川内町内会

仙台市青葉区川内
中ノ瀬町、大工町、川前丁、明神横丁、澱橋通、元支倉(一部)
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川内ちょっと昔の話(3) 川内に「錦が丘」がありました

2023年01月20日 | 川内〈昔〉アーカイブ
川内ちょっと昔の話(3)

川内に「錦が丘」がありました

 

 かつて町内に「錦ヶ丘」という町名の区域がありました。現在の、澱橋通1丁目から5丁目までの地域の町名でした。
 澱橋通は、明治維新後に第二師団騎兵連隊の用地となっていました。昭和3年(1928年)の東北産業博覧会開催に伴い、博覧会のメイン会場となり博覧会の第一本館と第二本館が作られました。
 東北産業博覧会終了後、第一本館は仙台二中(現在仙台二高)校舎となり、第二本館は取り壊され、第二本館跡中央北側に道路が作られました。作られた道路南側は仙台二中(現二高)校庭になりました、道路の北側(現在の澱橋通側)が仙台初の分譲地の計画となり、昭和10年から「錦ヶ丘住宅」として四十数区画分譲され、町名が「川内錦ヶ丘」と呼ばれました。
「錦ヶ丘」の町名がいつまで使われていたか調査しましたが、ハッキリとした事は分かりませんでした。現在は、澱橋通りにある東北電力の電柱に錦ヶ丘線のプレートが取り付けてあるのが数少ない「錦ヶ丘」の町名があったことの名残になっています。

参考:(1)『町内60周年のあゆみ』編集時の町内の皆様よりの聞き書き。(2)『絵図地図からみる仙台』(解説第二、昭和23年、昭和30年の地図では、町名を『錦ヶ岡』と記載している)。

    川内大工町 永幡正博

 

川内ちょっと昔の話(2) 「お明神様」に隣接する川前丁の由来

2023年01月18日 | 川内〈昔〉アーカイブ

川内ちょっと昔の話(1)
「お明神様」に隣接する川前丁の由来


 明神横丁の「お明神様」北側に川前丁の地番が隣接している由来を調べました。
 『町内60周年のあゆみ』発刊に際して町内の方々から聞き書きをしたとき、昭和23年当時は明神横丁にある明神稲荷の後ろには住宅が建っていませんでしたが、相次ぐ広瀬川の氾濫のため、宮城県が昭和26(1951)年から三居沢から広瀬橋に至る両岸の護岸工事に着手し、堤防建設予定地にあった川前丁の一部(現在の赤門自動車教習所辺りの6軒ほど)の住宅が明神稲荷の北側に移転したため、川前丁の飛び地が生まれました。
 
当時の台風の被害状況は、昭和22(1947)年9月のカスリン台風、昭和23(1948)年のアイオン台風、キティ台風で広瀬川が氾濫し、昭和25(1950)年の集中豪雨では広瀬川の堤防決壊や花壇の市営住宅倒壊などの甚大な被害を受けました。昭和25年の台風が一番ひどく、川前丁や大工町まで床下浸水してきた話や、台風で上流から家屋や牛が流されて仲ノ瀬橋に家がぶつかり壊れて怖かったこと、川にせり出した洲にあった川前丁地番の家は、「洲から上がれ」となり引っ越したなどの話がありました。
 明神横丁に移転したのは、昭和31年から32(1957)年だったようです。広瀬川の護岸工事が終了したのは、昭和34(1959)年10月でした。

     参考:(1)『町内60周年のあゆみ』編集時の聞き書き、(2)『仙台市史 通史編8 現代1』。

川内大工町 永幡正博

 





川内ちょっと昔の話(1) 大工町に市バスが走っていた!

2022年12月27日 | 川内〈昔〉アーカイブ

川内ちょっと昔の話(1)
大工町に市バスが走っていた!

 

 町内の皆さんは、川内町内(大工町)をバスが運行していたことを覚えていますか。 
 平成26年「町内会のあゆみ創立60周年記念誌」の発刊に伴い、資料収集で町内の方々から貴重な話を伺った話の中に有りました。
 
確認の為、交通局、図書館を訪問し調査を行いました。当時の路線図、町内のバス停写真等は発見できませんでしたが、仙台市交通局五十年史の中に、昭和26年3月3日付け認可「休止路線の整理(廃止)一覧表」があり、その中に、「起点仙台市本柳町23 終点仙台市大工町84 0.4㌔ 主なる経過地 仲の瀬橋」の項目がありました。昭和のいつから川内町内を市営バスが通行していたかは不明ですが、昭和26年3月3日までバスが通行していたことは判明しました。
 
また、昭和6年3月、川内の大工町、中の瀬町などの川内振興会からバス路線の延長の願いを、仙台市街自動車株式会社(市営バスの前身)に提出、同年8月1日付けで仙台駅から大町一丁目までの路線を延長し、本柳町を通り偕行社前から仲ノ瀬橋を渡り大工町までのバス運行を開始したとの資料や、大工町線は仲の瀬橋の老朽化とともに廃止されたがその後、仲の瀬橋の永久橋が竣工したので、昭和34年1月1日から住民の要望に応えて運行を始めたなどの資料も見つかりました。

   参考:町内会60誌年編集時の町内の皆様の聞き書きより
   参考文献:『仙台市交通局五十年史』

川内大工町 永幡正博

 

 

 

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川内の歴史「御小人組について(2)」

2021年09月28日 | 川内〈昔〉アーカイブ

川内の歴史
御小人組について(2)

 町内の皆様は、川内に御小人衆(組)と言われた伊達家の家臣団が居住していたことご存じですか。
伊達政宗公が慶長5年(1600年)幕府の許可を得て、仙台に城を構築し岩出山より家臣団や商人等を仙台に移しました。その時、御小人衆も川内に居住し仙台城普請の時に作業をしたとの記述があります。また、明治4年(1871年)の廃藩置県で仙台藩が廃止後も、川内町内一帯で生活し、今でも御小人のご子孫の方々が町内にも居住しておられます。
 御小人についての起源については不明です。ただ、伊達家古文書に文禄元年、政宗公が朝鮮出兵で岩出山を出発の時、御供之衆の中に御小人の記載があります、この事により、御小人は岩出山の時代以前から編成されていた組織と推測されます。
 仙台藩の御小人は、「戦国時代の百姓徴発が次第に常備兵の職制に組み込まれてきたもの」と言われています。御小人は、鑓術に優れ者達の集団で、戦時には御鑓奉行支配に編成されていたようです。戦国時代後期では、鑓組奉行の配下におりましたが、平時の時は、目付の支配に属し、雑務や警備を主な任務としていたと言われています。
 御小人は、禄高は低いが、殿様から直接指示を受けて活動もしていた集団のようです。

 御小人組は、寛文10年(1670年)の資料で川内御小人・大橋脇御小人・御霊屋下御小人の3組の編成で、合計436人が所属しておりました。
 御小人の合戦への参加は、元和元年(1615年)5月大阪夏の陣の戦いで首一級をあげた記述や、政宗公が大阪の様子を探らせるため、御小人2名に直接指令をして派遣したとの記録もあり、重要任務にあたっていたことをうかがい知ります。
 御小人は、身分こそ低いが、藩主の側近くに仕え時には政治向きの事にも加えられることもあったようです。
 御小人の活動は、合戦以外に足軽等と共に藩主の参府・上洛に供をしていた、寛永13年(1636年)の政宗公の葬儀に際し葬列の後尾の中に御小人の記述があります。
 また、延宝3年(1675年)に綱村公の日光参詣の行列に先頭から御小人の名前が目えます。寛永年間には、戦乱が終わり軍事活動(鑓組支配)から行列御供、門番、日常の警備、治安維持的な活動へ変化し、目付の配下とし監察任務の補佐を行わせ警察的任務を遂行させ、家臣統制強化を図る意図があったようです。

(参考文献 仙台市博物館調査研究報告 第18号

 今回は、御小人の成り立ちを書きましたが、機会があれば、調査した部分について書かせていただきます。町内の皆様から、引き続き情報を頂きながら町内の歴史を纏めたいと思います。江戸時代から昭和29年以前までの話、写真、文書等ありましたら、大工町 永幡までお知らせください。

川内大工町 永幡正博

 

 

 

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川内の歴史「御小人組について(1)」

2018年06月10日 | 川内〈昔〉アーカイブ

川内の歴史
御小人組について(1)

  川内は、伊達政宗公が、慶長5年(1600年)幕府の許可を得て仙台城普請の縄張りを行い、慶長6年に普請を開始し、慶長7年頃に岩出山より家臣団や商人・住民等を移した地区の一つです。
 そのとき川内の地には、家臣団(門閥、平士、組士)と、下級家臣(卒)としての小人が大工衆達と共に居住しました。寛文4年(1664年)の古地図、「仙台城下絵図」には、川内に御小人屋敷の記載があります。
 御小人は、伊達家古文書によりますと、文禄元年、政宗公が朝鮮出兵に岩出山を出発の時、御供之衆の中に御小人を見いだされます。この事により、御小人は岩出山の時代以前から編成されていた組織と推測されます。また、仙台城普請の時にも作業をしたとの記述があります。
 仙台藩の小人は、「戦国時代の百姓徴発が次第に常備兵の職制に組み込まれてきたもの」と言われています、ただ、起源については不明です。
 小人は、鑓術に優れた者達の集団で、戦時には御鑓奉行支配に編成されていたようです。伊達家古文書によりますと、戦国時代後期には、鑓組奉行の配下に組み込まれていましたが、平時の時は、目付の支配に属し、雑務や警備を主な任務としていたと言われています。
 小人は、禄高は低いが、殿様から直接指示を受けて活動もしていたようです。
 伊達家四代の時代になると、目付の支配となり、惣組頭・御用差引組頭・並組頭、の3役の下に、川内御小人・大橋脇御小人・御霊屋下御小人の3組の編成で、合計436人(寛文10年史料)が属しておりました。
 また、明治32年(1905年)に出版された「奥州史料 伊達家世臣録」には、御小人として、川内中ノ町344人、御霊屋中丁164人、合計508人の記述はあります(この奥州史料は、いつの頃の御小人を記したかは不明)。
 明治4年7月(1871年)に、廃藩置県にて伊達藩が無くなるまで、川内中ノ町御小人衆は川内大工町一帯に居住しておりました。             (参考文献 仙台市博物館調査研究報告 第18号


 川内町内会は、町内の歴史について調査収集しておりますが。江戸時代の御小人については町内のみなさんから次のような情報が寄せられています。

イ、大工町 木村俊一さんの家に伝わる古文書の記載。

 木村家の御先祖、三代木村太治右衛門氏は、大番組にご奉公し、「道坤多宮流居木太刀並関東棒」の師範で、肴町に居合の道場を持ち、家臣に居合の指導をしていました。その門人で、御小人並組頭御網頭兼役 冨澤安之助に対し、「一、居合目録 一、許 一、極意」を伝授し皆伝させたとの記載があります。

ロ、 川前丁 錦織尚一郎さんの家に伝承されている話。

 錦織家の御先祖、錦織萬五郎氏は、現在の登米市東和町錦織の出身で、登米の伊達家家臣でしたが、川内の御小人組組頭を拝命し赴任の折り、登米の殿様より「錦織の姓名を賜った」と伝承されています(旧姓は菅原)。
 御先祖は、馬術に長けた方で、御前にて流鏑馬を披露したり、御小姓となり御奉公した事も伝えられています。

ハ、大工町 永幡正博さんの家に伝わる古文書に記載。

 永幡家の御先祖は、元禄年中(1688~1704年)に伊達家にご奉公したと伝承されています。元禄時代の文書等は喪失した為、詳細は不明です。ただ、永幡万之丞氏が、天保10年(1839年)に書き置いた古文書があり、その中に記述されている御小人に関する項目では、御小人並組頭としての御奉公や、御小人目付で精勤した事、また、定廻番江戸御町横目兼役での奉公の言葉など、他の御小人の職務と併せた記述があります。

ニ、「広瀬川上稲荷大明神社」の資料の中にあった記載事項。

 神社は、御小人衆 寒河江家の先祖が建立したが、転居の時に神社を引き継いだとの記載あり。また、明神横丁の寒河江藤九郎氏の記述があり、調査したところ、伊達家世臣録の中「御小人 川内中ノ瀬」の項目に記載がありました。また、同資料の中には、他に、二家の寒河江家が記載されています。


 川内の御小人衆について、町内の引き続き情報を収集し、町内歴史として加筆して行く予定です。

川内大工町 永幡正博

 

 

 

 

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バス路線今昔(仙台市交通局提供図)

2018年01月25日 | 川内〈昔〉アーカイブ

昭和18年10月

『仙台市交通事業五十年史』より抜粋した路線図
大工町終点の路線がありましたが、このころ廃止されたようです。

 

川内近辺の拡大図

 

 

 

昭和37年7月

 

仙台市交通局に現存する一番古いバス路線図
亀岡神社までの料金13円の記載があります。

 

川内近辺の拡大図

 

 

資料提供:仙台市交通局輸送課

 

 

 

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橋の今昔(戦災復興記念館提供写真)

2018年01月25日 | 川内〈昔〉アーカイブ

仲の瀬橋

1. 年代不詳
明治44(1911)年と大正15(1925)年の地図では中洲を繋ぐ2連の橋が描かれています。
(「古地図で見る川内」参照)

 

2. 木橋トラス(年代不詳)

 

3. 川内と西公園の間のケーブルカー
  昭和4(1929)年開催の東北交通博覧会で設置したもの。

 

4. (新)仲の瀬橋(昭和31年)

 

5. 年代不詳
  大橋から中の瀬町と仲の瀬橋を望む。

 

6. 昭和41年
  右岸の遊歩道と仲の瀬橋。

 

 

 

 

澱橋

1. 年代不詳
  煉瓦張りの橋脚と木製手すりの旧よどみ橋。

 

2. 年代不詳
   旧澱橋を川内(右岸)から写している。

 

3. 年代不詳
   現在の橋。おそらく完成間近で、右に旧澱橋が残されている。

 

4. 年代不詳
  上の橋を川内側から撮影したもの(対岸に尚絅女学院(現尚絅学院)の校舎)。

 

 

川内全景(航空写真)
仙台商業高等学校が見え、ちびっこ広場、中の瀬緑地はまだ作られていない。
(東北大キャンパスの様子から昭和30年前後と思われる)

 

資料提供:仙台市戦災復興記念館

 

 

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「横丁のひとびと・川内明神横丁」(昭和62年)

2017年12月28日 | 川内〈昔〉アーカイブ

けやきの街』1987年8月号に「横丁のひとびと 第5話」として
海老名重雄さんという方が書かれた記事です。

川内・明神横丁

 二高を左に仙商を右に見ながら仲の瀬橋へ向かう。橋の手前から左折し、坂を下る。四つ角がある。左折すると川内大工町。この道路、入口左に「桜井酒店」右に「養ちゃん食堂」がある。大工町を直進して、左折する。すぐ左に、「たけむら商店」がある。
 この商店の目の前、細く長い道路が、川内明神横丁である。

明神サマは、商売繁盛のお稲荷さん

 さて、神様は「たけむら商店」の方から入って中ほど左側にある。川上稲荷大明神という。右に赤、左に白の「おてふき」が下がっていた。それには墨で"白萩町寒河江啓悦"とあった。
 この横丁の古老が語るには「奈良時代に、朝鮮から帰化した長者がいた、という。餅をついた。その餅に矢を射たところ、その餅はたちまち白鳥になり、とんでいってしまった。白鳥は稲荷山にとまっていた。縁起がいいので、みんな競ってお稲荷様を作るようになった。商売繁盛の神様。江戸時代には、各商店ごとにこの神様を作った。その数、三万もあったらしい。この近くで有名なお稲荷様は、竹駒神社。明神横丁のそれは、天保二年(翌年から全国的大飢饉)に、身分の低い侍によって作られとか?」

国際都市? 明神横丁

 片桐典子さん(45・B型)は、「大阪弁,京都弁、仙台弁、英語、見られ、知らない人に挨拶は当り前。それに昔からの人も多く、それがみんな開放的ですよ。血液型でいえば、O型の地域といえましょうか?」

広瀬川と木々の緑、人と自然が共存しているんです

 片桐博さん(50・O型)は、「おおらかな、カラッとした気質は、広瀬川や木々の緑と無縁ではないでしよう。自然と人間が本当に上手に共存しているなァ、と思いますよ」

めいっぱいギンナンの山

 片桐道子さん(18・O型)は、「ギンナン沢山とれるんです。直径四十センチほどのザルに、いっぱい入れて、広瀬川に持っていって足で踏んで洗います。あ、ギンナンですか? 毎日毎曰、茶碗蒸しというわけにはいかないし、父は仕様が無いので晩酌のお摘(つま)みにしてましたけど。それほど収穫(?)あるんです。怖かったことですか? 小四の時だったわね? 宮城県沖地震。その時、家に誰もいないの。わたし、ひとりで泣いていました」「ここ、野良ネコが多いの。いらない子ネコをみんな川に投げるでしよう。そのせいです。アヒルも飼ったことがあります。博物館、美術館、図書館、公園、スボーツセンター、プール、学校など近くにあり、環境があまりに整いすぎていて、他の地城の人に悪いみたい」

怖かったなあ!! 宮城県沖地震

 片桐良太さん(15・B型)は、「学生の数が多いので、バイクの音が一日中絶えません。格好いいバイクが目に付くと、グウーッときます。早くぼくも乗りたいなァ、と思います」「ぼくが市長だったらですか? いつまでも、このままでいいです。幸せをいっぱい貰っていますから……。怖かったのは、幼稚園の時、宮城県沖地震。その日、広瀬川で遊んでいました。家の大きさほどの岩と土が、かたまったまま、ズドドドーンと落ちてきて、ぼく、転んでしまい、びしょぬれになって家に帰りました」

自動販売機が知る横丁のひとびと

「たけむら商店」の竹村美智子さん(40・A型)は、タバコの自動販売機を指さして、「バイクや自転車がとにかく多いんです。ホラ、バイクに股がったままタバコ買っているでしよう。この光景、日常茶飯事です。活気のある地域ですよ」

腕白小僧は軍略の天才政宗のごとし

 以前、ここの住人だった面来洋夫さん(52・A型)は、「腕白小僧時代、ずいぶん巾をきかせてましたよ。よそ者が来ると、みんなで結束して追い返したものです。前には広瀬川があって、敵(?)はそう簡単に攻めてはこられません。軍略の天才のような顔をして、伊達政宗きどりで采配(さいはい)を振っていました」

 血液型研究家の能貝俊覧氏は、O型は仲間を大切にする。そしてバイタリティ抜群といっていた。この地域はまさに、O型社会だろうか。(筆者は今回、血液型にこだわってみた)

 

資料提供:五十嵐さん(川内明神横丁)

 

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鈴木昇《大工町風景》

2017年12月28日 | 川内〈昔〉アーカイブ

藤澤さん(川内明神横丁)所有のスケッチ画の写真です。
絵の裏に次のようなメモ書きが記されています。

『河北アルファ』2月号に掲載された鈴木昇氏(宮城学院大学教授)の「スケッチインわが町・カラー写真100人プレゼント」に応募してもらったもの。但し、年月日は不明。


 

資料提供:藤澤さん(川内明神横丁)

 

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高橋定一郎「為朝神社」(平成5年)

2017年12月28日 | 川内〈昔〉アーカイブ

『月刊 あおば城』1993年3月号(No. 42)に掲載された。
高橋定一郎さん(川内大工町丁)は、平成14年11月23日に94歳で亡くなられました

 

為朝神社

高橋定一郎

 

 為朝神社=写真㊦=仲ノ瀬22番付近(仙台二高東側)に鎮座する。

 時は天正17年(1589年)11月豊臣秀吉は、鎌倉時代の幕府執権だった北条氏に宣戦布告した。その時までに秀吉は、伊達政宗に京都への上洛を催促したが、摺上原の戦いで蘆名氏を倒し政宗23歳で奥州66郡の半分を手にした時でもあり、政宗毒殺未遂事件で、弟小次郎を斬殺する事となり、乱世の真只中にいた。秀吉の催促をのんで臣従を決し、上洛したが秀吉はすぐには謁見せず、小田原城の近郊にある底倉温泉に閉じ込めてしまった。政宗にとっては生死をかけた究極の状況となったが、そのとき源為朝の御心霊のおかげで危うく難を逃れ、意外と軽い処罰で、再び54郡に対する下地検を認められ安堵したことで、その後源為朝を家の守護神とした。

 時代はとんで、江戸時代の文化4年(1807年)徳川家斉の命により、北方に出没するロシア船を討つために、九代藩主周宗(ちかむね)に出兵を命じたが、周宗は幼少病弱であったため執権・中村日向守義景が命を受け、文化5年に、エトロフ方麺に600名。国後方面に600名。函館に800名の兵を出征させた。そのとき中村日向守義景の屋敷の東側(今の仙台二高東側)に為朝神社を創建した。藩士にお守りを渡した事が社記にある。水雜よけ・鎖火・耳疾に霊験ありと知られている。

★源為朝…源為義の息子。為朝は父に似て、武術にたけていたが、乱行があって伊豆大島に流刑されたが、嘉応2年(1170年)狩野重光に攻撃され討死したとされている。また琉球に逃れ、王になったという伝説もある。


 

 

資料提供:千葉さん(川内明神横丁)

 

 

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佐藤庄次郎「お明神さんの事」(昭和61年)

2017年12月28日 | 川内〈昔〉アーカイブ

「『迎春』昭和六十一年元旦 川内老人クラブ寿会」に掲載された。
佐藤庄次郎さん(川内川前丁)は、平成元年8月18日に83歳で亡くなられました

 

 

お明神さんの事

佐藤庄次郎

 

 どこでも見かけるお明神さんとは一体どんな神様なのか。昔奈良朝時代というから約千四、五百年前の事でしょうか。当時帰化人で経済力のある某長者が奈良の稲荷山に祠を建てて家内安全と商売繁盛をお祈りしていたそうである。これが時代と共に普及し伏見稲荷大明神となり岩沼竹駒稲荷大明神となりその○○に正一位という皇族以外には滅多にいただけない位まで頂きお狐さんもどこかで苦笑していることでしょう。

 もう少し神様の内容を説明すると、日本の神代時代のなになにのみことと申し上げる神様が何人かまつられておりますが、手っとり早く庶民的な願いの家内安全と商売繁盛が請けて商家や武家の庭隅に建立されてあり、江戸中期には約三万社位あったといわれています。

 さて明神横丁に鎮座の広瀬川上稲荷大明神社はあまりに悲しいお明神さんです。建立は天保二年とありますから、今から約百七、八十年位前の事、付近に住みついた最下級武士のお小人(小人)衆(伊達家の職制によると目付~徒目付~小人とあり)がこのお明神さんを建立し武運長久を記念していたものと思われますが、やがて明治になりその方々も職を求めて各地に離散したので渡邉某氏が引き継ぎ二代三代と現在に至っている理である。又このお明神さんにお手ふきを奉納している人がります。その数約二十位さがっておりますから一年に一本で二十年位前からでしょうか。奉納者は白萩町寒河江某とあり、この御明神さんと深いかかわりのある子孫の方でなかろうか。ともあれ蔭ながらありがとうとお礼を申し上げたい。この社の屋根に大きな穴があき、その上今にも崩れるばかりになっているので数年前私の外数人で歴史的に当然お守りなさるべきと思はれる三代さんにお話をしましたが、なんととりつくしまもない様な状況でありお明神さんに対してほんとうに申し訳もない事になりました。若しできるなら御懇篤な方が現れて、この鞘堂を修復していただけるような事になれば本当に仕合せの事と思っています。このままにしておくと明神横丁の町名も消えてなくなりましょう。

 なお川内町内にはこのお明神さんと為朝神社の外に塩釜さんがあったと言われていますが今はその跡形もありませんので書く事ができません。次回は為朝神社について少しばかり書く事にしましょう。

 

〔参考〕 お明神さんは個人の氏神のような性格を有し町内には、この程度のものが次の通りあります。
  定進堂の屋敷内
  澱橋通二丁目某宅
   同 五丁目某宅

 

資料提供:五十嵐さん(川内明神横丁)

 

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川内〈昔〉アーカイブ【INDEX】

2017年12月28日 | 川内〈昔〉アーカイブ

【川内〈昔〉アーカイブ】
目次

川内ちょっと昔の話(1) 大工町に市バスが走っていた!

川内ちょっと昔の話(2) 「お明神様」に隣接する川前丁の由来

川内ちょっと昔の話(3) 川内に「錦が丘」がありました

川内の歴史「御小人組について(2)」

川内の歴史「御小人組について(1)」

バス路線今昔(仙台市交通局提供図)

橋の今昔(戦災復興記念館提供写真)

「横丁のひとびと・川内明神横丁」(昭和62年)

鈴木昇《大工町風景》

高橋定一郎「為朝神社」(平成5年)

佐藤庄次郎「お明神さんの事」(昭和61年)

古地図で見る川内

 

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古地図で見る川内

2016年09月28日 | 川内〈昔〉アーカイブ

 

川内の歴史を地図の変遷でたどります
(現代から江戸まで古地図で遡っていきます)
 
 
 
平成28年(2016)年


ゼンリン地図「いつもNAVI(PC)」から


昭和27年(1952)年


『仙台市街明細地図』(金港堂、昭和27年) 復刻版(仙台市歴史民俗資料館)
仲の瀬橋が「中澱橋」と記されています。



昭和4年(1929)年


『大日本職業別明細図』(宮城県、昭和4年) 復刻版(仙台市歴史民俗資料館)
仲の瀬橋の位置が「大橋」とされていて、大橋には橋名がありません。


大正15年(1925)年

『仙台市全図』(川名文明堂、大正15年) 復刻版(仙台市歴史民俗資料館)


大正6(1914)年


『大日本職業別明細圖』(宮城県、大正6年) 復刻版(仙台市歴史民俗資料館)


明治44(1911)年


『地図名不詳』(東洋造畫館、明治44年)


明治20(1889)年


出典不明(明治20年頃)


天明6(1786)年


『仙台城下圖』(天明6(1786)年~寛政元(1789)年頃)


正保2(1645)年


『奥州仙台城絵圖』(正保2~3(1645~46)年頃)
もっとも古い仙台城下の地図ということです。現在の川内大工町の付近に
「侍屋敷」のほかに「中間屋敷」、「職人屋敷」が記されています。
「中間」は「小人」とも呼ばれていました。