川内町内会

仙台市青葉区川内
中ノ瀬町、大工町、川前丁、明神横丁、澱橋通、元支倉(一部)
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川内ちょっと昔の話(3) 川内に「錦が丘」がありました

2023年01月20日 | 川内〈昔〉アーカイブ
川内ちょっと昔の話(3)

川内に「錦が丘」がありました

 

 かつて町内に「錦ヶ丘」という町名の区域がありました。現在の、澱橋通1丁目から5丁目までの地域の町名でした。
 澱橋通は、明治維新後に第二師団騎兵連隊の用地となっていました。昭和3年(1928年)の東北産業博覧会開催に伴い、博覧会のメイン会場となり博覧会の第一本館と第二本館が作られました。
 東北産業博覧会終了後、第一本館は仙台二中(現在仙台二高)校舎となり、第二本館は取り壊され、第二本館跡中央北側に道路が作られました。作られた道路南側は仙台二中(現二高)校庭になりました、道路の北側(現在の澱橋通側)が仙台初の分譲地の計画となり、昭和10年から「錦ヶ丘住宅」として四十数区画分譲され、町名が「川内錦ヶ丘」と呼ばれました。
「錦ヶ丘」の町名がいつまで使われていたか調査しましたが、ハッキリとした事は分かりませんでした。現在は、澱橋通りにある東北電力の電柱に錦ヶ丘線のプレートが取り付けてあるのが数少ない「錦ヶ丘」の町名があったことの名残になっています。

参考:(1)『町内60周年のあゆみ』編集時の町内の皆様よりの聞き書き。(2)『絵図地図からみる仙台』(解説第二、昭和23年、昭和30年の地図では、町名を『錦ヶ岡』と記載している)。

    川内大工町 永幡正博

 

川内ちょっと昔の話(2) 「お明神様」に隣接する川前丁の由来

2023年01月18日 | 川内〈昔〉アーカイブ

川内ちょっと昔の話(1)
「お明神様」に隣接する川前丁の由来


 明神横丁の「お明神様」北側に川前丁の地番が隣接している由来を調べました。
 『町内60周年のあゆみ』発刊に際して町内の方々から聞き書きをしたとき、昭和23年当時は明神横丁にある明神稲荷の後ろには住宅が建っていませんでしたが、相次ぐ広瀬川の氾濫のため、宮城県が昭和26(1951)年から三居沢から広瀬橋に至る両岸の護岸工事に着手し、堤防建設予定地にあった川前丁の一部(現在の赤門自動車教習所辺りの6軒ほど)の住宅が明神稲荷の北側に移転したため、川前丁の飛び地が生まれました。
 
当時の台風の被害状況は、昭和22(1947)年9月のカスリン台風、昭和23(1948)年のアイオン台風、キティ台風で広瀬川が氾濫し、昭和25(1950)年の集中豪雨では広瀬川の堤防決壊や花壇の市営住宅倒壊などの甚大な被害を受けました。昭和25年の台風が一番ひどく、川前丁や大工町まで床下浸水してきた話や、台風で上流から家屋や牛が流されて仲ノ瀬橋に家がぶつかり壊れて怖かったこと、川にせり出した洲にあった川前丁地番の家は、「洲から上がれ」となり引っ越したなどの話がありました。
 明神横丁に移転したのは、昭和31年から32(1957)年だったようです。広瀬川の護岸工事が終了したのは、昭和34(1959)年10月でした。

     参考:(1)『町内60周年のあゆみ』編集時の聞き書き、(2)『仙台市史 通史編8 現代1』。

川内大工町 永幡正博