川内町内会

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佐藤庄次郎「お明神さんの事」(昭和61年)

2017年12月28日 | 川内〈昔〉アーカイブ

「『迎春』昭和六十一年元旦 川内老人クラブ寿会」に掲載された。
佐藤庄次郎さん(川内川前丁)は、平成元年8月18日に83歳で亡くなられました

 

 

お明神さんの事

佐藤庄次郎

 

 どこでも見かけるお明神さんとは一体どんな神様なのか。昔奈良朝時代というから約千四、五百年前の事でしょうか。当時帰化人で経済力のある某長者が奈良の稲荷山に祠を建てて家内安全と商売繁盛をお祈りしていたそうである。これが時代と共に普及し伏見稲荷大明神となり岩沼竹駒稲荷大明神となりその○○に正一位という皇族以外には滅多にいただけない位まで頂きお狐さんもどこかで苦笑していることでしょう。

 もう少し神様の内容を説明すると、日本の神代時代のなになにのみことと申し上げる神様が何人かまつられておりますが、手っとり早く庶民的な願いの家内安全と商売繁盛が請けて商家や武家の庭隅に建立されてあり、江戸中期には約三万社位あったといわれています。

 さて明神横丁に鎮座の広瀬川上稲荷大明神社はあまりに悲しいお明神さんです。建立は天保二年とありますから、今から約百七、八十年位前の事、付近に住みついた最下級武士のお小人(小人)衆(伊達家の職制によると目付~徒目付~小人とあり)がこのお明神さんを建立し武運長久を記念していたものと思われますが、やがて明治になりその方々も職を求めて各地に離散したので渡邉某氏が引き継ぎ二代三代と現在に至っている理である。又このお明神さんにお手ふきを奉納している人がります。その数約二十位さがっておりますから一年に一本で二十年位前からでしょうか。奉納者は白萩町寒河江某とあり、この御明神さんと深いかかわりのある子孫の方でなかろうか。ともあれ蔭ながらありがとうとお礼を申し上げたい。この社の屋根に大きな穴があき、その上今にも崩れるばかりになっているので数年前私の外数人で歴史的に当然お守りなさるべきと思はれる三代さんにお話をしましたが、なんととりつくしまもない様な状況でありお明神さんに対してほんとうに申し訳もない事になりました。若しできるなら御懇篤な方が現れて、この鞘堂を修復していただけるような事になれば本当に仕合せの事と思っています。このままにしておくと明神横丁の町名も消えてなくなりましょう。

 なお川内町内にはこのお明神さんと為朝神社の外に塩釜さんがあったと言われていますが今はその跡形もありませんので書く事ができません。次回は為朝神社について少しばかり書く事にしましょう。

 

〔参考〕 お明神さんは個人の氏神のような性格を有し町内には、この程度のものが次の通りあります。
  定進堂の屋敷内
  澱橋通二丁目某宅
   同 五丁目某宅

 

資料提供:五十嵐さん(川内明神横丁)

 

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