る人がそれぞれに意味付けすればよい、
という山口さんの説を支持する者としては
何だかおせっかいのような気がしたのだが。

 しかし画家として意味を伝えるまたは
現実を伝えるものの務めとして、鑑賞者に
意味づけを丸投げするのは無責任であるという。
 まぁその点は、人それぞれということか。

 だが確かに松井さんの絵に関しては、
事細かな解説を頂いた方がありがたいとは思う。
 でなければ男連中は、また勝手な解釈なり
妄想ばかりして手に負えなくなるやもしれない。

 子宮に対する尊厳、ひいては女性への尊厳は、
「怖い」「不気味な」絵とともに
男に対する批判の語気を強めた解説をもって
その心に殴りつけるように訴えなければ、
男どもには届かない。
 それでも分かんないようであれば本当に
殴ってやるのが宜しい。


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