昨日深夜に観た「トップランナー」(NHK)に、画家の山口晃さんが出演していました。
山口さんといえば、「読売新聞」の連載コラムの挿絵を描いていたなぁ、また東大出版会の雑誌「UP」で徒然コラムを書(描)いていたなぁ、位のことしか知らなかったのです。それくらいしか知らなくとも、その画風が好きで連載を楽しみにしていました。
けれども、山口さんの「本業」に、甚だ驚きました。そして一気に大好きな画家となりました。
簡単に言うならば、「和」を「洋」で描く。時空を越え、現実と非現実を混在させる。
簡単に言い過ぎて伝わらないでしょうけれども。気になったら検索してください。
感銘を受けたのは、その独特な、独自のジャンルを切り開いた画風のみならず、「現代美術」はたまた「芸術」に対する思いでした。
以下、山口さんのお話を元に、私が思案したことをダラダラと書いております。
芸術の世界では、マンガ若しくは落書きのような絵が低俗なのか疎んじられていたり、「洋画」や「日本画」など様々なジャンルに「縦割り」されているという。なんとも堅苦しく、そして「格調高い」。
けれども、芸術とはその表現手段が「自由」であるはずだったのではないか。摩ればその自由は、一体どこに行ってしまったか。
長い芸術の歴史の中で、いつの間にやら分類や区分けが進み、制約が生まれてしまった。
それを打破しようとするのが「現代美術」であるか。型にはまらない、独自のジャンルを切り開こうともがくアーティスト達の痕跡。作品はつまりもがく中で掴んだ「藁」のようなものか。
それを最初に提起した、と思われるのがデュシャン(仏)の「泉」(1917)、有名な「便器にサイン」ではないか。自分はそれをこう見た。
①普段よく見かけるものにこそ、その形状その色彩に芸術的要素を含んでいる
②キャンバスは紙でなくても平らでなくてもいい、何にでも書いてしまえばキャンバスとなる
③あるいはサインこそ一つの美術である。文字こそ美しく、たまたま便器に書いただけ
一般的には、既製品に少し手を加えただけで「新たな意味や文脈を創出させた」(「レディメイド」の創出)という評価がなされているが、どうとでも捉えられる作品なのでなかなか理解しがたいかもしれない。
またこんな見方も出来る。もうこれで、他の人がこの手法を用いようとするならばすべて「パクリ」と評されてしまう。便器の代わりに炊飯器を用いて、サインの代わりにキスマークをつけたところで、もはやそれはデュシャンの模倣でしかなくなった。
つまり「泉」という作品は、新ジャンルの開拓ということで評価されうるものであるといえる。それだけ、新ジャンルの開拓というのは難しい。
話は戻って、山口さんの切り開いたものとはなにか。
私は、それを「落書き」と見た。落書きこそ芸術。現代美術の残されたフロンティアとさえ思えた。
「落書き」といえどもその奥は深い。簡略化して描いたメモ代わりの絵には被写体の特徴や概念というものが集約化されている。空想やSFの世界をぼんやり描いたメカニックの絵は、どこか将来の科学技術の芽栄えを期待させる。
小学校から大学時代の私のノートは、いたるところに落書きがあるけれども、そう思うとノート一冊が芸術へと昇華されたような気がして、実に楽しい。
そういえばこれに似たようなことを、以前別カテゴリの記事でも書いた。→「現代美術は身近ながら潜在的な処を刺激するかのように」
再び話を戻すと、まさに山口さんの絵は、洗練された「落書き」は、その完成度の高さやユーモラスな世界観に、ただただ圧倒され脱帽される。
美術若しくは芸術を、本来の「自由」なフィールドへ引き戻そうとしたり、「落書き」を芸術に持ち込んだパイオニア性に、すっかり惚れ込んでしまいました。
山口さんの展覧会、大阪でも開催されないかなぁ、と望んでおります。
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